46章 律法と預言者
マタイ5章17〜20節/マタイ11章12〜13節/ルカ16章16〜17節

【聖句】
イエス様語録
1律法と預言者は、ヨハネの時までである。
2それ以来、御国は力ずくで襲われており、
激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
3律法の一点一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。

ルカ16章
16律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
17しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。

マタイ11
12彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
13すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。

マタイ5章
17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
18はっきり言っておく。天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。すべてのことが実現するまでは。
19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

【注釈】

【講話】

■ルカの律法と福音
 旧約の時代には、律法は文字に書かれてあるいわば法律のようなもので、これに違反した場合には罰せられました。しかし、行為として外に現れないものは罰の対象にはなりません。たとえば、「神を敬う」と言っても、会堂の礼拝に出る、安息日の決まりを守る、その他のいろいろな決まり事をきちんと守っておればそれでいいのです。外側の行為が問題であって、その人の内面でほんとうに心から「神を敬う」かどうかはあまり問われなかったのです。「罪」とは「律法に違反した行為」のことであって、人間の内面的な心の有り様のことではなかったのです。ところがエレミヤは、そのような「文字に記された」律法に違反する行為のことだけではなく、人間の心の有り様、内面的な「心の罪」にも神の目が向けられる。そういう時代が来ることを預言したのです。詩編51篇にも「清い心を創造してください」という祈りがあります。
 このエレミヤの預言は、パウロの伝えた福音にもはっきりと表われています。パウロは、イエス・キリストが十字架の贖いによってわたしたちの罪を赦してくださること、このイエス様を信じて、罪を悔い改めるところに聖霊が降り、わたしたちの心が新しく造り変えられると教えています。人は律法を守ることで神様から義とされるのではない。イエス様を信じる信仰によって義とされる。そしてイエス様の御霊が宿ることで、わたしの心が悪と罪の力に勝つことができる。こうパウロは教えました。外側や行為だけを規制する旧約の律法は、それだけでは人の心までも変える力がない。かえって律法を守ろうとする努力が、自分の心に罪の自覚を生じさせて、わたしたちを苦しみに追いやる結果になる。こうパウロは指摘しています。実は、ルカの所属する教会は、このパウロの系統の教会であったと考えられています。
 ところが、ここが大事なところで、同時に難しい点なんですが、このことは、旧約聖書に表されている律法、たとえばモーセの十戒などは、もう無効だから守らなくてもいいんだ、という意味ではないのです。昔マルキオンという教父は、キリスト教には旧約聖書は要らない。新約聖書だけで十分だと考えました。ルカのここ16章17節は、こういう誤りを防ぐ意味があります。旧約の律法は「破棄」されたのではない。イエス様を信じて生きる者には、イエス様の御霊が宿り、人の内面に宿るその御霊こそ、罪を犯さない心、罪に勝つ力を与えてくださることを伝えたいのです。ルカ福音書には、ふたりの弟子がエマオへ帰る途中で、彼らに復活のイエス様が顕われた記事がでています。その時イエス様は、「モーセから始めて、すべての預言者たちから」(ルカ24章27節)、ご自分について書かれてあることを詳しく説明されたとあります。ルカは、旧約の律法全体が、十字架におかかりになり復活されたイエス様という「一人の人格」の姿として体現されていることを語っているのです。復活のイエス様の御霊を宿す者は、旧約の律法の霊的な本体を宿す者です。神を敬うという旧約の教えが、このようにして「破棄」されるどころか、人の心の中で本当の意味で「成就」されるのです。これが、エレミヤの預言の意味だったのです。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(Uコリント3章6節)とパウロが教えたのもこの意味です。ここで「文字」とあるのは旧約的な外からの律法のことで、「霊」とは新約的な心に働く御霊の「法(のり)」のことです。イエス様のみ霊を宿す者は、イエス様の人格を宿すのです。外から強制されるのではなく、また人に自分の正しい行ないについて、いちいち教えてもらうのではなく、自分自身の内側から発する霊法によって行なうのです。そこに「意識せずして」その人にまことの律法が成就しているのです。
■マタイの律法と福音
 いったいマタイは、どういう意味で、イエス様の福音が、律法の「完成」であり「成就」だと言うのでしょうか? この「完成・成就」は、二つの意味で理解することができます。なぜなら旧約の律法は、大きく二つの分けることができるからです。ひとつはモーセの律法のように、人の道徳や倫理に関する律法です。しかし「倫理」と言えば、人と人との間のことだけですから、十戒の前半の安息日までの神と人との関係が含まれません。それでわたしは、「倫理律法」ではなく「道義律法」と呼ぶことにします。イエス様は、この道義律法の神髄を霊的に深めて「完全なものにされた」のです。イエス様こそ、神様の人間に対する愛と憐れみを完全な姿で顕してくださったお方だからです。このような「愛の姿」こそ、旧約の律法が人間に求めているものにほかなりません。ローマ人への手紙13章(3〜10節)で、パウロが「愛は律法を全うする」と言っているのも同じことを指しています。この「全うする」はマタイが言う「完成する」と同じ言葉です。マタイは、ここでのイエス様の一連の教えを「あなたがたも完全な者になりなさい」という御言葉で締めくくっています(マタイ5章48節)。この「完全」の意味もこれです。イエス様こそ律法を完全な姿で体現された。だからイエス様の御霊を宿して、その道を生きる人は、期せずして律法を自分の内で「成就し、完成している」という意味です。
