160章 ぶどう園の労働者
マタイ20章1〜16節
【聖句】
■マタイ20章
1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
11それで、受け取ると、主人に不平を言った。
12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
 
                      【注釈】
【講話】
■二つの解釈
 紀元2世紀の教父エイレナイオスは、その『異端論駁』(180〜85年)の4巻36章7節で今回の話に言及しています。彼は、様々な時刻に雇われた労働者を世界の始め以来、旧約時代から新旧約中間期を経て、新約から終末にいたるまでの様々な時代の神の僕たち(キリスト教徒を含む)のことだと解釈しています。しかしそこには一貫して唯一の神である農園の主人がおり、終末には、「神の御子を知る」と刻まれたデナリオン銀貨(「永遠の命」の表象)を一人一人に授けるのです。最後の者が最初になるのは、終わりの時に、主の御姿がすべての者に啓示されるからだとあります。このような解釈の仕方を寓意(アレゴリー)的な解釈法と言います。彼は様々な「時刻」を神の救済史として見ているのが分かります。この解釈によれば、わたしたち日本人は、たとえ時期遅れで福音に接した民でも、わたしたちより前の諸国の民と何ら変わることなく、神の恵みに与ることができることになります。
 オリゲネス(184/5〜253/4年)は、今回の話を人の一生にたとえて、生まれつきキリスト教徒であった者、早くからキリスト教徒になった者、死に際に洗礼を受けた者のことだと理解しました〔ルツ『マタイ福音書』(3)190〜91頁〕。これだと、今回の話は、人の一生の間で、悔い改めの時期が早くても遅くても神からの報いに変わりがないことを言おうとしていることになりましょう。
■恩恵の原理化
 今回のたとえに出てくる神のお計らいは実に不思議で、「最後の者」に対して驚くほど寛大な恩恵を与えているという印象を受けます。最後の人にしてみれば、ほとんど「ただもらい」のような神からの報いは、終末での神からの「報い」とは、「人が自力で稼ぎ取る」べきものでなく、ひたすら神の「善意から出た恩恵」によることになります。だから、ここは「マタイのパウロ主義」と言われています。
 しかし、このように「人の想いを超えた絶対恩寵」は、早朝から炎天下で働いてきた労働者たちには納得がいかないようです。「一日中熱風にさらされて働いた」者にしてみれば、終わる間際に割り込んできた者たちへの報酬が自分のと同じでは、仕事と労賃とが釣り合わないから経済原理に反すると思うのは当然でしょう。今回の話の不思議と疑問はこの辺にあります。
 早くから人生の目的を見いだし、神を信じて生きてきた人たちが居ます。ところが、神を信じることもできず、ただその日その時だけ「そこにいる」 という生き方しかできない人、こういう若い人たちがいます。仕事に燃えて人生を歩む人から見れば、だらしがないと見える人たちですが、こういう「訳の分からない人」が今でも大勢居ます。イエス様は、なんと、午後5時になっても、まだ出かけていって、そういう「訳の分からない」生き方をしてきた人たちにも「わたしのぶどう園で働かないか?」と誘ってくださるのです。  「この世を愛された神」の御子は(ヨハネ3章16節)、エクレシアの<外にいる>こういう人たちにも、倦(う)むことなく呼びかけてくださるのです。
 わたしたちはここで、人からであろうと神からであろうと、「善意と気前の良さ」、神学的に言えば「恩恵/恩寵」とはそもそもなんなのか?という根本的な疑問にぶつかります。問題はどうやら、「人の善意」にせよ、「神の恩寵」にせよ、これを経済原理のように「原理化する」そのこと自体にあるようです。「善意」や「恩恵」とは、これをどのような場合にもあてはまる理論に変換したり、「原理化する」ことができません。「善意」や「恩恵」は、どんな場合にもあてはまる理論や原理に変換されたとたん、もうその意義が失われるのです。神による「裁き」と「恵み」は「いかなる計算をも受け入れない」とは、ユダヤ教のラビたちの間でも言われていたことです。ただし注意したいことは、今回の話は、律法的な人の業と、これに対立する神の憐れみという「パウロ主義」とは少し違う点です。なぜなら、「律法的な人の業」は神から拒否されますが、今回の場合は、最初からの者も最後の者も、一人の分け隔てもなく「平等に」扱われるからです。だれ一人漏れることなく、平等に1デナリ銀貨(永遠の命)をくださるのですから、イエス様の父の慈愛は、不可解で不可思議で不思議です。
■恩寵の神秘な力
 わたしたちが自力で行う業は、どこまでいっても、所詮「肉による罪の業」にすぎません。これを永遠の命に結びつく霊性を宿す業へと転換してくださるものこそ、イエス様からの赦しの御霊のお働きです。このことを想い起こすことがここで求められるのでしょう。今回語られている「恵み」とは、理屈抜きで、ただ無条件に与えられる神からの赦しです。人間が「生きる」ためには、暴力や論争ではなく、天から絶対無条件に降る「恵みの雨」によって初めて可能になること、これを「知る/悟る」ことが、今回の譬えの意義なのです。イエス様を通じて与えられるこの「赦しの慈愛の働き」が、どんなにすごい「力」を帯びているのかを四福音書が証ししています。正しい者にも悪い者にも、平等に降る雨、あるいは分け隔てなく照らす太陽の光をの力、もろもろの霊能の力と比較して、皆さんは、こういう雨と太陽の力を「弱い」と思いますか? 絶対の恵みのもつ本当の強さを知ること、これを「悟利を啓く」と言うのです。「実るほど、頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」です。
 ちなみに付け加えますと、現在、医療を始め、自然科学がものすごい早さで進歩していますから、臓器移植などの医療処置によって、自分の身体を長らえさせようとする人が出てくるのは時間の問題です。それどころか、心臓のペースメーカーに見るように、人体の様々な器官が人工器官によって支えられ取って代わられる時代が訪れるのも、それほど遠い未来のことではないでしょう。そうなれば、この地上の人類には、動植物と同様の自然な命(natural life)と聖書が与える霊的な命(Biblical life)と人工的な生命(artificial life)の三つの生命が存在することになります。いつまでも死なない人工生命は、激しい世代間闘争をもたらさずにおきません。地獄極楽や、肉体を離れた霊魂の生命などという「あの世」のことは、ここでは除外します。それらは、体験することができない死後のことだからです。近い将来、人類には、これら「三つの命」が備えられるでしょう。人類に嘘偽りのないほんとうの幸いをもたらすのは、三つの中のどれでしょうか? 人類が、「神になろう」として、知恵の樹の実を採って食べたために、恐ろしい災いを招くことにならなければ幸いです。
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