【注釈】
 
■イエス様語録(6:20〜23)
 イエス様語録の復元は〔ヘルメネイアQ 46-55〕と〔Dewey and Miller. The Complete Gospel Parallels. 289〕に基づいています。Q(6)の20〜21は、ルカ6章20〜21節からの復元ですが、(6)21の結びの、「悲しんでいる人々は慰められる」はマタイ5章4節から採っています。これをルカ6章21節「泣いている人々は笑う」とする復元もあります〔マックQ〕。これに対して、Q(6)の22〜23はマタイ5章11〜12節からですが、(6)22の終わりの「わたしのために」は、代わりにルカ6章22節の「人の子のために」から採っています。なお、ルカ6章24〜26節は、イエス様語録に含まれていたかどうか疑問があります。ここもイエス様語録に準じると見る版がありますが〔The Complete Gospel Parallels.289-300 〕、以下の版では、これを省いていますので〔ヘルメネイアQ54〜55頁〕〔マックQ73頁〕、今回も省いてあります。
 マタイ福音書もルカ福音書も、マルコ3章8節で語られるイエスの初期のガリラヤ伝道の後に、このイエス様語録にある教えを続けています。どちらのほうも、イエスは、弟子たちに語りながらも、その周りには群衆がいて、イエスの教えを同時に聞くという構成になっています。このことから判断すると、イエス様語録の教えは、福音書では弟子たちに向けられていますが、ほんらいは一般の民衆にも同時に語られたと見るべきでしょう。ただし、イエス様語録で「弟子たちを見て語られた」とあるのは、語録を生みだした人たちが、自分たちのことをイエスの生き方を実践する「イエスの弟子」だと考えていたからです。この教えは、マタイ福音書では山の上で語られ、ルカ福音書では平地で語られます。ちなみにマルコ福音書では、イエスの教えに当たる箇所は、3章7〜19節で、ここでイエスは、弟子たちの船の上から群衆に向かって語ります。語録では、語られた場所は特定されていなかったのでしょう。カファルナウム周辺の丘はなだらかですから、丘の「上」も「中腹」も「平地」もあまり違いがありません。
 イエスの教えは、「幸いだ〜人たちは〜なぜなら〜」という形で語られます。この形は「幸いだ」で始まる詩編1篇の冒頭を想い出させますが、これは智恵文学のスタイルです。イエスが「知恵の御子」であると言われるのは、このような語り方やたとえ話を用いたからです。今回の教えでは、「今貧しく、悲しみ、飢えている」人たちに、「幸い」が約束されています。ところが、申命記28章では、神の祝福と神の呪いとが、はっきり対照されていて、そこでは、祝福された者は飢えることがなく豊かさに恵まれます。旧約聖書では、豊かさは神の祝福だと考えられてきたのです。しかし、捕囚期以後の初期ユダヤ教の頃になると、国の支配階級や特権階級など「豊かな者たち」に「わざわい」と「呪い」の言葉が向けられるようになります。『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)は、前4世紀頃から最後の「エノク諸書」(後1世紀)にいたる長期間にわたって成立した文書です。そこには「わざわいなるかな。きみたち富める者」(94章)で始まり、「暴虐と不法を築き、欺瞞を土台とする」国の指導者たちへの怒りが長々と告げられています。一方「義人たち」は罪人の中傷にさらされても「希望を失うな」と語りかけられるのです(同書103〜104章)。『第一エノク書』でも「知恵」が語られますが、この文書は、むしろ後のヨハネ黙示録につながる黙示思想の系統に属するものです。黙示文学では、このように「今の世」と「来るべき世」との間で、祝福と呪い/幸いと不幸の逆転が生じ、この逆転が「幸いだ〜人たちは〜なぜなら〜」というスタイルで語られるのです(『第一エノク書』58章2節)。
 しかし知恵のスタイルでも黙示のスタイルでも、通常は三人称で語られますが、イエスは、「あなたがた」と(動詞の)二人称で呼びかけています。ですからイエスは、ただ教えを与える教師ではなくて、旧約の預言者たちのように、国の指導者たちと民衆に直接励ましと批判と悔い改めを迫ったのです。イエスの聴衆たちは、それだけ切迫した貧しく苦しい状況の中で、イエスの言葉を聞いたのでしょう。そしてイエスに注がれる御霊を通して「神の国」の臨在を感じ取り、同時に御国の到来を待ち望んだのです。これを受け継いだイエス様語録の人たちも、自分たちを「イエスの弟子」と見なしました。語録の弟子たちの中には、「神と富は両立しない」というイエスの時代のエビオン派の影響を受けた人たちがいたのかもしれません。この人たちもまた、ユダヤ教の指導者たちやファリサイ派から「ののしられ」「迫害され」「あらゆる悪口を浴びせられた」と思われます。
■ルカ福音書の「幸い言葉」
