【注釈】
■今回の「たとえ」について
〔たとえの特徴〕『四福音書対観表』では、今回の「ファリサイ人と徴税人」で、ガリラヤからユダヤまでのイエスとその一行の旅が終わることになります〔『四福音書対観表』205頁〕。『四福音書対観表』では次にヨハネ7章1~9節が続きます。これはイエスが仮庵祭でエルサレムへ上がる記事です。したがって、『四福音書対観表』では、ルカ18章15~34節までの出来事は、イエスの「ユダヤ宣教」に属することになり、これがそれ以下のエリコの出来事へつながります〔『四福音書対観表』215頁以下〕。このように見ると、今回の記事は、イエスが旅の途中で語ってきた一連の「たとえ」の最後に来ると言えます〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1183頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)543頁〕。この配置を考えると、今回の「たとえ」は、様式・内容ともにふさわしくもあり、解釈が難しいところにもなります。その特徴は、
(1)今回「イエスはこの<たとえ>を語った」とありますが、ファリサイ派と徴税人は、「たとえ」と言うよりも実際に存在した「事例」だと考えることができます。この意味で、「善いサマリア人」や「放蕩息子」、あるいは直前の「やもめと不正な裁判官」とはやや異なる「現実に基づくたとえ」です〔マーシャル『ルカ福音書』677頁〕。
(2)直前のやもめの話は「祈り」に関係していますから、今回も「祈り」の主題を受け継ぐと見ることができますが、二人の祈りは、その姿勢も内容も対照的です。ここでは祈りの方法や心構えだけでなく、祈りの内容それ自体が、神と人との関わり方として深く問われてきます。
(3)二人の祈りへの神の答えは、放蕩息子やラザロと金持ち、宴席のたとえ(14章11節に注意!)、大宴会のたとえなどを受けていますから、御国に入る者の資格、すなわち神から人への「義認」が重要な主題になっています。
 このように見ると、今回のたとえは、これまでの一連の物語やたとえを受けて、それらが伝える福音の最も大事な主題を祈りとして言い表わし、イエスの旅物語を締めくくるのにふさわしいと言えます。
〔資料について〕今回も独自資料(L)から出ているのは確かです。先行するやもめと裁判官の話と今回の話は、すでに独自資料(L)の段階で組み合わされていて、ルカはこの組み合わせをそのまま受け継いだのでしょうか。9節と14節をルカによる編集だと見なすなら、今回の「たとえ」は、ルカによってここに配置されたと見ることもできましょう。問題は14節で、この節の後半はルカ14章11節と重複します。14節後半をルカの付加だと見る説もありますが、ルカは一般的に重複を嫌いますから、14節後半は独立した言葉として伝承されていたのが独自資料(L)の段階で今回の物語に取り込まれたのでしょう。だとすれば、二つのたとえはルカ福音書以前にすでにこの順序で組み合わされていたことになります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1183頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)543頁〕。
〔内容と解釈〕今回の話はイエスの頃のパレスチナの状況を的確に反映していますから、イエスにさかのぼると見ることができます〔マーシャル前掲書678頁〕〔ボヴォン前掲書544頁〕。しかし、今回語られている「罪人の義認」は、ルカ福音書の福音の核となるもので、これはパウロ系の教会からルカ福音書に受け継がれたとも考えられます。ただし、今回のたとえには、パウロ書簡に表われる「十字架の贖いへの信仰」を見ることができません。ここで明確に示されている「自己義認への断罪」は、エデンの園やバベルの塔、預言者ヨナのニネベへの派遣物語など、イエス以前のユダヤ教に受け継がれてきたものです〔クラドック『ルカによる福音書』348頁〕。だから、今回の話をパウロの言う十字架の義認信仰と直接結びつける必要はありません。二人の祈りとその「逆転」の主題は独自資料(L)の特徴で、これはイエスにさかのぼるものです。なお語りの手法では、ファリサイ派の祈りは長く、徴税人の祈りは短く、ファリサイ派の祈りの仕方は短く、徴税人のそれは長い描写になっています。
■ルカ18章注釈
