43章 幸いな人たち(後編)
マタイ5章7〜12節
【聖句】
■マタイ5章
7憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
8心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
9平和を創り出す人たちは、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
10義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
11私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
 
【注釈】
                      【講話】
■教えの後半
 今回は前回に続いてイエス様の「幸い言葉」の後半です。ここはマタイ福音書だけです。前半のやや消極的な姿勢に比べると、これらは具体的な行為を求めるユダヤ教の伝統に根ざしていて、しかも新しい福音的な霊性によって実践することが求められています。憐れみは神から来るもの、清い心も神から来ます(詩編51篇12)。平和も神から降ります。正しいことのために迫害を受けて、これに耐える力も神が与えてくださる。十字架と復活と聖霊から来る罪の赦しと御霊の慰め、わたしたちはこれを祈り求め、罪赦され、それでいいんだよと、御霊の愛のうちに歩みます。何もしなくていいのかと言えば、そこからが始まりです。正義を行なおう。正しいことをしよう。真理を求めよう。平和をつくり出そう。そんなことを無理に考えなくてもいいのです。自分で気負ってやろうとしなくてもいいのです。イエス様の御霊の愛と罪の赦しのうちに浸されて生きていくと、きっとそうなる。神のために、イエス様の御名のためになにかをやろうという気持ちになってくるから不思議です。
■憐れみ深い人
 7節では、神の「憐れみ」を祈り求めることが語られます。「憐れみ」は旧約聖書でも中心的な主題です。新約ではこの上にさらにキリストの十字架の贖いによる「罪の赦し」という特別の「憐れみ」が加わります。新約では「憐れみ」がほとんど「愛」と等しいのです(ルカ6章35〜36節)。人に憐れみを与える者は、神様から憐れみを受けるというのは、そのままイエス様のたとえ話でも語られます。多く罪赦された者は、多く愛するとあるように(ルカ7章36以下)。この節はイエス様語録とルカ福音書には欠けていますが、両方ともに善人悪人を問わず注がれる普遍の愛と愛敵の憐れみが語られていることに変わりありません。
 イエス様の十字架の贖いを通して、神様の深い憐れみを知ることが憐れみの心の出発点です。自分の罪が赦されて、イエス様が、わたしたちと神様との間の敵対を執り成して和解させてくださった。これができて、やっと自分で自分になれたという「自分との和解」、これが成り立つのです。なんにもしない。なんにも考えない。ただ黙って主様にあって御霊の愛に生きる。これだけです。そこから人と自分との和解が成り立っていきます。神様のみ前で、初めて自分になることができます。人と自分との交りを創り出す御霊にある交わりです。コイノニアの源です。
■心の清い人
 8節で「心が清い」というのは、神様に対して二心を抱かないことです。旧約では、ほかの神々に惑わされることなく主なる神に向いて「真っ直ぐに歩む」ことに敬虔の理想を見いだしました。神様に向かう「完全な歩み」あるいは「全き歩み」というのはこのことです(ルカ1章6節と11節参照)。「神を見る」とありますが、マタイ福音書は、敬虔の結果与えられる「知識」の力で「神を見る」ことを指すのではありません。そうではなく、どこまでもイエス様の父なる神を求める、イエス様と共に歩む、この有りようの中で神に接するというのが真意でしょう。ここで「神を見る」状態は、むしろ御霊にあって「神に見られる」こと、同時にそのような状態にある自己を「鏡に映すように知らされる」ことです。「イエス様を見る」は、ヨハネ福音書によく出てきます。ヨハネ共同体は「主イエスを見る」ための「清さ」を尋ね求めた(ヨハネ第一3章2〜3節)。イエス様を「見た」者は「イエス様の父の神を見た」(ヨハネ14章9節)。これがヨハネ福音書が伝える大事なメッセージです。
