【注釈】
 
■富める人の物語
 マルコ10章17~31節は、一つのまとまりを成す物語として扱うことができます〔新約原典〕〔新共同訳〕〔コリンズ『マルコ福音書』473~74頁〕。しかし、通常この箇所は16~22節(富める人とイエス)/23~26節(弟子たちとイエス)/27~31節(ペトロとイエス)の三つに分けられます〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳〕。内容的に見て、これら三つはほんらい別個の伝承からだと見なすことができるからでしょう。ただし、共観福音書では、ここをマルコ10章17~22節と同23~31節のように二つに大別して扱う場合が多いようです〔『四福音書対観表』217~219頁〕〔Dewey and Miller. The Complete Gospel Parallels. 147-49.〕。今回も便宜上、二つに分けて扱うことにします。
 資料的に見ると、17~22節(富める人の話)と23~27節(「らくだが針の穴を」というイエスの言葉)と28~31節(ペトロの質問)は、それぞれにイエスの言葉伝承を中心に形成されていたと見ることができます〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(1)37~38頁〕。したがって、これらはほんらい独立した伝承だったと考えられます。これらの伝承には、イエスほんらいの逆説的で妥協のない言葉がそのまま受け継がれていますが、同時に後の教会によってそこに含まれる矛盾や逆説が修正されていると言われています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)566頁〕。前半部(マルコ10章17~22節)はマルコ以前からの伝承によるものでしょう。しかし後半部(同23~31節)がマルコ以前からの伝承なのかどうか、また、マルコがどの部分をどのように編集したのかは確かでありません〔コリンズ前掲書475頁〕。
 今回の箇所は、直前の「子供たちとイエス」と比較対照するとその焦点がよく分かります。地位も名誉もない幼い子供たちとイエスとの出会いに続いて、富んだ名誉ある人とイエスとの出会いが対照されているからです。しかも、弟子たちはこの二種類の人たちに対して、一方は蔑みから退けようとしてイエスに戒められ、他方では模範的な人が退くという意外な成り行きに驚かされるのです。ユダヤ教では伝統的に富は神に誠実に仕えた者への神からの恵みであるとみなされてきました(申命記28章1~14節)。ただし、預言者の伝統には、富める者たちによる圧政と敬虔な貧しい者たちが対照されて、圧制者たちへ厳しい批判が加えられ、貧しい者へは、慰めと神の公正な扱いが預言されました。この傾向は、終末に起こる逆転を預言するユダヤの黙示思想においていっそう顕著になります(『第一エノク書=エチオピア語エノク書』94章6~11節/同97章7~10節など)。今回の物語と続く弟子たちとイエスの対話は、イエスが特別な霊性を持つ「先生」だと見られていたこと、モーセの十戒を重視したこと、弟子には所有を完全に放棄して従うことを求めたこと、富める者と貧しい者との逆転など、歴史のイエスの真正な姿を伝えていると見ることができます〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)41頁〕。
 
■マルコ10章
[17]【旅に出る】10章1節の「旅」から再び「旅」に戻ります。次に「旅」がでるのは32節ですから、受難の陰(同33節)が次第に濃くなります。
【ある人】原語は「一人」ですが、ここは「一人の人/ある人」(不定代名詞)です。マルコ福音書には彼が「若者」(マタイ19章20節)であることも「議員」(ルカ18章18節)であることも述べられません。また彼が裕福であることも最後まで(22節)伏せられています。「走り寄って跪く」のは、この人が救いを真剣に追い求めていて、そこには「思い詰めた切迫感」〔フランス『マルコ福音書』401頁〕さえ感じられます(1章40節)。
