【注釈】
 ■マタイの「幸い言葉」後半
 マタイ5章の7節から10節までの並行部分は、ルカ福音書にありません。ここはマタイ福音書のみです。山上の教えの後半部分には、第一ペトロ3章(8〜14節)が反映していると言われています。もっとも第一ペトロのこの部分も詩編34篇(13〜14節)の「喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望む者は〜悪を避け、善を行ない、平和を尋ね求めよ」から出ています。詩編のこれらの節は、知恵文学のスタイルで語られていて、人生を神のみ前に幸いに生きる「知恵」を教えています。
 幸い言葉は、イエスの弟子となるために、イエス自身の姿にいっそう近づくよう呼びかけています。第一ペトロの手紙のほうは、迫害に遭いながらも「幸いに生きる」キリスト者の知恵を語っています。マタイ福音書の「幸い言葉」の後半(7〜12節)も、究極において終末を目指していると言えますが、前半のやや消極的な姿勢に比べると、後半では、憐れみによる施し、敬虔、平和を造る、迫害を恐れず正義を求めるなど、より積極的な姿勢が語られているのに気がつきます。注解者の多くも、前半の「受け身」の姿勢に比べると、後半は積極的だと指摘しています。けれども、この積極性は、ひたすら主イエスの御霊にある神の恵みに生きる「受け身」の姿勢をいっそう徹底したところに生まれてくる「積極性」であって、決して人間的な行為や努力から生じるものではないことを銘記すべきでしょう。
■マタイ5章
[7]【憐れみ深い人々】旧約での「憐れみ」は、主に立てられた「貧しい者を憐れみその命を救う王」(詩編72篇13節)として出てきます。詩編17篇5節(七十人訳)には、「憐れみ深い者には憐れみが示される(与えられる)」とあり、ミカ書6章8節には主と共に歩む人に求める三つの徳として「義と憐れみと謙虚」があげられています。ホセア書6章6節には「わたし(主)が望むのは生贄ではなく憐れみである」とあって、この「憐れみ/慈愛」(ヘブライ語「ヘセド」)が神とイスラエルとの契約関係と深く結びついていることが分かります。特に箴言14章21節には「貧しい者を憐れむ者は幸いである」とあります。
 イエスの「憐れみ」は旧約のこの伝統を受け継いでいますが(マタイ9章13節/12章7節)、イエスの「憐れみ」は、教え全体の中心に置かれていて、それが、排除された者や罪人を含むすべての人に例外なく与えられると明言しているのが特徴です(マタイ18章21〜35節)。同時に憐れみの具体的な行為が終末において人が裁かれる時の「決め手」とされています(マタイ25章31〜46節)。憐れみと逆の例が18章33節以下にあげられていて、そこでは、憐れみを「かけなかった」家来が裁かれますが、マタイはこの話しを終末的な裁きと重ねています。「憐れみは裁きに打ち勝つ」(ヤコブ2章13節)からです。
〔文献的視点から〕7節〜10節は、ほんらいマタイが入手したイエス様語録にあったもので、マタイはこれら四つの節を3〜6節と44〜48節の間に挿入することで、「幸い言葉」全体を44節以下へつないだのでしょう。7節の「憐れみ深い」(原語「エレエーモーン」)はルカ6章36節の「憐れみ深い」(原語「オイクティルモノーン」)と異なる原語です。おそらくルカ福音書のほうがほんらいの原語だと考えられます。だとすれば、マタイの手もとにあったイエス様語録には、マタイ5章7節だけでなく48節も、現在のルカ6章36節にあたる「あなたたちは天の父が憐れみ深いように憐れみ深くあれ」と同じであったと思われます。だからマタイは、手もとのイエス様語録の原語「オイクティルモノーン」を7節では「エレエーモーン」に変え、48節では「オイクティルモノーン」を「テレイオス」(完全な)に変更したことになります〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)454頁〕。
