155章 ファリサイ人と徴税人
     ルカ18章9〜14節/マタイ23章12節
             【聖句】
 
■ルカ18章
9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
■マタイ23章
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
                      【注釈】
【講話】
■伝統的な解釈
 今回のたとえは、律法を守ることにとらわれて外側の行ないを飾り、律法ほんらいの心も神への信仰心も失った「偽善なファリサイ人」の例えとしてうってつけです。こういう「偽善的なユダヤ教」から、イエス・キリストの恵みによって律法から解放され、キリスト教へ向かうのが正しい福音だというわけです。ユダヤ人を「蔑み」キリスト教徒であることを「誇り」、「自分を正しいとして他のすべての人を見下す」この反ユダヤ的な解釈が、どうやら今回のたとえの解釈に絡みついているようです。
 これに対して、このファリサイ人が実行する生活態度は正しいが、その心が高ぶりに支配されているところに罪があるという解釈も伝統的です。ここからさらに一歩を進めると、律法の業によって義とされようとする心根こそ、神に対する人間の傲慢であり、この「高ぶり」こそ人間の原罪だという解釈が生じます(アウグスティヌス)。こういうファリサイ的な宗教に対して、人間の罪深さを知り、悔い改めて神の憐れみを求める徴税人には、イエス・キリストを通して「罪の赦しの恵み」が授与されるというのも伝統的な解釈です(ルター)。長らくキリスト教会に受け継がれてきた「反ユダヤ的」な解釈が誤っているのは言うまでもありませんが、罪の自覚とこれに対する神の憐れみという伝統的な解釈のほうは、今回のたとえへの深い洞察に基づいていますから、基本的に「正しい」と言えましょう。
■逆転の思想
 しかし、わたしが今回のたとえで特に注目したいのは、今までもしばしば表われてきた「逆転」の思想/信仰です。通常の人間が判断して当然だと考えること、自分もそうだと思い込んできた常識が根底から覆る逆転には、イエス様が伝えた「神の国」の本質的な特徴が潜んでいると言えます。こういう「逆転」はユダヤ黙示思想から来ているという説もありますが、むしろ、この思想は、人類の宗教史において長い歴史を持つものです。
 逆転劇は、スポーツの世界でもしばしば見られますが、逆転が生じるその背景には、なんらかの危機意識が存在していると考えることができます。逆転の背景としては、個人が人生において出逢う危機があり、国の存続が危うくなる民族の危機があり、さらに過去にさかのぼるなら、人類が生存の危機に見舞われた際に、不思議な導きで逆転が生じています。
 わたしたちは、裁かれるファリサイ人を見て、「ファリ公、ざまあみろ!」とうぬぼれていいものでしょうか?これがはたして今回のたとえの意味でしょうか? 2000年前の逆転から再び逆転は生じないでしょうか? その結果「ファリ公」は救われないでしょうか? 多くの苦難を経験している現在のユダヤ人こそ、誇り高ぶっているキリスト教徒よりも先に「神の義」に与り、御国へ迎え入れられるのではないでしょうか?危機の中で逆転が起こり、逆転が危機を克服する。こういう不思議な過程の繰り返しの中から初めて、窮極の「万民の救い」への道が啓かれる可能性が生じてきます。言うまでもなく、「万人救済」は、人間の側の願いやはかりごとで成就できるものではなく、神の側のご計画と御心によってのみ達成できることです。それでも、「逆転の希望」が啓けてくるなら、神の創造の不思議と神秘を洞察できる道も見えてくるものです
■危機の信仰
 信仰は危機の時に強い。人間は弱いときに強い。これを可能ならしめている方が、聖書の神であり、その御恵みであり、その御力です。これは生命の力にも通じ、さらに言えば宇宙の根源に潜む創造の神秘につながります。イエス様が伝えた「神の国」では、今弱い者が強くなること、今泣いている者が笑うこと、今悲しんでいる者が喜ぶことが起こり、これが、今笑っている者が泣くこと、今喜ぶ者が嘆くこと、今高ぶる者が低くされることと表裏を成しています(ルカ6章20〜21節/同24〜25節)。十字架につけられ見棄てられた最も惨めな人間の姿。この人間において、「神の逆転」が啓示されるというのが新約聖書の証しです。この証しこそ、人間の生命の窮極の逆転の出来事です。イエス様の御霊が今の世(時代)でお働きになっているのは、このような「神の国」の創造であり、このような「神の恵み」の啓示であり、同時にこれこそが「神の義」の証しなのです。
 今回のたとえは、自らの宗教を誇り、自らの正しさを得々と自認する人。他のすべての人を誤りだと決めつける人。こういう人間の有り様が、現在の人類の「宗教する人」の性(さが)であり、現在のホモ・レリギオーサスの実態ではないか?こういう危惧をわたしたちに呼び覚まします。だとすれば、ファリサイ派は「今の人(ホモ)」であり、徴税人は「これから来るホモ」かもしれません。己のいたらなさを嘆き、一筋の憐れみの光を呼び求めて、神にその身を委ねる徴税人こそ、「新しく創造される」人間の進化した姿なのかもしれません。得々として神殿に足を運ぶ人。神に向かって顔を向けず、うつむいて神殿を避ける人。顔を伏せてうつむきながら、それでも神殿に足を運ぶ人。神が「義」と認めるのは、三番目の人です。様々な危機を予感させる今の日本には、こういう三番目の人がけっこういるのではないでしょうか?キリスト教から見て「ダメだ」と言われる日本人こそ、神に対して「うつむいて顔をあげない」日本人こそ、人間には想像もつかない大きな神の慈愛に導かれて「義とされる」人たちに近いのではないでしょうか。これが、今回のたとえの大事な証しです。 
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