【注釈】
■マルコ10章
[23]【見回して】イエスは弟子たちの受けた大きなショックを見抜いて、自分のほうから彼らに語りかけたのです(3章5節/3章34節)。
【財産のある者】「財産を持つ」(22節)も「財産がある者」(23節)も「金持ち」(25節)も言い方は少しずつ違いますが、意味は変わりません。ここでは、イエスのグループに加わらなかったかどうかではなく、そもそも「裕福な者」全般が、神の国に入るのは困難だと言うのです。
[24]【子たち】親しみをこめた呼びかけです(2章5節)。しかし、イエスは「さらに言葉を続けて」弟子たちの驚きを和らげるどころかさらに驚くような言葉を発するのです。「神の国に入る」の前に「財産を頼みとする者たちが」を挿入する異読がありますが、これは直前のイエスの言葉をすべての人に一般化しないよう限定するためです〔新約原典テキスト批評106頁〕。24節はマルコ福音書だけで、このためイエスの言葉が23節と二重になって強く響きます。これはマルコの手法でしょう。このため、マタイ=ルカ福音書ではこの節が省かれています。
[25]【らくだが針の穴を】絶対に不可能なことを言うためのパレスチナの諺です。後のユダヤ教の「タルムード」には「象が針の穴を通る」たとえがでています。これに類する表現は知恵文学の伝統から来ていて、シラ書(前190年頃)にも「砂や塩や鉄の塊の方が、物分かりの悪い者よりも、担いやすい」(同22章15節)とあります。なおマタイ=マルコ福音書では「縫い針」と「目/穴」ですが、ルカ福音書では「針」と「穴」です。
 25節には「金持ちが」とありますから、このたとえは24節のように一般化されてはいません。しかし、ここで語られる不可能性を和らげるために(?)、「らくだ」を「ロープ」と読み替えたり、あるいはこの諺を都市の大小二つの城門にあてはめて、らくだは大きな門からしか入れないが、人は脇の狭い門からも入ることができることと関連づけ、金持ちも、らくだを降りて(?)謙虚になることで狭いほうの門を通ることができるという解釈があります。19世紀には、今回の諺にこの解釈が適用されることが多かったようです。しかしこういう解釈をこの諺から読み取ることはできません〔フランス『マルコ福音書』405頁〕。
[26]先に出て来た子供たちとは対照的に、23~25節でイエスは、金持ちが神の国へ入ることが困難なことを3度繰り返しています。弟子たちは驚いたと言うより驚愕したことでしょう。当時のパレスチナのユダヤ教では、一般に富は神からの祝福のしるしだと思われていたからです。弟子たちはしばらくの間、「いったいだれが救われるのか?」と話し合っていたことが、動詞の不定過去形からもうかがわれます。マルコ福音書で「救われる」は通常病などの身体的な癒やしを含む言い方ですが、今回は「神の国へ入る」こと、言い換えると「永遠の命を受け継ぐ」ことで、この意味での「救われる」はマルコ福音書ではここだけです。
[27]ここの「見つめて」を21節での「(富める人を)見つめて」と対比させる読み方があります〔コリンズ『マルコ福音書』481頁〕。イエスに従うことができなかった人と従ってきた人たちとを見比べたのでしょうか? 弟子たちが「彼が救われないのなら、いったいだれが?」とらくだのたとえを金持ちに限らず一般に拡大解釈して戸惑っていたからでしょうか? ヘレニズム世界の禁欲的な哲学者たちも、持ち物を売り払って求道することによって魂の自由を獲得する道を選びました。彼らは人間の力で可能なことを求めたのですが、26節のイエスの答えは、救いを「人の力の及ぶ領域」ではなく、神に力によって初めて可能になることだと教えています。イエスの巡回活動に従事した人の中には、比較的裕福な人たちもいました(マルコ8章3節)。共観福音書の頃のキリスト教会にも、裕福な人たちがいましたから、今回の教えが、救いは貧しい者たちのためだけのものであって、裕福な者は救われないという意味にとられるのを避けるための言葉でしょう〔コリンズ『マルコ福音書』481頁〕。