 「律法を成就する」ことのもうひとつは、旧約では、人間の罪の赦しのために、動物の犠牲を贖罪の供え物として神殿で献げなければなりませんでした(出エジプト29章36節)。これを「道義律法」に対して「祭儀律法」と言います。しかし、イエス様が来られて、全人類の罪の贖いとして、ご自分を神への贖罪の供え物としてお献げになった。このことによって、もはや動物の犠牲は要らなくなりました。動物ではなく、イエス様が、ご自分をお献げになることによって、旧約の贖罪の律法をこれ以上のものがないところへと「成就された」からです。ヘブライ人への手紙9章1〜14節にあるように、旧約の不完全な祭儀の供え物が、イエス様の贖いのみ業(わざ)によって完全なものに代えられたのです。これがユダヤ教の律法の全体を祭儀的に「成就する」という意味です。すなわち、旧約の道義律法と祭儀律法とを成就することによって、この二つの意味で、律法が「完成」したのです。これがイエス様によって成し遂げられたとマタイは語っているのです。
■聖書主義について
 ところで、マタイのところでイエス様は「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言っています。ここで「律法学者」とあるのを塚本訳では、「聖書学者」となっています。また「律法や預言書」とあるところも「聖書」と注してあります。これはとても示唆深い訳だと思うのです。なぜなら、イエス様やパウロの時代、「聖書」と言えば旧約聖書でした。しかし、現代では聖書は旧新約聖書のことです。だから、イエス様の時代とは違うのだ。皆さんはこう思うかもしれません。しかし、現代でも同じように、聖書の教えを律法的に受け止めて、外側だけ守っていれば、それで十分だと考えている人たちがいるのです。教会へ出席する。酒もたばこも飲まない。神社も拝まない。なによりも聖書を「書かれた文字のとおりに」信じている。だから自分は正しいクリスチャンだ。こう信じている人たちが大勢います。「聖書を字義どおりに全部信じる」のは、決して悪いことではありません。しかし、聖書を言葉通りに信じると言いながら、自分の心に、本当にイエス様の御霊が宿っているでしょうか? イエス様の心を心としているでしょうか? これが今問われているのです。
 クリスチャンと言われる人たちでも、聖書が自分の「律法」になっているのなら、旧約聖書の時代の「律法学者やファリサイ派」と同じです。だから、聖書をもっと完全に守れと言うのではありませんよ。逆に聖書に照らしてみるなら、自分の不完全さが認識されて、これが罪への自覚と赦しへの第一歩となるのです。そこから、イエス様を信じる信仰へと向かって、イエス様の「御霊に法」にあって歩みなさいとマタイは言うのです。これが「律法学者やファリサイ派よりまさる」神からの「義」の意味です。同じことをパウロは、十字架と復活の贖いのイエス様を信じる信仰によると教えています。ただし、パウロは、マタイよりもさらに律法を突き詰めて見ています。律法に背く「律法違反」の罪だけではない。律法を自分の力で貫徹しようとする自己義人と誇りこそ、逆に人を十字架のイエス様の御霊の働きから遠ざけている。こうパウロは見ているのです。聖書の教えをまるで律法のように文字通りに守ろうと意図する。これで自分の心がほんとうに浄くなるのかと言えば、そうではない。逆に外側だけの偽善者になる可能性があります。だから、「聖書学者やファリサイ派の様な偽善者になるな」とイエス様は厳しく戒められたのです。
 聖書をまるでクリスチャン生活の法律のように守っていると、たとえばヨハネ福音書では「ユダヤ人」がイエス様に敵対するから、「ユダヤ人」を憎む。こういうことになります。あるいは生物学的な進化論を否定する。あるいはパウロの教えを曲げて女性が発言することを禁じる。この信じ方では、聖書を律法的に信じていると言われても仕方ありません。聖書は大切です。しかし、これは律法の書ではありません。だから、聖書の全部を大切にしながら、イエス様の御霊の働きにあって、現代の私たちにふさわしいあり方で読み直す。解釈し直す。この心がけが大事です。これがマタイのしたことです。祈りにある主の御霊と御言葉、このふたつが一体となって自分の信仰を支えていただくことが大事です。
 私たちの集会には、いろいろな聖霊体験を持っている人たちがいます、ある人は激しく、ある人は静かに、また賜物もそれぞれに違います。異言を語る人もおれば、ビジョンを与えられる人もおります。そういう霊的な体験だけではありません。その考え方、つまり理念的な思考です。この面でもいろいろな違った考え方をする人たちがいます。人数は少なくてもそれぞれに個性豊かな人たちばかりです。こういう人たちがそれぞれの違いを無視して、自分の体験や考えを押し通すと、お互いにバラバラになってしまいます。けれども私たちには聖書があります。この御言葉を愛して、この御言葉を読み、御言葉を聞く。聖書が証しする復活のイエス様を信じて、その御霊の働きに与り、聖書の御言葉を自分の心で納得するまで読み込む。御言葉を本当の意味で、自分のものとして納得する。こうして自分の霊性を、常に祈りと御言葉によって深める。この一点を守っているかぎり、私たちはつながることができるのです。私たちの集会は、この意味で「聖書主義」です。しかしそれは、決して聖書をただ文字通りに受けとめて、それ以外の解釈は認めない。霊的なものや個性を認めない。人間の理性も認めない。こういう画一的な悪しき「聖書主義」ではありません。どうぞそこのところを区別してください。聖書に証しされた御霊のイエス様を愛することこそが、私たちの一致の原点です。神の御言葉を喜ぶ。イエス様の御霊の証しを喜ぶ。これが私たちの原点なのです。マタイもルカも聖書を尊びつつ、これを御霊にあって現代に活かしています。私たちの集会もそうでありたいです。またそうでなくてはなりません。
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