42章 幸いな人たち(前編)
   ルカ6章20〜26節/マタイ5章1〜6節
           【聖句】
■イエス様語録(6:20〜23)
20さて、イエスは彼の目を上げ、その弟子たちを見て言われた。
貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものだから。
21飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされるから。
悲しんでいる人々は幸いである、あなたがたは慰められるから。
22あなたがたは幸いである、人の子のために、ののしられ、迫害され、あなたがたにあらゆる悪口を浴びせられるときには。
23喜びなさい。歓喜しなさい。天にはあなたがたに大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じだったのだから。
 
■ルカ6章
20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、
汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。
 
■マタイ5章
1イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
2そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
4悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
5柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
6義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 
■参照『トマス福音書』
(54)イエスが言った。「あなたがた貧しい人たちは、幸いである。天国はあなたがたのものだから」
(68)イエスが言った。「(1)あなたがたが憎まれ、迫害されるならば、あなたがたは幸いである。(2)そしてあなたがたが迫害された場は見出されないであろう」
(69)イエスが言った。「(1)心の中で迫害された人たちは、幸いである。彼らは父を真実に知った人たちである。(2)飢えている人たちは、幸いである。欲する者の腹は満たされるであろう」
〔荒井献『トマスによる福音書』205〜6頁/230〜32頁〕
 
【注釈】
【講話】
■イエス様語録の人たち
 わたしたちコイノニア会では、聖霊のお働きを信じて、その賜(たまもの)への信仰を抱いています。異言や預言や病気癒しのような霊的な現象に対しても開かれた立場をとっています。同時に、わたしたちの信仰は、十字架による罪の赦しと、復活してキリストとなったナザレのイエス様と、その聖霊の降臨と宿り、これら三つの一貫した信仰に基づいています。いわゆる「御霊の賜(たまもの)」は、人それぞれに多様ですが、この三相一貫の基本に関する限り共通しています。このような信仰は、パウロに負うところが大きいのですが、十字架と復活が御霊の働きと結びついてくるのは、言うまでもなく、使徒言行録やパウロの手紙などにおいてです。
 ルカ福音書が証しするとおり、キリストの教会は、エルサレムでの聖霊降臨から始まりました。しかし、イエス様の十字架以後、そういう聖霊のお働きだけが、イエス様を信じる人たちに伝えられたわけではありません。生前のイエス様のお言葉とその教え、つまりイエス様のライフスタイル、これをその通りに実行しようとした人たちもいたからです。この人たちは、「イエス様語録」、一般に「Q資料/Q文書」(Qはドイツ語から)と呼ばれる文書を編集して、自分たちの生き方への手引きにしました。彼らは月に一度くらい自分たちの家に集まって、イエス様の教えを学び、祈り、共に食事をし、語り合って交わりを保ち続けました。癒しやその他の霊的な賜への信仰もなかったわけではありませんが、どちらかと言えばイエス様のお言葉に従って生活することを重視したのです。
 十字架・復活信仰とイエス様の御言葉を生きること、この二つのやや違った信仰のあり方は、現在の日本でも見られます。イエス様を神の子として信じてはいますが、聖霊の働きにはあまり近づかない。それでいてイエス様の生き方あるいはイエス様の教えに深く共鳴している人たちがいます。かつて私のゼミナールにいたひとりの学生は、自分はイエス様を神の子だと信じることはしないけれども、イエス様の生き方からその愛を学ぶことはとても大切だと言って、「歴史的なイエス」についての論文を書きました。日本のキリスト教の中でも、このようにいくらか違ったふたつの信仰のあり方が現在も見られます。ただし、こういう学び方は、聖霊の賜やパウロの説く十字架の罪の赦しへの信仰と必ずしも矛盾しません。また、イエス様語録の人たちもパウロたちの信仰と必ずしも対立したわけでもありません。
