159章 らくだと針の穴
マルコ10章23〜31節/マタイ19章23〜30節/ルカ18章24〜30節
【聖句】
■マルコ10章
23イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
30今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
31しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
 
■マタイ19章
23イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。
24重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
25弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。
26イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
27すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」
28イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
29わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
 
■ルカ18章
24イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
26これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、
27イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
28するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。
29イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、
30この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
【注釈】
【講話】
■「今この世で」の報い
 前回も触れたとおり、初期のキリスト教では、「すべてを売り払う」イエス様の教えが辞義通りに受け取られて、その通りに実行する人たちが出ました。今回の箇所にも「辞義通り」受け取るべきか、そうではないかが問題になる箇所があります。それは、「家、兄弟、姉妹」などを捨てるならばが「今この世で」その100倍を受けるとあることです(マルコ10章29〜30節)。注釈に記した通り、現在では、ルカ=マルコ福音書のこの御言葉は、辞義通りではなく、比喩的に解釈されて、「兄弟姉妹」とは教会、すなわちエクレシアにおける霊的な人間関係のことだとされているようです。共観福音書では、マタイ福音書がすでにこういう解釈に向かう傾向を示しています。
 私は、入信した頃から、旧約聖書からのさまざまなな引用を用いて、「金は我が物、銀も我が物」と主が言われるから、主に仕えるなら、金銀もまた主から与えられると教えられたのを覚えています。現在ではおそらくこういう信仰は、病気癒やしの霊能信仰と同じように「御利益宗教」だと決めつけられるかもしれません。しかし、これも我が家の体験的な信仰ですが、イエス様のために金銭的に奉仕をした場合には、それが不思議な形で「戻って来る」こと、それも「幾倍にも」なって戻って来ることをしばしば体験させられたのです。だから、様々な誤解や誤用に曝されることを覚悟して言えば、「献金と伝道活動は生活費の保証」という言葉は、多くのクリスチャンたちによる実践の体験から生まれた真実だと思うのです。ただし、イエス様からナインのやもめに与えられたよみがえりの息子も、ベタニアの姉妹に与えられたよみがえったラザロも、以前とは異なる全く新たな霊的な意義を帯びていることを忘れてはならないでしょう。主のために捨てたものが、100倍にもなって戻るとは、死んだからだが、御霊によって新たに用いられることと同じなのです(ローマ6章12〜13節/第一コリント6章19〜20節)。
 こういう考え方は、わたしが「霊」という言葉を、「身体」から区別された「精神」としてではなく、心身共に共通することとして用いているからです。「霊性」と言い「霊的」と言うのも、物質的な物、身体的な領域をも含む意味を帯びるものとして解釈するからです。パウロが「霊の体」と「肉の体」を対比し対照する場合に、この世では「肉の体」で、召された天においては「霊の体」のように、「この世」と「あの世」を明確に区別するのではなく、すでに「この世」で、肉の体が霊の体を「まとっている」ことだと考えるのです。
■霊的な個人
 新約聖書が伝える「永遠の命」は、「この世に」いるわたしたち一人一人の「個人」において、すでに始まっています。御霊が個人の人格的な霊性を通じて「この世」において働くのは、その人を通じて主様の御臨在と御栄光が世の人々に証しされるためです。イエス様の伝えた神の国は「すでに始まっている」。このことを伝え、世の人々に分からせることが大事です。御霊の御臨在は、わたしたち個人個人を通して証しされますから、わたし「個人」とは何か? ということが、当然ここで問題になるでしょう。
 マタイ福音書はマルコ福音書のリストを手直しして、「家」と「畑」、すなわち個人所有の最も基本となる不動産を両側に配置し、その間に、父母、妻子、兄弟、姉妹という個人の最も身近な人間関係を挟み込んでいます。このことは、この世、この時代の「個人」は、自分の最も身近な人間関係とこれを成り立たせる最も基本的な所有というこれらの総合から「自己」が成り立っていると見ているからです。「人間」とは「人と人との間」にあって初めて成り立つこと、自分を取り巻く人間関係とそれらを成り立たせる所有、「わたし」と言う個人は、こういうものから成り立っていることを教えてくれます。
 だから、この世にある「わたし」という個人において、神の御国がすでに来ていて、わたしたち個人個人を通して、イエス様の御霊の御臨在が、この世において働くことを今回の御言葉から確認することがとても大事なのです。主様の御霊は、わたしたちのこういう「個人的霊性」を通じて、その存在を「今のこの世」にいる人たち働きかけ証しするからです。
■持つ者は持たぬように
 「人にはできないことも、神にはできる。」ルカ福音書は、今回のイエス様の御言葉をこのように簡潔にまとめました。ではいったい、「人にはナニガできなくて、神にはナニガできる」のでしょう? 今お話ししたように、人は周囲の人間関係と所有関係で成り立っていますから、そこには当然、愛憎があり、名誉あり恥あり、損得があります。人の心の想いは、これら人間関係への執着から離れて「自由になる」ことがとても難しいのです。禅宗のお坊さんのように、長年の座禅修行によっても、なかなか無心の境地にいたるのは難しい。「らくだが針の穴を通る」ほど難しい。
 京都にある妙心寺の退蔵院には、瓢鮎図が伝えられていて、そこには大きなナマズが細い首の瓶の中に入っています。さてこんな大きなナマズをどうやってこんな細い瓶の口から容れることができたのか? またどうすれは、このナマズをして、瓶の中から出てくるように仕向けることができるのか?こんなとほうもないことが、おそらく禅の公案として提起されたのだと伝えられています。これに対する答えが、その図に幾つも書かれていて、まさに禅問答としか云いようがない奇妙な答えが並んでいます。これも人がその「我」という執着からなかなか逃れることができないことを、まさに「らくだが針の穴を通る」よりも難しいことを教えているのでしょう。欧米の聖書注解では、イエス様のこの「たとえ」が、いかにも「奇妙・奇怪」だとありますが、東洋では、このようなたとえでしか、我欲を離れる難しさを語ることができないことを昔から知っていたのです。
 だから、「人にはできないが神にはできること」とは、瓶に閉じ込められた「自我」という大ナマズが、どうやって瓶から出ることができるかという難問と同じで、イエス様は、このことを「らくだと針の穴」でたとえたのです。的確な手法です。
 所有から自由になるとは、所有しないことではなく、「所有に所有されない」ことでしょう。「所有しないように所有する」こと「買う者は持たぬように生活する」ことでしょう(第一コリント7章29〜31節)。主のため、福音のために、自己の所有一切を「捨てきる」とは、これによって、自分自身が「所有物に所有される」ことから解放されて、自己の所有を「自由に」活用できること、これが、聖職者と一般の信徒に等しくあてはまる原理であるというのが、現在のカトリックとプロテスタントを問わず、今回の箇所について与えられている解釈です〔ルツ『マタイ福音書』(3)169〜170頁〕。
 「できなくても」いいのです。「できる」と想わなくてもいいのです。黙って主様にお従いする。ただそれだけでいいのです。後は、主様がやってくださる。「信じる」とは「従う」こと、ただ「ついていく」ことです。後は主におゆだねするだけです。"All things are possible. Only believe." です。
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