 宗教改革以後は、「神を見る」ことが、神秘性を脱して、より現実的に理解される傾向があります。現代でも霊的な神秘体験をする人たちがいますが、コイノニア会の中にもそういう体験をした人たちが何人かいます。すばらしいです。ただし、そういう神秘性に溺れてはいけません。与えられたらそれはすばらしい。でも、与えられなくてもそれはそれでいいのです。なんにも見ないけれども、ただ純粋に信じる、これはすごいことですから。
 わたしたちコイノニア会にもいろいろな人がいます。ある人は異言を語り、預言をする。ある人にはヴィジョンが与えられる。ある人には聖書のお言葉が示される。わたしたちひとりひとりが、それぞれ違った賜を与えられます。神はそれぞれに、あなたでなければできないことを御霊によって成就してくださる。このことを心に留めて、自分に何が求められているのか? 神様から何を語られているのか? を問い続けるのです。祈りを通して悟るのです。その道に真っ直ぐ歩むのです。これを「心の清い人」と言います。与えられた道をまっすぐ見つめることが「清い心」です。「摂理・導き」を英語で「プロヴィデンス」と言います。「先を見る」「前を見る」という意味です。だから、神様の導きにしたがって、真っ直ぐ「前を見て」歩んでください。神様はあなたの「先を見て」いてくださる。
■平和を創り出す人たち
 9節で「平和を実現する」とある原語は「平和を創り出す」という積極的な意味です(ヤコブ3章18節)。これは「和解」や「執り成し」と共に、伝統的に「知恵」の大事な働きとされてきました(知恵の書10章11〜14節)。ここで「神の子」がでてきますが、これはマタイ5章45節の愛敵の教えと関連します。「子」は親の性質を宿すというのがヘブライの考え方ですから、天の父の完全な慈愛をあなたの心としなさいという意味です。
 今の世は、何ひとつ不自由がないように見えますが、「幸い」ではないようです。外見は楽しそうでも内面は貧しい。体は丈夫なのに心が病んでいます。近ごろ、不況のせいか自殺する人が増えています。自殺は自分を殺すことですが、自分を殺す前に自分の心が死んでいます。自分を殺す者は当然人も殺すでしょう。人を殺すか自分を殺すか、外に向かうか内に向くかの違いだけです。平和で何ひとつ不自由のない生活をしていながら、心が病んでいて、悪がはびこっていて、偽りと金もうけばかりが流行していて、人々はだれも神からの本当の幸せを求めようとしません。ラッキーだ、ハッピーだと言っているけれども、内面から湧き上がる幸せと喜びを求めることはしない。何かが狂っている。何かがおかしい。この人生にはもっと違った喜び、もっと違った内面的な命があるはずだ。こう思って集会に来る方が大勢おられます。
 「平和を創り出す」ためには、政治も経済も教育も大切です。けれども、一番大事なのは、平和を創り出そうとする「人間」です。こういう人たちが出てくるかどうかです。それも「大事な時に」平和を創り出そうとする人たちが出るかどうかです。次に大事なことは、そういう人たちを「助ける」人です。平和を創り出そうとする人はなかなかいません。だから、たとえ一人でも二人でも、そういう人たちはきわめて貴重な人たちです。わたしたちは、なかなかそういう人にはなれません。けれども、そういう人たちを「助ける」こと「支える」ことはわたしたちにもできます。
 日本では、せっかくそういう人たちがいても、周囲からそれを支えてあげる人が残念ながら少ない。無関心からか、怠慢からか、「めんどくさい」のです。これでは、平和が脅かされ、戦争に巻き込まれる危険があります。平和を創り出そうとする人たちを支援することです。平和を創り出そうとする人たちを助ける人たちも、神の目からは平和を創り出す人たちなのです。御霊は「創り出す」御霊です。ラテン語でSpiritus Creatorと言います。命は創り出しますが、死は滅ぼします。自分が活かされて初めて人を活かそうとする。自分が本当に生き活かされている。そうでないと、平和を創り出すことなどできないです。