【善い先生】「先生」は先にもでてきましたが(9章17節/同38節)、「善い先生」という呼びかけは今回の人以外に新約聖書に例がありません。その姿勢と言い呼びかけと言い、この人がイエスに並々ならぬ敬意を寄せているのが分かります。
【永遠の命】共観福音書でこの言い方は、今回の一連の出来事(マルコ10章17節と30節及びこれの並行箇所)のほかにマタイ25章46節にでてくるだけです(ほかにマタイ7章14節に「命」とありますが)。しかしパウロ書簡には5回でてきて(ローマ2章7節/5章21節/6章22~23節/ガラテヤ6章8節)、人の「罪」と「死」に対照させて「永遠の命」が用いられています。これに対して、ヨハネ福音書ではイエスを信じる/知ることで与えられる「永遠の命」(ヨハネ17章3節)が17回でてきます。なお、ユダヤ教の『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)の「たとえの書」(前40~後50年)40章では、「諸霊の主」の前に救われた何十万もの者たちがいて、主のみ前に4人の天使(ミカエル/ラファエル/ガブリエル/ペヌエル)が立っています。4番目の「ペヌエル」(神の顔)は「永遠の命を継ぐ者たちの悔い改めと望みを司る」天使と呼ばれています〔村岡崇光訳『エチオピア語エノク書』教文館『聖書外典偽典』(4)旧約偽典(Ⅱ)205~6頁〕。
【受け継ぐ】原語は「(遺産などを)相続する」ことですが、七十人訳でこの語は特に「主から与えられる約束の国土へ入る」ことを指します。パウロ系書簡には「相続」がしばしばでてきますから(ローマ8章17節/ガラテヤ3章29節など)、今回も「人の行ない」ではなく「イエスへの信仰」によって受けることを指すという解釈があります。しかし、この人が「何を行なうべきか」と尋ねるの対して、イエスは、所有する物一切を売り払うことを「実行する」よう命じていますから、少なくともこの問答からは「信仰」と「行ない」の相互関係を読み取ることはできません。一般にマルコ福音書の作者マルコは、パウロとは違って、「信仰」と「行ない」という分け方にはとらわれないと見られています。その通りだと思いますが、今回の場合、富んだ人に続く弟子たちとイエスとの問答では、救いが「人の力によらない」ことが語られますから(27節)、今回のマルコ福音書の記述から「マルコは信仰か行ないかという議論にとらわれない」〔フランス前掲書〕と判断するのは適切でありません。
[18]【善い】相手が「善い(先生)」と呼びかけたのに対して、イエスはこれを咎めている様子がうかがわれます。「善い先生」がイエスへの「へつらい」だと受け取られて咎めたのではなく、相手の目を神に向けさせて、ただ神一人だけが「善い」ことを言おうとしているです(続くイエスの言葉に注意)。イエスが「善い師」だと言えるのは、「善い」父なる神の子としてだけだからです。一般にイスラエルで「善い」は、とりわけ神がイスラエルに「慈愛深い」ことを意味します〔コリンズ『マルコ福音書』476頁〕。「神は善い方」あるいは「善い神」は、フィロンの十戒の注解にも「この方は神であった。それゆえ善である。ただ善だけの原因/基であり、悪はどこにもない」とあります。ラビに対しても「善い神からの善い先生」という言い方がなされていたようです〔コリンズ前掲書〕。この意味での「善い」は次回につながる「神と人」との大きな差異が、ここでも表わされていて、神の絶対的な「善」と人間の相対的な「善」との違いがすでにここで指摘されているのです。この人の言う通常の人間同士の会話での「善い」に対して、イエスは、はるかに高い基準での「善い」をその人に示そうとしています。マタイはこの辺を察知して、「善いことを行なう」とあって、「善い」を直接行ないへ結びつけています。