[28]【ペトロが】8章29節と同様に、ここでも弟子たちの中でペトロだけが大事な発言をしています。「言い始めた」とあるのは、ペトロの個人的な見解ではなく、弟子たち全体の代表として彼が口を切ったのでしょう。彼は、去って行った富める人と自分たちとを比較した上で語っていますが、「神には何でもできる」という直前のイエスの言葉をどのように受けとめているのか、文面からは明らかでありません。マタイは、この点を考慮して、「では、わたしたちのほうはどうですか?」とさらに問いかけて、イエスの答えを引き出しています。
[29]~[30]イエスの答えで、捨てるものは「もしくは/または」で結ばれていますが、受ける報いのほうは「そして」で結ばれています。「どれか一つ」でも捨てたら、「全部の報いを受け取る」とも解釈できますが、これは文体の綾(あや)で、ここでの意味はそうでありません。ただし、捨てたものよりも、受ける報いのほうがはるかに大きいことを明確にしているのは確かです。捨てるほうのリストには「父」が含まれますが、受け取る報いのほうに「父」はありません。18節のイエスの言葉から判断するなら、ただ「神」のみがほんとうの「父」だからでしょうか(マタイ23章9節を参照)。家族以外に「畑」が加わっていますが、これは土地を所有する富裕層を指すのでしょう。
【今この世で】「今のこの時(カイロス)」に辞義通りの大きな祝福を受けるとあるのがマルコ福音書のほんらいの意味です。実際、イエスの弟子となった後でも、ペトロとその家族は、その家と家族によってイエスの活動を補助しています(1章29~31節)〔フランス『マルコ福音書』407頁〕。神から受ける報いについては、ほんらいユダヤ教では、「この時代(アイオーン)」と「来たるべき時代」とが区別されていましたが〔コリンズ『マルコ福音書』483頁〕、神のためにその家族やその命を失った者には、「来たるべき時代/世」において、失った「そのもの」をさらに大きく受けるという信仰がありました(二マカバイ7章11節/同28~29節)。イエスの神の国運動は、終末の神の国が<すでに始まっている>という切迫した信仰によるものでしたから、「今の時代」と「来たるべき時代」との二重性において、親兄弟を「捨てる」ことへの報いが理解されていたのでしょう。「捨てた」人間関係は、神の手によって「この世において」必ず幾倍にもなって戻って来る。しかも、「来たるべき世」では永遠の命を受けるという信仰は、ユダヤ教の「この世と同じ」ものを再び受けるという信仰としてマルコ福音書に受け継がれていると考えられます〔クレイグ『マルコ福音書』10章29~30節WBC電子版10章29~30節〕。
 ルカ福音書は、マルコ福音書の言う辞義通りの意味で理解していますが、ルカ福音書には、マルコ福音書にある「迫害なしにはありえない」が抜けています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)569頁〕。マタイ福音書のほうでは、「今のこの世に」が抜けています。マタイは、現在において自分の魂を救うなら、未来にその報いが来るとして、この世で捨てた報いを意図的に「来たるべき時代」のことへ移し変えているのです〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)59頁〕。これは、イエス以後の後の教会が、今回のこのイエスの言葉を辞義通りには解さなかったからです〔フランス『マルコ福音書』408頁〕。マタイ福音書のこのような解釈は、後の教会によって、マルコ福音書のこの箇所もエクレシアの「霊的な兄弟姉妹」を家族関係にたとえていると理解されるようになったからです〔コリンズ『マルコ福音書』482頁〕。ペトロの姑や、ルカ7章11節以下に出てくるナインのやもめとその息子のように、一度(たび)イエスによって救われると、その家族は、それまでとは全く異なる家族関係の様相を帯びるようになるという意味で、「この世においても100倍」を解釈することもできます〔フランス『マルコ福音書』408頁(注)32〕。
〔イエスの「弟子」について〕
 上記の諸説に対して、実際にイエスの「弟子」とは歴史的にどのような人たちだったのかを探るときに、そこに見えてくるのは、特定の理念や理論付けではとうてい処理しきれない巾広いイエスの神の国運動の現実があります。
