【注釈】
■今回の「離婚」について
〔ユダヤ教の離縁〕男性中心のユダヤ社会では伝統的に女性は男性の「所有」と見なされていましたから「離縁」は比較的容易でした〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)528頁〕。一夫多妻を容認するユダヤ教の結婚制度では、妻が夫以外の男性と通じた場合に、その男女は共に「姦通」の罪に問われ、特に女性は死罪に値すると見なされました。姦通の罪は、基本的に夫に対して妻が犯す罪だったのです。しかし姦通では相手の妻と通じた男性も同罪と見なされました。姦通の罪では、ダビデ王のバト・シェバへの罪がよく知られていました(サムエル記下11~12章)。
 ユダヤ社会では、男性が離縁する権利を有していて、女性には離縁する権利が与えられていませんでした。だから離縁状がなければ、女性は再婚が許されず、他の男と通じた場合には姦通になります。ファリサイ派とイエスの間で提起されているのは、申命記24章1節の規定からですが、申命記にはここのほかに22章13~29節があって離縁の条件が厳しく制限されています。ただし、申命記24章1節は、離縁された<後の>女性に関する規定であって、離縁・離婚それ自体に関するものではありません。しかし、旧約聖書では、離縁問題がでてくる申命記のこの規定が、後のユダヤ教において離縁に関する規定として解釈され、イエスの時代には、これに基づくユダヤ教の離縁規定が「モーセ律法」として定められていたのです。聖書を日常の生活に適用するために聖書解釈(ミドラシュ)による詳細な規定が設けられていて、それらは「ハラハー」(語源は「歩み」)と呼ばれていました。今回でてくる「律法にかなう」という言い方は、モーセ律法だけでなく、この「ハラハー」のことです。ファリサイ派が「モーセが、なぜ<命じた>のか?」と言うのはこの意味であって、申命記の規定それ自体は離縁に関する「命令」ではありません。
〔ユダヤ教の一夫一婦観〕ユダヤ教古来の一夫多妻制と共に注目しなければならないのは、ユダヤ教の一夫一婦観の形成です。ヤハウェとイスラエルの宗教的な誠実さを表わす貞節な結婚観は、すでに捕囚期以前にも見ることができます(ホセア書2章21~22節/同3章1節など)。したがって偶像礼拝は霊的な「姦淫」と見なされました(ホセア4章12~14節)。夫婦の誠実な結婚を破壊する「淫行と姦淫」は、知恵文学でも警告されています(箴言2章16~18節/同6章26節/29節/シラ書23章16~26節)。結婚は神とイスラエルの民との霊的な結びつきの隠喩とされていますから、マラキ2章14~16節でも、夫と妻の婚姻が「霊的な出来事」として理解されています。おそらくここは離婚を禁じているのでしょう〔コリンズ『マルコ福音書』460頁〕。イエスの頃のエッセネ派も、独身を尊重するだけでなく一夫一婦を遵守するよう教えていました。クムラン宗団の『ダマスコ文書』(4章21~22節)もこの結婚観を受け継いで、創世記1章27節に基づく一夫一婦制を教えています。クムランの『神殿の書』(Col.57)では、イスラエルの民は異邦人から妻を迎えてはならず、必ず先祖の家(イスラエルの民)から「一人」の妻を迎えるよう教えていて、妻が亡くなった場合のみ、祖先の家から新たな妻を迎えることが許されました〔DSS(2).622〕。
〔イエスの教え〕ユダヤ教の離婚規定に比べると、イエスの結婚と離婚に関する教えは、もしもこれを字義どおり「律法的に」受け取るならば、あるいは法制度として受け入れるなら、ずいぶん厳しいものになります。今回のイエスの教えは、ユダヤ教の伝統に一夫一婦の結婚観を導入するもので、これが以後のキリスト教へ受け継がれることになります。イエスの頃には、不貞がそのまま死刑につながるとは限りませんでした。しかし、妻の不貞の場合、その夫は、半ば命令的に彼女を離縁せざるをえない状況にあったようです〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)16頁〕。だから、マタイ5章32節にある「<不法な結婚でもないのに>妻を離婚する」という離婚を認める例外措置は、イエス様語録の離婚禁止を緩和して、当時のユダヤの規定を厳しく制限しつつも離婚を認めていることになります。ただし、ユダヤ教の離縁状には「あなたは再婚することができる」と明記されていましたから、離婚は再婚を許可することでした〔前掲書17頁〕。しかし、イエス様語録にあるイエスのほんらいの言葉は、たとえ妻が不貞を働いたとしても、神の前での夫婦の絆は解消されることがないのです(ホセア書を想わせます)。マタイ福音書の「離婚禁止を緩和する」ための条件づけは、おそらくマタイの教会において採り入れられたのでしょう〔ルツ『マタイ福音書』(3)125頁〕。イエスの教えには、当時のユダヤ社会で、妻以外の女性に惹かれて妻を離縁する夫の自由に厳しい制限を加えると共に、結婚における夫と妻の根源的な結びつきと両者の対等な関係を導き出そうとする意図を読み取ることができます。
〔ヘレニズム世界の離婚〕ギリシア・ローマのヘレニズム世界では、「夫婦間の実際の愛情」が重視されていましたから、地中海世界を通じて離婚は比較的容易で、このために離婚で社会的な制裁を被ることはありませんでした。特にヘレニズム世界では、「女性の側から男性を離縁する権利が認められていた」ことが注目されます。これには「妻の名誉」にかかわる実家の介入もありました〔コリンズ『マルコ福音書』465頁〕。離婚の最大の理由は「姦通」と「不妊」でしたが、それ以外にも夫婦の実家同士の同意があれば離婚が認められました。
 奴隷や娼婦たちの場合を除いて、上層の自由人の場合、妻には無条件で貞節が求められましたから、「二夫にまみえず」という女性の貞節が賞賛されていたのも事実です。しかし、男性のほうは、未婚の女性と関係することが許容されていました。
 1~2世紀のギリシア・ローマの世界では、特に上層の男性たちは、結婚を煩わしいと見なしてこれを避ける傾向があったようです。彼らは結婚相手には処女性を求め、妻には貞節を求めながら、著しい乱交傾向にあり、町には娼婦たちが溢れていました。ホモセクシャルも通常でしたから相当数の男娼もいたようです。さらに結婚しても子供を作ることをせず、家族平均で3人に満たなかったようです。そのうえ病気で早死にする子供が多く、貧しい家庭では子供の「間引き」や中絶も行なわれていました。このためギリシア・ローマの世界では人口の増加率が低く、生産と労働力不足を多数の奴隷たちで補っていたのです。
 キリスト教は、パレスチナでもヘレニズム世界でも、男女の対等な結婚愛を「神の教え」として強く推奨しました(ローマ13章9節/第一コリント5章1~2節/第一テサロニケ4章3節/ヘブライ13章4節)。教会は、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の区別なく、イエスの言葉を受け継いだ使徒たちの教えを守っていました。結婚の絆を神の教えとして重視するキリスト教徒の間では、結婚と出産が盛んに行なわれましたから、ヘレニズム世界では、「出生による」キリスト教徒の増加率がひときわ高かったと考えられます〔ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』龝田信子訳(新教出版社2014年)151~64頁〕。
■イエス様語録
