【注釈】
■イエス様語録
 1の前半「塩は良いものだ」はマルコ(とマタイ)から、後半はマタイとルカからの復元です。2はルカからです。イエス様語録のこの部分はとても古いから、イエス様がお話しになったそのままではないかと思います。イエス様語録の人たちは、イエス様の教えを実行することを重んじています。この意味で、マタイはこれを山上の教えの中で正しく用いていると言えましょう。
塩はよい塩の性質から判断して、ひとつは味付けにはなくてはならないものだということがあります。もうひとつは、これも塩の大事な役目として、腐れを止める、腐敗防止の役割があります。もうひとつ、イスラエルでは、神への献げ物を捧げるときに、塩をかけて浄めました(レビ記2章13節)。また古代のイスラエルでは、赤ちゃんを塩で擦ったり、あるいは、お互いに変わらない友情の印として、塩で味付けをしたパンを食べたりする習慣があったようです。ただし、塩は味を失うことがないから、ここではあり得ないことのたとえに塩のたとえを出したという意味にもとれますが、それではここの内容に合いません。パレスチナには有名な塩の海、死海があります。しかし当時の塩は、今の塩とは違っていて、あまり精製されていなかったようです。いろんなものが混ざった粗塩だから、時間がたつとだんだんと塩が溶けて、塩気が失われることがあったようです。またこの塩は、畑で、ある種の野菜の肥料にも使われることがあったので、「畑(原語は「地」)の肥料」とあるのはこの意味です。

■マルコ9章
 (1)マルコはまず「全員が、火で塩味を付けられる」と言っています。おそらくこれがイエスの語られた本来の意味でしょう。
(2)
さらにマルコでは
「火で塩味を」とあって、ここでは、塩と火とが結びつけられています。「火」というのは、「聖霊の火」のことです。洗礼者ヨハネは、自分は水で洗礼を授けるけれども、メシアが来たら「聖霊と裁きの火で」(塚本訳)洗礼を授けると言ったとマタイ(3章11節)にもあります。ですから洗礼者ヨハネの「火」は、「裁きの火」です。マルコでも塩のたとえのすぐ前に、「地獄の火」が出てきます。五体満足で地獄に堕ちるよりも、五体不満足で神の国に入るほうがずっといいとイエス様はおっしゃった。この火は、最後の審判の「裁きの火」です。しかし、イエス様のたとえは注意して読まなければいけません。マルコは続けて「人は皆、火で塩味を付けられる」と言うのです。これは、地獄の裁きの火ではない。先ほどの塩の働きの「浄め」の意味です。地獄ではなくて、こちらのほうは、神にお捧げするための「浄めの火」です。だから、マルコの「火の塩味」というのは、聖霊による浄めの意味なのです。「御霊の塩」で味付けられた神への捧げ物です。それもただ厳しいだけではありません。「塩はよい物」とありますから、その人を「おいしく味付けする」塩味です。

(3)次にマルコは一人一人が「自分の内に」塩を保ちなさいと言っています。御霊の火は、まず「自分の内に」灯されて、そこから始まるからです。塩は使い方を間違えると辛くなります。だから、まず自分自身を御霊の塩で味付けして、自分の内で塩気をおいしく「調整」するのです。マルコの「味付ける」というのはこの意味です。そうやって、自分をおいしく味付けしてから、人に勧めるのです。
(4)
だからマルコは「そして、互いに平和に過ごしなさい。」と言っています。お互いに「仲良くせよ」(塚本訳)ということです。互いにほどよく塩味がついているのがいいのです。

■マタイ5章
 マタイでは、正義のために迫害された預言者たちの話の後にこのたとえが来ています。実は、塩と光とをセットにして組み合わせたのはマタイです。どちらにも「あなたがたは」とあって、英語の "You are" で括ってセットにして置いたのです。塩と光のたとえは元来別々のもので、マルコやルカでは別々になっています。塩というたとえは、弟子たちの知恵や行ないに関連していると考えられます。しかしマタイは、直ぐ前に出てくる迫害されているその人たちこそ、「地の塩」であると言うのです。「地」はマタイだけに出てきます。ここで「地」というのは、「天」に対して言われていて、それは全世界へ向かう広がりを意味します。マタイで面白いのは、塩が「バカにされる」こと、つまり「塩気が抜ける」という意味と「バカにされる」という意味とがかけてある点です。原語にはこの二つの意味があります。おそらくここには、終末的な裁きの時に「味の抜けた」状態であってはならないという意味も込められています。マルコは塩を「自分自身の内に」蓄えなさいと言いました。でもマタイはそれだけではない。自分に与えられている塩味を生かして、この社会の腐敗を止めなさいと言っているのです。塩と光をセットにして、これがなくては、人間は生きていけないものとして、社会が成り立たないものとして教えているのです。

■ルカ14章
 ルカでは、特に後半はイエス様語録そのままです。けれども、塩のたとえのすぐ前に、櫓を建てる計算をする話、それから王様が戦争始めるときに相手がどれだけ強いかをよく計算した上で、戦いをやらないと、失敗をするというたとえが出ています。ですから塩のたとえはやや唐突な感じがします。しかもルカは、マルコの用語を採り入れています。ところが後半では、マルコとは異なっていて、「外に投げ捨てられるだけだ」とあって、イエス様語録をそのまま用いています。しかもその後に「聞く耳ある者は聞きなさい」とルカだけの説明を加えています。マルコでは塩は互いに仲良くするために必要です。マタイでは塩は、世界の腐敗を防ぐためのものです。だがルカでは、塩は、弟子としてどこまでも忠実であることを保ち続けることを意味しているようです。ルカは、櫓のたとえの前に「このように、私の弟子になるには最初の覚悟が必要である」(塚本訳)と言っています。御霊に導かれる人は、自分の歩みを続ける決心を保ち続けなさいという意味です。
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