(1)少なくともイエスの伝道活動の初期においては、イエスの親兄弟たちが、その活動に危惧を抱き、必ずしも好意的でなかったことが四福音書から読み取ることができます(マルコ3章20~21節/ヨハネ7章5~7節など)。したがって、イエスが「自分の父母を憎まなければ、わたしたち従ってくることができない」という厳しい言葉を告げたのは、イエス自身がその家族から反対を受けた体験を踏まえていると見ることができます〔Meier. A Marginal Jew. (3)71〕。しかし、後にはイエスの母とその家族がイエスを信じる共同体に加わり、弟のヤコブがエルサレム教会の柱と仰がれるようになったという聖書の証言があります(使徒言行録1章14節/ガラテヤ1章19節)。しかし、イエスの家族についての聖書の記述は一様でありませんから(マルコ3章21節/同32節)、実際の出来事はさらに複雑であったことを示しています。
(2)同様に複雑で割り切ることができないのが、イエスとその「弟子」との関係です。イエスが「弟子」と呼んだのは、当時のパレスチナのユダヤ教の考え方からすれば、成人の男性で、しかも家兄弟姉妹畑を捨てて、イエスの後に従い神の国を伝える巡回の伝道活動に従事した者たちに限られていたと考えられます。今回の富める若者へのイエスの直言は、イエスが「自分の弟子になる」ことがどういうことかを明確に言い表わしています。
(3)しかし、イエスの一行に従って、イエスとその弟子たちに奉仕した女性たちがいたことを共観福音書は証ししています(ルカ8章1~3節)。彼女たちは「弟子」とは呼ばれていませんが、中には裕福な女性たちがいて、彼女たちは、終始イエスに従って、その資産を携えて、食事を始め身の回りの世話をするなどの奉仕を行なっていたことが分かります。「弟子」とは呼ばれないまでも、実際には弟子と同じ扱いを受けていた女性もいたことがヨハネ11章のマルタとマリアの記事から読み取ることができます(さらにヨハネ21章のマグダラのマリアを参照)。彼女たちはその資産を放棄することなく逆にこれを活かしてイエスの一行に奉仕していましたが、そのような行為は、彼女たち自身の単なる自発的な意志だけでは、当時のパレスチナの通念としては不可能です。だから、これはイエス自身が彼女たちをそのように召命したと考えるべきです〔マイア前掲書72頁〕。
(4)イエスの周辺には、さらに、巡回に加わらないまでも、行く先々で、一行をもてなし、その資産を活用してイエスの活動を助けた多くの人たちがいたことを四福音書は証ししています。彼らもまた、自分たちの資産を活用してイエスとその一行の神の国運動を助けた人たちで、イエスが行く先々で、共に食事の交わりを持ったことが、「酒を好み大食漢で罪人と交わる」(ルカ7章34節)と嘲られたことからも分かります。ザアカイやアリマタヤのヨセフ、それにニコデモなどがそれらに入るでしょう。彼らは、身分も財産もそのままで、イエスを助け奉仕した人たちであり、イエスから喜ばれていたことを聖書は証ししています。
 このように見てくると、イエスの「弟子になる」今回の教えの背景には、驚くほど広い範囲の様々な人たちがいたことを示しています。これらの人たちがイエスの活動に奉仕したために「迫害を受けた」ことは想像に難くありませんが、同時に、そのような神の国運動への参与が、「来たるべき世」での永遠の命の報いとなること、さらに言えば、マルコ10章29~30節が証しするように、今のこの地上において、「迫害と共に」彼らの奉仕に対する幾倍もの報いとなって、救われた家族だけなく、実際の財産においてもに生じたとしても不思議ではありません。この点で、神に奉仕し、神のために失った物はメシアの世になると、失った物質的な物もまた幾倍にもなって戻って来るという当時のパレスチナの信仰がその背景にあり、イエスの神の国到来と共に、「こういう物質的補償」も実現すると信ぜられたことをマルコ福音書は証していると見ることができましょう。