[8]【心の清い人々】原文は「心において清い者たち」で、原語のギリシア語は「カタロス」の複数形です。詩編24篇3〜6節に「主の山に登る者、その聖所に立つ者は、手が清く(ヘブライ語「ネキー」)心において清い(ヘブライ語「ヴァル」)者〜」とあり、これの七十人訳に今回の「心が清い」と同じギリシア語が用いられています。今回の箇所は、おそらくここから出ていると思われます〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)455頁〕。「清い」は形容詞ですが、これのヘブライ語動詞「ヴァーラル」は、ほんらいのアッカド語では病気や悪癖から「自由である」ことです。これにヘブライ語では「分離する/選ぶ」の意味が入り、後期のアラム語とクムラン文書では「分離され選ばれる」の意味になります。ヘブライ語の形容詞は「ヴァール」で、詩編19篇9節に「主の戒めは清らかで、目に光を与える」とあります。詩編24篇4節には「潔白な(ネキー)手と清い(ヴァル)心」とあり同73篇1節には「神は心の清い人に恵み深い」とあります。「ヴァーラル」の再帰形(ヒトパエル形)「ティスヴァラール」は、「主は無垢な人には無垢に、清い人には清く振る舞う(清い姿を見せる)」(詩編18章27節)とあります。この詩編18篇26〜28節=サムエル記下22章26〜28節が最も古い用例でしょう。「潔白な(清い)手」のほかに、主のみ名を唱える「清い唇」(ゼファニヤ書3章9節/箴言22章11節も参照/これの反対がイザヤ書6章5節「唇の汚れた者」)とあり、「手」と「唇」と「心」で、その人の行ないと言葉と心がひとつになって、祭儀においても言動においても純真無垢なことを表わします。「手と心が清い」は行ないと内面の両方を意味し、これによって、倫理的な清さ全体を表わしています。詩編24篇の「潔白な手と清い心」は、正しい祭儀の門を意味します。倫理的な罪を除かなければ外的な祭儀は意味を持たないからです。このことから「清い心の創造と新たな霊の働き」(詩編51篇12節)への祈り求めがあり、クムラン文書では「想いを浄める」とあって、祭儀的な浄めだけでなく、心から浄められることを意味します。日本語では、「汚れのないきれいな体」「身辺をきれいにする」「罪からきれいになる」「悪からきれいに足を洗う」などの「きれい/潔白」が、この意味に近いでしょう。そこから「純真無垢」となり、「無垢の血」への復讐は主が必ず行なうとあります。詩編24篇4節の「きれいな手ときれいな心」は聖所に入ることができる資格のことです。ヘブライ語の「ネキー」(純真無垢)がほんらいアッカド系の「空である/空にされる」から出ているとすれば、ここでの「きれい」にも倫理的な特別の意義がこめられていると見るべきです〔TDOT(9)558〕。
 新約では、イエスは神に「従う」ことを説き、パウロは神と主イエスを「信じる」ことによる「聖化」を説いていますが、どちらも旧約の「清らかさ」をそれほど重視してはいません〔TDNT(3)425〕。例外はヤコブ書です(1章2節/4章7〜8節)。これはイザヤ書1章16節から来ているのでしょうか。この意味で、今回のマタイ5章8節は注目に値します。人間は深く罪性に染まっているために、「清い心」を抱くことができません。このために人は罪の深みから、「新しい霊を注いで」わたしの内に「清い心を創造してください」と祈り求めるのです(詩編51篇10節)。イエスが山上の教えにおいて、従来の律法を再解釈し、新しく人の心に働く霊法を語ったのは、これらの旧約の聖句をその根拠にするからで、偽らない純な心に働く霊法こそ、神の御霊の恵みの働く場であることを表わしています。神は偽りのない「心の清い人に恵み深い」からです(詩編73篇1節)。「神を見る」とあるのは、このような「清い心」にあって初めてできる神秘であり、それゆえに「清い良心によって信仰の神秘を悟る」(テモテ第一3章9節)人となるように勧められています。このような人こそが、兄弟姉妹を「清い心で愛する」(第一ペトロ1章22節)ことができます。このために、「清い心で主を呼び求める人」に見習い、御霊の働きによって己の内なるもろもろの欲望を避けることが大事だとあります(第二テモテ2章22節)。新約聖書が啓示する「浄さ」とは、「聖なるもの」を含むと同時に聖性が「俗なる世界」に顕現する時に生じる「清らかさ」をも含む概念です。受肉した神御自身であるイエス・キリストは、人類の歴史の中に啓示されました。これによって現代人の「世俗的歴史」が、神の御子から降る御霊の聖性によって、ある種の「透明性」を帯びるようになります〔エリアーデ『聖と俗』風間敏夫訳(法政大学出版局)108頁〕。復活して今も生きているナザレのイエスの御霊の臨在は、人間の歴史を超えた存在であるだけでなく、また歴史のどの時代にも関わらない神話的な無時間に属する存在でもなく、歴史の中にあって「通歴史的」に働きます。そこでは、俗の歴史の時が聖性を与えられることで、ある種の「透明性」を帯びるのです。このような純心で無垢な透明性こそ、イエス・キリストにある人に具わる「清らかさ」であり、マタイ5章8節が言う「心の清い人」のことです。「空の鳥と野の花」の無垢な清らかさがそこにあります。