 「離縁すなわち姦淫」という今回のイエス様語録は、マルコ10章11~12節/マタイ5章32節/同19章9節/ルカ16章18節の4箇所にでてきます。マタイ福音書の二箇所は、長さと内容においてそれぞれにルカ福音書と異なります。マルコ福音書のほうは、ルカ福音書ともマタイ福音書とも内容的に異なる点があります。ほんらいイエス様語録は、ルカ16章16~18節の配置に準じて一つのまとまりを形成していたと考えられます〔マックQ100頁〕。「自分の妻を離縁する者は<だれでも>」の「だれでも」は、マタイ5章32節=ルカ16章18節にあり、マルコ10章11節とマタイ19章9節にはありませんから、おそらくルカ16章18=マタイ5節32節は、イエス様語録から出ているのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)527頁〕。
 「(妻が)離縁される、再婚する、すなわち姦淫」という今回のイエス様語録は、その内容の革新性から見てもイエスにさかのぼるもので、イエスの教える夫婦の絆の霊的な意義は、旧約聖書以上に徹底した永続性を帯びていることになります。しかも、ルカ福音書の男性優位の離縁や「妻に罪を犯<させる>」(マタイ5章32節)とあることなどから判断すると、イエスの言葉は、女性よりもむしろ男性に対して離縁への厳しい警告を発していると言えます。
【姦通】モーセの十戒には「姦淫してはならない」(出エジプト20章14節/申命記5章18節)とあり、今回の「姦通」も十戒の七十人訳と同じギリシア語です。「姦通」は結婚(婚約を含む)している女性(「妻」と「女」は同じ原語)にのみ適用されますから、「女」とあるのは「他人の妻」のことです。したがって、今回の箇所は十戒の「隣人の所有を貪る」罪にも相当します。男性中心のユダヤ社会では、姦通の罪は、基本的に夫に対して妻が犯す罪だったのですが、この場合は相手の妻と通じた男性も同罪と見なされました。
 イエスの教えは、当時のユダヤ社会で、妻以外の女性に惹かれて妻を離縁する夫の自由に厳しい制限を加えることで、夫と妻の対等な関係を導き出す意図を読み取ることができます。この言葉とその意図がイエスにさかのぼるのは間違いありません〔マーシャル『ルカ福音書』631頁〕〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1120頁〕〔キーナー『福音書の史的イエス』217頁〕。なおパウロもイエスのこの教えを知っていたと思われます(第一コリント7章11節)。
【妻を離縁して】マタイ福音書では二箇所共に「彼女が姦通/不貞を犯す<以外の理由で>」とあって、離縁の条件が付加されています。しかもマタイ19章9節のほうは、イエス様語録の後半の「離縁された妻」のほうが抜けています。
【姦通の罪を犯す】マタイ5章32節では「離縁した妻に姦通の罪を<犯させる>ことになる」とあって、離縁した夫のほうが妻の姦淫への責任を問われています。
【離縁された女】ルカ16章18節では「<彼女の夫から>離縁された妻」とあって、ここでは、その妻と通じる男性は、<その女性の夫に対しても>不倫を犯していることが確認されており、男性の責任が重く問われています。
 
■ルカ16章18節
 ルカ福音書は結婚について触れていません。ルカ16章18節の離婚についてだけです。離婚については、ルカ福音書の言葉が一番簡単でこれが本来のイエス様語録に近いと考えられます。イエスの結婚・離婚観は、このルカ16章18節の離縁に関するイエス様語録から出たもので、イエスにさかのぼるものでしょう。キリスト教は、パレスチナでもヘレニズム世界でも、男女の対等な結婚愛を「神の教え」として強く推奨しましたから(ローマ13章9節/第一コリント5章1~2節/第一テサロニケ4章3節/ヘブライ13章4節)、ルカの教会においても、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の区別なく、イエスの後を受けた使徒たちの教えを守っていたのでしょう。これは単なる倫理的な理由からだけでなく、「邪悪な姦淫の時代」(マタイ12章39節)に染まることなく神の道を歩むことを勧めていたからです〔TDNT(4)732-34〕。 
■マタイ5章
 マタイ5章27~32節は、姦淫と離婚の二つに分けることができます。姦淫と離婚はほんらい別の問題ですから、マタイ5章21節以下では、律法の霊的な意義を徹底させる例として、「怒り」(5章21節)と「姦淫」(27節)に続いて、3番目に「離縁」(31節)が来て、これに「誓い」(33節)と「復讐」(38節)が続くことになります。
 離婚の問題は、マタイ福音書では5章と19章で2回取り上げられています。結婚については、マタイ福音書はマルコ福音書を下敷きにしてこれに編集を加えています。だから、独身に関するマタイ19章10~11節は、マルコ福音書にはないマタイによる付加です。たとえモーセ律法で許された離縁でも、神から与えられたほんらいの結婚それ自体は解消されないのです。なぜなら結婚とは、「神の創造」のみ業から出たものであり、生まれた子供が生まれなかったことにはならないのと同じで、そもそも結婚の解消はありえません。したがって、離縁それ自体が成り立たないのです。たとえ離縁状を書いても、出された女(妻)と結婚した男は姦通の罪を犯すことになり、妻を離縁したその夫が他の女性と結婚するのも姦淫の罪になります。
[31]【離縁状を渡せ】旧約の離婚規定では、申命記24章1~4節が有名です。しかし申命記のこの箇所は、直接離婚の問題を扱ったものではありません。申命記の原文は「もしも男性(夫)が離縁して・・・・・、さらにもしも(離縁された)彼女が再婚して・・・・・、さらに二度目の夫からも離縁されたなら、始めの夫は・・・・・」となっていて、ここは男性が女性を離縁する規定というよりも、離縁された女性が、再婚してから戦争などでその夫を再び失った場合などに、最初の夫が再び彼女を妻とすることは許されないという規定なのです。だから申命記の規定は、ほんらい離縁された女性の「再婚の」規定で、離縁されたり戦争で夫を失った場合に、その女性をどう扱うかに関する規定です。これの背景には、戦争による多くの「夫の死」と残された妻の惨めな状態があったと思われます。
 改訳英語訳(The Revised English Bible)では:
"If a man has taken a woman in marriage, but she does not win his favor because he finds something offensive in her, and he writes her a certificate of divorce, gives it to her, and dismisses her, and if after leaving his house she goes off to become the wife of another man, and this second husband turns against her and writes her a certificate of divorce, gives it to her, and dismisses her, or dies after making her his wife, then her first husband who had dismissed her is not free to take her to be his wife again; for him she has become unclean."