[31]この節はすでに、イエスによる2度目の死と復活予告の直後(9章35節)にでてきました。3度目の予告に先立って、再び「逆転」が告げられますが、先の「上と下」との逆転ではなく、今回は「先と後(終わり)」の逆転です。富める人と弟子たちの逆転が、ここに語られていると見ることもできますが、「しかし」とあるのが、ペトロへのイエスの答えを受けているとすれば、ペトロ自身さえも「これから先の」逆転を免れたわけではないことを示唆しているのかもしれません(35節以下のヤコブとヨハネの願いを参照)〔フランス『マルコ福音書』409頁〕。
 
■マタイ19章
[23]【言われた】マルコ福音書では、イエスは自分の弟子たちを「見回して言う(現在形)」ですが、マタイ福音書では「自分の弟子たちに言った/告げた(アオリスト過去)」です。ただし、マタイ福音書は続けて「アーメン、わたしはあなたたちに言う」とマルコ福音書にはない厳かな口調で続けています。これはマタイによる編集です。
【難しい】ルカ=マルコ福音書では「何と難しいことか」ですが、マタイ福音書は「人が裕福なら、その人にとって天の国に入るのは難しい」という含みで〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)50頁〕、人は神よりも己の資産を頼りがちになると指摘しています。
[24]マルコ福音書では、イエスの言葉を聞いて弟子たちが驚いたことを挟んで、イエスが再びらくだのたととえを告げますが、マタイは、弟子たちの驚きを省いて、「重ねて言うが」とイエスがそのまま言葉を続けています。23節ではマタイ福音書だけ「天の国」ですが、24節には「神の国」とあって、マルコ福音書をそのまま採り入れています。マタイにとって「天の国」も「神の国」も同じ意味だからです。
[25]~[26]マルコ福音書では、イエスのらくだのたとえを聞いて、弟子たちが「互いに話し合った」(「イエスに向かって言った」という異読もあります)とありますが、マタイ福音書では、弟子たちは自分たちの驚きをイエスに向けて発しているようです。「いったいだれが」という言い方はマタイ福音書だけですから、神の祝福に与っているはずの裕福な人でさえも救われないのなら、だれが祝福に与ることができるのだろう?という含みが読み取れます。続く26節でマタイは、マルコ福音書の「神はできる」の繰り返し(これはマルコの文体の特徴)を避けて、マルコ福音書を短くまとめています。
[27]マルコ福音書では「捨てた」が「捨てきってしまった」と完了形ですが、マタイ福音書では「捨てた」とアオリスト形です。意味の上で違いはないでしょう。
【わたしたちは】原文は「それでは、わたしたちのほうはどうでしょうか?」です。これはマタイによる付加で、ペトロは先の富める若者と自分たちを比較対照させているのです。マタイは「マルコ福音書のペトロが言い残したこと」をあえて書き加えたのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)54頁〕。「でも、わたしたちはあの金持ちとは違います」〔塚本訳〕"What then will we have?"〔NRSV〕「いったい、何をいただけるのでしょうか」〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕"How shall we fare?"(わたしたちにはどんないいことがあるのでしょう?)〔REB〕
[28]〔イエス様語録との関係〕資料について言えば、28節はイエス様語録の最後に置かれた言葉から出ていると考えられます〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)55頁〕。イエス様語録の復元は次の通りです。「わたしに従ってきたあなたたちは、(わたしの父がわたしに支配権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたにそれを委ねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席で飲み食いし)、座についてイスラエルの十二部族を裁く」〔ヘルメネイアQ558~61頁〕。( )はルカ22章29~30節からですが、これもイエス様語録に入っていたかどうかは確かでありません。