 ルカ福音書のほうがイエス様語録に忠実で、イエスが実際にお語りになったお言葉に近いと思われます。ルカ福音書では、最初にイエスが山の上で十二使徒を選び、それから使徒たちとともに平地へ降りていくと方々から集まってきた「大勢の弟子たちとおびただしい民衆」(6章17節)に囲まれます。そこでイエスが教えを語ります。「弟子たちを見て言われた」とありますが、この情景から見れば、語る相手は使徒と弟子たちだけでなく、多くの民衆にも向けられていたことが分かります。だから教えの最後に「<民衆に>これらの言葉をすべて話し終えられた」(7章1節)とあるのです。まず使徒たち、次いでイエスを信じた人たち、さらに一般の人たちへとイエスの教えは伝えられ広がるのです。中には「ティルスやシドンの海岸地方」からも来た人たちがいますから、異教の人たちも混じっていたのでしょう。イエスはこれらさまざまな人たちに向かって「あなたがた」と呼びかけていますから、そこには実際に、貧しい人も富む人も、飢える人も満腹する人も、泣く人も笑う人もいたのでしょう。とにかくこの教えは、ある特定の人たちだけではなく、ありとあらゆる人たちに向けて、使徒を通して伝えられ、弟子たちの口から語られ、一般の人たちへ波紋のように広がったのです。この教えは教会のクリスチャンだけに向けられていると言う人もいますが、決してそうではありません。
 ルカ福音書を読むときに注意しなければならないのは、ルカにとって、イエスがこの地上におられた時は、メシアの時代が「現実に」地上に到来した特別な「啓示の時」だったことです。だからイエスがそこにおられることは、とりもなおさず、「終末が今地上に来ている」状況だったのです。それだけに、ルカ福音書の教えは、イエスのご臨在という「終末の光」に照らされて、この世の実相が裁かれる有様を呈しています。終末が「今ここにある」という意味では、イエス様語録もルカ福音書も黙示文学の影響を受けながらも黙示思想とは異なっています。
 ルカ福音書によるイエス様語録は、四つの「幸いな人たち」と四つの「不幸な人たち」で成り立っています。前半はイエス様語録そのままですが、後半はもともとイエス様語録にあったのか(とすればマタイはこれを省いたことになります)、それともルカ、あるいは後の教会が加えたのか分かりません。なお、今回の「幸い」と「不幸/わざわい」の対照は、特にイザヤ書が反映していると指摘されています(イザヤ25章8〜9節/40章1〜2節など)。
 ルカは、前半の「幸いな人」とその逆の「不幸な人」、これは「わざわいを招く」(これが原語の意味)状態にある人たちのことですが、このふた種類の人たちをはっきり対照させます。このような幸いと不幸との対比は、ルカ福音書ではここだけではなく、「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される主」をたたえるマリアの賛歌にも(1章46節)、宴会の席で上座を選ぶ人のたとえにも(14章7節以下)、ラザロと富める人との話にも(16章19節以下)、ファリサイ人と税金取りの祈りにも(18章9節以下)表わされています。これはこの世の知恵から出たものではなく、パウロが語ったように、「神の知恵」(第一コリント1章21節)から来るものでしょう。
 今回の箇所では、「幸い」と「不幸」との組み合わせで、「貧しい/富む」、「飢える/満腹する」、「泣く/笑う」、「憎まれる/ほめられる」の四つが語られます。「貧しい/富む」と「憎まれる/ほめられる」は現在形で語られ、これらに挟まれた中の二つは未来形です。しかしルカは、現在の「貧しさ」や「憎まれること」をそのまま肯定していて、終末での逆転に期待をつないでいるのではありません。そうではなく、イエスと共にある時には、すでに御国が現臨していて、終末がその力を発揮していると語るのです。ただし、従来まで信じられてきた社会的通念としての神からの「祝福」と「呪い」が、ここで完全に転倒しているのを知らされます。これがイエスの御国の到来に伴って生起する「価値観の逆転」です。ここには、人が神の裁きの前に立たされる終末が、<すでに現在の中に>含まれて働くのです。ルカの教会には、裕福で社会的にも上のクラスの人たちが大勢いたのではないでしょうか。このために、ここで語られる四つの「幸/不幸」の対照を語ることで、教会が福音のあり方に沿って歩むように、反省と祈りを求めているのでしょう。
〔成立過程について〕ルカ=マタイ福音書の「幸い言葉」の成立過程を資料的に見れば、次のような推定が可能です〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)435〜36頁〕。
(1)イエスは「貧しい者」と「泣く者」と「飢える者」の三者に終末での逆転を告知します。「幸い言葉」の中で、正確に言えば、逆転はこれら三つの場合だけです。
(2)これら三つの幸い言葉がギリシア語に訳されてから、これらは、現在のルカ6章27〜36節(と同30〜49節の一部分)と連結されます。これが平地/山上の教えの基になります。
(3)「幸い言葉」から「愛敵の教え」に移行するために、「迫害」への言葉(ルカ6章22〜23節=マタイ5章11〜12節)が加えられます。
(4)「迫害」を含む四つの「幸い言葉」からルカ福音書に伝わるイエス様語録(QLk)が成立します。
(5)これに「柔和な者」が加わってマタイ福音書に伝わるイエス様語録(QMt)が成立します。
(6)これにさらに三つの「幸い言葉」が加わって現在の八つの幸い言葉が成立します。
(7)マタイとルカはそれぞれに「幸い言葉」を編集しますが、マタイはさらに「義のために迫害された者」(10節)を加えます。
 問題は、ルカ福音書の「貧しい人たち」→「飢えている人たち」→「泣いている人たち」が、マタイ福音書では「貧しい人たち」→「悲しむ人たち」や「(義に)飢えている人たち」のように、2番目と3番目が入れ替わっていることです。これには、いろいろな理由付けが与えられていますが、結局分かりません〔デイヴィス前掲書436頁〕。
 
■ルカ6章
