【注釈】
■子供への祝福
 マタイ=マルコ福音書では、「離縁」に続いて「子供への祝福」と「金持ちの若者」の話が続き、この組み合わせにイエスの「死と復活予告」が来る構成になっています(ただしマタイ20章1~16節が「金持ち」と「復活予告」の間に挿入されている)。ルカ18章15~34節でも、「子供への祝福」と「金持ちの議員」の話に「死と復活予告」が続きますから、マタイ福音書とルカ福音書のこの構成はマルコ福音書から出ていると思われます。
 今回のマルコ福音書では、15節のイエスの言葉を中心に弟子たちの行動とイエスの戒めが語られますが、これはイエスの言葉(14節)と行為(16節)の二つを組み合わせた逸話伝承としてマルコに伝えられていたのでしょう〔コリンズ『マルコ福音書』471頁〕。今回の共観福音書は、子供に対する「弟子たち(と教会)の誤り」とこれを正すイエスの教えとして語られていると解釈されています〔フランス『マルコ福音書』395頁〕。ただし、子供たちがイエスのもとへ来るのを「妨げる」とあるのは、洗礼を受ける資格があるかどうかを問う場合の用語だと理解して、今回の記事は教会での「幼児洗礼」を認めるかどうかという問題が背景にあるという指摘があります。しかし、幼児洗礼が制度化するのは後の時代ですから、この解釈は成り立ちません〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)35頁〕〔フランス『マタイ福音書』728頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)556頁〕〔ルツ『マタイ福音書』(3)144頁〕。今回の逸話は、マタイ=マルコ福音書では、「神の国」に入る「子供」と、続く入れない「金持ち」を対照させて語られていると思われます〔コリンズ前掲書〕。これらを通じて、御国に入るのはどのような人なのか?が問われていると言えましょう。ルカ福音書でも、「徴税人とファリサイ派」の後に「子供への祝福」がきますから、ルカ福音書の構成も、どのような人が「神の国」へ入れるのかという主題で一貫しています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)555頁〕。共観福音書では、一連の「この主題」の終わりに「イエスの死と復活予告」が来ますから、イエスの死と復活から光を当てて見ると、人が御国に入る資格が何によって授与されるのかが初めて見えてくるように構成されているのでしょう。
 
■マルコ10章
[13]【触れていただく】「触れる」はほんらい触れたものと深い関係を持つことを指します(創世記3章3節)。イエスが人に「触れる」行為は、その人の病を癒やす場合です(マルコ1章41節/マルコ5章27節)。しかし今回だけは例外で「子供に触れる」とあります。神の霊が働く人に触れていただくことで、その人を通じて霊が触れられた人に伝わるのはユダヤ教の伝統ですから(出エジプト記30章29節/列王記下4章34節)、子供をラビに触れてもらうことで祝福を受ける慣わしがありました。今回の伝承にもこの信仰が受け継がれていて、マルコ福音書もこれに従って、子供たちにイエスの霊が注がれたことを指すのでしょう。
【弟子たちは叱った】「神の霊の人」には通常従者がいて、人々はその従者を通じて神の人に会うことが許されます(列王記下4章25~27節)。今回の弟子たちも、イエスの従者として、人々がイエスに近づく許可/不許可を与える立場にあったのです。なお、「この人々」とは子供たちの親のことです。原文は「<彼らを>叱った」ですから、弟子たちが子供たちを叱ったとも解釈できますから、この誤解を避けるために「連れてきた者たちを叱った」という異読があります〔新約原典(注)〕。弟子たちはマルコ9章36節の教えを忘れたのでしょうか?
[14]【憤り】原語は「立腹する/憤慨する」。
【子供たち】古代では一般に現在に比べて「子供」への評価が低かったと言えます。ユダヤ教でも「子供」は悟りのない無知な者として扱われるのが普通でした。イエスの頃のユダヤ教では、12歳以下が「子供」と見なされましたが、「来たるべき時代の復活」に子供が与れるかどうかがラビたちの間で論じられていました。「生まれてすぐ割礼を受けた時から」「祈りの際に『アーメン』と言える歳から」「言葉が話せる歳から」など見解が分かれていたようです。なお、異邦人/異教徒の子供は「復活から排除」されていました。おそらく、「来たるべき神の国」では、ある一定数が「イスラエルの子供」のために割り当てられていたのでしょう。今回も「神の国」が繰り返しでてきますから、子供をめぐるこの状況が、今回の弟子たちの姿勢にも反映していると思われます〔コリンズ『マルコ福音書』472頁〕。イエスはここで、子供への従来の低い評価を改めるだけでなく、「神の国へ入る」ことができる一つの典型として「子供」をあげています(マルコ9章37節参照)。この革新的な評価は、ナザレのイエスにさかのぼると思われますが、これが弟子たちを通じて原初の教会に受け継がれ共観福音書に採り込まれているのです。
【妨げる】原語は「邪魔する/排除する」。「このような者たち」とは「子供のように謙虚で素直な者」の意味ですが、この言い方は、イエスが、弟子たちだけではなく、直接子供たちに向いて言っている状景を示唆します。
[15]【子供のように受け入れる】「子供がものを受け取るような気持ちで受け取る」ことなのか、それとも「子供を受け入れる」のと同じ気持ちで御国を受け入れること(マルコ9章37節はこの意味)なのかが問われています。「子供のように神の国を受け入れる」〔新共同訳〕"accept the kingdom of God like a child" 〔REB〕は、どちらの意味にも解釈できます。しかし「神の国」を受け入れることですから、「子供が御国を受け取るような謙虚な姿勢で」の意味でしょう〔コリンズ『マルコ福音書』473頁〕。「子供のように素直に神の国を受け入れる者でなければ」〔塚本訳〕/「神の王国を子供が受け取るように受け取らない者は」〔岩波訳〕/"receive the kingdom of God as a little child" 〔NRSV〕。なおマタイ福音書では15節が抜けていて、これがマタイ18章3節に置かれていて、「子供のようにならなければ天国に受け入れてもらえない」となっています。
 神の国に「入る」かどうかは、人の一存では決められませんが、人が御国を「受け入れる」かどうかは、受け取る側の姿勢に依存します。今回も「受ける」人間の姿勢が問われています。ユダヤの知恵思想で言う「受ける」は、人が神からの賜を受け入れるための「意図的な理解」を表わす独特な用語です〔フランス『マルコ福音書』397頁(注)17〕。
【決して入ることが】マルコ10章25節を参照。
[16]【手を置いて祝福】13節で親が子供たちを連れて来た当初の目的が、子供へのイエスの按手によって「祝福」を授かることでした。イエスの按手は病気の癒やしの場合に行なわれましたが、ここでは子供のための何か「特別の祝福」を指すのでしょう。「抱き上げ」とあることから、子供たちの年齢も推測できます(ルカ18章15節参照)。
 