〔支配権の伝承〕この言葉はイエスにさかのぼると思われますが、その源流は七十人訳申命記17章18~20節に「彼(イスラエルの王)がその支配の座につくとき、彼はレビの祭司たちによって自分のためにこの律法の写しの文書を作り、それを携えて生涯日ごとにこれを読まなければならない。(中略)そうすれば彼とその息子たちは、イスラエルの子の間にその支配を長らえる」とあるのにさかのぼるでしょう〔デイヴィス前掲書〕。申命記のこの言葉は、さらに七十人訳のダニエル書7章9~14節の「人の子による諸国民・諸民族への支配」へ結びつきます。「わたしは、御座が据えられて、日の老いた者が座すのを見た」(9節)とある「御座」は複数ですから、御座は神と人の子のため二つあります。この黙示的な「人の子支配」は、ヨハネ黙示録3章20~21節へ受け継がれます。
 「神の御座の栄光」は旧約以来の伝承ですが、「人の子の座る栄光の座」は、1世紀のキリスト教では希です〔デイヴィス前掲書〕。おそらくこれは、『第一エノク書』に「彼ら(地上の王や権力者たち)は、人の子が栄光の座に就いているのを見ると、おののいて顔を伏せ、苦痛に襲われるだろう」(『第一エノク書』62章5節)とあるのから来ているのでしょう。マタイ福音書では、今回の言葉が25章36節/26章64節へつながります。
〔イエスにさかのぼるか?〕今回の十二弟子によるイスラエルの十二部族の支配は、イエスにさかのぼるのでしょうか? 終末において、イスラエルの十二部族が再び集められるという伝承は旧約聖書からユダヤ教に受け継がれてきたものです。イエスもこの信仰を受け継いでいて、今回のイエスの「人の子」言葉は、特にダニエル書7章9~14節を反映していると見ることができます。イエスはやがてイスラエルの王座に就くという信仰を弟子たちが抱いていたことはマルコ10章35~40節のヤコブとヨハネ兄弟の願いからも読み取ることができます。また、ユダの裏切りによって十二弟子の一人が欠けたために、代わりにマティアが選ばれたとあるのも(使徒言行録1章16~26節)、終末の訪れと共に十二弟子が十二部族を支配するという信仰がイエス存命中に弟子たちに与えられていたことを示唆するものでしょう。28節はマルコ福音書にありませんが、マルコ福音書の記事とマタイ福音書の28節とは、矛盾しないどころがどちらも今回の伝承がイエスにさかのぼる可能性を示していると考えられます〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)58頁〕。【イエスは彼らに】マタイ福音書では、イエスが「<彼らに>向かって、『アーメン、あなたがたに言う』」とあって、ペトロを始めとする十二弟子に(ユダも含まれているのに注意)今回の言葉が宛てられていることを明らかにしています(ルカ22章2830節参照)。
【新しい世界】原語「パリ(再び)+ゲネシア(発生する)」は、「再生/生まれ変わり」を意味するヘレニズムのギリシア語で、ほんらいストア派の哲学で用いられていたのがヘレニズム・ユダヤ教に採り入れられたのではないかと言われています〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)57頁(注)127〕。したがって、ヘレニズムでは「世界/宇宙の再生」を意味しましたが、捕囚期以後のイスラエルでは、このギリシア語が失われたダビデ王国の「再興/復興」の意味から「復活」をも指すようになります。今回の28節では、一時的な「復活」の出来事ではなく、「メシアによるイスラエルの再生(再興)と世界の終末的更新」〔織田『新約聖書ギリシア語小辞典』433頁〕の時期を指すと理解すべきでしょう。
【治める】原語は「(十二部族を)裁く」です。これを終末の時の「裁き」と理解し、さらにイスラエルを始め罪人たちを「断罪する」という意味に解釈する説もありますが、ここはむしろ、終末の時に集められたイスラエルの民を含む諸民族を「支配する」の意味に理解するほうが適切でしょう(マタイ2章6節/同8章11節)〔デイヴィス前掲書56頁〕。
