44章 地の塩
マタイ5章13節/マルコ9章49〜50節/ルカ14章34〜35節

【聖句】
イエス様語録
1塩はよいものだ。塩に塩気がなくなれば、何によって味が付けられようか?
2畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられる。

マルコ 9章
49人は皆、火で塩味を付けられる。
50塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

マタイ5章
13あなたがたがは地の塩である。だが、塩に塩味がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

ルカ 14章
34「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。
35畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

【注釈】

【講話】


■塩の意味
 今日は、塩のたとえです。塩の話ですから、少しひりひりするかもしれません。イエス様はよくたとえや諺を使っておられますが、これは「知恵の人」のやることなんです。昔からイスラエルの知恵者は、こういうたとえや諺(これらを「マシャール」と言います)などを用いて語りました。
 塩は味付けになくてならないものなんだけれど、塩気が抜けてしまったらどうやってその塩味をとり戻すことができるのか? 畑の肥料にさえも使うことができなくなって、捨てられてしまうだけなんだよ、という意味でイエス様はこのたとえを語られたのです。いったいイエス様はどういう意味で「塩」をたとえに使われたのでしょうか? いくつか考えられるのですが、塩の性質から判断して、ひとつは何といっても味付けにはなくてはならないものだということがあります。もうひとつは、これも塩の大事な役目として、みなさんご承知の通り、腐れを止める役割があります。もうひとつ、イスラエルでは、神様へお供え物を捧げるときに、塩をかけて浄めるのです。これは日本でもあるではないですか。土俵に塩を撒く。あるいは何か汚らわしい者が家に入ってきたら、その後で塩を撒く。これなんか、浄めの意味です。昔はイスラエルで、赤ちゃんを塩で擦ったり、あるいは、お互いに変わらない友情の印として、塩で味付けをしたパンを食べたりする習慣があったようです。ですからイスラエルのラビが日本に来て、神社で塩を撒くのを見て、いっぺんにその意味がわかったそうです。
 パレスチナにはあの有名な塩の海、死海があります。でも当時の塩というのは、今の塩とは違っていて、あまり精製されていなかったようです。いろんなものが混ざった粗塩だったから、時間がたつとだんだんと塩が溶けて、塩気が失われていってしまうことがあったようです。またこの塩は、畑なんかで、どういう野菜かわかりませんけれども、ある種の野菜の肥料にも使われることがあったので、「畑(原語は「地」)の肥料」とあるのはその意味です。
■マルコのたとえ
 ところで、つの福音書で、ここのたとえを理解するのに一番いいのはマルコです。マルコはまず、
(1)
「全部の人が」塩で味付けされなくてはならないと言っています。マタイやルカは、その前の記事から判断すると「弟子たち」に語ったことになっています。でもわたしたちは、全員がイエス様に選ばれた「弟子」なんです。これがコイノニア会の精神ですから、どうかその覚悟で聞きましょう。マルコのほうは「すべての人」にです。おそらくこれがイエス様の語られた本来の意味でしょう。
(2)さらにマルコでは「火で塩味を」とあって、ここでは、塩と火とが結びつけられています。火というのは、「聖霊の火」のことです。ですから洗礼者ヨハネが、自分は水で洗礼を授けるけれども、メシアが来たら「聖霊と裁きの火で」(塚本訳)洗礼を授けると言ったとマタイ(3章11節)にもあります。「裁きの火」というのは怖いです。マルコでも塩のたとえのすぐ前に、「地獄の火」が出てきます。五体満足で地獄に堕ちるよりも、五体不満足で神の国に入るほうがずっといい。イエス様はこうおっしゃった。この火は、最後の審判の「裁きの火」です。ずいぶん厳しいです。イエス様のたとえは。でも注意して読まなければいけません。マルコはこれに続けて「人は皆、火で塩味を付けられる。」と言うのです。これは、地獄の裁きの火ではない。先ほど塩の意味でお話しした「浄め」の意味です。地獄ではなくて、こちらのほうは、神様にお捧げするための「浄めの火」です。だから、マルコの「火の塩味」というのは、聖霊による浄めの意味です。「御霊の塩」で味付けられた神様への捧げ物です。それもただ厳しいだけではありませんよ。「塩はよい物」とありますから、その人を「おいしく味付けする」塩味なんです。
(3)
だからこそマルコは次に、
一人一人が「自分の内に」塩を保ちなさいと言っています。どうして「自分自身の内に」なんでしょう。御霊の火は、まず自分の内に灯されて、そこから始まるからです。塩は使い方を間違えると辛くなります。だから、うっかり人を塩で擦ると痛がりますよ。まず自分自身を御霊の塩で味付けする。「調味料」とはよく言ったもので、自分の内で塩気をおいしく「調整」するのです。マルコの「味付ける」という意味はこの意味です。自分で食べておいしくなければ、人に食べさせてはいけません。そうやって、自分をおいしく味付けしてから、人に勧めるのです。
(4)
だからマルコは
「そして、互いに平和に過ごしなさい。」と言っているのです。お互いに「仲良くせよ」(塚本訳)ということです。お砂糖みたいに甘いだけで、べたべたするのは本当にいい人間関係ではないのです。互いにほどよく塩味がついている。これがいいのです。ここにいる皆さんは、それぞれに個性の強い人たちばかりです。とてもいいです。それほど個性が強くない人もいるかもしれませんが、ここにいるとだんだん強くなります。皆さんそれぞれが、自分の「持ち味」をしっかり活かしてくださいよ。その上で、どうか人に厳しくならないで「己に厳しく」なってください。それぞれが同じ御霊で違う味付け、この「同じで違う」のが「仲良し」の秘訣なんですから。以上の4つの点でマルコのたとえは実にいいです。