 なぜこういうことを今日お話しするかと言いますと、今回からは、イエス様の「教え」について学びたいと思うからです。今まで、イエス様の病気癒しやイエス様と安息日、すなわちイエス様とユダヤ教の指導者との対立について見てきました。しかし今回からはイエス様の教えについて語りたいと思うのです。これから読むイエス様の教えは、今お話ししたイエス様語録(Q資料)に基づく部分が多いからです。
■ルカ福音書の御国
 ルカ福音書を読むときに注意しなければならないのは、ルカにとって、イエス様がこの地上におられたときは特別な時であったことです。現在わたしたちもルカと同じく、イエス様が十字架にかかり復活されて、御霊が降る時代に生きています。ルカから見るならば、イエス様がこの地上におられた時は、メシアの時代が「現実に」地上に到来した特別な啓示の時だったのです。すなわち、ある意味では「終末が今地上に来ている」状況だったのです。それは、イエス様がカファルナウムの会堂で、イザヤ書の61章を引用して「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために」と言われてから、「この聖書のお言葉は、<今日>あなたがたが聞いたときに実現した」(4章21節)と言われたことからも分かります。歴史のある一点で、突然に終末の光がこの地上に差し込んで来ると、わたしたちが普段生活している人間社会の実際の真相が、その光に映し出されて、その実態が根底から暴露されるのです。そこに映し出されるのは、普段わたしたちが考えている世界やその価値観とは全く逆さまの世界、価値観が逆転した世界です! それはちょうどあの出エジプトの時に、豊かな古代エジプトの世界がモーセによる神の裁きに照らされると、美しいナイル河の水が突然人間の血の色に変わったのに似ています。あの豊かな古代エジプト文明も、一皮めくればそこは人間の「血の池地獄」の上だったのでしょう。イエス様からこの驚くべき啓示を受けたのが十二使徒でした(6章13節)。ルカ福音書は「その時」使徒たちに与えられた啓示をそのまま書きとどめて、わたしたちに伝えようとしているのです。
 ルカ福音書は、前半の「幸いな人」とその逆の「不幸な人」、すなわち、人に「わざわいを招く」人とをはっきり対照させます。この明暗二つの人間の姿は、金持ちと乞食のラザロの譬えによって見事に描き出されています(16章)。おそらくルカ福音書の「幸い」と「わざわい」の対比には、旧約聖書の申命記(8章)に、主の律法と戒めを守る者は神に祝され、これを守らない者は神に呪われるとあるのが対応しているのでしょう。けれども、今回の神からの祝福は、旧約の「戒め」や「律法」を守ることによって来るのではありません。新約のイエス・キリストにある十字架の赦しと恵みによってもたらされるものだからです。幸いと不幸とのこの鋭い対比は、「世間の知恵」から出たものではありません。パウロが語ったように、「神の知恵」(第一コリント1章21節)から来るのです。同じ日常生活を送っていても、十字架の罪の赦しとその恵みを体験している人の知恵は、イエス様の御霊から来る知恵です(第一コリント1章24節)。
 ルカは、イエス様が「この世」におられた時を<啓示の時>と見ていると言いましたが、これは、ルカ福音書のイエス様語録のほうが、マタイ福音書より一層終末的な色彩を帯びていることを意味します。「今、飢えている人」「今、泣いている人」とルカが「今」を付け加えているのもこのことを表します。一方では、飢えている人、泣いている人、貧しい人たちがいます。もう一方では、そういう貧しさや飢えや泣き叫んでいる人たちを虐げや搾取によって「作り出して」いる者たちがいます。預言者アモスは、民を虐げる北王国イスラエルの貴族や富裕階級の人たちを激しく糾弾しました(アモス5章18節)。イザヤも同じように、当時の南王国ユダの富んで飽き足りている人たちを攻撃しています(イザヤ5章8〜24節)。エレミヤは、当時の南王国ユダにおいて、誤った預言で民を惑わす偽預言者たちを激しく非難しました(エレミヤ14章14〜16節)。イエス様は人をののしることはめったにありませんが、このイエス様でさえ、貧しい者を売る人たち、悲しむ人たちを虐げる者たち、飢えて貧しい人たちの犠牲の上に自分たちの幸せを築こうとする人たちに対して、激しい怒りと呪いを投げつけたのです。ルカ福音書はこのように、虐げられた者と虐げる者とをはっきり対照させ、神の国は貧しい者を立たせると同時に、飽き足りておごり高ぶる者たちを厳しく糾弾すると告げるのです。