【神を見る】旧約では、ほんらい「神を見る」ことはできないとされています(出エジプト33章20節)。しかし、捕囚期頃から以後にかけて、第二イザヤに「終わりの主の日」には「神を観る」という預言が表われます(イザヤ52章6節)。ただし「(神を)見る」ことが「(神を)知る」ことと同一視されているのが特徴です。これに関連して特に、「受難の僕」が、神によって栄光を与えられ、彼を迫害した者たちが、その僕の「栄光を見る」ようになるという預言は注目すべきです(イザヤ60章14〜16節/同19〜20節)。旧約の「神を観ることができない」は、新約でも受け継がれます(ヨハネ1章18節)。しかし、神は御子イエスを通して「顕わされ」ますから、ヘブライ12章14節に「すべての人たちとの平和を追い求め、かつ聖となることを求めなさい。これ(聖となること)なしには、主(イエス)を見ることができません」とあります。この主イエスが完全な姿で啓示されるのが終わりの時です(第一ヨハネ3章2節/第一コリント13章12節も参照)。この意味で今回の「心が清い」ことが「神を見る」ことと結びくのは注目に値します。新約では、このヴィジョンが終末に完成します(ヨハネ黙示録22章4節)。
 1世紀のユダヤ教の思想家フィロンやエジプトのユダヤ教の一派と言われるテラペウタイも、敬虔によって「神のヴィジョンに接する」ことを求めるようになります。「神を見る」という思想は、2世紀になると霊的な知性(グノーシス)による「見神」、すなわち「永遠の生命とは神を見ること」にあるとするグノーシス的な発想を生じることになります。このようなグノーシス思想は、現代の神智学につながると言えましょう。
[9]【平和を実現する人々】原語は「平和を造り出す人」 "peacemaker" です。この語は、七十人訳(旧約聖書)と新約聖書では特別な意味で用いられています。マタイに伝わるイエス様語録では、ほんらいここが5章38〜48節(=ルカ6章27〜36節)へ直接つながっていたのでしょう。今回の9節は10章34節の「わたしが来たのは平和ではなく剣を投ずるため」と矛盾するように思われますが、これへの答えは、ほんらいここ9節につながっていた43〜48節へ続くことで与えられています。
 ヘレニズム世界では、「平和を造り出す者」は王たちについて言われていました(歴代誌上22章9節を参照)。しかし今回の「平和を造り出す」は、七十人訳箴言10章10節「率直に忠告する者は平和をもたらす」〔フランシスコ会訳聖書〕〔REB〕にさかのぼります(ヘブライ語原典は「無知な唇は滅びに落ちる」〔新共同訳〕)。したがって、「平和を造り出す人」とは、「知恵の人」のことですが、単に穏やかで何事にもほほえんで「黙って見ている人」のことではありません。新約では、「平和/和解」が独特の意味を帯びるようになり、その特徴は、コロサイ人への手紙の次の聖句に見事に言い表わされています。「神は御子の血によって平和を造り出し、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました」(コロサイ1章20節)。ここには、人間同士だけでなく、人と神と自然(宇宙)全体において、イエス・キリストの贖いの血によって「平和と調和」が造り出されることが語られています。マタイ福音書の今回の9節も、「善人にも悪人にも太陽を昇らせる」父の神の絶対の恩寵が、そこから降る「敵を愛する心」(マタイ5章43〜48節)へつながります。これによって、「あらゆる人との関係において平和を追い求める」ことが「主と相まみえる」道となるのです(ヘブライ12章14節)。こういう「平和」は「人と神との和解」(ローマ5章1〜2節)に基礎づけられていますから、イエス・キリストによって初めてもたらされたと言えましょう(ルカ2章14節/エフェソ2章14〜18節)。特に使徒言行録10章34〜43節は、生前のナザレのイエスとイエス復活以後の聖霊の働きが、「平和を造り出す」業として宣教への大事な意義づけとされている点で重要です。