(男性が女性と結婚して、しかも彼女に好ましくないことがあるのを見いだしたために、離縁状を渡して彼女を去らせた場合に、さらにもしも、彼女が家を去った後に、別の男性の妻となって、その上でその二番目の夫も彼女を嫌って離縁した場合に、このような場合に、彼女を去らせた最初の夫が、再び彼女を妻とすることはできない。その男性〔最初の夫のこと〕に対して、彼女は汚れた者となっているからである。)
 この条文からも、一方的に離縁された女性がいかに惨めな状況に置かれていたかが、逆にうかがわれます。ただし後になって、申命記のこの箇所が、ユダヤ教では、男性が妻を離縁する場合の規定として再解釈されるようになったのです。ファリサイ派がイエスに「なぜモーセは命じたのか?」と質問しているのもこのような解釈の伝統に従って、申命記のここを「離縁の規定として」理解するところから出ています。
[32]【不法な結婚でもないのに】「妻が不貞を行なった場合以外は」の意味です。ユダヤ社会では、男性が離縁する権利を有していて、女性には離縁する権利が与えられていませんでした。だから離縁状がなければ、女性は再婚が許されず、他の男と通じた場合には姦通になります。申命記の記事には、離縁の条件として「何か恥ずべきことある場合に」とあります。これが具体的に何を指しているのか現在では分かりません。しかし、イエスの当時のユダヤ教では、この一句が離縁の条件として重視されていて、この条件を妻が姦淫を行なった場合に限定する狭い解釈(シャンマイ学派)と「料理の仕方が悪い」のも条件に入るとするもっと広い解釈(ヒレル学派)とがあって対立していたようです。
 こういうユダヤ教の離婚規定と比べると、イエスの結婚と離婚に関する教えは、もしもこれを字義どおりに「律法的に」受け取るならば、あるいは法制度として受け入れるなら、ずいぶん厳しいものになります。初期の教会においても、この辺のところが問題とされたに違いありません。マルコ福音書の「妻を離縁して」(10章11節)再婚する者は姦淫を行なうとあるところに、マタイ福音書では「不法な結婚でもないのに」(19章9節)が付け加えられています。これは離婚を禁じるイエスの「厳しさ」を緩和する配慮からだと思われます。ただし、マタイ福音書の「不法な結婚」という訳は曖昧ではっきりしません。原語は「ポルネイア」で「不品行」と訳されている言葉と同じです。この「不品行な結婚」は、ほんらいは親子のような近親間の結婚を意味する言葉だったのでしょう。洗礼者ヨハネが、ヘロデ王とヘロデヤとの結婚を非難したのもこの理由からであす(マタイ14章4節)。当時の通念では、このふたりは近親者と見なされていたからです。
 しかしこの「不品行」という言い方は、申命記の離縁の場合と同じように「妻の姦通」の意味とも解釈できます。この意味であれば、マタイ福音書はここで、イエスの教えからユダヤ教のシャンマイ学派の立場に戻ったと言えます。「不品行」という言葉は、当時のギリシアやローマの異邦人の間では(同性愛をも含めて)さらに広い意味にも解釈されていました(使徒15章20節)。日本語訳には、「不品行以外の理由で」〔塚本訳〕「不貞のためでなく」「淫行以外で」などが当てられていて、かなり幅のある解釈が行われています。ちなみにカトリック教会では、この言葉を近親結婚の意味に解釈しているようです。「非合法な結婚以外の理由で」〔フランシスコ会訳聖書〕。マタイ福音書の立場が「シャンマイ派に近い」と言いました。しかし、シャンマイ派が「不貞のゆえに」と言うのは、申命記24章1節の規定を根拠にしていますが、イエスは、これを創世記2章24節から判断しています。だから、これは「離婚の条件」というよりも、妻の不貞によって結婚における「一体(一つの肉)」が<すでに失われている>と見なされ、したがって、二人はすでに「神の前で一体でなくなっている」という判断ともなりましょう。ちなみに、この論法は、イングランドのピューリタン革命の時に、ジョン・ミルトンが、離婚の自由を唱えた一連の「離婚論」(1644年)で主張する理由と通じています。   
■マタイ19章
〔構成〕最初の1~2節の導入部を除くなら、マタイ19章3~12節は、離婚についてと(3~6節)、イエスの結婚・離婚観への反論と(7~9節)、独身について(10~12節)の三つに分かれます。ファリサイ派は彼を試して言った→イエスは言った(3~4節)/ファリサイ派はイエスに言う→イエスは彼らに言う(7~8節)/弟子たちは彼に言う→イエスは彼らに言った(10~11節)という語りの枠組みに注意してください。
〔資料〕二資料説によるならば、マタイ福音書はここでマルコ10章2~12節に戻ることになります。ただし、マタイ福音書はマルコ福音書と異なります。マタイ福音書では「<何らかの理由があれば>妻を離縁してもいいのか?」とありますが、この問いかけはイエスの頃のヒレル派とシャンマイ派の離縁論争を反映しています。しかしマルコ福音書では「離縁それ自体が律法に適うのか?」となっています。さらに大きな違いは、マルコ福音書では「妻が夫を離縁する場合」(マルコ10章12節)が出てくることです。これらの違いから、マタイ福音書とマルコ福音書は資料的に別個ではないか?という見方もあります。しかし、<何らかの理由>は申命記24章1節から来ていて、イエスの頃と同様にマタイの頃の教会でも同じ問題が生じていた(マタイの教会は律法を重視する傾向が強かった)とすれば、この句はマタイの付加部分だと見なすことができます。したがって、マタイはマルコ福音書に基づきながらも、マルコ福音書の資料に「何らかの理由で」と「不法な結婚でもないのに」と最後の12節を加え、マルコ10章12節を削除したという見方もできます〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)4~5頁〕〔ルツ『マタイ福音書』(3)118頁〕。