[20]【幸い】「幸い」(ギリシア語「マカリオス」)は、ヘブライ語の「アシュレ」から出ています。「アシュレ」はほんらい「幸せだ!」という叫びからきていることが、創世記30章13節の出産の喜びを表わす「アシェル」で分かります。ヘブライ語で「祝福」を意味する「ベラハー」は古くからある言葉で、この語は神についても用いられます。しかし、「アシュレ」はこれに比べると希で、人間について用いられますから神が「幸い」だとは言いません。「幸い」は特に詩編(26回)と知恵文学に多くでてきます(詩編1篇1節/箴言14章21節/16章20節/29章18節など)。箴言の例を見れば分かるように、「幸い」は単なる日常の「幸せ」を指すだけでなく。神により頼む「幸せ」や貧しい者を思いやる「幸せ」のように霊的な意味を帯びています。捕囚期以後の初期ユダヤ教で「幸い」は祭儀で「告白する/唱える」言葉となり、捕囚からの帰還や神殿への巡礼についても用いられました(詩編65篇5節)。このように「幸い」は人が何かを行うことと結びついた「幸せ」として、「神を畏れる」(詩編112篇1節)「律法を守る」(詩編1篇1節)「神の御心/裁きを守る」幸いとなります〔TDOT(1)446〕。特に神の知恵を歩むことの「幸せ」はシラ書37章24節にでてきます。このような「アシュレ」は、とりわけエジプトの宮廷で教えられる「知恵の幸せ」の影響を受けていると言われ、「幸いだ〜する者は」という文体もそこから出ているのではないかと指摘されています〔TDOT(1)447〕。しかしイスラエルの「幸い」思想は、エジプト以外の国から影響を受けた形跡がありません。「幸い」はクムラン文書にはなく、ラビの文献に現われます。
 新約聖書の「幸い」(マカリオス)は、七十人訳を通じて旧約聖書から受け継がれたものです。「祝福された」(ギリシア語「エウロゲートス」)と同じ意味だとする説もありますが〔TDNT(4)368〕、「マカリオス」が神に用いられることはありませんから、この語は、「神からの祝福を受けた結果として人に与えられる具体的な状態」〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(1)633頁〕というのが正しいでしょう。山上の教えの「幸い」はイスラエルの知恵思想から受け継がれたもので、「神と人間が、契約で結ばれることで創造される恵みの状態を指すもので、主の契約に誠実に従う者に与えられる賜」〔TDOT(1)448〕のことです。
 しかし、旧約の場合と異なるのは、この語が終末における神の国の到来に入る「人の状態」を言い表わしますから、旧約の世俗的な意味から、最高度に霊的な意味を帯びることになります〔TDNT(4)367-68〕。しかもその状態は、来たるべき御国を待望する「信頼」を指すと同時に現在すでにその状態が霊的に実現しているという現実味を帯びるのです。その結果、今回の「幸い」にはこの世的な価値観を逆転させる「聖なる逆説」〔TDOT(4)368〕が生じています。とりわけルカ福音書では、「幸い」が「わざわい」と並列して現われるところに特徴があります。ルカ6章20節の「神の国はあなたがたのもので<ある>」の「ある」には、今の現状の逆転が将来生じるだけでなくすでに現在の人たちにおいて始まっていることを言い表わします。ルカは、ここで1世紀末のルカの教会の共同体の現状をも反映させてこの「幸い」を用いていることに注意しなければなりません〔ボヴォン『ルカ福音書』(1)225頁〕。そこには、「貧しさを分かち合うことで幸いにいたる」神の祝福が含まれているからでしょう(使徒言行録2章44節/同4章32節)。
【貧しい】これは日本語の「貧乏」とは少し意味が違っていて、経済的というよりも社会的な地位や特権に与らない状態を意味します。旧約で「貧しい人」は、神の前にへりくだる敬虔な人を指します。今回のルカ福音書では、「貧しい」が、かつてのイエスの弟子たちの清貧の状態を言い表わすだけでなく、後出の「わざわい」と結んで黙示的な意味を帯びています。それは、(ルカの教会に属していたであろう)比較的富裕な者たちが分かち合いのために進んで所有を献げる「寛大な心」をも指すのです〔ボヴォン『ルカ福音書』(1)224頁〕。したがって、貧富の差は、これを埋めることで得られる「幸い」として、個人の信仰による霊的な深さを測る具体的な基準なのです。ルカ福音書19章に、徴税人の頭で金持ちのザアカイがイエスを迎え入れる話しがあるのもこのことを表わしています。だから、「貧しい」というのは、18章にでてくる徴税人とファリサイ人のたとえのように、謙虚になって神により頼む人と自分自身を義としておごり高ぶる者とを対立させていると見るべきでしょう。自分の内面において、神のみ前にも人の前にも誇るべきものを持たない謙虚な心の中にこそ、神の国が「あなたがたのものとして現に臨在する」(原語)のです。これに対して「富んでいる者」は、すでに心に満足を「現在受領している」状態にあるために、御国を見ることも受け容れることもできないのです。
[21]【飢える】イザヤ書25章6〜7節では、「主の日」に祝宴が開かれることが預言されています。またイザヤ書49章10節では、「その日には」飢えることもないとあり、この預言はヨハネ黙示録の「もはや悲しみも涙もない」(21章4節)へつながります。今回のルカ福音書でも「<今>飢える者」という現在の姿が三人称複数で提示され、それが「あなたがたは、飽き足りるようにされるであろう」と動詞の二人称複数の受動態未来形で語られます。受動態は神の働きによることを指します。