[9]【人々に対して】15章1節でイエスが語る相手は「徴税人や罪人たち」であり、同時に「ファリサイ派や律法学者たち」です。ただしそこに「弟子たち」も居合わせているのは暗黙の内に了解されています。このような聞き手の多様性は、16章1節では「弟子たち」になり、同14節では「イエスを嘲笑するファリサイ派」になり、17章1節で「弟子たち」に戻り、同20節で「ファリサイ派の人々」になり、18章1節ではまた「弟子たち」です。このように見ると、聞き手には「弟子たち」が一貫して参与しながら、時にファリサイ派が登場します。しかし、背後には多様な「人々」が想定されていることを見落としてはならないでしょう。ここは、「~人々について/関して語る」という解釈もありますが、そうではなく、「~人々に向かって/~人々を批判して語る」の意味に採るほうがいいでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)544頁その他〕。どちらにせよ、弟子たちをも含む様々な人たちも聞いていたと見て間違いありません。なお、9節の構文では「たとえを」を略しても意味が通じます。
【うぬぼれて】原語の動詞は「説得する/訴えかける」の中動相ですから「自分に言い聞かせる/思い込む/納得する」ことです。「他人」とあるのは「自分以外のすべての人たち」のことです"those who were sure of their own goodness and looked down on everyone else"〔REB〕。このファリサイ人は、異邦人は言うまでもなく、ユダヤ人でさえも律法を知らない「地の民」(俗人)として軽蔑しています(使徒言行録4章11節の「拒絶された」も今回の「軽蔑する」と同じ動詞)。ファリサイ派のこのような「自己義認」への批判はエゼキエル書33章13節を参照。今回「ファリサイ派」も「徴税人」も「たとえ」として語られていますから、ほんらいはイエスによる現実の人たちへの批判であったのが、ルカの時代に、あるいは独自資料(L)の段階でも?、すでに「偽善とうぬぼれ」の典型(タイプ)だとされていたのでしょう(現在でも「ファリサイ」はこのような<タイプ>を指します)。
[10]【神殿に上がった】エルサレム神殿は丘の上にあったので、「下の町」からは階段を上がることになります。神殿での祈祷は決まった時刻がありましたが、個人の祈りが許されるのは第三の刻(午前9時頃から)と第九の刻(午後3時頃から)でした(使徒言行録3章1節参照)。読者は、ファリサイ人と徴税人の二人がそろって神殿の境内へ上がる姿それ自体に、すでに彼らの歴然とした姿勢の違いを予想するでしょう。なお、神殿の内部にあるイスラエルの男性用の広間は、女性の広間から階段を上がると、左右(南北)に拡がる「コート」があり、そこが男性の礼拝の場とされていました。その奥に同じように祭司用の広間が南北にあって、さらにその奥に祭壇が置かれていました。本殿の内陣(聖所と至聖所)は、そこからさらに階段を上がった扉の奥(西側)にありました。
【祈るために】ルカ福音書で言う「祈り」は、祈祷の行為だけでなく、その人の信仰的な有り様から、人と神との関わりそれ自体をも表わすものです(ルカ5章16節/同6章12節/同9章18節など)〔ボヴォン前掲書546頁〕。
[11]【立って祈った】この部分には異読が幾つかあり、解釈が分かれます。原文の「自分自身に」"to himself" を「立つ」ほうにかけるのか「祈る」ほうにつなげるかで意味が異なるからです。
(1)「立つ」につなぐ異読があります。これはアラム語的な語法で、自分一人だけが他人から離れて「進み出て立つ」「自分の立場を誇示する」ことを指します。「得々とひとり進み出て」〔塚本訳〕/"The Pharisee, standing by himself, was praying thus." 〔NRSV〕。だからこのファリサイ人は、おそらく徴税人から離れて、神殿内のイスラエルの男性の庭(広間)で、祭壇の近くまで「進み出た」のでしょう(徴税人が「遠く離れて」立っていたのと対照的)。ユダヤ教では、「ひれ伏して」祈る場合と「立って献げる」祈りの姿勢がありました。直立したまま手を上げて祈る場合には、通常声を出して祈ります。したがって、このファリサイ人も、声に出して「次のように/このように祈った」のです。
(2)現行の本文のままだと「自分自身に向かって祈る」"pray to himself" の意味に採ることができます。「心の中でこう祈った」〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕。なお「自分に」が抜けている異読もあります。"The Pharisee stood up and prayed this prayer."〔REB〕。したがって、彼は声に出すことなく祈り続けたのです。ただし、彼が徴税人と同じ場所に立っていたのかどうかは分かりません。