[1]~[2]「(イエスが)これらの言葉を語り終える」は、これに類する区切りの言葉として、マタイ7章28節/11章1節/13章53節/19章1節/26章1節にでてきます。マタイ福音書が「イエスの教え」を重視しているのは確かですが、これらの「区切り」によって全体が構成されているとは言えません。マタイ福音書には、このほかにも「その時からイエスは~始めた」(マタイ4章17節/16章21節)という言い方で、イエスの宣教活動が新たな段階に入ったことを表わしています。イエスの場所が今回の箇所の次にでてくるのは「エルサレムへ上る途中」(20章17節)ですから、今回からイエスの一行は「ユダヤ地域」に入ったと見ていいでしょう。このような地理的な構成はマルコ福音書のそれを受け継いでいると思われます〔フランス『マタイ福音書』3頁〕。
【ヨルダン川の向こう側】イエスが故郷のガリラヤから受難の地エルサレムへ向かうという構成はマルコ福音書によるものです。ユダヤ人は、エルサレムへ上がる際には、サマリアを避けて、「ヨルダン川の東側」を南下してから、川を渡ってエリコへ出て、そこから山地をエルサレムへ上るルートを採っていました。ただし、ヨルダン川の東一帯は「ペレア」と呼ばれ、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの支配の下にありましたから、正確には「ユダヤ」とは言えません。しかし、共観福音書もヨハネ福音書も、ガリラヤとユダヤを当時の「支配者」によって区別していませんから、この句は、パレスチナの南部で「ユダヤ人の住む地域」という意味でしょう。
【大勢の群衆】過越祭にエルサレムへ上がる群衆もイエスの一行と共にいたのでしょう(マタイ20章29節参照)〔フランス『マタイ福音書』710頁〕。
[3] 【イエスを試そうと】マタイ福音書では離縁の問題がすでに5章31節以下で採りあげられています。したがって、マタイ福音書の文脈で見れば、今回が二度目になりますから、ファリサイ派がイエスを「試そうとして」来たのは、イエスの離縁に関する厳しい教えを知っていて、イエスがモーセ律法に背く教えを広めているのかどうかを「試す/テストする」目的で問いかけていることになります。
【何か理由があれば】「何かの理由あれば」を直訳すれば「(責められるべき)あらゆる理由/原因のゆえに」"for every cause" 〔フランス『マタイ福音書』711頁〕です。原語「アイティア」(女性単数名詞)は「理由/原因/容疑/罪状」などの意味があります。離縁についてのこの条件は、申命記24章1節から出ていますが、イエスの時代のユダヤ教では、これを「妻の不貞」に限定する解釈と(シャンマイ派)、申命記の条件を拡大解釈して夫の側のかなり身勝手な条件も認められる解釈(ヒレル派)とがありました。ヒレル派の解釈のほうがより一般的であったと思われますから〔フランス『マタイ福音書』714頁〕、ここでイエスに問いかけているのもヒレル派かもしれません。
 ただし、「何らかの理由があれば夫が妻を離縁する」が、ほんらいの申命記24章1節全体そのままの引用であったとすれば、この問いかけは、申命記に定められたとおりに離縁するのは正しいのか?という問いかけにもなりえます。だとすれば、この問いかけは、イエスが離縁それ自体を禁じたことをこのファリサイ派はすでに知っていて、「そもそも離縁それ自体が正しいと思うのか」とイエスに尋問/詰問していることになります。しかし、マタイ福音書のここの原文が七十人訳の申命記の文言と異なりますから、この解釈は成り立たないでしょう。
【律法に適って】聖書を日常の生活に適用するために聖書解釈(ミドラシュ)による詳細な規定が設けられていて、それらは「ハラハー」(語源は「歩み」)と呼ばれていました。ここでいう「律法にかなう」はモーセ律法だけでなく、この「ハラハー」のことです。なお、マルコ福音書では「夫(男)が妻を離縁する」ですが、マタイ福音書は「人がその妻を離縁する」です。続く5節に来る創世記の「人を男と女に」とあるのに合わせたのでしょう。
[4]マルコ10章3~4節では、まず申命記の離縁規定から始まり、そこから創世記の教えに移ります(6~8節)。だから、イエスの教えが、それまでのユダヤ教の教えとは根源的に異なる革新性を持つことが明らかになります(9節)。ところがマタイ福音書では、ファリサイ派の問いかけに対してイエスは先ず創世記の教えを出して、イエスの結婚・離婚についての根本原理を語ります(マタイ19章4~6節)。それから、この原理の適用の場合の例外に触れるのです(8~9節)。マタイ福音書は、より根源的な教えを優先させて、これに関する例外へと移行しますから、マルコ福音書に比べると論理的な語り方になっています〔フランス『マタイ福音書』716頁〕。
【読んだことがないのか】この言い方はマルコ福音書に3回、ルカ福音書に1回、マタイ福音書に6回あります(今回以外に12章3節/5節/21章16節/42節/22章31節)。これは旧約聖書に基づいて議論を始める時に用いる言い方で、イエスにさかのぼるでしょう。引用される聖書の言葉は、当時のユダヤ教徒ならだれも知っている箇所ですが、イエスはそこから思いがけない創造的な解釈を引き出すのです。
【人を男と女とに】引用は七十人訳の創世記1章27節からです。マルコ福音書の引用(テキスト批評に問題があります)は七十人訳そのままですが、マタイ福音書のほうは「妻と結ばれ」の言い方が「結びつく」から「結ばれる」へとやや弱くなりますが基本的に同じです。創世記1章27節はクムラン文書の『ダマスコ文書』(Col.4の21)にもでていて、一夫一婦制の根拠と解釈されています〔DDS(2)55-56〕。創世記1章27節には「造った/創造した」が3度繰り返されています。イエスは申命記の律法規定からさらに「創造の原理」へさかのぼるのです。原文は「人間を男性(雄)と女性(雌)に」ですから、ここには人間だけでなく、地上のあらゆる生物の創造が背景に含まれています。しかも「人間」とあるように、あらゆる生物の中から、神の似姿に象(かたど)った「人間」の結婚には、他の生物に見ることができない特別の意義が授与されていることを教えています。