【今】「今」はルカによる挿入ですが、この一語でルカは、現在と将来(終末)とを対照させるだけでなく、「今の苦しみの時」は一時的であって、やがて逆転が生じることを予測させます(ルカ4章21節)。同時に、「今」をめぐる逆転が、現在と終末を挟む歴史において、繰り返されることをも示唆するのです(ルカ1章53節)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)226頁〕。
【泣く/笑う】詩編にはイスラエルの民が捕囚から帰還した時に「わたしの口に笑いがあった」(詩編126篇2節)とあります。このような「笑い」は、圧政に泣く人が解放され自由にされた時の笑いです。「今の世」にある限りは、肉の存在においても霊的な意味でも、サタン的な悪の力から完全に抜け出すことができません。しかし、「主の日」には、これら縛られている人々が、ようやく解放されて、自由になる時が来るのです。
【満たされる】「満たされる」は「満腹させられる」〔塚本訳〕ことで、ほんらいは家畜に餌をたらふく食べさせて太らせることですが、ここではそのような軽蔑した意味ではなく、むしろ、身体的だけなく、霊的にも満たされることを意味します〔プランマー『ルカ福音書』180頁〕。ルカ福音書の教会は、現在においてすでに満たされているだけでなく(ルカ9章17節)、その「満たし」は終末での満たしへの希望につながります(14章15節)。
 飢えや涙は、人が地上にある限り最終的に解決することはありません。御国が完全に成就するのは終末においてなのです。「主の日」には、預言者の預言どおりに「飽き足り」「笑う」のです。しかし、神の国は、すでに「今日実現した」とイエスが語るように(ルカ4章18節以下)、御国の到来はすでに始まっています。イエスの御霊の御臨在は、終末の希望へ人を導くだけでなく、終末へ向けてすでにその働きを始めていて、御国の新たな創造による実現へと歩み続けているのです。
[22]【憎まれる】イエスの霊的な価値観は、既成の社会的通念や「この世的な」賢さを根底から覆す力を秘めているために受ける強い憎悪のことです(ルカ12章10〜12節/特にヨハネ15章18〜25節を参照)。「人の子のゆえに」は、語法的には「追い出される」以下にかかりますが、内容的に見れば、「憎まれる」理由もこれに当たることが分かります。だから、「人々」が「人の子」のゆえに「あなたがた」を憎み、「あなたがた」を排除し汚名を着せることです。「人々」はルカによる編集です。イエスの頃のユダヤ社会よりもさらに一般的にヘレニズム世界をも指すのでしょう。「人の子のゆえに」もルカによる編集で、ルカの頃の「人の子」には、終末に世界を裁くために顕現する「人の子」の意味もありますが、今回はそうではなく、地上での「人の子」イエス(間接的に「自分」を指す)を指すのでしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(1)635頁〕。
【追い出される】「追放する/排除する」とは社会的な交わりから断たれることで、イエスの頃のユダヤ教では、通常30日の間、だれからも四キュピト(約1メートル80センチ)以上離れていなければならないとされていました〔プランマー『ルカ福音書』181頁〕。ヨハネ福音書では、ユダヤ人の指導層が、イエスを「キリスト」と告白する者を「会堂から追放する」(ヨハネ9章22節/同12章42節)とありますが、これは自分の家族を含むユダヤ社会との交わりから半永久的に断たれることですから、最も厳しい処罰です。今回の箇所もおそらくこれに近い意味でしょう。ただしこのことは、当人が犯罪などの悪事を働いたためではなく、「人の子のために」受けるいわれのないののしりであり排斥のことです(第一ペトロ4章15節)。
【汚名を着せる】原文は「あなたがたの名前を悪者として投げつける」です。イエス在世当時から、イエスを悪し様にののしる者がいましたが(ルカ7章34節)、イエス復活以後の「弟子」たちが、北シリアのアンティオキアで「クリスティアノス」(キリスト狂い)と呼ばれたのはよく知られています(使徒言行録11章26節)。しかしこの「汚名」は後には名誉に変じました。パウロも「疫病神」と言われています(使徒言行録24章5節)。近代以降では、徳川幕府の迫害時代の「キリシタン」が、現代ではナチス政権下の「ユダヤ人」が(今回とは異なる逆説的な意味で)この汚名にあたるでしょう。
[23]【喜び踊れ】マタイ福音書と異なるこの語はルカ福音書独自です(1章41節)。「義人」が迫害される例は、旧約聖書に数々あります(列王記上19章1〜4節/エレミヤ26章20〜24節)。また迫害が義人への試練であり、試練がその人を「精錬する」ともあります(詩編105篇19節)。主のために迫害される者には「永遠の命」の報いが約束されています(第二マカバイ記7章9節)。しかし、今回のように「迫害を喜ぶ」という言葉は、旧約には見あたらないようで、新約聖書独自です(第一ペトロ4章12〜16節)。しかも今回は、「その日には」がルカによって追加されていますから、これは21節の「今」と対応して、現在すでにその喜びが迫害される者に来ていることを指します〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(1)635頁〕〔ボヴォン『ルカ福音書』(1)227頁〕。義の人たちが、迫害されているその最中にあって、なおも御霊にある喜びが「現臨する」と現在形で語られるのです。この不思議な「御霊にある喜び」は、パウロも「喜び、喜べ」(フィリピ2章17〜18節)と語っています。これは、救済史において、キリスト者への迫害それ自体が救済をもたらす働きをするという見方から来ているのでしょうか〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(1)635頁〕。
