【注釈】
■イエス様語録
  この部分のイエス様語録は、はルカ16章16節から、はマタイ11章12節から(ただし「それ以来」はルカから)、はルカ16章17節から(ただし「一点」とあるのはマタイから)復元したものです。イエス様語録には洗礼者ヨハネについてイエスが語った言葉が記録されていて、洗礼者ヨハネについては、マタイ11章1〜19節の中に引き継がれています。イエス様語録に引用した復元部分は、その中のマタイ11章12〜13節からです。ただし、この二つの節は、イエス様語録を生み出し人々によって、比較的後期に加えられたと見られています。
  イエス様語録の人たちは、洗礼者ヨハネとそのメシア預言をイエスの先駆者として示そうとしました。洗礼者ヨハネは、イエスと違って、しるしとなる奇跡を何一つ行ないませんでした。ただ「火のバプテスマ」をもたらす終末的な「裁きのメシア」の到来を預言したのです。ところがイエスは、多くのしるしと奇跡を行ない、また人々を赦して救う「神の国」の到来を告げました。特にイエスが復活した後には、イエス様語録の人たちは、このイエスこそ洗礼者ヨハネが預言した終末の審判者であって、やがて再臨して世界を裁く方であると考えたのです。このようなキリストへの信仰は、洗礼者ヨハネが、旧約の「預言者以上の者」であるという評価をもたらすことになります。イエスと洗礼者ヨハネとの出会いは単純ではありませんが、その関係は「神の深い知恵」によると理解されています(マタイ11章18〜19節)。したがって、洗礼者ヨハネに対する評価が、イエス様語録の人たちの間で確立するのは、かなり後のことですから、マタイ11章12〜13節もイエス様語録成立の最終段階に属する部分です。
律法と預言者ユダヤ教では「律法(トーラー)」とは創世記から申命記までのいわゆる「モーセ五書」(モーセによって書かれたと信じられた)を指します。「預言者(ネビーイーム)」とは旧約聖書の預言書のことです。それ以外の旧約聖書の詩編その他は「聖文(ケスービーム)」と呼ばれていて、この3部構成で旧約聖書全体を言い表していました。一般には「律法」と「預言者/モーセ」とのふたつだけでも聖書全体を意味しましたが(ルカ16章29節)、場合によってはこれに詩編を加えることもありました。
ヨハネの時まで旧約の時代は「洗礼者ヨハネの時まで」で終わりを告げて、「それ以来」とあるように、ここからイエスの到来と共に、新しい契約(新約)の時代が始まったという意味です。イエス様語録のこの言い方では、洗礼者ヨハネは、旧約の時代に属することになります。「旧」と「新」とのこの区別を明確にしたのがルカです。イエス様語録のこの言葉から判断するなら、ルカはこの区分をイエス様語録から受け継いだことになります。
天の国は力ずくで「それ以来」は、洗礼者ヨハネを排除した言い方です。これに続いて人々が「力ずくで」神の国に入ろうとしているとあります。この「力ずく」とあるギリシア語は問題があります。イエスの使ったアラム語では、この言葉は「努力する」という意味にもなりますから、人々は「とにかく一生懸命に神の国に入ろうとしている」という意味に解釈できます。しかし、マタイの並行箇所では、「力ずく」のところが、「天の国は力ずくで<襲われている>」とあり、「襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(マタイ11章12節)とあって、これだと神の国に入ろうとする者が逆に妨げられ迫害されていることになります。いったいイエス様語録は、ルカのように、洗礼者ヨハネを旧約時代の最後の人と見ているのでしょうか? それとも、マタイのように、イエスと同じ時代の人で、神の国のために迫害されていると見ているのでしょうか? 「それ以来」は、洗礼者ヨハネを排除した言い方ですから、イエス様語録では、洗礼者ヨハネ「以後の」人たちは、新約の「御国を求めて入ろうと努力している」という意味に理解するほうが適切でしょう。
律法の一点一画がイエス様語録の人たちは、イエスによって新約の時代が始まったと考えていましたが、しかしモーセ律法を含む旧約の律法は、「天地が消えうせても」その力を失うことがないと信じていました。これはイエス様語録の人たちがユダヤ人キリスト教徒であって、しかもイエスの在世中の生き方を知っていてこれに見習おうとする人たちだったからです。この人たちは、シリア北部に多くのグループを作っていて、マタイ福音書は、イエス様語録の人たちの影響を強く受けています。