[19]モーセ十戒の中から後半の具体的な行為に関する箇所だけが引用されています。5番目の「奪い取るな」は、十戒では「隣人のものを貪るな」にあたりますから、ここだけより具体的な行為へ言い換えられています(マラキ書3章5節の影響でしょうか)。引用の順番はヘブライ語原典のとおりで、マルコ福音書では動詞が接続法のアオリスト形(否定辞は「メー」)が用いられています(七十人訳では「姦淫するな。盗むな。殺すな」の順序で、動詞はどれも未来形〔否定は「ウー」〕。ただし、6番目の「父母を敬え」だけが、原典と異なって終わりに来ていますが、動詞は現在形で七十人訳と完全に一致します(最後の「あなたの(母)」が抜けていますが、これを補う異読があります〔新約原典〕)。「欺き奪う」の次に「父母を敬う」が来るのは、先のコルバンの場合が関係しているからでしょうか(マルコ7章9~13節参照)〔コリンズ『マルコ福音書』479頁〕。なお、クムラン宗団の『ダマスコ文書』3章16節には、神の戒め/律法について「人が行なうならそれによって生きる御心の要求」(レビ記18章5節参照)〔日本聖書学研究所『死海文書』256頁〕とあります。
[20]【守ってきた】この動詞は中動相のアオリスト形ですから(マタイ福音書とルカ福音書では能動相アオリスト)、戒めが禁じることは注意深く避けてきたことを意味します〔フランス『マルコ福音書』402頁〕。「なにもかもすべて」とありますから、戒めを破る行為それ自体を一切おこなわなかったことになります。言うまでもなく彼は、イエスの山上の教えにあるような律法の「新たな解釈」は知らなかったでしょう。しかしこの人が、当時のユダヤ教の水準から見て、神の国を受け継ぐのに最もふさわしい人であることはだれの目にも明らかで、おそらく自分もそのことを自認していたと思われます。
[21]【彼を見つめ】動詞は「じっと見る」ことで(14章67節)、その人を深く洞察することです。「慈しんで」とありますから、彼が言ったことが嘘ではなく、誠実だったことを意味します。だから、続く言葉は、この人を退ける意図からでているのではありません。彼の誠実さを見た上での召命です。
【欠けているもの】「一つ」とあって、なすべきことを明確に指しています。「売り払う」も「施す」もアオリストの命令形で、一回限りの断固とした行為を指し、続く「さあ、わたしについて来なさい」は現在の命令ですから、彼のこれまでの過去を完全に捨てて、全く新しい未来へ向けて、イエスの旅のグループに加わるよう命じています。彼は、イエスのテストに合格したのです。なおここは、マタイ19章21節の注釈を参照してください。
【天に宝を】地上の所有は一時的な物で、天での所有こそ永遠であるという思想はマルコ福音書では明確でありませんが、このような思想が背景にあるのは確かでしょう。現在の「善いもの」を捨てて、将来の「より善いもの」を得るのです。 
[22]【気を落とし】原語は「怒る」「ぎょっとする」ですが、ここでは外観から見てとることのできる顔色のことで、「顔を曇らせる」〔塚本訳〕ことでしょう(マタイ16章3節「空模様が暗い」)。「陰鬱になり」〔岩波訳〕。
 
■マタイ福音書の富める青年
 マタイ福音書の富める青年の物語とこの出来事に続く弟子たちとイエスの対話(マタイ19章16~30節)を全体として見ると、「神の戒めを守る」(マタイ5章17~20節)/「神に仕えるか富に仕えるか」(6章24節)/「天に宝を積む」(6章19~21節)/完全を求める(5章48節)/施しをする(6章1~4節)/終末での逆転(5章3~4節/10節)など、今回の物語と続く弟子たちとイエスの対話には、、マタイ5章以下の山上の教えが組み込まれているのが分かります。富める若者のこの物語は、山上の教えを具体的に例示するよう構成されているのです〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)39~40頁〕。
 マタイ福音書では、最初の受難と復活予告(16章21~28節)から2度目の受難と復活予告(17章22節)を経て、3度目の受難と復活予告(20章17~19節)とエルサレムへの入場(21章)へいたる直前に今回の一連の出来事が配置されされています。イエスでの受難を直前に控えて、「神の国に入る」のは誰か?という主題が改めてここで確認されるのです。
〔構成〕
 今回の箇所の構成には、以下に示すように交差法が用いられていると指摘されています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)38頁〕。