【天には大きな報い】永遠の命が与えられる者の名前が「天の書」に記されているとありますが(ヨハネ黙示録3章5節)、このことだけを指すのではないでしょう。22節の「もしも〜ということが起こったならば」は、迫害に耐えることがなんらかの「報い」を伴うと解釈できますが、こういう「御利益」を貶める見方があります。しかし、新約聖書は、迫害を耐え忍ぶことへの「神からの報い」をはっきり約束するのです(ヨハネ黙示録1〜3章の七つの教会への約束を参照)。
【この人々の先祖も】イエス様語録では迫害される人たちが、預言者たちと同じに見なされていますが、ルカ福音書では、迫害する側の人たちが、かれらの先祖と同様だと見られています。おそらくルカの頃には、キリスト教徒を迫害するのは、もはやパレスチナのユダヤ人やファリサイ派ではなく、ヘレニズムの一般の「異教徒」の人たちであったからでしょう。
[24]以下に後半(24〜26節)の私訳をあげておきます(「笑っている人々」に続く「あなたがた」は異読から)。以下にあげられている4種類の「わざわいな」者たちは、20〜23節の4種類の「幸いな」人たちと対応しています。ただし、以下の者たちは、イエスとイエスに続く原初教会とは無縁の人たちですから、その時代の状況にあてはまりますが、ルカの時代の教会の状況は異なっていて、教会の中にも裕福な人たち、地位ある人たちがいました。それにもかかわらずと言うべきか、それゆえにと言うべきか、ルカはイエスとその時代の教えを忠実に伝えています。ただし、以下の部分にはルカだけの言い方がありますから、これらはイエス様語録に含まれてはいなかったと思われます。
 
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
   慰めをすでに受けているのだから。
25今満腹している人々、あなたがたは不幸である、
  飢えるようになるのだから。
今笑っている人々、あなたがたは不幸である、
  悲しみ泣くようになるのだから。
26すべての人々があなたがたをよく言うときは、不幸である。
  偽預言者たちにも彼らの先祖は同じことを行なったのだから。
 
【不幸である】原語「ウーアイ」は、古典ギリシア語には希ですから、ヘブライ語あるいはラテン語から出ていると考えられます。「あなたがたはわざわいだ」とあるので、これは「あなたがたに、わざわいあれ!」のように呪いの言葉と受け取ることもできそうですが(『第一エノク書』95〜96章ではこの語は呪いに近い)、そうではなくラテン語「ヴァエ!」(ああ、何と!)のように人の不幸を嘆く言葉です〔ボヴォン『ルカ福音書』(1)225頁〕。ここでは、20節の「幸いだ」に対応しているのは明らかですから。なお、24〜26節の「わざわい」には、イザヤ書が反映していると指摘されています。特に第三イザヤ65章11〜16節には、新しい天地創造に先立って、「主とその聖なる山」を捨てて背信に陥ったイスラエルの民に対する「わざわい」が告げられています(さらにイザヤ25章7〜9節)。
【慰めを受ける】「慰め」(原語「パラクレーシス」)は、ルカ福音書だけですが(ルカ2章25節)、ヨハネ福音書では、これと同類語「パラクレートス」が「助け主/慰め励ます方」として復活後のイエスの臨在を顕わす聖霊への呼び名として用いられています。言うまでもなく、今回の「慰め」は人がその所有に満足しきって居る状態のことで、「それ以上何も残らない」だけでなく、地獄での不幸をも示唆します(ルカ16章25節)。「受ける」はビジネス用語で、すでに受け取った「領収済み」の意味です。
[25]【満腹する】ほしい物すべてに囲まれている状態のことです。
【笑う者】現在の自分の繁栄に満足して「笑う」だけでなく、これには、復讐を遂げて笑うこと、悪事によってほくそ笑むことなども含まれるのでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(1)226頁〕。知恵文学では「笑う愚か者」がでてきます(シラ書21章20節/同27章13節)。その笑いは、霊的な喜びを失う悲しみと引き替えです(イザヤ64章14節)〔プランマー『ルカ福音書』183頁〕。なお「泣き悲しむ」は大事な人を失った場合に用いられる言い方ですが(サムエル記下19章2節/マルコ16章10節)、ここでは自己の大事な「霊の命」のことでしょうか(マルコ8章36節)。
[26]【すべての人】人からのいかなる賞賛も有害無益だという意味ではなく、「すべての/いろいろな」人たちからの一致した褒め言葉を指します。これは多くの場合、偽預言者が喜びかつ彼らを喜ばす欺瞞にすぎないからです(イザヤ30章9〜10節/エレミヤ5章30〜31節/同6章14節/同23章16〜17節)。「ほめる」については、ユダヤ教の指導者たちが「互いにほめ合う」様子が、ヨハネ福音書(5章41〜42節)にでています。
【偽預言者】使徒言行録(8章18〜24節)には偽預言者としてシモンが、また同13章7〜11節にはバル・イエスがでていますが、どちらも、「魔術師」と呼ばれています。これに対して今回の「偽預言者」は性質が異なっていて、むしろ旧約の預言者に逆らった偽預言者に近いでしょう。
■マタイ福音書の山上の教え