  しかし注意してほしいのは、天地の消えうせる方が易しい。という後半部分です。これは、たとえ天地が消え去る終末の時になっても律法それ自体は一画もなくならないという意味です。洗礼者ヨハネと彼の属する旧約の聖書律法の時代が終わって、新しいメシアのイエス・キリストの時代が始まったのに、律法それ自体はびくともしないというのですから、これは矛盾するような印象を受けます。しかしイエス様語録は、ここで、律法をはっきりとイエスご自身へと結びつけているのです。今回の律法の部分はイエスの教えの中心とも言えます。イエスは、安息日の癒しやその教えで、旧約の律法を無視したり、否定しているような印象を与えますが、実はそうではない。イエスこそ、旧約聖書の「律法それ自体」であって、イエスは、律法を「生きた人間」として体現している。イエス様語録は、こう言っているのです。「天地が消え失せても」なくならないとあるから、律法は終末の裁きと関係します。「人を憎むな」「心に情欲を抱くな」などの教えそれ自体は、旧約でもギリシア世界でも言われていることで、必ずしもイエス独自のものではありません。しかし、そういう教えが、イエスが「再び来られる」終末の時の裁きと結びつくところに、「キリストの律法」(ガラテヤ6章2節)の特質があるのです。しかし、この律法は、裁きと共に、イエスの十字架の罪の赦しをも同時に含んでいるのです。「キリストの律法」は、鋭く人の内面を裁くけれども、その人を殺すことをしないで、逆に赦して人の心を根底から活かし強めるのです。なおまた、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13章13節)が、共観福音書全部にでています。イエスのこの言葉は、今回のイエス様語録と関係していて、同じことを言っていると思われます(ただしこの節とイエス様語録とのつながりは不明です)。
 実は、イエス様語録では、ここの3行に続いて、「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯したことになる。というイエスの言葉が続いています(ルカ16章16〜18節を参照)。イエスのこの離縁に関する言葉は、離縁それ自体を否定するもので、旧約の教えよりも厳しくなっていて、旧約とはむしろ逆のことを言っているとも解釈できます(離婚の項を参照)。以上のことから、イエス様語録の編集の最終段階の頃には、イエス様語録の人たちは、マタイの山上の教えを含むイエスの言葉を旧約に代わる新しい霊的な意味を帯びた「新約の律法」として受け入れていたと思われます。
  
■ルカ
 引用したルカ16章16〜18節の並行箇所は、マタイ5章だけでなく、マタイ11章12〜13節にもあります。と言うより、ルカのほうがイエス様語録に近いのです。ルカでは律法と神の国とは、どのようにつながっているのでしょう? この点について、ルカ24章の27節と44節とが参考になります。ここでは、(旧約)聖書全体が、「モーセの律法と預言者と詩編」として、復活したイエスの人格的な存在(ペルソナ)と結びついて語られています。言い換えると、旧約の律法全体は、イエスという新たな救い主の人格的存在に集約されているのです。要するに(旧約)聖書はイエス・キリストを証ししているとルカは見ています。

ルカ16章
[16]神の国の福音が「それ以来」は、ルカがイエス様語録から受け継いだことは先に述べました。「律法と預言はヨハネの時まで」とあるように、ルカでは、洗礼者ヨハネは旧約の時代に属することがはっきりと語られます。この観点から、それまでのユダヤ教の時代が「旧約」の時代と見なされるようになり、この歴史観が、後代になって、歴史を「紀元前」と「紀元後」とに分けて見る源になりました。「旧約」と言いましたが、言うまでもなくこれは「新約」に対してこう呼ぶわけで、イエス・キリストの到来と共に、新しい契約の時代が始まったのです。旧約の時代は「洗礼者ヨハネの時まで」で、「それ以来」、イエスと「御霊にある」新しい時代が始まったのです。「旧」と「新」とのこの区別を明確にしたのが、ルカのこの部分だと言ってもいいでしょう。イエスの誕生を境に「紀元前」と「紀元後」とに世界の歴史が分かれています。この区分は7世紀頃から始まったのですが、その出発となったのがルカのこの区分です。ルカがこのように時代を区分したのは、ルカにとって、イエスがこの地上におられた時期は「特別の啓示の時」だったからです。だからルカは、洗礼者ヨハネまでの時代/イエスが地上におられた期間/イエスが天に昇られて聖霊が降り教会が始まった時代/のように歴史を三つに区分して観ています。現在のわたしたちは「聖霊の時代」にいることになります。ちなみにこういう歴史の見方を「聖歴史/救済史」と言います。イエスは預言者というよりはメシア(救い主)ですから、「預言者の時代」は洗礼者ヨハネまでだという意味です。