[29]マタイ福音書ではマルコ福音書の「今この世で」と「迫害と共に」が抜けています。「受ける」は三人称単数中動相未来形で、マルコ福音書の三人称単数接続法アオリスト形と異なります。また「家」+「兄弟」+「姉妹」+「父母」+「妻子」(異読を含む)+「畑」のように、「家」と「畑」で囲まれて二人ずつペアになっています。「妻」という異読はルカ18章29節を採り入れた後の挿入でしょうか? マタイは「この世での富」と「救い」をマルコよりも厳しく区別して、報いを「来たるべき更新の世界」に置いているのでしょう。
[30]マタイ20章16節では「後」と「先」が今回とは順序が逆になっています。マタイ福音書の19章1節~20章16節を通観すると、「後」と「先」の対比としては、「ファリサイ派と罪人」「幼子と富める若者」「富める青年と十二弟子」「十二弟子と他の弟子たち」「先に信じた者と後に信じた者」など様々な組み合わせが見えてきます。
 
■ルカ18章
[24]~[25]【イエスは見て言われた】ルカはマタイ=マルコ福音書の「弟子たちに」を省いています。ルカ福音書のイエスは「聞いている人すべてに」語るのです。ルカ福音書の金持ちは「議員」ですが、その議員が「立ち去った」とは言っていません。イエスは彼の様子を見てらくだのたとえを語るのです。だから続くペトロの質問も「聞いている一人」としてです。以下では「そこで聞いている人たちが言った」(26節)、「そこで(イエスが)言った」(27節)、「そこでペトロが言った」(28節)、「そこで(イエスが)彼ら(聞いている人たち)に言った」のように、イエスは尋ねる相手を見ながらその都度人々に答えを向けています。らくだのたとえでは、ルカだけが「縫い針」ではなくより広い意味で「鋭く尖った物/針」を用いています。古典ギリシア語でこれは医者の用いる鋭い針を指すという説もあります。
【神の国へ入る】ルカ福音書もマルコ福音書同様に「神の国」を用いていますが、「入る」がマタイ=マルコ福音書では未来形ですが、ルカ福音書のほうは現在形です。ルカは、御国に入ることを現在の出来事だと考えているのです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1204頁〕。
[26]~[27]【だれが】金持ちの議員や弟子たちだけでなく、聞いている人たちは、「どんな金持ちが救われるのか」ではなく、「それではいったい、救われる人がいるのだろうか?」と言ったのです。ルカ福音書には、マタイ=マルコ福音書の「弟子たちが驚いた」が抜けています。
【神にはできる】ルカは「人にはできないことも神にはできます」と簡潔にしています。これは「どんな(約束)事も神には不可能でない」(ルカ1章37節)と共通する言い方です(創世記18章14節を参照)。「金持ちが自分の財産に頼るのを止める時、それは神による恩恵の奇跡になる」〔プランマー『ルカ福音書』426頁〕という意味でしょう〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1205頁〕。共観福音書のこのイエスの言葉は、イエスからパウロに受け継がれた救済観を表わす見ることもできましょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)568頁〕。
[28]【自分の物】マタイ=マルコ福音書の「すべて/何もかも」と異なります。ペトロは、自分たちが持ち物を捨てることができたのは、「人にはできない神から出たこと」であるから、自分たちは「神の国へ入ることができる」と思ったのでしょうか〔プランマー『ルカ福音書』426頁〕。
[29]~[30]マタイ=マルコ福音書に比べると、ルカ福音書では「畑」が抜けていて、「妻」が入っています。また、「百倍にも」が「幾倍にも」に変えられています。しかし、最大の違いは、マルコ福音書の「わたしのため、そして福音のため」とマタイ福音書の「わたしの名のために」が、ルカ福音書では「神の国のために」となっていることです。ルカは「神の国」を重視する傾向があると言われますが、この言い方自体はマルコ福音書からでしょう(マルコ10章14~15節/同23~24節)。ルカ福音書ではマルコ10章31節が省かれていますから、今回の出来事は、18節の「永遠の命」で始まり30節の「永遠の命」で終わります。
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