156章 結婚と離婚
ルカ16章18節/マタイ5章31〜32節
同19章1〜12節/マルコ10章1〜12節
【聖句】
■イエス様語録
妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。
また
離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。
 
■ルカ 16章
18「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。
離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

■マタイ5章
31「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
同19章
1エスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。
2大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
3ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。
4イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
5そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れて、その妻と結ばれ、二人は一体となる。
6だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
7すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
8イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
9言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

10弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。
11イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
12結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」
 
■マルコ10章
1イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
2ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
3イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
4彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
5イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
6しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
7それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
8二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
9従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
11イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
12夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
                      【注釈】
【講話】
■離縁について
 今回は離縁と結婚についてです。マタイの19章で、ファリサイ派の人たちがイエス様のところへ来て、「どんな理由があれば夫が妻を離縁することが律法で許されているのか」と訊きます。「どんな理由があれば」というのは、妻をむやみに離縁することはモーセの律法でもできなかったので、それなりの理由がなければならないからです。その理由の一つに妻の「姦通/姦淫」がありました。この場合、その妻は離縁されても仕方がなかった。と言うより、離縁されなければならなかったようです。しかしイエス様の時代には、離縁の理由を広く解釈して、「料理が下手でも」その理由になるいう解釈もありました。
 離縁に対するイエス様の答えはイエス様語録(=ルカ16章18節)にあります。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。また離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」これは夫(男性)に対する警告です。この離縁問題は、イエス様の結婚についての教えと関連します。マタイ福音書では、「姦淫」について、すでにイエス様が同様の見解を告げておられます(マタイ5章27〜30節)。だから、今回、ファリサイ派は、イエス様の離縁に対する見解を知った上で、あえて申命記のモーセ律法を持ち出してイエス様の離縁禁止を詰問しているとも言えます。これに対するイエス様の答えは明確で、離縁をきっぱりと禁止した上で、今度は、同じ「モーセ律法」(モーセ五書)の中で、申命記よりも先に置かれている創世記から引用して、離縁規定をば、神の定めた結婚の教えによって再解釈するのです。
■結婚について
 結婚についてイエス様は、「創造主は初めから、人を男と女とにお造りになった。だから人は父母を離れて、ふたりは結ばれて一体となる」と言われます。その上で、「神様がひとつに結び合わせてくださったものを人が離してはいけない」と言われた。ファリサイ派の人たちは、モーセ律法に基づいて、男が妻を離縁することが、場合によっては当然の権利だという前提で、<どんな場合に>それが許されるのか? とイエス様を試すつもりで質問したのです。これに対してイエス様は、どんな場合に離婚が許されるかではない。そもそも、結婚して神様が合わせたものは、離婚することができない。こう言われたのです。ファリサイ派はモーセ律法(モーセ五書)の中の申命記に基づいて質問します。ところがイエス様は、同じモーセ五書の創世記の御言葉、「創造主は初めから人を男と女に造られた」とあるのに基づいて、「神様が合わせたものを人が離してはいけない」とお答えになったのです。結婚を「神による創造の御業」ととらえるのす。
 イエス様に言わせると、結婚は、神様の創造のみ手から生まれたものですから、神がふたりを夫婦一体として「新しく創り出された」ことになるのです。「夫婦」とは、今まで存在しなかったものが、神様のみ手によって「創造される」ことなのです。ふたりが結ばれた結果子供が生まれます。生まれた子供を「生まれなかったこと」にはできない。このように受けとめるとよく分かります。結婚とは、ふたりがたまたま「結婚しましょう」と言って一緒になる、だたそれだけのことではない。ふたりが「結ばれる」とは、神の新しい「出来事」だからです。「どんな場合に離婚したらいいのか」ではなく、神様がお造りになったふたりに「離縁」とか「離婚」などということは「初めから」ありえない。こうお答えになったのです。