 イエスの時代からマタイ福音書の時代にかけて、ユダヤ民族はローマ帝国に敵対し、このために武力やテロによって独立を勝ち取ろうとする気運が高まりました。ユダヤ戦争は紀元60年頃から本格的になりますが、70年にはついにエルサレムが陥落して、ユダヤの国は消滅します。しかしそれ以後もなお、反乱によって国を復興しようとする運動が絶えませんでした。マタイ福音書は80年〜90年頃に成立しましたが、イエス様語録の人たちもマタイの教会も、そのような武力主義に与(くみ)しなかったのです。武力が正義と平和をもたらす道でないことは、ヤコブの手紙の次の言葉で言い尽くされています。「これに対して、天から降る知恵は、なによりもまずきよらかに臨在し、次には平和に満ちてていて、包容力があり、理に従い、憐れみと善い実に満ち、的確な判断を下し、見せかけと偽りがない。と言うのは、義が実を結ぶのは、平和を造り出す人たちによって、平和の内に種が蒔かれることによるからである」(ヤコブ3章18節)。
【神の子】「神の子」はマタイ福音書ではここだけです。「神の子と<呼ばれる>」とある受同態は、「神によって呼ばれる」ことですから、これは現実に「神の子」と「される」あるいは「なる」ことです(ヨハネ1章12節/ローマ8章14〜15節)。聖書では、この用語が様々意味を帯びて用いられていますが、今回の場合に限るなら、ユダヤ民族主義的な人たちは、ローマ帝国と闘う自分たちこそが真の「神の子」だと自認していたのでしょう。しかしマタイ福音書のこの9節は、神の恵みと憐れみによって生まれる者こそが「神の子」であり、しかも、そのような「恵みと憐れみ」が、ユダヤ人だけのものでないことを言おうとしています。パウロもホセア書(2章1節)を引用して、「わたしは自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」(ローマ9章26節)と述べて、「神の子」と呼ばれる人たちが、ユダヤ人よりもむしろ異邦人から出ると指摘しています。だから、この点でマタイ福音書のここはヨハネ福音書とパウロに通じています。
 以上をまとめると、今回の9節、「平和を造り出す者」は、イエスにさかのぼると思われます。これがイエス様語録の人たちに採り入れられた段階では、まだ霊能的な聖霊の働きと結びついてはいなかったでしょう。これが「平和を造り出す」聖霊の働きとして、異邦人伝道への宣教を支える大事な理念となります(使徒言行録10章38〜39節)。この「平和」への理念は、やがて神と人と宇宙全体に調和をもたらすエクレシア神秘思想へと発展します(コロサイ1章18〜20節)。さらに、マタイ福音書の段階では、ユダヤ戦争の際にユダヤ民族主義に与しなかったキリスト教徒の「平和思想」も反映していると見ることができます。 
[10]【義のために迫害される人々】10節は、ルカ福音書にもイエス様語録にもなかったと思われますから、マタイの編集による付加でしょう。内容的にみれば、10節は11〜12節と重複しています。11節の「幸い」と合わせて全部で九つの「幸い言葉」とすることで構成を3の倍数にするのが目的でしょうか?〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)459頁〕。おそらく、内容的には、ここで言う「義のために」は、「イエスのために」と言い換えることができます。だから、この人々は、今まで述べてきた七つの「幸い」を全部具えた「イエスの人たち」です。マタイ福音書はここで、最初の「心の貧しい人々」と同じ「天の国はその人たちのものである」で結ぶことで、八福を囲んでいます。イエスは弟子たちを遣わす時に、「羊を狼の群れに送り込むようだ」と言いました。マタイ10章16〜23節で語られているこのような弟子派遣の状況は、マタイの教会が置かれている状況をも反映するものです。だから「義のために」は「わたしの名のために」(10章22節)と同じです。「迫害される(人々)」は、正しく訳せば「迫害されてきている」という完了形ですから、過去のイエスの時から現在のマタイの教会の人たちまで継続していることを指すのでしょう。敵のために祈ること、迫害されたら別の町へ逃げること、これらは、ユダヤ人キリスト教徒が多かったマタイの教会の事情を反映していると見ることができます。