 上のどちらの解釈も可能ですが、ルカ福音書、あるいは独自資料(L)の描写が、このファリサイ人自身の立場からその姿勢と祈りを述べているのか、それとも、彼を批判的に戯画化しているのかで、解釈が分かれます。批判し戯画化しているのなら、(1)のほうが内容的に適切でしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)546~47頁〕。
【神様、感謝します】原文は「神よ。あなたに感謝します」。神に向かって「あなたに感謝します」という言い方は新約聖書では希です(ヨハネ11章41節「父よ、あなたに感謝します」)。ただしクムラン文書の「感謝の詩編」にでてきます〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1186頁〕。
【奪い取る者】原語は「アルパゴス」の複数で、強欲に人々を「略奪し」「搾取する」者たちのことで、「強盗」をも意味します。
【不正な者】原語は「アディコス」の複数で、一般的に「不義/不正な者たち」を意味しますが、「不誠実(な者)」の意味から「詐欺師」をも指します。「不正な者」〔新共同訳〕/「詐欺師」〔塚本訳〕/「不義なる者ども」〔岩波訳〕。ここにでてくる「強奪する者」「騙し取る者」「不倫する者」は、ユダヤ教の教義から見た「悪人」の典型を表わすのでしょう。このファリサイ人の考えでは、人間はすべて、このような「悪人」と次の節に来る「善人」の二つに分かれるのです。
[12]【断食】原文は「安息日に2回」ですが、これは「週2回」のことです。断食はほんらい個人の哀悼や悲嘆や悔恨を表わす行為でした(サムエル記下12章21~22節を参照/列王記上21章27節/エズラ記10章6節)。しかし断食は共同体の勤めとしても課せられ、捕囚期以後では、大贖罪の日に断食が義務づけられ(レビ記16章29~30節)、さらに新バビロニアによってユダヤが滅びた捕囚の出来事を覚えるための断食も民に課せられていたようです(ゼカリヤ書7章3節/同8章19節)。イエスの時代では、ファリサイ派や洗礼者ヨハネ宗団が断食を行なっていたとあります(ルカ5章33節)。しかし、彼らの断食が週2回だったことは今回の箇所だけにでています。ユダヤ教ではモーセがシナイ山へ登った日が木曜と定められ、40日後に十戒を受けて山を降った日が月曜と定められていたので、月と木の二度の断食を行なっていたようです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1187頁〕。だからこの断食は「律法遵守」の意義を帯びていたのでしょうか。なお、後のキリスト教会では、ユダヤ教のこの慣習を変更して、安息日の四日後(水曜)と安息日の準備の日(金曜)に断食するよう定めています(『十二使徒の教訓(ディダケー)』8章1節)。
【十分の一】十分一規定は民数記18章21節/同28節と申命記14章22~23節~同27節にでています(十分の一は民が中央聖所で食べるだけでなく、事実上、レビ人を支えるための税でもあったようです)。これらの規定は必ずしも「租税」ではありませんでしたから、捕囚後のユダヤ教でも厳格に制度化していたわけではなかったようです。イエスの時代、ファリサイ派と律法学者たちは、薬草や野菜の十分の一を献げ物にしていたとありますが(ルカ11章42節)、今回は、「すべての」収入の十分の一ですから、このファリサイ人は、通常の規定を超える厳しさで十分の一の献げ物を遵守していたことになります〔フィッツマイヤ前掲書〕。彼は、悪を避ける場合も、義務を実行する際にも、同僚を超える厳格さで律法を守っていたのです〔プランマー『ルカ福音書』417頁〕。先に指摘したように、これはこの人物を揶揄(やゆ)する意図から誇張して戯画化しているという見方もあります。しかし、それだけでなく、このような「真面目な」ファリサイ派の人たちがイエスの時代に実際存在していたと見るべきでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』680頁〕。