[17]律法の文字の一画がここで言う「律法」は、上に述べたモーセ5書とやや違っていて、もっと広い意味で、モーセの十戒に代表される聖書全体にわたる教えや戒めなどをまとめて「律法」と呼んでいます。「律法は洗礼者ヨハネの時まで」と言いながら、なぜイエスは、律法の文字一画でも決してなくならないと言われたのでしょう。この謎を解く鍵は、エレミヤ書31章31〜34節にあります。彼のここの預言に「新しい契約」とあります。これが、新約の時代が到来するというエレミヤの預言です。ところがエレミヤは、新しい契約の時代に律法は無効になる、あるいは廃れる、とは言っていません。彼はここで、「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す」と言うのです。ルカもここで、律法をイエス自身と結びつけつつ、さらに律法をわたしたちが今生きている「聖霊の時代」へと結んでいます。このことは、パウロの律法観をも含めて、新約における律法を考える上できわめて大事なことです。

■マタイ
 マタイは、イエス様語録を5章と11章と二つに分けて採用しています。マタイの教会には、ユダヤ人キリスト教徒が多かったので、ユダヤ教のラビ的な伝統が強く残っていました。彼らは、従来のイスラエルの伝統的な律法を遵守する人たちでした。マタイは、5章で、イエス様語録を大きく編集し直しています。イエスが来られたことで、旧約の律法が「廃止された」と考えてはならない。逆にイエスの福音によって、律法が「完成された」、こうマタイは見ているのです。「完成/成就」とあるのは、マタイの編集です。引用文のもとの形は、16節から直接に20節へつながっていたのかもしれません。

マタイ11章
[12]彼が活動し始めたこの言い方だと、マタイは、洗礼者ヨハネを「今に至るまで」の新約に時代に含めて見ていることが分かります。とすれば、マタイはここで、洗礼者ヨハネがヘロデによって牢に入れられ、殉教した時に始まって、現在もイエスを信じる人たちへの迫害が続いていることをここで言いたいのです。ですから、「力づく」とあるのも「奪う」も、人々が、神の国へ入ろうとする人たちを迫害しているという意味になります。だからマタイは、洗礼者ヨハネとイエスとを時代的に同じと見て、ふたりを「連続させながら」、律法は永遠に廃れないと言うのです。イエス様語録は、ふたりの時代を区切りながらも、律法の霊的本質は、イエスにあって不変であると言うのですから、マタイとは微妙に対照的です。

同5章
[17]【完成するため】イエスが来たのは律法や旧約の預言者を「廃止する/終わらせる」ためではない。「成就する」ためであると言うのです。「成就する」というのは「ほんとうの意味を明らかにする」ことであり、そうすることで「完全にする」ことです。旧約の律法は、贖罪の儀礼のような「祭儀律法」とモーセの十戒のような「道義律法」と二つに分けることができます。しかしここでは、その両方が、キリストにあって「成就する」という意味です。ですからこれは、旧約と新約との連続を強く感じさせます。これがマタイの特長と言えましょう。次に述べる律法の働きと関連づけると、律法は、イエスの聖霊の働きと相伴って、人間に宿る内面的な霊性を外の現実へと向かわせる力となるものなのです。
[18]【天地が消えうせるまで】この節はイエス様語録ではなくユダヤ人キリスト教徒の伝承からです。ここで「天地が消え失せるまで」とありますが、これはイエス様語録やルカの言い方とやや異なっています。律法は「天地の過ぎゆくまで」の存在であって、終末が訪れたならば律法の役目も終わるという意味にも取れますが、そうではなく、マタイは、洗礼者ヨハネと旧約の律法とを連続関係でとらえているのです。それだけ旧約の律法を継承する性格が強いと言えます。しかし、この句から判断するなら、マタイはなるほど旧約の律法と連続しているように見えながら、これは終末に向かう現在の人類の歩みと共にある間だけの働きであるという意味にもなります。すなわちマタイは、イエス様語録やルカと異なり、律法の役割に「制限を加えている」のです。このことは「すべてのことが実現するまで」とあるのでも分かります。だから、律法は人類を終末へ向かわせるためのものです。ここにマタイの大事な律法観があります。すなわち、律法は、イスラエルの民とキリストの民と全人類を神の救済史へと組み込むのです。この意味で、律法なき民は歴史を持たない民であると言えます。律法なき信仰は、個人の内面に留まったまま、その霊性は、現実において歴史を創り出す力として働かない。こういう危険性があるのです。
[19]【天の国で最も小さい者】ユダヤ教の中では、律法を「軽い」戒めと「重大な」戒めとに分けて、律法を守る者たちも、その戒めの軽い/重要によって、神から受ける報いも異なるという教えがありました。また天国にも、それぞれが行なった行為に対する報いに応じて、様々に異なる場所が用意されていると言われていました。この見解から判断すると、ここでマタイが言うのは、律法を破るように教える者は、天国の「最下位の地位に」置かれるという意味になります。しかし、ここでいう「最も小さい者」とは、要するに天国に入れない者のことだとする解釈もあります。