 マタイがイエスの語る場所を「山の上」に設定したのは、マルコ3章13節で、イエスが「山の上で」十二弟子を任命したところから来ていると思われます。マタイ福音書でもルカ福音書でも、イエスの「幸い言葉」に始まる教えに先立って、シモン(ペトロ)とアンデレとヤコブとヨハネの召命記事がきますが、十二使徒の「伝道派遣」は、教えのしばらく後になります。ただし、ルカ福音書では、使徒の選びだけが教えの先になり、マタイ福音書では選びも派遣も教えの後になります。なお、マタイ(レビ)自身の召命は、ルカ福音書では教えに先立ちますが、マタイ福音書では教えの後になります(ただしこの使徒がマタイ福音書の著者ではありません)。ちなみにマルコ福音書では、イエスは大勢の群衆を見て、ガリラヤの湖の畔で小舟に乗って、その上から教えます。その後、山上で十二使徒を選びます(マルコ3章7〜19節)。
 マタイの教会は北シリアにあり、ユダヤ人キリスト教徒が多数を占めていて、マタイ福音書の著者もユダヤ人キリスト教徒であったと考えられます。マタイ福音書が書かれたのは、イエスの十字架から少なくとも50年は経っていましたから、マタイの教会は、もはや「ユダヤ教の一派」と見なされるよりも、キリスト教会として独自の有り様を示すように要請されていました。このため、マタイの教会は、エルサレム滅亡以後も続いていたファリサイ派ユダヤ教徒たちと対立関係に立たされたと思われます。マタイは、キリスト教会としての自分たちの姿を語るために、「現在の自分たちの状況」の中からイエスの教えを読み取って証ししなければならなかったからです。ルカもマタイ同様にヘレニズム世界での福音の証しを迫られていましたが、彼はイエス様語録など伝えられた資料を忠実に受け継ごうとしました。しかし、マタイは、イエス様語録をそのまま用いることをせず、イスラエルの伝統的な様式に従って、山上の教えを編集しています。
 マタイは、イスラエルの知恵文学の伝統的な様式を用いて、イエスの様々な教えを統合し、「主の祈り」を中心に、マタイ5章〜7章を構成し直しました。それはマタイが、ルカと同じようにイエス様語録に基づきながらも、「自分たちの現実」(これを「生活の視座」と言います)に即してイエスの言葉を解釈し、ユダヤ教ではなく、イエスの伝えた新しい御国の「キリストの霊法」を内外にはっきり示すためです。
 マタイは、かつてパウロが伝えた信仰による「神の国」と「神の義」を「天の王国の義」としてとらえ直しています。パウロは、旧約の律法観をキリストの御霊にある「福音」にそうよう解釈し直しています。このためパウロは、律法に基づきながらも、人間の側の「律法の諸行」を、神からの聖霊にある「キリストの信仰」と対立させる傾向があります。彼にとって、キリスト者が、キリストにある罪の赦しとキリストの御霊を宿す者となることが何よりも大事だったからです(例えばガラテヤ5章1〜6節を参照)。パウロは、従来の律法をキリストの御霊にある「命の霊法」(ローマ8章1節/第一コリント9章21節)としてとらえ直しましたが、マタイは、パウロの「命の霊法」を新約における新しい「キリストの律法」として位置づけたと言えましょう。その上でマタイは、新約のこの「キリストの律法」こそが、旧約の律法が指し示す「目標」であり、イエス・キリストの到来によって、旧約の律法がより完全な姿に「成就された」と見なしたのです。だから、マタイ福音書の「山上の教え」は、旧約の律法を完全な形で「成就するために」イエスによって啓示された究極の「御霊の法」なのです。天から啓示されたこの霊法は、モーセ律法同様に、山上でイエスによって啓示され、弟子たちを中心とした「新しいイスラエルの民」に告知されるのです。この「律法」は、天の父なる神が、救い主イエス・キリストの御霊を通じて、全世界のすべての民に与える「神の御霊の法」なのです(マタイ28章20節)。
■マタイ5章
 マタイの「幸い言葉」は、3節〜6節でイエス様語録とルカ福音書に並行します。この部分は、ギリシア語の「パイ」で始まる語が繰り返される頭韻形式で統一されていて、しかもイエス様語録を踏まえている点でも、7節〜10節から区切られています。したがって、後半の7〜10節はマタイの教会から出たと思われますから、この部分は次回にまわすことにします。
 さらにマタイの「幸い言葉」で注目したいのは、七十人訳イザヤ書61章とマタイ福音書の「幸い言葉」との用語(ギリシア語)の共通性です。イザヤ書61章には、「貧しい」(ヘブライ語の原義から「柔和」とも訳されている)(イザヤ61章1節)、「福音を伝える」(マタイ福音書の「天の国」ルカ福音書の「神の国」に相当する)(イザヤ61章1節)、「悲しむ者たち」「慰める」(同2節)、「地を受け継ぐ」(同7節)などの共通語があります。特に「義」は、「義の世代」(3節)「義を愛する方」(8節)「義を芽生えさせる」(11節)とあり、「諸民族の前で喜び踊る」(11節)などのギリシア語もマタイ福音書と共通します。イザヤ書のこの箇所はルカ4章16節以下とも重なりますから、「幸い言葉」とイザヤ書61章との結びつきは、旧約の預言を重視したイエスにさかのぼるでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)437〜38頁〕。