(A)16富める若者の登場。
(B)17前半:もし命を得たいのなら。
(C)17後半:掟を守りなさい。
(D)18五つの掟。
(C’)20わたしはすべて守りました。
(B’)21もし完全になりたいのなら。
(A’)22富める若者の退場。
 今回のマタイ福音書では掟に「隣人を愛する」ことが加えられているのが、マルコ福音書やルカ福音書との大きな違いです。マルコ福音書にはイエスがその青年を「慈しんだ」とありますが、マタイ福音書にはこれが抜けています。また「もしあなたが完全になりたければ」とあるのもルカ=マルコ福音書との重要な違いです。
■マタイ19章
[16]~[17]【さて】原文は「すると見よ」で、マタイが新たな物語を始めるときの言い方です。
【一人の男】この出だしはマルコ福音書と同じですが、やがてこの人が「青年」であることが分かります(20節)。ルカ福音書では彼が「議員」だとありますが、ここで問われるのはその人の地位や身分のことではなく、マルコ福音書が的確に指摘するように「富の所有」です。
【永遠の命】マタイ福音書でこの言葉は、7章13~14節の「狭い門」に始まり、直近では18章8~9節があり、今回の箇所が来て、19章29節へ、さらに25章46節の終末に与えられる命につながります。
【善いこと】マルコ福音書では「善い先生」という呼びかけをイエスが退けますが、マタイ福音書では呼びかけに「善い」はなく、代わりに「善いこと」について問われています。マタイは、マルコ福音書の記述から「イエスは善くない」という誤った印象を与えると判断してこれを避けたという見方もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)42頁〕。
[18]【どの掟】イエスの頃の「戒め/律法」とはモーセ五書全体を指す用語で、そこには全部で613もの「戒め」が含まれると言われていました〔フランス『マタイ福音書』733頁〕。中でもモーセの十戒(出エジプト記20章1~17節/申命記5章6~21節)は特に重要な地位を占めていましたが、「戒め」は必ずしも十戒を指すとは限らなかったのです。これに対するイエスの答えは十戒の後半からで、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな」は七十人訳ではなくヘブライ語原典通りの順番です(ルカ福音書と異なる)。この点でマタイ=マルコ福音書は一致しますが、マタイ福音書の動詞は、マルコ福音書の否定辞「メー」+接続法未来形ではなく、ヘブライ語原典に従い否定辞「ウー」+直説法未来形が用いられていますから、直訳すれば「あなたは殺すことがないであろう(以下同様)」となります。「殺すな」と「姦淫するな」は、すでにマタイ5章21~30節で、イエスによる新しい解釈が与えられています。
[19]「父母を敬う」もすでに15章3~6節で採りあげられています。しかし今回はこれに、レビ記19章18節後半の「隣人を自分のように愛する」ことが加えられています。これらはすべてユダヤ教のラビの教えでは「実行可能な」戒めであり、「隣人への愛」は戒め全体の核となる大事な教えであることも、当時のラビたちが教えていましたから、イエスの答えは、当時のラビの教えと一致していて、少なくとも教え自体として見れば、ラビ一般の教えと特に変わるところがありません。だから若者は、「わたしはこれらすべてを守ってきました」と答えることができたのです。
[20]【守ってきた】マルコ福音書ではこの動詞が中動相アオリスト形ですから、戒めを破るような行為を「子供のときから注意して避けてきた」という意味です。マタイ福音書では動詞が能動相アオリスト形で、「子供の時から」が抜けているので「それらはことごとく守った」と言い切っている様子がうかがわれます。マタイ福音書では「隣人を自分のように愛する」が加えられていますから、これをも含めて「守った」と言い切ったうえで、「まだ何か足りないのですか?」(マタイ福音書だけの問いかけ)と言うのはいささか不遜な気がします〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)46頁〕。
