157章 子供を祝福する
 マルコ10章13〜16節/マタイ19章13〜15節/ルカ18章15〜17節
【聖句】
■マルコ10章
13イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
14しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
15はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
16そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。
 
■マタイ19章
13そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
14しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
15そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。
 
■ルカ18章
15イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。
16しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
17はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
 
【参照】
■『トマス福音書』(22)
 イエスは授乳された小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「この授乳された小さな者たちは、御国に入る人々のようなものだ」。彼らは彼に言った「私たちが小さければ、御国に入るのでしょうか」イエスが彼らに言った、あなたがたが、二つの者を一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、(中略)その時あなたがたは(御国に)入るであろう。」
        〔荒井献『トマスによる福音書』158頁〕
                       【注釈】
【講話】
■幼児洗礼
 今回の箇所は教会の幼児洗礼と関係があるのではないかという説があります。しかし、時期的に見て、幼児洗礼が制度化するのはおそらく4世紀以降ですから〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)560頁〕、この解釈は成り立ちません。ただし、今回の箇所が、後の教会によって、幼児洗礼の根拠として解釈されたのは確かです。特に16〜17世紀の宗教改革時代に、再洗礼派(アナバプティスト)が幼児洗礼の無効を主張した時に、ルターたちによって幼児洗礼が擁護され、その際に今回の箇所がその根拠とされました〔ルツ『マタイ福音書』(3)145〜46頁〕。
 むしろ今回の箇所は、人が神の国を受け入れる際の「素直で謙虚な」心構えとして引用されてきました。ただし、そのことをもって、子供の地位が向上したとか、現代のように子供をも一人の人格として認めるようになったと考えることはできません。
■子供を観る目
 古代のイスラエルでは、子供は無知で聞き分けがない者と見なされて、大人のしつけの対象とされていました。この事情は、古代世界では共通します。「古代」と言いましたが、実は、子供の人格が認められて、子供を子供として尊重するという考え方が本格的に認めるようになったのは、イギリスでも19世紀初頭の頃からです。詩人ウリアム・ワーズワース(1770〜1850年)が、有名な「虹の歌」で「子供は大人の父である」と謳(うた)ったのもこの頃で、19世紀のヴィクトリア朝時代に、ケイト・グリーナウエイの挿絵のマザー・グースの歌集が出されたりしました。
 だから、今回のイエス様の御言葉は、当時としては驚くほど革新的な意義を帯びていました。子供のように素直に神の国を受け入れるというのは、日本流に言えば「無心」になることでしょう。わたしの手もとには、横山大観が若い頃に描いた「無我」と題した絵があり、そこには大人の着物をまとったあどけない子供の姿が描かれています。大観は子供の無我の心に無限の創造力が秘められていることを描こうとしたのです。何者にも「とらわれない心」、あるがままそのままの出来事をあるがままそのままで観る目。これが、神の国を知り、イエス様の御言葉を聴く最上の方法だと教えておられるのです。
■家族を思う
 もう一つ、今回のイエス様の御言葉で大事なことが指摘されています。イエス様は今回のすぐ前で、「独身」が必ずしも最善ではないと戒めておられて、今回は子供たちがイエス様のもとに来るのを妨げてはならないと言われます。どちらも「家族の絆」を粗末にしてはならないことを教えていると解釈することができます〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)36頁〕。
 イエス様の神の国は、この世離れして「超越的」であり、その上「終末的」であると言われます。聖書の神が、「人の力」によらない神であり、その御霊の働きは、人間の力を超えていると言うのはその通りです。しかし、この言い方は、幾つかの重大な誤解を招きます。特に神とその御業に不信を抱く人から見ると、
(1)「人の力によらない」神は、人倫関係、とりわけ家族関係を粗末に扱う、あるいは無視する、と言う誤解を生じます。
(2)神の働きが「超越的」だとは、人知の働き、すなわち科学的な理性の働きと矛盾するから相容れないという誤解を生みます。
(3)神の働きは、「この世」の出来事に関わらない、特に人間の身体的な存在を超えるから、人の身体とも人をめぐる自然環境とも無縁である、という誤解を生じかねません。
 これら三つの誤解の元をたどっていくと、神への不信仰がその根にありますが、それをさらに突き詰めるなら、「人の力によらない神」とは、所詮人間の頭脳が勝手につくり出した妄想にすぎない、という根本的な偏見に由来する懐疑が潜んでいます。ところが事実は、これとは正反対で、神の御霊は家族の絆を結び、科学的な理性を正しく導き、人間の身体を守り支えてくださるのです。これこそが、「人」となられたナザレのイエス様の御復活の御霊のお働きです。
■三位一体の御霊
 三位一体の聖霊は、わたしたち一人一人に宿られますから、超越的であると同時に内在的です。自然を超えているようで、自然の内にあって働きます。御霊は、イエス様の御人格ですから、数式や原理や主義で言い表わすことができません。言うまでもなく、その時その場の「わたし」とは、身体と精神を含む全人格的な「霊性」のことです(わたしは「霊性」をこの意味で使います)。イエス様は、その時その場で、主様の御霊に導かれて歩む歩みを子供/幼児のように素直で信頼する心にたとえられたのです。
 わたしたちの心臓の鼓動も、呼吸も、睡眠も、人の人体を支える命の法則は、科学的に分析し解明してもなお分からない不思議な働きを秘めています。そのように、わたしたちに働くイエス様の御霊も、どこまで調べ尽くしても解明できない不思議な神秘性を帯びているのです。
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