 だから、たとえ夫が妻に離縁状を渡しても、そんなことで神様から与えられたふたりの関係が解消されることはないのです。離縁というものが、そもそもありえないからです。たとえ離縁状を渡しても、その女が他の男と結ばれるなら、その妻に姦淫の罪を犯させると同じなのです。
■律法と罪
 結婚問題でもイエス様は、「心の中の姦淫」と同じように、結婚を内面的霊的にとらえておられます。もしもこの教えをそのまま実行しようとすれば、非常に厳しいことになります。弟子たちが、半ば冗談でしょうが、「それなら結婚しないほうがましだ」と言うのも頷(うなづ)けます。どんな場合でも離婚はいけない。これが法律になると、「福音」ではなく、逆に人を束縛する「掟」になります。そもそも、律法や法律は、人に悪いことをさせないようにするためのものですが、律法や法律があることは、そういう悪を犯す可能性が人間にはあるという現実を同時に指し示しています。姦淫するな。盗むな。殺すな。これらのモーセ律法は、人間はそういう罪を犯す傾向があるからこそ与えられるもので、それを厳しく禁じることで、そのような罪を起こさせないようにするためのものです。
 ただし、律法の役割はそれだけではありません。「心の中で色欲を抱いて女の人を見るな」と言われるなら、心の中で色欲を抱くことさえもやはり罪になります。こうなると、モーセ律法では罪にならなかったものでも、イエス様が新たな教えを与えたために、新しい罪が「生じてくる」ことになるのです。このように、律法には罪を「作り出す」性質があります。
 私がかつて勤めていた女子大でも、一昔前であれば、男性の先生が女子学生に服装の趣味が悪いと言っても、言われた学生は嫌な思いをするかもしれないが、そのこと自体が罪に問われることはありませんでした。ところがセクハラ規定というものができますと、教師が学生にそんなこと言うと、その学生は、すぐに人権委員の先生の所へ行って、「あの先生はわたしに対してこういう失礼なことを言いました」と報告できます。すると、人権委員の先生から、その先生に忠告が来ます。セクハラ規定ができたために、今まで見過ごされていたことが罪として「新たに認識される」ようになったのです。セクハラ規定は、いわば新しい罪を「作り出した」と言えます。パウロが「律法がなければ、罪は罪として認められない」と言うのは、この意味です(ローマ5章13節)。
 では、セクハラ規定がなくなればいいのかと言えば、そういうわけにはいきません。セクハラ規定がなくても、セクハラという人間の罪は今までもずっと存在してきた。しかし、セクハラ規定ができることで、今まで<見過ごされていた>罪が明らかになったのです。人間の心に潜む罪が、その規定によって<暴かれる>。規定がなければ、覆い隠されていたのに、規定ができることによって隠れていた罪が姿をあらわすのです。イエス様の教えは、内面化によって、今まではっきりとは見えなかった「心の罪」を明るみに出すのです。
結婚と罪の赦し
 イエス様の御言葉は、わたしたちの罪を暴くだけではありません。暴くだけなら、わたしたちはひどい苦しみに陥るだけです。パウロが「ああ私は悩める者だ。私の内には善を行う力がない」と言って嘆くのはこのことです(ローマ7章24節)。イエス様の御言葉は、決して人を罪に陥れて人を苦しめるためのものではない。
 聖書の御言葉もイエス様の御言葉も、言葉通り文字通りに、<律法として>受け止めるとそういう苦しみが生じます。しかし、イエス様の御言葉はただの律法や法律ではありません。御言葉の裏に、十字架と復活と聖霊による罪の赦しの働きがあるからです。このことを忘れて、<自力で>イエス様の御言葉通りに実行しようとすると、とても苦しい闘いになります。自分の罪を意識するにつれて、自分はもうダメだと思い込んで絶望することにもなりますから、救いどころか、逆効果になってしまいます。
 そもそも、聖書の御言葉が書かれたのは、主様が十字架にかかられて、復活され、御霊が教会に降ることによって、その御霊の働きに導かれて福音書が書かれたのです。だから、御言葉は、十字架・復活・御霊の働きを抜きにして読んではいけません。確かに御言葉は、わたしたちの心の罪を暴きはするけれども、御言葉が御霊と一体になると、人の罪を赦し、その罪を<克服する力>となって働くのです。わたしたちの罪と同時に、これに対処する赦しと癒しの働きが与えられるのです。御霊が働いて、自分の罪を克服してくださる。こういう現実の命と力が与えられることが大事です。御言葉と御霊がひとつになって、わたしたちを導いてくださるのです。御言葉は祈りつつ読む必要があります。
 今回語られるイエス様の御言葉に基づくなら、結婚は、わたしたちが自分勝手な選択で結婚し、好きなように離婚する、という性質のものではありません。わたしたちの結婚は、イエス様の御言葉によって創り出される「結婚それ自体」によって支えられるからです。主様の御言葉に導かれてする結婚にあっては、「結婚」それ自体から二人に「赦し」が働くのです。夫が自分は正しいと思いこむ。妻が自分こそ間違っていないと考える。これでは、結婚はうまくいきません。どちらも、自分が不完全であることを思い知らされて、お互いが赦し合う。これがイエス様の御言葉によって創り出される結婚であり、そこに働く結婚愛です。そのような赦しはどこから来るのか? イエス様の御霊のお働きからです。だから、イエス様の御言葉と御霊の働く赦しの場、わたしたちの結婚が成り立つ場はそこにしかないのです。
離婚の自由
 神によって結ばれたものは決して離れてはならないというイエス様の教えは、結婚を内面化した教えであると言いました。けれども、宗教改革の時代になりますと、夫と妻の内面的な愛が失われた場合には、離婚もやむをえない。こういう思想が現れます。17世紀のイングランドで、ジョン・ミルトンという人は、内面的な結婚の目的が失われた場合には、再び新たな出直しをするために離婚もやむをえない、ということを唱えて、離婚論を著(あら)わしたのです。それまでは、教会の教えとして、いったん結婚したら離婚は、よほどのことがない限り認められませんでした。
 17世紀のイングランドのピューリタン革命の時に、こういう「離婚の自由」思想が生まれ、そこから、近代において離婚が認められるようになりました(コイノニア会ホームページの聖書講話欄の「イングランドの宗教改革と離婚の自由」参照)。ただし、この離婚の自由は、「どんどん離婚しなさい」と、離婚を勧めているのではありませんから注意してください。男女が本当に内面的な結婚愛の生活を追求するためには、どうしても「離婚する自由」が認められなければはならない。夫婦の愛を育てるという積極的な動機づけのためにも、離婚の自由は「やむをえない」という消極的な理由からだと思います。離婚する自由がないと、その律法が人間を束縛し苦しめる結果になるからです。日本でも、「男女七歳にして席を同じくせず」と言われた時代がありました。かつての太平洋戦争中には、うっかり妹と一緒に街を歩くこともできませんでした。
 現在わたしたちは、イエス様の結婚への教えの<ほんらいの意図>を、離婚の自由を踏まえた上で、もう一度新たに問い直す時が来ています。わたしたちはここで、<このことに>気づかなければなりません。
人は自由」か?
