158章 金持ちの若者
  マルコ10章17〜22節/マタイ19章16〜22節/ルカ18章18〜23節
【聖句】
■マルコ10章
17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 
■マタイ19章
16さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
17イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
18男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
20そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
21イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
22青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 
■ルカ18章
18ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
19イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
20『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
21すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
22これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
23しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
                                        
                      
【注釈】
【講話】
■伝統的な解釈
 伝統的な解釈をごく簡略に紹介します〔ルツ『マタイ福音書』(3)163〜170頁〕。オリゲネス(2世紀〜3世紀)やクリュソストムス(4世紀)などの古代の教父たちは、今回のイエス様の御言葉が例外なくすべてのキリスト信者に適応される教えだと理解しました。ただし、全財産を施すのではなく、その一部を施すよう和らげています。しかし、アレクサンドリアのクレメンス(2世紀〜3世紀)は、富(とみ)それ自体は善でも悪でもないから、見える財産のことではなく、人の魂が富への執着から解放されなければならないことを強調しました。すでに古代においても、辞義通りの解釈と共に、このような霊的・内面的な解釈が行なわれていたことを示すものです。
 ヨーロッパ中世では、アッシジのフランシスコ(12世紀〜13世紀)が、イエス様の御言葉を文字通り実行して、無一文になって修道生活に入ったことが有名です。彼は、清貧を尊ぶフランシスコ修道会を創設しました。キリスト教がローマ帝国の国教になってから、キリスト教会には、「完全を求める召命」(使徒たちへの召命)と「日常生活での召命」(ニコデモやアリマタヤのヨセフへの召命)の二種類の召命が存在すると解釈されました。カトリック教会は、この解釈に基づいて、聖職者と平信徒とを区別する制度を現在も実施しています。
 宗教改革時代には、例えばルターは、修道院的な生活を教皇主義として排斥し、自己の所有を守ることで、これを正しく用いることこそ神の教えであると説きました。したがって、全財産を放棄することは、特定の個人に向けられた特殊な命令だと受け取られました。現代では、今回のイエス様の教えは、信者一人一人が、神にある隣人への愛の証しとしてその所有を放棄することが求められていますが、それはそれぞれの自由な意志によるものでなければならないとされています。
■わたしの場合
 わたしは、若くして福音の伝道者になるために、職業を捨てて献身して、牧師になる決心をしました。しかし、伝道している内に、自分がほんとうに確信を持って説くことのできる福音の真理を自分はまだ与えられていない。こういう思いが強くなりました。仏教を敵視する、神道を悪霊呼ばわりする。カトリックを否定する。それどころが、プロテスタントの教会の滴礼さえ無意味だと言う。こういうキリスト教にどうしても納得できませんでした。悩んだ末に、わたしは牧師の仕事を捨てて、学校の教師になり、勉強を始めました。だからわたしは、今回の話にある青年のように富んではいませんが、すべてを捨ててイエス様に従うことをしませんでした。途中で止めたからです。このことをずいぶんやましいと思いましたが、現在は後悔していません。自分で納得できるイエス様の霊的な福音にやっと出会えたからです。それまでは、「人の伝えた人の教え」に従っていましたが、今ようやく、自分で見出し自分が出会った御復活のイエス様に出会って、納得してこれを伝えることができるからです。
 わたしは、現在自分に与えられているイエス様の福音に満足しています。あの時決心してよかったと思っています。今のわたしは、このイエス様に従うためなら、すべてを捨てることもできるからです。と言うよりも、もう自分には何にもない。あるのはイエス様だけです。自分は無くなってもいい。わたしは今そう思っています。こういうものに出合えたのは、有り難いことです。だから、わたしの個人的な体験から推察すれば、ここでイエス様がこの財産家の若者に命じたことは、若者のほうからの「心からの求め」に応じて、彼個人に向けて与えられた命令です。
■永遠の命
 わたしは、今回の若者がしたように自ら進んで「永遠の命」を求めたのではありません。何を求めるべきか、それさえもイエス様に委ねて、ただイエス様に従ったのです。ヨハネ1章のアンデレともう一人の弟子みたいにです。だから、イエス様のほうからわたしを招いてくださったと言うべきです。招かれるままにイエス様を信じてついて行くうちに、いつの間にか、何もかもイエス様に委ねて、イエス様にあって死ぬというところまで連れて行かれた。永遠の命を得るとは、何か「行動する」ことによってではありません。ただ「イエス様に従う」だけで、イエス様の内に永遠の命が宿っていることがだんだん分かってきたのです。ヨハネ6章68節のペトロのようにです。だから、わたしにとってイエス様の「永遠の命」は、二つの大事な側面を有しています。
 一つは、イエス様に従うことで、「イエス様にあって死ぬ」というところへ導かれることです。これはイエス様の福音の大事なところです。現在身体的に生きているその状態のままで、自分が「死ぬ」という体験は、仏教もその他の宗教もまねのできないことです。パウロが十字架のイエス様を伝えたのは、実にこのことなのです。ナザレのイエス様に向かって、何もかも全部明け渡し捨てきってしまうと、不思議な恵みの御霊のお働きが来るのを覚えます。穏やかですがものすごい力で、全身を覆い、肉の弱さと罪性が不思議に除かれる思いがします。これが、パウロ書簡がわたしたちに伝えようとしている「罪人が値なしに受ける神の恵み」だと実感できます。ナザレのイエス様の存在とパウロの霊的な体験、これがひとつながりにわたしたちの身に生じるのです。だからイエス様の御霊は「何もかも全部明け渡しなさい」とわたしたちに迫るのです。
 もう一つは、イエス様にあって死ぬことを通じて初めて、イエス様の御復活の永遠の命を、今この世で生存しているその時に悟ることができることです。マルコ福音書には、「この世で捨てたものは、その百倍を受ける」とあるのです。これは真実であって、誇張ではありません。イエス様にすべてをかけた人は、イエス様の御霊を通して、滅びない命、滅びない個性、滅びない愛(夫婦愛を含む霊愛)、滅びない希望が、この地上にいるわたしたちに与えられるのです。このイエス様に従うなら、現在のホモ・サピエンスの人類種がことごとく滅び去る時が来ても、なお滅びない霊的な命を宿す新しいホモ属へと、現在のホモ・サピエンスの人類種が進化することになる。このことをマルコ福音書のこの箇所は証ししているようにわたしには思われます。だから、今回イエス様が言われる「天の宝」とは、空間的な「天」の意味ではなく、むしろ<すでに始まっている新しい時代(アイオーン)>を指しているのです。 アッシジのフランシスは、彼の有名な祈りを「死ぬことによって、永遠の命に生きる」と結んでいるのはこのためでしょう。だから、「イエスの弟子になる」ことを何らかの戒めや掟を守る行動と同一視してはならないのです〔フランス『マタイ福音書』735〜36頁〕。
 イエス様はここでこの青年に彼が所有するもの「ことごとく」を売り払えと命じておられます。ルカが正しく洞察している通り、「ことごとく」には、その人の内面的な名誉や誇りや地位の一切も含まれます。ルカ福音書はわたしたちイエス様を信じる者たちに、「あなたにはまだ<この一つ>が残されているよ」と教えてくれるのです。イエス様に向かって何もかも捨てきってしまう時に、その人自身を通して顕れる御復活のイエス様の御臨在、これこそあなたがこの世を去っても、永遠になくならない 「あなたの命」だよと教えてくれるのです。 
 
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