[13]【遠くに立つ】徴税人は、同じイスラエルの男性用の広間でも〔10節注釈参照〕、人々の後ろで、祭壇がほとんど目に入らない所か、あるいは広間の南北どちらかの片隅に立ったのでしょう。だから、「遠く」をイスラエルの男性の広間の外の意味に採る必要はありません〔プランマー『ルカ福音書』418頁〕。ここでの「遠く」は場所よりもむしろファリサイ人からの心理的な距離感を言い表わすという見方があります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)549頁〕。
【目を天に】「目を天に上げる」は、神に願い事を求める時の伝統的な姿勢です。『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)では、堕落した天使たちが、エノクに自分たちの罪が赦されるよう「諸霊の主」に請願の文書を献げてほしいと願っています。「なぜなら彼ら(堕天使たち)は自分たちが犯した罪の行為とそのために受けた罰への恥から、目を天に上げて祈り求めることさえできなかったからである」(『第一エノク書』13章5節)とあります。原文は「目を天に上げることさえも拒否する」という強い否定です。なお「胸を打つ」は悲嘆・悔恨を表わす仕草です(マタイ24章30節/ルカ23章48節)。
【憐れんで】原語は動詞「ヒラスコマイ」(好意を抱く)のアオリスト受動態二人称命令形ですが、意味は能動的で、今回のように与格と結ぶときには、「(わたしのことで)憐れみを抱く/わたしを憐れむ」ことですから「どうかわたしを憐れんでください」の意味になります(詩編51篇3節)。新約聖書でこの動詞は、今回とヘブライ2章17節「人々の罪のために<贖いの>犠牲を用意する」の2回しかでてきません。この動詞の名詞「ヒラスモス」は「贖い/赦しの手段/献げ物」の意味ですが、これは人間の側から「神を宥(なだ)める」ことを指すのではなく、神の側が贖い/赦しの手段を用意することを指します〔織田『新約ギリシア語小辞典』269頁〕〔ボヴォン前掲書550頁〕。
[14]原文は「義とされて神殿を降りたのは、こちらのほうで、あちらではない」です。「こちら」と「あちら」で、神の御心にどちらが近いかが言い表わされています。「義とされる」は人間の側でなく、神の側から認められることです。「義とされる」は、ガラテヤ人への手紙や第一コリント人への手紙やローマ人への手紙などに多く、「贖う」と共にパウロ系の教会の伝承を思わせますが、今回の場合は独自資料(L)からで、それ以前の口伝から来ているのでしょうか〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)550頁〕。神殿に上がる段階で誰しもが予想したことが、神殿を出る時に完全に逆転していたのです。この徴税人のたとえは、19章1節以下のザアカイの出来事へつながります。14節後半は、次のマタイ23章12節の注釈をご覧ください。
■マタイ23章
[12]共観福音書で今回のマタイ福音書に共通するのは、このマタイ23章12節/ルカ14章11節/同18章14節の3箇所です。この言葉は七十人訳エゼキエル書21章26節に「あなた(主)は高い者を低くし、そして低い者を高くした」とあるのからでていますが、内容的に箴言29章23節/イザヤ書10章33節などとも共通します。エゼキエル書のこの言葉は以後のイスラエルの諺となりイエスの時代に受け継がれていたのでしょう〔ルツ『マタイ福音書』(3)369頁〕。したがって、イエスもこの言葉を一度ならず語ったと思われます。この言葉は独立した伝承として以後の教会に伝えられ、様々な場合に適用されたのが共観福音書に記録されていると考えられます。
 マタイ23章では、イエスが律法学者たちとファリサイ派に厳しい批判を加える際にこの言葉が語られますから、これは終末の裁きに関連します。しかし「あなたたちの<教師>はキリスト一人だけである」とあり、続いて「あなたたちのいちばん偉い者は仕える者になりなさい」とありますから、終末に限らず、現在の教会の有り様への警告ともされているのでしょう。マタイ福音書の文体は「だれでも自分を高くする者は、~だれでも自分を低くする者は~」と対称形です。
 ルカ14章11節では、宴会に招かれた客のたとえで、上席を選ばず末席を選ぶほうが賢明だと教えた後にこの言葉が続きます。そして今回のルカ18章では、ファリサイ派と徴税人のたとえの締めくくりに置かれていて、ファリサイ派と徴税人の逆転をはっきり浮かび上がらせます。これにも、ルカ福音書時代の教会への警告が含まれているのは確かでしょう。なお文体と用語はマタイ福音書のそれとほとんど同じです。
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