■マタイ19章
[13]【手を置いて祈る】マルコ福音書では「触れてもらう」です。「手を置いて祈る」には、教会で行なわれていた按手の儀式が反映していると指摘されています。この句は15節の「手を置いて」と対応していて、今回のマタイ福音書の記事全体を囲い込む構成になっています。
[14]【天の国】マタイ福音書では、マルコ福音書の「神の国」ではなく「天の国」となっています。なおマタイ福音書では、マルコ福音書の「(イエスが)憤った」が抜けています。
[15]マタイ福音書にはマルコ10章15節が抜けています。この言葉はマタイ18章3節にでてきますから、マタイは今回の記事から省いたと考えられます。
【手を置いて】マルコ福音書にある「祝福する」が抜けていますが、13節と対応させたのでしょう。子供たちへの按手の祈りが、共観福音書の頃の教会で行なわれていたことを反映していると思われます。
 
■ルカ18章
 ルカ福音書は、18章14節の「徴税人とファリサイ派」までて独自資料(L)を離れて、今回から共観福音書の伝承に戻ります。ただし19章1節以下の「徴税人ザアカイ」は独自資料(L)からの挿入です。今回のルカ福音書の特徴は、マタイ=マルコ福音書の終わりに来る「イエスの子供たちへの按手」が抜けていることです。ルカ福音書のほうが最古の伝承に近いのではないかとも考えられます〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)556頁〕。しかし、この結果ルカ福音書では、イエスの行為よりもイエスの言葉のほうに重心が移り、ほんらいの伝承の「行為」と「言葉」のバランスが崩れています。さらにルカ福音書では、「子供」ではなく「乳飲み子」とあるのもマタイ=マルコ福音書と異なります。ルカ福音書の言葉伝承の重視と「乳飲み子」の二つは、『トマス福音書』と共通します。
[15]【乳飲み子】マルコ福音書の「子供」でなく「乳飲み子」としたのは、「新たに生まれる」という教会の信仰に沿っているのでしょうか(ヨハネ3章3節)。「連れてくる」の原語には「抱いて来る」の意味もあります。
[16]【呼び寄せる】イエスは赤子を抱いた親たちをわざわざ自分のほうへ呼び寄せています。ルカ福音書では、続くイエスの言葉が、赤子や親に宛てたものではなく、弟子たち(と教会の指導者)に宛てられているのでしょう。なお、ルカはマルコ福音書の「イエスは憤った」を略しています。ルカ福音書でイエスは「主」と呼ばれていますから、「主が腹を立てる」とあるのを避けたのでしょうか〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)558頁〕。
 
■『トマス福音書』注釈
 『トマス福音書』は、イエスのほうから乳飲み子を見て言う言葉で、弟子たちの親への制止も、それに対するイエスの戒めもでてきません。続いて、男と女が一つになって、人間が性別を持たない両性具有の原初の状態に立ち帰ることではじめて御国に入るとありますから、人が男女に分かれる以前こそ「完全な」姿であるというグノーシス的な思想が背景にあります。天上にある「単一」(モナス)が完全で、これが二つに(男女に)分かれるにつれて堕落するというこの思想は、3世紀のギリシアの哲学者プロティノスに受け継がれ、彼の思想は新プラトン主義と呼ばれています。今回の『トマス福音書』は、共観福音書以後に、グノーシス派によって、イエスの言葉が二次的に拡大されたものでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)34頁〕。
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