■義のために迫害される人たち
 ここで「義のために」とある「義」は6節の「義」とつながりますから、「義を求める」具体的な行為を指し、その結果人々からの迫害を招く。これはおそらくマタイの属する教会などキリスト教徒への「ユダヤ人」による迫害が背後にあるのでしょう。けれども、それは「同じユダヤ人の間で」行なわれた論争から生じているのを忘れてはなりません。だから、ユダヤ人ではないわたしたちが、遠く時代を隔たった現代の「ユダヤ人」を非難し、彼らを迫害する理由や根拠にはなりません。むしろ現代では、ユダヤ人を含むあらゆる人種的な差別と闘う姿勢こそ「義のための」闘いであり、このために被る迫害は、神の前に大いによろこぶべきです。迫害を受けることが賞賛に値するという考えは、旧約の伝統に根ざしています(詩編22篇/知恵の書2章13節以下)。
 この世で正しいことをしようとすれば、いろいろな問題が起こります。特に、今の日本では、正義とか真理とか言うと人に嫌われます。適当にふざけて、冗談めかして言うほうが無難です。でもそれでは正しいことが行われない。社会全体として幸せは来ない。世の中は混とんとして、政治も経済もそして教育も崩壊します。根本のところが狂ってくるからです。それは神と人間との関係です。自分自身と和解できなければ、人と仲良くやることはできません。自分を造って活かしてくださる神と和解できなければ、自分自身と和解することができません。平和は神から自分に与えられ、自分から自分以外の人へと伝わるからです。
 昨日10チャンネルのテレビで、内部告発の放送をしていました。西宮冷凍の冷蔵庫の管理者が、去年、雪印会社の牛肉の不正を暴いた。このため雪印会社は倒産したが、その後で、なんと国税庁が、雪印会社が強制的に書き換えさせた不正の伝票について、(雪印のほうではなく)その西宮倉庫の社長に営業停止処分を出したのです! それだけではない。西宮冷凍倉庫の預け主たちが手を引いて、倉庫は空っぽになり、告発した会社は倒産に追い込まれた。正しいことをしたことによって、監督官庁から罰せられ、社会的ないじめによる「制裁」を受けたのです。「義のために迫害される」とは、こういうことです。
 日本の現在の法律制度では、内部告発をしたために会社から不当な差別を受けた場合に、それを裁判に訴えても、自分の受けた処遇が不当であることを「証明しなければ」認められないのです。イギリスの場合はそうではありません、イギリスでは、内部告発をしたために結果としてその人が会社から差別を受けた場合に、その処遇が差別ではないことを証明しなければならないのは、受けた本人ではなく与えた会社のほうです。なぜそのような処遇をしたのか? それが差別で「ない」ことを証明しなければならない。日本では、正しいことをした人間が差別を受けた場合に、それが不法であることをその人が証明しなければならない。イギリスでは、告発された会社のほうが、正しいことをした人に対して行なったことが差別で「ない」ことを証明しなければならない。ちょうど正反対です。
 日本の社会とイギリスの社会とでは、どうしてこんなに違うのか? それは、正しいことのために迫害されることは正しいことであり名誉なことであるという考え方が、しっかりと根付いているかどうかです。これを「ウィッスル・ブロウワー」(口笛を吹く人)と言います。「危ないですよ」と笛を吹いて知らせる人のことです。「義」とは自分のためにするのではない。社会や国や共同体のために正しいこと、善いことをすることです。自分のことではなく社会のためになると思ってしたことが、賞賛されないで逆に罰せられる。これが日本の今の社会です。東京電力の原子力発電の不正を告発したのは、アメリカ人です。日本人はだれひとりしなかった。そのアメリカ人は、自分はどうせ首になるだろうと覚悟して告発したそうです。日本の社会をよく知っていたからです。あのエイズ事件でも、もしも厚生省のだれかが、あるいは製薬会社の誰かが、内部告発していたなら、あんなに多くの犠牲者を出さなくてもすんだ。こう、川田さんのお母さんが言っていました。