[21] 【もし完全になりたければ】これが「何か足りない」の「何か」へのイエスからの答えです。マルコ福音書ではイエスがここで彼を「慈しんだ」とありますが、マタイ福音書には抜けています。イエスの感情をできるだけ抑えた描写はマタイ福音書全般の傾向ですから、イエスがこの若者を慈しんでいるのはマタイ福音書も同様でしょう。だからこそ、この若者に向かって、「すべてを売り払ってイエスに従う」ことで「完全になりなさい」(動詞はアオリスト命令形)ときっぱり言い切っているのです。続く財産放棄は、キリスト者一般に宛てたものではなく、特にこの若者に向けてイエスのグループに加わるよう命じているのです〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)46~47頁〕。すべてを捨ててイエスに従うことこそ、「学者やファリサイ派に優る義」であり「完全になる」道であると告げるのです(マタイ5章20節/同48節)。
 ユダヤ教では、ラビが貧しい者たちに施しをするときには、自分の所有の5分の1以下に留めるよう定められていました。「施し」がこれをする当人を貧しくするのを避けるためです〔フランス『マルコ福音書』403(注)25〕。今回の場合も、イエスはここで、彼が今のままでは永遠の命を得る=御国へ入るために「欠けている」という意味ではなく、したがってこの若者が今のままでは永遠の命を受けるに値しないという意味ではなく、「より完全になりたければ」全所有を放棄するよう命じていると解釈されています〔コリンズ『マルコ福音書』479頁〕。なお、ヘレニズム世界では、禁欲生活を求める哲学者が、魂の自由を追求して、この目的を達成するために全財産を売り払って人々に与えるよう勧める哲学がありました。テーバイ出身の犬儒学派のクラテース(前365頃~285年頃)は、裕福な生まれでありながら、自分の所有全部を200タラントンに替えて、これをアテネの市民たちに配ったと伝えられています〔コリンズ『マルコ福音書』479頁〕。これは貧しい者への思い遣りからではなく、自己の哲学的追求の完成のための行為ですから、「施し」とは言えないでしょう。
 今回のイエスの命令を根拠に、キリスト信者を「より完全な者」(聖職者)と「そうでない者」(平信徒)に分ける制度がヨーロッパ中世の教会で採られてきました。しかし今回のイエスの命令が、この若者への個人的な召命であるとすれば、これを制度的に一般化するのは正しいとは言えないと指摘されています。四福音書は「富」それ自体に対しては、より広い見方をしているからです(ルカ19章1節以下参照)〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)47頁〕。
[22]マタイ福音書には「顔を曇らせた」が抜けていますが、これも感情を抑えるマタイ福音書の傾向からでしょうか。 なお、ここで『ナザレ人福音書』(16)からの抜粋をあげておきます。この福音書は、ギリシア語(とラテン語)から訳されたものですが、ほんらいはシリアのユダヤ人キリスト教徒たち(「ナザレ人」の意味)によってアラム語あるいはシリア語で書かれたもので(2世紀初頭?)、マタイ福音書と関係があり、おそらくアラム語/シリア語からギリシア語に訳されたのでしょう。「主は彼(富める者)に言った。『行って、きみの持っているものをすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうしてわたしに従って来なさい』。しかし富める者は彼の頭を掻きむしり始めて、それ(イエスの言葉)を喜ばなかった。そこで主は彼に言った。『自分は律法と預言を行ってきましたなどと、どうして言うことができるのか。律法にはこう記されているのに。ーーきみの隣人をきみ自身のように愛しなさい。また見よ、多くのきみの兄弟たち、アブラハムの子らは汚物にまみれ、飢えのために死んでいる。それなのにきみの家は多くのよいもので満ち、その中から彼らのほうには何も出されない』。それから彼は、傍らに座していた弟子のシモンに向かって言った。『ヨナの子シモンよ。富める者が天国にはいるよりも。らくだが針の穴を通り抜けるほうが容易である』。」〔新井献訳『聖書外典偽典』別巻補遺(Ⅱ)(教文館)27~28頁〕。
 