 ところで、パウロのガラテヤ人への手紙3章10節で、パウロは「律法の書に書かれているすべてのことを絶えず守らない者は皆、呪われている」(申命記27章26節)を引用しています。この引用だけを見ると、ここでマタイが律法について言っていることと全く同じに思われます。ところがパウロの場合、この引用は、律法を守らせるためではなく、逆にこの申命記からの引用をキリストの福音と対立させるために引き合いに出しているのです。キリストの信仰による福音は、律法を守り行なおうとする「律法の諸行」とは根本的に異なっていて、両方はむしろ相容れない。パウロはこのことを述べるために、申命記を引用して、人間は律法を守ることが「できない」ことの証としています(パウロと律法との問題はガラテヤ人への手紙3章10節の注釈を参照してください)。だとすれば、ここでマタイが言っていることとパウロが述べることとは、律法に関する限り、真っ正面から衝突することになりかねません。実はユダヤ教の天国での「階級」から見て、マタイがここで言う「最も小さい者」というのは、パウロのようにキリストの福音を律法と対立させる人たちのことではないか、という説があるのです。律法と福音とを対立させて、律法からの自由を主張するクリスチャンは、天国には入れるかもしれないが、そこでの居場所は「最も小さい」と言うのです。しかしこういう解釈は、マタイがここで言おうとしていることも、同時にパウロが申命記の引用で言おうとしていることも正しくとらえているとは言えません。マタイとパウロは、律法に関して全く対立するようでありながら、その深いところでは、両者はつながっているのです。ではいったい、マタイとパウロとは、どのようにしてつながるのでしょうか。まずパウロは律法を否定しているのではありません。彼は律法を「聖なるもの」と見ています(ローマ7章12節)。ただしパウロは、律法と福音の信仰とを区別して、律法の働きを相対化しています。この点で、マタイが律法の働きを終末にいたるまでの暫定的なものと見ているのと共通します。パウロの律法観も、究極には、「キリストの律法を全うする」(ガラテヤ6章2節)ことへと行き着くのですから、マタイがここで述べていることと本質的矛盾しません。
[20]【律法学者やファリサイ派】マタイも律法を相対的に見ていると述べました。この20節の後で、「あなたがたは・・・と聞いている。しかしわたしはあなたがたに言う」という形式を用いて、マタイのイエスは旧約の律法を霊的に再解釈します。ここで「わたしは言う」とあるのは、イエスの御言葉だけではなく、先の「幸い」の項目と同じように、イエスご自身の人格的な霊性と深く結びついて語られています。だからマタイもパウロ同様に律法をキリスト論的にとらえるのです。マタイは、割礼や贖罪の献げ物などの祭儀律法もモーセの十戒のような道義律法も、旧約の律法を全体として一つに見ています。その上で、これらの律法が、イエスという人格的な存在の中で「完成され、成就された」と告げるのです(17節)。だからマタイの教会では、割礼を含む旧約の律法は、「古いもの」として新しい「キリストの律法」へと変容されているのです。マタイの言う「義」とは、イエスの人格的霊性のことです。だから「律法学者やファリサイ派の人々」の説く旧約の律法的な「義」に優るのです。この点ではパウロの言う「神の義」(ローマ1章17節)と変わるところがありません。ただし、旧約から新約への継承関係において、マタイのほうがパウロよりもなめらかなのは確かです。これはパウロの劇的な回心とマタイの教会の歩みとの違いによるものでしょう。このように見るとマタイはイエス様語録に近いと言えます。マタイの教会は、北シリアにあって、アンティオケアの教会とつながりがあったと思われますから、エルサレムの義人ヤコブやペトロやイエス様語録の人たちと同じ系列にいることになります。一方、パウロとルカとは同系列にあると言えましょう。
  罪には、律法を「破る」罪、すなわち律法違反と、律法を自己義認のために「利用する」罪、すなわち律法主義とがあります(この点はガラテヤ人への手紙講話の付記「パウロの律法観」を参照してください)。この分類によれば、マタイはどちらかと言えば違反の罪のほうに重点が置いていて、パウロは律法主義の罪のほうを重視していると言えましょう。どちらの罪もイエスの御霊の働きを妨げる点では同じです。律法違反は御霊にある創造の働きを妨げ、律法主義は御霊の創造の働きそれ自体を止めるからです。
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