 イエス様は、貧しくて泣いている人たち、飢えている群衆に向かって直接にお語りになりました。イエス様が「幸いだ」と言われる人たちは、現実には、今「幸いな」状態にある人たちだとは言えません。むしろ逆の状況にあると言ってもいい。しかし、イエス様の御言葉は決して気休めではありません。「そのうちにいつか未来にいいことがあるだろう」とか、「あの世で幸いになれる」という意味でもありません。ではイエス様は、そういう人たちに向かって「幸いだ」、しかも今のこの時において幸いだと言われたのはなぜでしょう? それは、「イエス様が共におられる」からです。苦しい状態の中にあってもそこに「イエス様がおられる」、ここに救いの根源が宿るのです。イエス様が人々と共に御臨在くださる場、そこにははっきりと神の国が臨在するのです。その時、「今ここで」神の国が始まっている、と人は実感するからです。
■マタイ福音書の山上の教え
 マタイが山上の教えを解釈したその姿勢は、「マタイの現在」に通じています。この意味でわたしたちも、この教えを「わたしたちの現在」に即して読むことが許されるでしょう。マタイにとって、イエス様の教えは、ルカが描いたような時、イエス様がこの世におられた「終末的な啓示の時」ではありません。ルカ福音書は終末に顕れる人間の「状態」を映し出しています。マタイ福音書は、わたしたちが、「天の王国の定め」を実生活に活かして「守り行なう」よう勧めるのです。それは、「命令」と言うよりも、イエス様の十字架の恵みと復活の御霊にあって生きるわたしたちの内に働く「イエス様の霊法」です。イエス様の御霊の促しです。無心にされて、イエス様の御霊に自分をお委ねする時に働く御霊の法です。これがわたしたちをして絶えず「祈り求めさせる」力です。このみ力によって、わたしたちは、イエス様が地上におられた時に示されたあの啓示の時が、再び訪れる終末を目指して、「今の時」を歩むことができるのです。
 ここで語られる教えは、人類が到達することを許された最も深く最も高い「知恵」から発しています。21世紀の現代で、わたしたちが人間として守るべき人類普遍の「霊的憲法」が、今回これを読むわたしたちに委ねられています。神からの使命を帯びた「主の弟子」として、わたしたちは、「神の国」の新しい「法」を人々に語るべく遣わされています。マタイ福音書によれば、これが、弟子の選びに先立って、イエス様がまず教えをお語りになった理由です。では次に、マタイ福音書の聖句の順に従って、ルカ福音書をも併せながら、「幸いな人たち」を見ることにします。
■「幸いな人たち」の行(ゆく)へ
 「(心の)貧しい人たち」、「嘆き悲しむ人たち」、「柔和な人たち」、「義に飢え渇く人たち」、これらの言葉がほんらい意味する内容は注釈で述べましたので、ここで繰り返すのは控えます。イエス様語録の人たち以来、イエス様のこれらの御言葉は、当初すべての信者たちに向けられたもの、すなわちイエス・キリストの<教会全体に>辞義通りあてはまると受け取られたようです。しかし、こういう解釈が時代と共に変容します。
 ヨーロッパ中世では、イエス様の「幸い言葉」は、少数の志(こころざし)ある人たちのグループの間で実践されるようになりました。言わば、「幸いな人たち」の修道院化です。これらのグループは、アッシジのフランチェスコが創設したフランシスコ会(13世紀)のように、教会によって正式に認可されたものもありますが、例えばフランスのワルドー派(12〜13世紀)の人たちのように、異端として迫害された人たちもいました。16世紀以降の宗教改革では、「行ない」より「信仰重視」で、イエス・キリストの罪の贖いの恵みを得て、「心の内面」において「幸いな人」であることが求められるようになったと言えましょう。
 現在では、「幸いな人たち」は、修道院化や内面化を経て、個人個人の霊的な有り様に委ねられ「個人化」しています。そういう個人が相互に交わり(コイノニア)を形成するこで、既成のキリスト教宗団や教団に働きかけたり、さらには、社会的、場合によっては政治的にその活動範囲を広げている人たちがいます。この場合注意したいのは、こういう人たちが、必ずしも特定の教会や宗団に所属するとは限らないことです。言わば「自己の良心」に基づいて行動する人たちですから、これは「幸い言葉」の倫理的普遍化と言うべきでしょう。このために、イエス様の「幸い言葉」が、特定のイデオロギーによる組織的活動家からは、無力な個人活動だとか、安っぽいヒューマニズムだと誤解されたり、批判されたりするようです。