[5]~[6]【そして言われた】動詞「言った」の主語が特定されていません。主語が「神」であるとすれば、この句を含む前後の全体がイエスの語った引用に入ります〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳(注)4〕"and (God) said" 〔NRSV〕。しかし主語が「イエス」であるとすれば、この句の前後で、引用が二つに切れることになります〔新共同訳〕〔塚本訳〕"and (Jesus) added " 〔REB〕。
【結ばれ】原語は「コローマイ」(癒着する/密着する/切り離せなく結びつく/深く交わる)の受動態未来形3人称単数です。
【一体】原語は「一つの肉」です。「この結びつきを破ることは一つの身体を裂くことと同じです」〔フランス『マタイ福音書』718頁〕。しかもこの「結びつき」は、人間の意志や制度から出るものではなく、神の意志に根ざしています。このような「一体化」"one flesh union" は、制度的ではなく現実の性交によって生じる事態ですから、性交は一時的な行為ではなく、性交そのものが不変な事態になります。パウロも創世記2章からのこのイエスの言葉を受け継いでいます(第一コリント6章16節)。だとすれば、人が二人の人と同時に性交することができないという意味になりますが、「起こりえないこと」ではなく「起こってはならないこと」を言うためで〔フランス前掲書〕、これは6節に「人が引き離しては<ならない>」と3人称単数現在命令形で語られていることから分かります。
【神が結び合わせる】イエスの引用は、創世記1章27節に続いて創世記2章24節からです。この24節は、クムラン文書でも「一夫一婦制」の根拠とされています〔フランス『マタイ福音書』717頁(注)19〕。マタイ5章での「心の中での姦淫」の場合と同じように、イエスはここでも結婚を法律的あるいは社会的な制度として見るのではなく、神による霊的な結びつきとして「内面的に/霊的に」見ています。しかも、その論法を申命記の規定からではなく、創世記の創造から始めるのです。イエスはここで、旧約のモーセ律法に基づくユダヤ教の離婚規定を創造的な視点から否定していると言えましょう。このような結婚観は、それまでこの問題に関して不利な立場に置かれていた女性への配慮から出たとも考えられます。しかしイエスのこの結婚観は、それ以上に重要な変更を含んでいます。それは、このような霊的な結びつきによる内面化によって、結婚が、従来のユダヤ教の伝統的な「子孫を残すこと」を目的とした結婚観から、結婚それ自体が神の「創造の業」であるとすることで、夫婦の出会いそれ自体が目的となる道が開かれたからです。同時に大切なのは、夫と妻とが、この問題に関して神の前に対等な立場に置かれることで、これは画期的なことです。
[7]【モーセは命じた】ファリサイ派がここで提起しているのは、申命記24章1節の規定からです。すでに指摘したように、申命記のこの箇所は、離縁された<後の>女性に関する規定であって、離縁・離婚それ自体に関するものではありません。しかし、旧約聖書では、離縁問題がでてくるのはここだけですから、申命記のこの規定が、後のユダヤ教において離縁に関する規定として解釈され、イエスの時代には、これに基づくユダヤ教の離縁規定が「モーセ律法」として定められていたのです。ファリサイ派が「モーセが、なぜ<命じた>のか?」と言うのはこの意味であって、申命記の規定それ自体は離縁に関する「命令」ではありません。
[8]【離縁を許した】原文は「妻たちを離縁することをあなたたちに認めた/許した」です。イエスが、申命記ほんらいの規定の意味を知っていて、離縁規定は、聖書に基づく「命令」ではなく、譲歩の上での「認可」にすぎないと言ったのかどうか?この辺は分かりません。なぜなら、マルコ福音書では、イエスのほうが「命令」を口にして、ファリサイ派のほうが「認可」で答えているからです。しかし、創世記にさかのぼって申命記の規定を再解釈するイエスの答えは、結果として、申命記ほんらいの規定の意味を正しくとらえていることになります。
【心が頑固】「頑(かたく)な」〔フランシスコ会訳聖書〕/「頑固」〔塚本訳〕。イエスはファリサイ派が解釈する申命記の規定をそれなりに「正しい」と認めています。その上で、創世記の根本精神に立ち帰って、神の真意を告げ、これに照らして、ファリサイ派の申命記規定が「人間の弱さ/罪深さ」への譲歩であり、神の結婚へのほんらい意図からは「逸れる」ものだと判断するのです(この点はレビ記21章7節/エゼキエル書44章22節の祭司への規定にも表われています)。だから、ここで問われているのは、神とモーセの意図の違い、あるいは、モーセ律法内の矛盾(モーセとは「モーセ五書」のこと)をどう調和させるのか、ということではありません。そうではなく、結婚への神の真意と人間の罪深さとの間の溝のことなのです。「頑な」はこの意味で<人間の神への反逆>の心だととられるべきです(出エジプト記7章3節)。離縁への「認可」は、「離婚を認可すると言うより人間の罪深さへの譲歩です」〔フランス『マタイ福音書』720頁〕〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)14頁〕。神の真意を読み取ることをせず、神の譲歩を絶対化する規定の解釈こそ、ここでイエスが批判している点なのです。マタイ福音書はマルコ福音書と異なって、申命記の規定をめぐる解釈よりも、イエスの結婚・離婚の教えに敵対するファリサイ派の批判を浮き彫りにしていると言えます。
[9]この節は本文が乱れています。「(妻が)不貞を<働いたため>以外には」"except for unchastity" 〔NRSV〕と「(妻の)不貞を<根拠とする>以外には」"except on the ground of unchastity" 〔NRSV〕とがありますが、後のほうは5章32節の影響を受けているからでしょう。内容的にはどちらの読みも変わらないと思います。それより、9節後半の「他の女を妻にするのは姦通の罪を犯すことになる」を「他の女を妻にする者は、彼女(離縁された元の妻)に(もし彼女が再婚すれば)姦通を犯させることになる」のように読み替える異読があります。これも5章32節の影響でしょう〔新約原典テキスト批評48頁〕。また、9節の後に、「離縁された女を娶る者は姦通を犯したことになる」を補う異読もありますが、これも5章32節を採り入れたからです〔前掲書〕。このような様々の読み方は、後述するマルコ福音書をも含めて、1世紀の教会がイエスのこの言葉をどのように適用すべきかで判断が分かれたからだと思われます〔フランス『マタイ福音書』720頁(注)25〕。