 「神が合わせたものを人が離してはならない」を、単純に離婚の禁止と受け取るならば、これは法律的な束縛以外の何物でもなくなります。このような「律法的解釈」は、近代以降の結婚観に基づく「離婚の自由」によって打ち破られたと言えます。だからといって問題が解決しているわけではありません。イエス様が「神が合わせたものを人が離してはならない」と言われるその根本原理には、<霊的な結婚愛の成就>という創造的な意味がこめられているからです。
 「離婚の自由」が、すなわち「神様が合わせた結婚」の教えの<無効>を意味するものではありません。「神様が合わせた結婚」には、人間が触れることのできない「聖なるもの」「厳かなもの」が潜んでいることを指し示すからです。「聖なるもの」とはどのような意味でしょうか? 健康の法則にたとえると、無理な過労は、わたしたちの体に病気をもたらします。人間の体には、ほんらい具わる「神からの健康の法則」が働いているからです。健康の法則は、人間がこれを「自由に」破ることができます。しかし、体に具わる神の法則それ自体を破ることは、人間にはできません。人間は自分の体を「自由に」できますから、そこには<病気になる自由>も含まれます。しかし、たとえどんなに「正しい」理由があっても、無理が病気をもたらす法則からは「自由になる」ことができないのです。 病気になる理由は人それぞれで、神様の目から見るなら、それぞれに違います。しかし、健康で幸いな道を歩むためには、神様の与えてくださる法則に従い、健康の法則を守る以外に道がないのです。同様に結婚は神から出たものですが、人間はそれを「自由に」破ることができます。人間には結婚の定めを破る自由がありますが、破った結果の報いを免れる自由はないのです。人にはそれぞれに事情がありますから、離婚が正当であるかはどうかは、それぞれの場合によって違います。神様はすべてをご存じです。けれども、そのこと自体が、離婚に伴う苦しみや悩みや心の傷を覆い隠すことはできないのです。
■結婚の自由
 わたしたちはここで、結婚を「破る自由」と同時に、結婚愛を「求め続ける自由」のことを忘れてはいけません。結婚「からの」自由に対して、結婚愛を「守ろうとする」自由があることにも目を向けてほしいのです。何かを「しない自由」は、何かを「する自由」と表裏を成しているからです。
 人間は不完全ですから、結婚の誓いを破る罪から免れることができません。だからこそ、イエス様の御霊にある「赦し」が働いてくださるのです。わたしたちが結婚において、罪「赦される」とは、ダメ夫婦がひたすら懺悔の生活を送ることだと誤解するなら、もう一つの大事な側面を見落とすことになります。結婚とは、そもそもの「初めから」神様の定められた創造の御業です。だから、ほんらい神の前の祈りによって達成されるべきものなのです。イエス様の御霊にあって罪赦される歩みとは、わたしたちの不完全な罪性にもかかわらず、「これに負けることなく」、イエス様の御言葉にある「結婚愛」を最後まで成就するよう、祈りつつ歩み続けることが求められているのです。
 英会話を学ぶ人は、英文法を「間違えて破る」ことを気にしてはいけません。間違えても、うまくいかなくても、これを気にせずに英語を話し続ける、これが「赦されて歩む」ことです。「赦される」受動と「歩み続ける」能動、この受動的能動こそ御霊にある歩みの極意です。
 だから、「神が合わせてくださったものを人が離してはならない」とは、たとえ結婚の当事者であれ、その周囲の者であれ、どのような「人」であれ、結婚愛という不思議な導き、神から与えられた創造する命を祈り求めることを妨げてはならないという意味です。離婚の誘惑にもかかわらず、「罪赦されて」二人の霊的な結婚愛を追求する祈りの歩みを放棄してはいけないという意味です。これは、人が<自力で>すること、できるものではなく、「結婚」に赦され支えられて初めて成就されるものです。離婚の自由が現実のものとなった現在では、その自由に裏打ちされて、イエス様の御言葉の意味がいっそう重視されてくるでしょう。すなわち、離婚の自由という原則を踏まえた上で、新たに内面的な結婚生活への意思と祈りが求められる時代が来ていると言えます。
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