[11]この節が九つめの「幸い言葉」になります。マタイ5章11〜12節に移ると、それまでの三人称の呼びかけから二人称へ変わります。10節がマタイの編集による付加であるとすれば、この11節はイエス様語録からだと思われます。ここに「ののしり責める」「迫害する」「あらゆる悪口を言う」と動詞が三つ並ぶのもマタイの「3」の数秘的手法からでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)461頁〕。並行するルカ6章22節は「あなたたちは幸いだ。人々があなたたちを憎む時、そしてあなたたちを追放し、そして人の子のゆえにあなたたちの名前を悪し様に投げつける時は」です。「人々」と「人の子」の対照、「(会堂から)追放する」というユダヤ的な迫害手段、さらに「あなたたちの名前を悪し様に投げつける」というヘブライ語的な言い回しからルカ福音書のほうがイエス様語録に近いでしょう。ただし、マタイ福音書とルカ福音書の大きな違いにもかかわらず、どちらも二人称複数のイエス様語録から出ていると考えられます。この箇所はほんらい単独で伝承されてきたのかもしれません。だから、マタイは、3〜10節の三人称複数の後にこの二人称複数をもとの資料のまま加えて、「人の子のゆえに」を「わたしのゆえに」へ変え、「(会堂から)追放する」を「迫害する」へ変え、「名前を悪し様に投げつける」を「あらゆる悪口を言う」と変えて、ユダヤ人以外の人たちにも分かるように広い意味に言い換えています〔デイヴィス前掲書462頁〕。マタイの教会は、ユダヤ人キリスト教徒が多かったにもかかわらず、彼の時代には、「会堂追放」とは異なる「迫害」が行なわれていたことを示すものでしょう。なお「偽って」が抜けている異読があります。後の写筆者がルカ福音書に合わせて省いたとも考えられますが、確かなことは分かりません〔新約原典テキスト批評12〜13頁〕。
[12]【喜びなさい】原文は動詞が二つ重ねられていています。「小躍りして喜びなさい」〔塚本訳〕。マタイ福音書では現在形の命令ですが、ルカ福音書では「その日には喜びなさい」とアオリスト形の命令です。「その日には」を終末の時と理解して、その時には喜びで報われるという解釈もありますが〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)463頁〕、「その日」を迫害の時と解釈するほうが適切でしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(1)227頁〕。「終末での未来の喜びに支えられて現在の苦しみに耐える」というより「喜びは、迫害にもかかわらずではなく、そのゆえに来る」のでしょう(フィリピ2章17〜18節/使徒言行録5章41節/ヤコブ1章2節)。「試練を喜ぶ」というこの伝承は旧新約中間期の迫害時代(前2世紀)に生じたものです(ユディト記8章25節/第二マカバイ記6章30節)。
【報い】この部分は、マタイの編集による付加でしょう。マタイ福音書では「報い」が重要視されていて、10回ほどでてきます(6章1〜6節/10章41〜42節など)。「報い」の中身については明言されていませんが、天の国を受け継ぐという信仰それ自体が、その「報い」だと考えることができましょう(25章31節以下を参照)。「天の国」はマタイ福音書では複数ですがルカ福音書では単数です。複数形の「天の国」はヘブライ語の「天」(複数形)にならってイエス様語録の資料からです。単数の「天」は新約ではルカ文書の三箇所だけです(ルカ6章23節/26節/17章29節)。これは「天」が「神」とほぼ同じ意味で用いられているからですが、この単数の用法もルカ福音書以前からの伝承によるのかもしれません〔デイヴィス『マタイ福音書』(1)464頁〕。
【前の預言者たち】預言者たちの殉教についてはネヘミヤ記9章26節を参照。新約では特に第一テサロニケ2章14〜16節が注目に値します。そこで言う「預言者」とはキリスト教会の預言者たちのことではなく、旧約時代の「預言者」のことです。第一テサロニケ人への手紙では、ユダヤ人の先祖が神の預言者たちを殺したことが、ユダヤ人によるイエスの十字架刑と重ねられていますが〔T・ホルツ『テサロニケ人への第一の手紙』大友陽子訳/EKK新約聖書註解(教文館)112頁〕、ここマタイ福音書でも同じでしょうか。
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