【不法な結婚】カトリック教会ではこの句を「近親結婚」の場合に限定しますが、申命記から判断すると「不貞を働く」ことを指すと思われます。「不法な結婚」を続く「妻を離縁する」だけにかける解釈と、この句を「他の女を妻にする」ことにもかける場合があります。イエスの頃には、不貞がそのまま死刑につながるとは限りませんでした。しかし、妻の不貞の場合、その夫は、半ば命令的に彼女を離縁せざるをえない状況にあったようです〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)16頁〕。だとすれば、今回のイエスの言葉は、当時の規定を厳しく制限しつつも認めていることになります。ただし、ユダヤ教の離縁状には「あなたは再婚することができる」と明記されていましたから、離婚は再婚を許可することでした〔前掲書17頁〕。しかし、イエス様語録にあるとおり、イエスのほんらいの言葉は、たとえ妻が不貞を働いたとしても、神の前での夫婦の絆は解消されることがないことです(ホセア書を想わせます)。「不貞以外の理由で」とあるイエスのこの答えが当時のシャンマイ派と一致しているとすれば、イエスはここでファリサイ派の質問にきちんと答えていることになります。マタイ福音書のこの条件づけは、おそらくマタイの教会において取り込まれたのでしょう〔ルツ『マタイ福音書』(3)125頁〕。ただし、シャンマイ派が「不貞のゆえに」と言うのは、申命記24章1節の規定を根拠にしていますが、イエスは、これを創世記2章24節から判断しています。だから、「離婚の条件」というよりも、妻の不貞によって「一体(一つの肉)」がすでに失われていると見なされ、したがって、二人はすでに「神の前で一体」ではなくなっているという理由になりましょう。ちなみに、この論法は、イングランドのピューリタン革命の時に、ジョン・ミルトンが、離婚の自由を主張する一連の「離婚論」(1644年)で唱えた理由と通じています。
【他の女】ギリシャ語でもヘブライ語でも、「女」と「妻」とは同じ言葉です。しかもここでは、自分の妻のことではないから、「他人の女(妻)」という意味にもなりますから、この女性が未婚なのか離縁されているのか判断できません。
[10]ここでファリサイ派が姿を消して、弟子たちがでてきます。マタイ19章では、今回以後も、弟子たちの「的外れな」行為や驚きが続きますから、今回も、離縁問答に絡む弟子たちの驚きによる疑問が表明されています。10節の弟子たちの見解には多少冗談めいたところがあるという見方があります。イエスの当時のパレスチナでは、独身は恥ずべきことだとされていたから、まさか弟子たちが「本気で」このようなことを言うはずがないからです。たとえそうだとしても、イエスのほうは、弟子たちの言葉を真(ま)に受けて、これに真っ正面から答えています。
 弟子たちの質問とイエスの答えを、10~12節に先立つ3~9節と関連づけて解釈し、ここで言う「独身」とは、妻を離縁した男(夫)や離縁された女(妻)たちのことで、続く事例も彼らの再婚問題に言及しているという解釈もあります。しかし、イエスが、創世記に基づいて、決して解消されえない「夫婦一体観」こそ結婚への神の根源的な意図であることを明らかにしたその後で、たとえ「不法な結婚以外」という条件があるにせよ、離婚の可能性を認め、その上、再婚問題に触れるとは考えられません。だから、イエスは、結婚の厳粛な夫婦一体と並行させて、弟子たちの言う「この言葉」(11節)を受けて、今度は生涯の独身についても語っていると見るべきです〔フランス『マタイ福音書』723頁〕。イエスはここで、独身を「推奨している」のではありません〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)19頁〕。なお10節は先行部分と11~12節をつなぐためのマタイの編集だと指摘されています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)19頁〕。
【妻を迎えない】原文は「結婚しないほうがましだ」です。"It is better not to marry."〔NRSV〕〔REB〕「結婚の煩わしさを避けて独身を選ぶ」という生き方は、すでにギリシアのストア派の哲学者が実行していましたから、ヘレニズム世界では特に奇異なことではありませんでした。またユダヤ教諸派の中でも、クムラン宗団を中心とするエッセネ派やエジプトのテラペウタイたちにも同様の思想がありました。しかし、パレスチナのユダヤ教では、子孫を儲けることがいぜんとして宗教的な義務だと見なされていましたから、イエスのここでの発言は、革新的だと考えられます。
[11]~[12]12節の「結婚できない者」の原語「エウヌーコス」(宦官)とは、ほんらい古代の国王や君主の寝室を管理したり世話する男性のことで、彼らは去勢されていました。このことから、この用語がさらに広く「結婚できない者」の意味になりました。だからこの用語は、「肉体的に性交不能者」、「去勢された王の宦官(かんがん)など」、何らかの意味で「自らを去勢する者」のことであり、そこから「独身者」の意味にもなります。ユダヤ社会では、男性は本来結婚することが当然の義務とされていました。旧約では、新婚の男は戦争に出る義務から免れていました。これも子孫を増やすためでしょう。したがって、成人男性で結婚を避ける男性は、「去勢された男」と同じに軽蔑されていたのです。「去勢」は汚れたものと見なされ、去勢された動物は「傷もの」とされ、犠牲として神殿に捧げることができませんでした。しかし、ここでイエスは、またイエスの意志を受け継いだ教会も、去勢した人や独身者に対して神を信じて神に仕える道を開いたのです。ただし、この部分は、神のために独身であることを特に勧めているのではありません。