 正しいことを、真実を誰も言わない。誰も行なわない。これの見本が北朝鮮です。同じ民族と言語でありながら、北朝鮮と韓国とはどうしてあのように違うのか。韓国では、選挙の時に、「落選させる」議員を推薦することができます。日本でもこれをやろうとしたら、止められた。自民党に不利になるから、官庁がやらせない。「義のために迫害される人々」を人は誰も守らない。これを守ってくださるのはイエス様の神だけです。この神がおられなかったら、悪いこと、正しくないこと、偽りや不正を正しく直すことができないのです。不正は儲かるか? それとも結局は損になるか? 偽りは社会の益になるか? それとも社会全体の不利益になるか? これが今、政治でも会社でも、そして教育でも問われています。
■九福の人たち
 山上の教えをどう読むかによって、その人の信仰が分かると言います。現代でもこの教えは、世間一般の価値観とは全く違うのに、当時のギリシアやローマの世界に、こんな信仰が伝わり広まったというのは驚くべきことです。これはもうただ神のみ業としか言い様がありません。ここで言う「福」は、お多福やデパートの福袋の「福」ではなく、「祝福」の「福」です、九福の人たちは、社会的に新しい生き方や価値観を見いだした人たちです。現代風に言えば、エコロジカルに、つまり自然と人間との共生において、全く新しい価値観を生み出した人たちです。それだけでない。宇宙的な人間存在として、全く「新しい人格」が創造されたのです。こういう人間存在がありえると人類に証ししたのが九福です。「誰でもキリストにある者は、新しく創造された者」だからです。
 ここで語られる九福の人とは、すなわちイエス様ご自身です。これは宗教改革の頃から言われていることです。だから九福とはイエス様の内に働く御霊の霊法そのものです。このイエス様の霊法をマタイ福音書は自分たちの教会に向けて告げた。このことは、現代においても、わたしたちの置かれている状況において、もう一度この九福を新しくとらえ直さなければならないことを意味します。政治的、経済的、教育的な価値観、人間としての価値観、これらを九福の基準に照らして、もう一度再検討しなければならないのです。
 この世を捨てるとか、修道院にこもることではありません。これも長いキリスト教の歴史において行なわれてきました。今は、わたしたちが生きているこの現実の中で、九福がどのように霊的に実現されるのかが問題なのです。
 昔から、この九福を実行しようとした人たちは大勢います。今でも大勢いるでしょう。けれども、これは「わたしたちが」実行するためではない。もう一度原点に戻ります。これはイエス様の内に働く霊法です。イエス様がほんとうに生きられた姿です。そして、このイエス様が「命じて」おられるのですから、イエス様の御言葉の通りに「自分の身に成りますように」と祈るのが、わたしたちのイエス様への信仰です。ここでは、パウロの言う「キリストの信仰」と「律法の諸行」、この二つの対立と全く同じことが言えます。自分の力で実行しようとしても、できもしないし、また<やろうとしない>ほうがいい。そうではなく、主様の御言葉だから、主様の御言葉の通りにわたしたちに現実する。御霊の創造のお働き、これがこれら九福の教えの根源の力です。
 もしも今、キリスト教的な価値観の世界基準(グローバルスタンダード)と言うのであれば、これこそが世界的な基準となるべきです。ブッシュ大統領が言う「グローバリズム」でなく、これが真の意味の「福音のグローバリズム」です。もう一度言います。この教えは、特定の人たち、例えば経済的に貧しい人、社会的に疎外された人、そういう人たちのためだけではありません。富める人も貧しい人も、身分の高い人も低い人も、ありとあらゆる人たちに向けられているイエス様からの御言葉です。どうぞこれを忘れないでください。
                      共観福音書講話へ