 けれども、聖霊体験を有する人ならだれでも知っているように、今回の「幸い言葉」は、イエス様の御霊を通じて、この地上に「幸いな人たち」を造り出し生み出す力を秘めているのです。そのような聖霊のお働きは、病気癒やしと同じほどに、人の力の及ばない「奇跡」であり、従来の「人間」の有り様を超える「新たな人類」の創造につながるものです。御国に入る人(マタイ5章3節)、御霊から慰めを受ける人(同4節)、地を受け継ぐ柔和な人(5節)、御霊にある義に満たされる人(6節)、神を観る澄んだ心の人(8節)、平和を造り出す神の子たち(9節)、これらの人たちに具わるのが「永遠の命」です(ヨハネ17章3節)。「幸い言葉」とこれが産み出す「幸い」は、人間にとって、これ以上でも以下でもありません。
■貧しいこと
 かつて日本がバブル景気に沸く前には、人々は貧しかった。けれどもあの頃は、何となく希望があり、人々は意欲を持って仕事をしていました。ところが今は、物が豊かになり何でもそろうのに、なんとなく人々に元気がなく、若い人に希望が持てないような状況になっています。どういうわけでしょう。貧しいことが、それだけで不幸とは限らない。豊かなことが、それだけで幸福とも限らない。貧しさは辛いです。でもその貧しさの中に希望があった。さあこれからやっていくんだという気概があった。だから貧しくても幸せだったのです。やる気があったからです。金持ちが恐れること、それは富を失うことです。権力者が恐れること、それは権力を奪われることです。野心家が恐れること、それは競争相手に負けることです。富や権勢や名誉への欲望に駆られて人は動き回ります。けれどもイエス様の御霊に導かれると、そういう野望や欲望の真相が見えてくる。するとだんだんそれらが意味を失うのです。今まで大事に思っていたものが、かえって邪魔になってくる。それで、思い切って捨ててしまおうという気持ちになるのです。すると気持ちが楽になって、身も心も軽くなるから不思議です。
 自分から進んで「貧しく」なる人もいますが、多くの場合そうではなく、何かの弾みで、貧しく「させられて」しまう。ところが、今までは恐れていたことが、いざそのことが起こると、案外平気で、不思議に平静でいられる。こういうことがよくあります。特に、イエス様と共にある時にはそうです。世間の人から「不幸だ」と思われていることが、いざそれが現実になると、御霊にあって逆に「幸い」に転じる。こういう「不幸」という姿に「変装した幸い」「偽装した祝福」があるのです。それは、外から見ると「幸い」や「幸福」という姿に「変装した不幸」があるのとちょうど同じです。人生とは、わたしたちが考えるよりもずっとずっと底が深いです。貧しくて権力者に搾取される時、心はうなだれ気は沈みます。しかし、イエス様にある「幸い」とは、まさにそういう時に訪れます。これは「富んでいる人」には分からない。御霊にある喜びが人の心に宿るのは、まさにそういう時です。そこから力が湧く。命が湧く。死んでも死なない御霊の命とはそういうものです。もう終末的、根元的に、問題は解決している。後はそれが現実するのを祈りつつ待ち望み、待ち望みつつ歩むのです。これが主様にある御霊の問題解決の方法です。
■悲しむこと
 世界には飢えていて、ただ国連の食糧援助だけに頼っている大勢の人たちがいます。そういう状態の人を指して「幸いだ」とは言えません。やる気をなくして日々の生活を国連からの援助だけを当てにしている状態では、貧しいことも飢えていることも「幸い」につながりません。自分たちの力でその厳しい状態を克服しようとする。頭を働かせ体を動かすことで、貧しさを克服しようという意欲を持つ。そういう動機が与えられると、その人々はやる気を起こします。それこそ生きがいというものです。これが幸せにつながります。自分の力で「創り出す」勇気と力です。お情けや同情ではだめです。やる気を起こさせる力、これが本当の人助けのサポートです。貧しいこと、飢えていること、悲しいことは、それだけでいいことではありません。不幸なことです。ではその不幸な人たちがなぜ幸いになるのか? 神の国が来るからです。神の国が来るとなぜ幸いになるのでしょう? 御霊が働くからです。神の御霊が働くと何が起こるのでしょうか? その人たちに「創り出す力」が与えられるからです。問題を解決しようとする、そういう力が与えられるからです。その力は、創造の力です。神の国は力です。しかしこの力は創造的な力ですから暴力ではありません。人はたとえ貧しくても、飢えていても、自分の力で問題を解決しようとクリエイトしていく。そういう御霊の力が与えられることで、その人にとって「幸い」が始まるのです。生きるとはそういうことです。逆にこれを失うことが「不幸」です。またこれを妨げようとする人たちが「わざわい」なのです。