■燃える御霊
 ところで「御霊の火」ですが、イエス様が十字架にかかられた後で、二人の弟子がエマオへ帰る途中で、復活のイエス様が側にお出でになって、聖書のお言葉を語ってくださった。すると、聞いていた二人の「お互いの心が燃えてきた」(ルカ24章32節)のです。お言葉が語られると御霊が燃えて、人の心に火がつくです。ところがこの火は不思議です。モーセが荒れ野で燃える柴を見ました。柴は燃えているけれどもその柴はなくならなかったとあります(出エジプト3章2節)。これが聖霊の火なんです。だんだん熱くなって御霊の火が燃えると、私たちは焼き尽くされると思うかもしれません。しかしそうではないです。ここが大事なところなんですが、聖霊の火はどんなに燃えても、燃やされている私たち自身は基本的に変わらない。御霊の火が去ってしまうと私たちはただの人間です。ここがいわゆる、燃えて、燃やして、燃え尽きてしまうような愛欲の炎とは違うです。エロス的な火と御霊の火とは、ここのところが違います。エロスの火というのは、人間存在そのものをも焼き尽くしてしまう。理性も何もかも失わせて、狂わせてしまうところがあります。これは危険な「火」です。だから、古代ギリシアの人は、エロスの火を「もの狂い」だと考えました。御霊の火は、どんなに燃えても、それで狂ってしまうことはありません。どうか安心して御霊の火に燃やされてください。
■マタイのたとえ
  マタイで面白いのは、塩が「バカにされる」こと、つまり「塩気が抜ける」という意味と「バカにされる」という意味とがかけてある点です。原語にはこの二つの意味があります。「塩がバカになる」(塚本訳)のです。皆さん、御霊の人が一番恐れるのはなんだと思いますか? 人に「バカにされる」ことなんです。御霊の働きは人には理解されない。だから人はその人をバカにします。バカにされて、自分はだめだと自信をなくしてしまう。これが一番悲しいです。ホームページへのメールで、そういう人たちがいることが、だんだん分かってきました。実は、信仰を持たない人が、御霊の人をバカにするのではない。なんと信仰を持っている人たちが、しかも牧師さんまでが、聖霊体験の人をバカにして否定することがあるのです。
 だからマタイはこう言っています。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば〔愚かにされてしまう〕、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」御霊の人が、人にバカにされるのを恐れて黙っているうちにいつの間にか御霊の味が抜けてしまう。そうなったら、もう何の役にも立たないから、外の道路へ捨てられてしまう。なぜなのか? 「塩がバカになった」(塚本訳)からです。塩気が抜けて役に立たなくなった塩は、表の道路に捨てられます。すると人々がその上を歩いて、塩気の抜けたかすを「踏みつけに」するです。「バカに」するです。こうマタイは言っています。人に「踏みつけにされて」はいけません。皆さん、御霊を持っている人は、一時人に「バカにされる」かもしれません。しかしどんなときでも、毅然として御霊にあって耐え抜く。するとバカにしたほうがそのうちバカにされるです。だから、人があなたをバカにするとき、バカにされても「バカになって」はいけません。あなたの大事な「御霊の持ち味」を失うからです。
 御霊の持ち味を失うと、あなた自身の個性を失います。これはとても残念なことです。どうしてそんなに残念なのか? あなた自身を失うからです。でもそれだけではない。そのために、この「世の中の」大事なものが失われていくからです。マタイは迫害された預言者の後にこのたとえを続けています。「預言者と同じく、あなた達は地の塩である。世の腐敗をふせぐのが役目である。」(塚本訳)こうマタイは言っているのです。あなたの塩は、日本のため、日本のためは、世界のためです。どうかこのことを分かってください。マタイが塩と光とをセットにしたのはなぜか? それは「世の光」になるためなのです。マタイはこう言います。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」あなたの回りの世界を照らす光、そして世の腐れを止める塩になれ。こうマタイは言っているのです。マルコは塩を「自分自身の内に」蓄えなさいと言いました。でもマタイはそれだけではない。自分に与えられている塩味を生かして、この社会の腐敗を止めなさいと言っているのです。塩と光がなくては、人間は生きていけません。これらなくして社会は成り立たないのです。
■ルカのたとえ
 ところがルカになると、先程言いましたように、塩のたとえのすぐ前に、櫓を建てる計算をする話、それから王様が戦争始めるときに相手がどれだけ強いかをよく計算した上で、戦いをやらないと、とんでもない失敗をするというたとえが出ています。だったら止めよう。そうは言っていません。ではどうすればいいのでしょうか? 「最初の決心」が大事だということです。いいですか。人間の決心は、あるいは崩れるかもしれない。人間の意志は、いろいろな事情で、だめになるかもしれない。しかし、「御霊に導かれた決心は」絶対に崩れない。もしあなたが、どこまでも粘り強く歩み続けるなら、必ず成就します。「初心忘るべからず」(世阿弥の「花鏡」)です。だからルカは、櫓のたとえの前に「このように、私の弟子になるには最初の覚悟が必要である」(塚本訳)と言っているのです。ルカはその後に「聞く耳ある者は聞きなさい」と加えました。御霊にあって、御霊に守られて、御霊に導かれて、あなた自身の歩みを続ける。どうかその決心を今日この時につけてください。その決心を保ち続けてください。祈ります。
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