 パウロは、第一コリント7章で、「主からの命令」として信仰者の夫婦は離婚してはいけないと命じています。もしもすでに離婚しているのであれば再婚してはいけないとも言っています。ただし、夫か妻が未信者である場合はその限りでなく、相手が別れるのであれば去らせることを認めています。ところが彼は、祈りのために、ふたりがしばらく別居するのを認めていますから、おそらくこのことからでしょうか、カトリック教会では、「離婚」は認められないが「別居」は認められます。ラテン語の"divortium" (英語divorceの語原)には「別居」と「離婚」の両義があります。
【この言葉】「この」が付く場合は、次に来る言葉を指す場合があるので、ここでも「この言葉」は続く12節を指すという解釈があります。しかし、むしろ直前の弟子たちの「結婚しないほうがまし」を指すと見るべきでしょう(「この」が抜けている異読がある)〔デイヴィス前掲書20頁〕〔フランス前掲書722頁(注)32〕。"To this he replied..."〔REB〕
【恵まれた者だけ】原語は「与えられた者だけ」。すべての人ではなく、限られた者たちだけに「与えられる」という言い方が「天国の秘密を与えられる」(マタイ13章11節)とあるので、「恵まれた」と訳されたのでしょう。「その恵みを与えられた人だけ」〔フランシスコ会訳聖書〕/「神から特別に力を授けられる者だけに(出来る)」〔塚本訳〕/「授けられた者だけが把握する」〔岩波訳〕。"only those to whom it is given" 〔NRSV〕/"only those to whom God has appointed it"〔REB〕。なお、この点はパウロとも共通します(第一コリント7章6~7節)。6節で示された結婚は神からの「規範」ですが、その規範が適用されない、あるいは適用できない人たちがいることを指します〔フランス前掲書723頁〕。イエスはここで独身を「推奨」しているのではなく「条件づけける」のです〔デイヴィス前掲書21頁〕。イエス自身が独身であったことから、マタイの教会で男性の独身、女性の処女性が過度に評価される傾向があったのでしょうか、11節は、マタイが、これに制限を加えようとしたのかもしれません〔デイヴィス前掲書21頁〕。
【結婚できない者】ユダヤ教のラビの間では「人の去勢者」と「太陽の去勢者」と呼ばれる去勢/独身の二つのタイプがあったようです。「人の去勢者」は自分で去勢したか、あるいは病気や負傷などで性能力を失った者たちのことであり、「太陽の去勢者」は生まれつき性交が出来ない状態の人のことを指していました。このラビ伝承は共観福音書よりも後の時代のものですが、今回のマタイ19章12節で言う「結婚できない者」とは、この「太陽の去勢者」と同様の人たちを指すと考えられます〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)22頁〕。
【結婚できなくされた者】上記にあるように、「結婚できなくされた者/去勢された者」は「人の去勢者」に当たる人たちのことでしょう。
【天国のため結婚しない者】古代のフェニキアでは神々に仕える男性の司祭たちや、小アジア(現在のトルコ)の太母キュベレ神や、ギリシアの女神アルテミスに仕える司祭たちの中には自らを去勢する者がおり、女性は処女性を誓うのがならわしでした〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)23頁〕。パレスチナでは、イエスの時代に、エッセネ派のクムラン宗団では、純潔を誓った独身の男性たちが共同で生活していました。同様のことがエジプトのユダヤ教徒の一派であるテラペウタイの間でも行なわれていました〔デイヴィス前掲書25頁〕。とりわけクムラン宗団は終末への信仰に生きていて、特に終末ではローマ軍団との最終戦争が避けられないと信じ、このための備えとして独身で「麻の衣」をまとって戦う備えをしていたのです(ヨハネ黙示録14章4節参照)。ただし、エッセネ派でも、結婚して一般の人たちの間で暮らしている人たちも大勢いたようです。洗礼者ヨハネやイエスの弟子たちもこのエッセネ派の影響を受けていた可能性があります。
 元来パウロは、既婚か未婚かにあまり重きを置いていません。しかし彼自身は、はっきりと独身を選ぶと告げていて(Ⅰコリント7章7節)、ある程度そのことを人にも勧めています(Ⅰコリント7章38節)。こういう彼の選択の背後には、差し迫った終末意識があるのは間違いありません(Ⅰコリント7章26節)。イエスやパウロが、「神の賜」として独身を選んだことが、これ以後のキリスト教に大きな影響を及ぼすことになりました。2世紀頃までは、結婚する者はキリストの信仰者として不完全であるという考え方さえあったようです。「西方教会」と呼ばれる現在のカトリック教会では、司祭や修道院での独身制は、教会の制度が整う4世紀頃から始まり、12世紀には、教会の制度として正式に定着しました。
 マタイ19章12節は、マルコ福音書にもイエス様語録にも、これに並行する言い方がありません。しかし先に指摘したように、パウロ書簡には11~12節に準じた独身観がでてきます。またキリスト教の弁明者として知られる殉教者ユスティノス(100年頃~165年頃)の『第一弁明』(15章)には、マタイ19章9節と続いて同12節が、ほぼそのまま引用されています。このことから、12節はほんらい独立した伝承として受け継がれたと考えられます。イエス独特の格言的な言い方や、「去勢者」(エウコーノス)という当時のパレスチナでは嫌われる語が用いられていることなどから、12節はイエスにさかのぼると見ることができます〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)24頁〕。
 
■マルコ10章