■柔和なこと
「柔和」は「貧しい」とつながり、権力を持たない人たち、あるいは権力によって虐げられる人たちをも意味します。創世記(26章15〜25節)にイサクの話が出ています。昔父アブラハムが掘った井戸をペリシテ人が潰してしまった。イサクがその井戸を掘り返して水が出ると、ペリシテ人はそれは自分たちの井戸だと争いを仕掛けてきた。そこでイサクはまた別に井戸を掘った。するとまたペリシテ人が来て、その井戸のことで敵意を示した。そこでイサクは、「争いの井戸」と「敵意の井戸」を捨てて、もう一つ自分で、「広い自由の井戸」を掘った。すると主の祝福が彼に臨んだとあります。「柔和」とはこういうことです。ただ屈辱に甘んじることではありません。イサクは弱い人ではない。強い人、ほんとうの意味で「神にあって勝ち残る」人です。争い敵意を示した人は消え失せてしまった。しかしイサクのしたことと彼の名は、今でも伝えられています。「柔和な人」は、「おごり高ぶる者」と対照されます(イザヤ14章3〜7節)。「高ぶる者」は長続きせず、神によって「断ち滅ぼされ」ます(ルカ1章51〜53節)。しかし「謙虚な」人たちは、「地を受け継ぐ」のです。「受け継ぐ」とは、ほんらいイスラエル民族が神から約束された土地を与えられることですが、ここでは霊的な意味で、神からの契約によって神の国を受け継ぐことです。それはまた個人が永遠の命を「受け継ぐ」ことにもなります(マルコ10章17節)。しかし今回の「受け継ぐ」には、「謙虚でへりくだった人たち」が、この地上で神の支配する王国が与えられるという意味です。これこそイエス様の父の神からでたことです。弱い者、柔和な者が、最後には地上でも勝利するというのは不思議です。
■義に飢えること
 「義に飢える」のは、圧政や暴力で苦しむ人たちからの神への切実な叫びです。いわゆる「正義感の強い人」という意味とは異なります(これはマタイ5章11節に表れます)。この意味では、マタイの用法は旧約の伝統に近く、それは神の正義が成就されることを要求する終末的預言と重なります(ペトロ第二3章13節)。
  現在、世界では、飢えに苦しむ子供たちを含めて何百万もの人たちが、飢えと悲しみから正義を渇望しています。しかもこのような悲惨な状況が、ほかならぬ社会正義を掲げ革命を唱えて武力闘争を繰り広げる「革命指導者」たちによっても作り出されているのです。為政者も革命家も、自分の権力を拡大するためには同胞を犠牲にして省みないのです。マルクス的な正義観が崩壊し、資本の「暴力」が猛威をふるっている現代において、「義への飢え渇き」が「満たされる」ことを求める声が今ほど切実な時はありません。終末の到来を待ち望む本当の意味がここにも示されているのです(ルカ22章30節)。その意味で今回の御言葉は今の世界に大切な警告を発しています。
 パウロは、イエス様の十字架の恵みに与ることによって、自分の義を立てず主のみ恵みに生きることこそ「神からの義」であると教えました。だからこのような「義」は、人が実行し行動して、その結果与えられる神様からのご褒美としての「正しさ」のことではなく、自分がどこまでも「罪人」であることを認めるところに注がれる憐れみであり恵みなのです。パウロは、人間の行為による「正しさ」を「律法の諸行」と呼んで、「キリストの信仰」と対立させました。この意味からすれば、「義に飢え渇く」とは、イエス様の十字架の憐れみと恵みを切に求めることです。しかしパウロは、キリストの信仰(真実)の結果として、愛と平安の御霊の実を結ぶように勧めるのです。これがパウロにある「キリストの霊法」です。この霊法に生きる人は、期せずして、マタイ福音書の言う「神の義」を人々の間に広げていく器として用いられるでしょう。ちょうどあの奴隷解放令を制定したアメリカの大統領エイブラハム・リンカーンのようにです。
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