[3]【心の貧しい人々】これはイザヤ書61章1節(七十人訳)からで、「貧しい」のギリシア語は字義通りには「貧乏」の意味です。しかし、ヘブライ語では、富裕層や権力者に圧迫された人たちを指す場合が多いのです(詩編9篇13節)。ヘブライ語の「骨」が人間の「霊」の宿るところを意味するように、ヘブライ語は、精神的・内面的な内容を具体的な姿で描くことがよくあります。このためここの「貧しい」にも、比喩的(隠喩的)な意味が含まれますから、経済的に貧乏であるだけでなく、「虐げられた者」、「へりくだった者」、「悔い崩れた者」をも意味します。ヘブライ語の「貧しい者」はさらに転じて、神により頼まざるをえない人たち、すなわち「敬虔で信仰深い」人たちを指す用語になりました。マタイはこの点を意識して、ギリシア語の「貧しい」だけでは誤解を招くと考えたのでしょう、「心の」が「貧しい」に加えられています。「心の」の原語は「霊において」です。「霊において貧しい」という表現は、クムラン文書の「感謝の詩篇」(14の3)にもでてきて、清貧を尊ぶ信仰深い人たちを意味します。マタイ福音書の「霊」は、その人自身の霊性を指しますから、これを「聖霊」と同一視することはできません。しかし、「霊において貧しくなる」ことは、人間の力でできることではなく、イエスの御霊の働きによって初めて実現されることです。「幸いである」も天の国がその人たちの「ものである」も現在形ですが、これは、すでに到来しつつありながらも、人を終末へ向かわせる御霊の働きを表わすからです。
【幸いである】ここでの「幸い」は神から与えられる救いに関係しますから英語の happy(幸せ)よりもblessed(祝福された)の意味に近いでしょう。詩篇1篇も「幸いだ」で始まりますが、この詩篇で「祝福される」のは、悪を行なわない人で、樹木のようにじっと立って動かない人のことです。だから必ずしも行動的で有能な人のことではありません。キリストの霊法は、人間が自分で動き回ることによって達成できるものではなく、御国の喜びは、むしろ空の鳥、野の花のように、御霊にある無心の境地に見いだされるのです。
【天の国】マタイ福音書では「天の国」で、ルカ福音書では「神の国」です。両者の意味に違いはありません。「彼らのもので<ある>」は現在形で、イエスによって御国が今臨在していることを表わします。
[4]【悲しむ人々】ルカ福音書では「泣き叫ぶ」人たちで、おそらくこのほうが原義に近いでしょう。そこには社会的・政治的・軍事的な状況が引き起こす悲しみだけでなく、個人の悼みまで、あらゆる悲しみが含まれます。マタイ福音書のほうは、イザヤ書61章(2〜3節)にある「シオンのゆえに嘆く」人々の姿が重なっています。おそらくイエスにとって、最も大きな悲しみの一つは、滅亡を控えてなおこれを悟らない「エルサレムの罪」に対する悲しみだったでしょう(ルカ13章33〜34節も参照)。それだけに、マタイ福音書の「悲しむ」には、霊的な悲しみ、さらには「聖霊の悲しみ」が響いています。
【慰められる】「慰める」は、聖霊の働きを意味する原語「パラカレオー」と同じで、ここでは未来形です。ルカ福音書では「笑う」という具体的な姿で語られます(実際に聖霊に満たされると笑う場合があります)。ですからマタイ福音書とルカ福音書で内容は変わりません。悲しみから逃げるのではなく、悲しみを引き受けて、主のみ前に置くところに、御霊の「慰め」が降るのではないでしょうか。
[5]【柔和な人たち】この節はイエス様語録にありません。ヘブライ語「アーナー」は、「頭を押さえられる」「虐げられる」「へりくだり謙虚になる」を意味する動詞です。ここから「アーナー」には、「虐げられて貧しい」と「柔和で謙虚な」の両方の意味が出てきます。これは権力者や富める者たちに比べて「無力な人たち」の意味です。「踏みつけられてじっと我慢している人たち」〔塚本訳〕。したがって、「柔和」はヘブライ語では「貧しい」とつながり、権力を持たない人たち、あるいは権力によって虐げられる人たちを意味します。ただし、このような社会的意味だけではく、「柔和な」とは、「たかぶらない・おだやかで優しく素直な」の意味で、「おごり高ぶる者」と対照されます(イザヤ14章3〜7節)。だからイサクのように、争いを避ける穏やかな生き方をも指すのでしょう(創世記26章15節以下)。
 2世紀頃までは、現在の4節と5節とが入れ替わり、「貧しい人は天国に入る」と「柔和な人は地を受け継ぐ」(詩編37章11節)とが並ぶ読み方がありました。これだと同じ人たちが、天国と地上との両方において祝福されることが分かります。もっとも、3節と5節の並列関係から見て、5節の「地を受け継ぐ」も結局は霊的な意味で「天の国」と同じことを指すという解釈もあります。永遠の世界が地上の世界と同じか異なるかを比較対照することはできません。比較したり対照させたりできるなら、それは相対的なものであって、永遠でも絶対でもないからです。だから、イエスの王国は、この地上の相続をも包摂しながら霊的な御国を指し示しているのです。御国の絶対性は、地上の相対的な世界と対立するものではありません。
【地を受け継ぐ】「高ぶる者」は長続きせず、神によって「断ち滅ぼされ」ます(ルカ1章51〜53節)。しかし「謙虚な」人たちは、「地を受け継ぐ」のです。「受け継ぐ」とは、本来イスラエル民族に対して、神が土地(国)を約束する言葉です。しかし、イエスの啓示する御国は、イスラエルの国土取得とこれの保全という意味から霊的な意味に転じていて、神からイエスを通じて注がれる御霊によって神の王国を受け継ぐことを指します。とは言え、メシアは「地の果てまでも支配する」と約束されていますから、「謙虚でへりくだった人たち」には、神の支配する王国が「この地上で」与えられるという意味もこめられていて、このことが、終末的な契約の成就につながるのです。ここには、弱い者、柔和な者が、「個人として」永遠の命を「受け継ぐ」ことをも意味しますが、こういう人が最後には地上でも勝利するというのは不思議です。