 マタイ19章は結婚・離婚・独身問題に始まり、続いて「子供への祝福」が来て、「金持ちの若者」の話が来ます。この順序はそのままマルコ福音書10章1~31節に並行します。したがって、マタイは、マルコ福音書を踏まえながら、これに独身問題などを加えて敷衍(ふえん)しているのが分かります。ほんらいなら、マルコ福音書を先に採りあげて、続いてマタイ福音書に入るほうが文献的には正しい順序ですが、今回は内容が複雑なので、内容を重視する意図から先にマタイ福音書を採りあげ、最後にマルコ福音書を採りあげます。今回の問題について、マルコ福音書には、マタイ福音書以後の見解が含まれていることもあるからです。結果として、ルカ福音書→マタイ福音書→マルコ福音書というように、通常の共観福音書講話から見れば逆の順序になります。
[1]【ヨルダンの向こう側へ】ここを「ヨルダンの向こう側<を通って>ユダヤ地方へ」と読む異読があります。これだと、イエスの一行の行程がはっきりします。
[2]【ファリサイ派の人々が】「すると<彼らは>尋ねた」という異読があります。主語が特定されませんが、これがほんらいの読みであって、「ファリサイ派」はマタイ19章3節にならった後からの挿入ではないかと考えられます〔コリンズ『マルコ福音書』457頁本文注〕。
【試そうとして】イエスの頃のユダヤには離縁を禁じる規定がありませんでしたから、「離縁それ自体が律法に反するのか?」という質問は通常では考えられません。マタイ福音書では「何かの理由で」とあって、<離縁の条件>について問いかけていますから、このほうが当時の状況に適切です。マタイ福音書にあるように、ファリサイ派は、イエスの革新的な結婚・離婚観を<前もって>知っていて、この点でイエスを「試そう」として問いかけているのでしょう〔フランス『マルコ福音書』390頁〕。
[3]~[4]この部分はマタイ福音書と大きく異なります。ファリサイ派は「(律法によって)許されているか」と尋ねたのに対して、イエスは「モーセは何と命じたか」と問い返しています。申命記24章1~4節はほんらい離縁に関する規定ではありませんが、ユダヤ教ではこれが離縁規定の根拠とされていました。この規定では、離縁は「許される」ことですが、その際の離縁状は「命じられて」います。ここで言う「モーセ」とはモーセ五書のことを指しますから、ファリサイ派が申命記の規定を持ち出したのに対して、イエスは創世記の神の意図を提示することで、離縁規定をより広い視野から解釈しています。
 モーセは神から十戒を授けられて、これを民に教えたとありますから(出エジプト記20章18~21節)、彼は神と民との仲介者でした。しかし、初期ユダヤ教では、モーセ五書を含むモーセの教えは、そのまま神の命令として受け取られるようになります〔コリンズ『マルコ福音書』466~67頁〕。イエスは、この「モーセ」を創世記にさかのぼることで根源的かつ急進的に解釈し直しているのです。イエスのこのモーセ解釈はパウロにも受け継がれて、パウロ書簡にはモーセは神と人との間の仲介者にすぎないから、モーセ律法は「一時的な」ものであり、神ほんらいの意図を十分に表わすもではないとあります(ガラテヤ3章15~20節)。今回のマルコ福音書にもパウロのこの解釈が反映しているのかもしれません〔コリンズ『マルコ福音書』467頁〕。
[5]【心が頑な】原語は一語で「スクレーロ(固く厳しい)カルディア(心)」です。この語は特に神に対して反逆する人の心を指します(申命記10章16節/エゼキエル書3章7節/シラ書16章9~11節)。なお「あなたたち」とあるのは、質問に来たファリサイ派のことだけでなく、ユダヤ教の規定に従うイスラエルの民全体を指します。モーセが離縁状を書くように命じたのは、創世記で語られている神ほんらいの真意ではないことを言おうとするのです。
【掟を書いた】厳密に言えば、モーセは、離縁の規定を「書いた」のでも「命じた」のでもありませんが、イエスの頃のユダヤ教では、モーセ五書はモーセによって「書かれた神からの命令」だと受けとめられていました。
[6]~[8]【初めから】創世記1章27節にある人類の堕罪以前の状態を指します。
【二人は一体】原文は「もはや二つではなく一つである」ですから、「分かつことが出来ない単一体」〔フランス『マルコ福音書』392頁〕のことです。
[9]【人が離してはならない】創世記1章27節に基づいて離縁を禁じる教えはエッセネ派のクムラン宗団の文書の一つ「ダマスコ文書」(前175年~前40年)の4章20~21節にも見られます(日本聖書学研究所『死海文書』258頁)。ただしこの文書は、「離縁」を禁じるのではなく「一夫多妻」を禁じていますから、妻を離縁した場合、その妻が生きている限り、夫は再婚することが許されません。したがって、イエスの頃のユダヤ教で「離縁」それ自体を禁じている教えはイエスの他に見られません。このような教えはイエスにさかのぼるものです〔コリンズ『マルコ福音書』468頁〕。
[10]【家に戻って】これはマルコ福音書だけで、弟子たちが密かに尋ねる場としてでてきます(7章17節/9章28節)。
[11]たとえ夫が妻を離縁しても、その夫が再婚するなら、もとの「その妻に対して」姦通の罪を犯すことになるという意味です。
[12]【夫を離縁して他の男を夫にする】キリスト教会の時代になって、ギリシアやローマなどの異教世界が含まれるようになり、離婚についても大きな変化が生じました。マルコ福音書のここでは、<妻の側が>夫を離縁する場合を出しています。これはユダヤ社会ではありえないことで、ギリシア・ローマの世界で始めて意味を持つことです。マルコ福音書が書かれた頃の教会(ローマか?)の事情がここに反映しているのでしょう〔フランス『マルコ福音書』393/394頁〕。11~12節はイエスの離婚禁止の教えからは後退して、離婚もやむをえないことを前提にしています。この場合、離婚した夫婦は、どちらかが生きている限り、再婚することが許されません(『ダマスコ文書』を参照)。

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