【注釈】
■マタイ20章1~16節について
 今回のたとえ話はマタイ福音書だけです。物語は前半(1~7節)と後半(8~16節)に分かれています。マタイの編集の跡が多いので、これをマタイによる創作と見る説もありますが、今回もマタイの独自資料からで、おそらくイエスにさかのぼるでしょう(13節までをイエスにさかのぼらせ、14節以下を後の編集とする見方もあります)〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)67頁/70頁〕。
 内容的に見て、今回も直前の富んでいる青年の話と同じに「逆転」のたとえだという解釈があります。確かに「最初の者と最後の者」という主題が引き継がれていて、しかも「終末での報い」という意味でも、直前の「金持ちの若者」と内容的につながります。しかし、今回の場合は、最初の者が最後にされるのではなく、最初も最後も同じ扱いを受けますから、これは終末における「逆転」ではなく「平等」です。ここでは、最後に招かれた者への神の特別に寛大な扱いが目立ちますから、この話はルカ15章の放蕩息子の話と類似しているという見方があります。最後に悔い改めた弟が、初めから父と共に居た兄と同じ扱いを受けますから、今回の結びにも「人の想いと業を超えた」父なる神の不思議な恵み深い取り扱いが感じられます。
■マタイ20章
[1]【たとえられる】共観福音書の「たとえ話」は、現在わたしたちが考えるほど「あること」「ある人」を特定の「たとえ」で厳密に言い表わすことをしません。今回で言う「たとえられる」も、労働者たちのことでもあり、家の主人のことでもあり、ぶどう園のことでもあり、賃金報酬のことでもあるというように、話全体を「たとえ」として表わしています。だから「たとえ」の意味をあまり厳密に詮議するとかえって分かりづらくなります。
【家の主人】大土地所有者は都市に住んでいて、農園の経営を管理者に任せていましたから、今回のように農園の主人が直接労働者を雇うのは、比較的規模の小さい農園経営者の場合です。なお「ぶどう園」についてはイザヤ書5章1~7節で、神とイスラエルの民が、主人とぶどう園にたとえられています。
【労働者】「日雇い」の労働者のことです。イエスの頃は、ローマ帝国の経営の影響を受けて、パレスチナでも大土地所有者による「土地の買い占め」が行なわれ、このために自作農から小作農へ、あるいは事実上の農奴に身を落とす日雇い労働者が多く、農園の経営は、主として彼らを雇って行なわれました。自家専用の奴隷を使用するよりも、日雇いのほうがいつでも解雇できて、病気や病死の責任を負うこともなく、使用に便利だったからです〔ルツ『マタイ福音書』(3)181頁〕。日差しの熱いパレスチナでは、労働は通常早朝から行なわれました。
【雇う】「雇う」の原語には「賃金を払う」ことも含まれますから、今回の話も終末的な「報い」の意味をこめて用いられています。この節が「<そこで>天国は次のようにたとえられる」で始まるのは、直前の終末的な内容を受け継いでいるからです。
[2]【一デナリオン】主人はおそらく労働者たちに口約束で契約を結んだのでしょう。最初は賃金の額をきちんと決めていますが、2度目は「正当な」賃金とだけあり、3度目以降では賃金のことは何も言いません。幾度も雇いを探すので、聞き手は不思議な経営者だと思うでしょう。当時1デナリオンでは、パン切れ10~12個が買えて、3~4デナリオンでおよそ15キロの小麦パンあるいは子羊、100デナリオンだと牛一頭が買えました〔ルツ『マタイ福音書』(3)181頁〕。なおぶどう園の主な仕事は、秋の雨が来る前の収穫か、あるいは春の除草などでした。
[3]~[4] 【九時】原語は「第三の刻」ですから、朝6時から数えて9時のことです。
【広場】町や村の中心にある市場のことで、ここが取引や雇いの場だったのです。
【ふさわしい賃金】原文は「正当な分」「相応のもの」で、明確な金額を告げていません。
[5]「12時」の原語は「第六の刻」で午後3時は「第九の刻」です。ここで送られた労働者たちをマタイ21章36節の「乱暴な労務者たち」と同じに見るのは適切でありません。
[6]~[7]【五時頃】原文は「第十一の刻」で現在の午後5時のこと。3節にある「三時間刻み」からずれていますが、もう夕暮れに近いことから終末間際を予測させます。主人がそんな時刻になぜもっと労働者が入り用なのか?その理由は何も語られません(読む者聞く者に悟らせようとしているのでしょう)。またこの主人は、彼らの賃金について何も言いません。
【雇ってくれない】「何もしないで立っている」とあるのは、主人が彼らを咎めているのではありません(「立っている」は広場に「居る」ことで、必ずしも起立していることではありません)。ただ雇う者がいなかったからです。イエスの頃でも失業問題が深刻だったことをうかがわせます。「役に立たない人間」などこの世にいないのです。
[8]【主人は監督に】旧約に「雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延期してはならない」(レビ記19章13節)とあるので、主人は、夕方に賃金の支払いを労務者の監督者に命じたのです。「ぶどう園の<主>」という言葉で、(原文では)これまで略されてきた「主/主人」がここで始めてでてきます。おそらく「主イエス」を指すのでしょう。「主人」は神のことで、「監督」はイエスだという意味ではないでしょう。支払いは「最後の者から始める」という不思議なやり方です。これだと、最初の者たちは、最後の者たちへの支払いを見ていることになります。なお、主人自身が労賃を支払う場に居合わせるのは異例です。
[9]~[10]主人の処置は、「最後の者たち」に驚くほど寛大です。しかし、賃金と労働量との対応関係から見れば、このやり方は経済原則からはずれていますから、最初の労働者たちが文句を言うのは自然だと思われます。
[11]この労働者たちの不満の気持ちは、先のペトロの言葉「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってきたのですから、何をいただけるのですか」(19章27節)に通じるところがあると指摘されています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)74頁〕。
[12]原文では、「(<最後の>労務者たちが)1時間を行なった」ことに対して「(それなのにあなたは)わたしたちと同じに彼らに行なった」が対応しています。仕事が、これを「行なう<時の>長さとその重さ」として語られているのに注意してください。だから彼らの不満は、「<一日中の>重労働を燃える暑さの熱風に耐えて行なった」ことから来ています。この不満は放蕩息子の兄が父に向けた不満と似ています(ルカ15章29~30節)。
[13]主人は「友よ」と親しく語りかけています(ルカ15章31節参照)。「あなたに不正をする」は、ヘブライ語の用法で「相手を騙す/詐欺を行なう」ことです。主人は彼に「最初の約束」(2節)を思い出せるのです。
[14]「帰りなさい/立ち去るがよい」は、その労働者が主人の言い分を受け入れずに、その場を立ち去ることを意味するのでしょう。法的な権利だけを求める人間の論理は、神の「寛大な善意」を容認することができないのです。
[15]【ねたむ】原語は「あなたの目が悪いのか?」です。「悪い目」とは、他人に対して「悪意を持つ目つき」のことです。これが後のヨーロッパでは、人間を呪う「悪魔の目」の意味になります。しかし今回は、「わたしが<善い者>である」とあるので、「神から善くしてもらう人」に対して嫉妬心を抱くことでしょう。「羨(うらや)ましいのか」〔塚本訳〕。
【自分のものを】「神に属するもの」について「神が望むことを行なう」のを人が自己判断で批判したり否定する権利はありません。
[16]16節は、マルコ10章31節(=ルカ13章30節)からか、イエス様語録からか、どちらかですが、おそらくイエス様語録からでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(2)67頁〕。
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