■ルカ18章
 ルカ福音書では、「神の前に義とされる」(ファリサイ派と徴税人)「神の国へ入る」(子供への祝福)「永遠の命に与る」のように、三つの主題が緩やかにつながっています。ルカ福音書はマルコ福音書に依存していますが、イエスに尋ねるのが「金持ちの議員」です。エルサレムへの旅の終わり近くに、このような身分の人が熱心に教えを求めてイエスのもとへ来るところに、ルカ福音書の興味深い特徴が感じられます。しかも、マタイ=マルコ福音書と異なって、ルカ福音書には、この議員がイエスの答えを聞いて「悲しんだ」とはありますが、「立ち去った」とは言いません。それからの彼の状態ははっきりしないのです。彼は以前からイエスの弟子であったのに、このことで弟子となるのを止めたのでしょうか?それとも完全になるのを諦めたのでしょうか?〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1197~98頁〕。
■ルカ19章
[18]【ある議員】ルカは何の前置きもなく、「ある議員が」で始めます。「議員」とはエルサレムの議会(サンヒドリン)のメンバーのことなのか、より広い意味で会堂の指導者のことなのかはっきりしません。おそらく会堂の指導者を指すのでしょうが〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1198頁〕、ルカは彼が「身分の高い人」であったことを言おうとしているのです。共観福音書を総合すると「イエスの教えを聞こうとする熱心な若い金持ちの議員」になります。
【善い】ルカ福音書が描くイエス像は、倫理的に敬虔で、霊的な知性を具えているだけなく、霊能の人でもあり、これら三つを兼ね具えています。
[20]ルカ福音書は、マタイ=マルコ福音書と異なり、七十人訳の申命記5章の順番に従って「姦淫するな」で始めています。マルコ福音書の「奪い取るな」が抜けているのは十戒にはないからです(マタイ福音書も同様)。
[21]【守っている】ルカはマルコ福音書の中動相アオリスト形を能動相アオリスト形に変えて、マルコ福音書の「<わたしの>子供の時から」の「わたしの」を省くことで文体を整えています。どのような善いことを「行なうなら」という議員の質問は、何かを「実行すること」を指しています。ルカ福音書の読者で、パウロ的な信仰を受け継ぐ人たちは、ここでの議員の質問に「律法の諸行」による救いとキリストを通じて啓示される「律法によらない信仰による救い」を思い浮かべるかもしれません(ガラテヤ2章16節)。しかし、今回の箇所に、このようなパウロ的信仰を持ち込むのは適切でありません。イエスの答えは、モーセ律法を守るようはっきりと指示しているからです。むしろここでは、マタイ5章17~20節にある「律法学者やファリサイ派に優る律法による義」がこの議員に求められています。これが「すべてを捨ててわたしに従う」ことです。したがって、「善いことを行なう」とは、一切をイエスに委ねてイエスに従うこと、これを実行することによって、過去の生活から訣別してイエスとの全く新しい関係に入ることを指します。これがこの物語が伝える「永遠の命を受け継ぐ」唯一の道です。
[22]【欠けている】ルカ福音書はマルコ福音書ともマタイ福音書とも異なり、「あなたがするべきことで残されているものまだ一つがある」です。また、「<ことごとく>売り払って」とあって、意味が強められています。これは相手の「<ことごとく>守った」に対応するのでしょう。
[23]【大変な金持ち】原文は「大変な財産家」で、この言い方はルカ福音書だけです。「財産家/金持ち」は25節の「財産家は、らくだが針の穴を通るより」と同じ言い方です。ルカ福音書はマルコ福音書の「悲しんだ」を「とても悲しんだ」と強めていますが、マタイ=マルコ福音書にある「立ち去った」が省かれていますから、この議員がその後どうなったかは明らかでありません。
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