[6]【義に飢え渇く】ここはマタイの追加です。ルカは「貧しく」「飢えて」「泣いている」人たちが、慰められ涙をぬぐわれ、食べて満足して飽き足りて笑う時が来ると率直に伝えています。そこに命令的な響きはありません。「義」とは、ほんらい神によって契約の民に命じられた行為を指し、特に為政者たちの民への公正と正義、貧しい人への施しを意味します。したがって、「義を求める」のは、圧政や暴力で苦しむ人たちからの神への切実な叫びをも指すのです(詩編146篇5〜9節)。この意味でマタイがここで「義に渇く」を加えたのは旧約の伝統から来ていると言えます。しかし、人が義とされるのは神によるのですから、神の側からの「憐れみと恵み」を切に求めることが含まれます。マタイ福音書で「まず神の国と神の義を求めなさい」とあるのもこの意味です。イエスの十字架によって罪赦されイエスの御霊を宿すことが「神の義」ですから、マタイはここで、「イエス自身を求める」ことを指しているとも言えます。「義」とは、わたしたちの単なる「心の有り様」ではありません。山上の教え全体を通して読み取れる「義」とは「イエスご自身」のことなのです。キリストの御霊こそ、イエス・キリストその方を証しするからです。
【満たされる】「満足する」「飢えた人がお腹いっぱい食べる」ことで、未来形です。詩編107篇9節には、「主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださった」とありますから、ここでは、肉体的な満足ではなく、霊的な満たしを指しているとも解釈できます。マタイは、貧しく食べ物がない人たちのために「正義と公正」を行なうことを為政者たちに求めているのでしょうか? あるいはこの世の権力に絶望して、「義」をひたすら神に求めるように集会の人たちに説いているのでしょうか? それとも、肉体的なことには関心がなく、ひたすら「霊的な満たし」を求めるように勧めているのでしょうか? 「この世のこと」に無関心だとすれば、それは、「天地が崩れ去った後に」神の正義が成就される終末的預言と重なります(第二ペトロ3章13節)。
 イエスが、十字架の贖いによって成就した大きな賜の一つが「罪の赦し」とそこに降る神の「恵み」です。パウロは、人がこのようにして「神に受け入れられる」ことを「神の義」と呼びました。特に、宗教改革以後には、「神からの恵みとして与えられる信仰による義」が強調されるようになりました。いったい、マタイがここで言う「義に飢え渇く」ことと、パウロ的な「神の義」とは、どのように結びつくのか、これが問われてきます。パウロが言う「キリストの霊法」は、人の心に「神の義」が、聖霊と共に注がれることで始めて成り立ちます。「満たされる」というのは、このような状態を指すのでしょう。それは個人個人の内面に生じることですが、「聖霊の働き」は、必然的に「共同体的」であり、御霊は交わりの形成を創り出す働きをします。イエスと共にあるところに注がれる御霊の働きは、一人一人に罪の赦しをもたらすと同時に、「神の義」を人々の間に実現させようと導く本当の力となることをここで確認する必要があります。
 
■参照『トマス福音書』
(54)イエスが言った。「あなたがた貧しい人たちは、幸いである。天国はあなたがたのものだから」
(68)イエスが言った。「(1)あなたがたが憎まれ、迫害されるならば、あなたがたは幸いである。(2)そしてあなたがたが迫害された場は見出されないであろう」
(69)イエスが言った。「(1)心の中で迫害された人たちは、幸いである。彼らは父を真実に知った人たちである。(2)飢えている人たちは、幸いである。欲する者の腹は満たされるであろう」
 『トマス福音書』の中のこれら三つは、直接イエス様語録から出たものではなく、むしろイエスの語った内容が口頭で伝えられ、その過程で変容したと考えられます。注意したいのは、『トマス福音書』では、二人称の語りかけ(54)と(68)と、三人称での語りかけ(69)とが混在している点です。これは、ルカ福音書の二人称とマタイ福音書の三人称のどちらをも含んでいるからです〔デイヴィス前掲書441〜42頁〕。内容については次のように言えるでしょうか。
(54)の「天国」は、『トマス福音書』の堕落した悪い宇宙とその半~(デミウールゴス)の考え方に合わないと思われますから、これはほんらいの伝承をそのまま残しています。『トマス福音書』で言う「貧しい者」とはグノーシス的な意味ですから、この世を捨てきった単独者のことです。
(68)『トマス福音書』はグノーシス的であるにもかかわらず迫害されたことを伝えていますから、グノーシス主義は迫害されなかったという通念は誤りです。真の「知識」(グノーシス)に目覚めた者にはもはや苦しみも悩みもないことを言おうとしているのでしょうか。
(69)「心の中」とあるのはマタイ福音書の「霊において(貧しい)」と関係しているのかもしれません。またマタイ福音書の「神を観る」が『トマス福音書』では「父を知る」とあって、「神」を避けて「父」と呼び、「見る」を「知る」に変えています。どちらもグノーシス的な傾向を表わします〔荒井献『トマスによる福音書』205〜6頁/230〜32頁〕。
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