162章 ゼベダイの兄弟の請願
マルコ10章35〜45節/マタイ20章20〜28節/ルカ22章24〜30節
■マルコ10章
35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
■マタイ20章
20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、
23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
■ルカ22章
24また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
25そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。
26しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
27食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
28あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
29だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
30あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」
【注釈】
【講話】
■ゼベダイの兄弟の「栄光」
今回、ゼベダイの家族からの要請に対するイエス様からのお言葉は、一見すると、この世の権力者たちがよくやるように<支配者ぶって威張る>ことをせず、「互いに自分を低くして奉仕し合いなさい」と弟子たちに戒めているように聞こえます。イエス様の教会は、この世の権力機構とは異なるのだから、教会では相互に奉仕し合うことが大事だと教えている。今回の箇所について、どうもこういう解釈が目立つようです。
しかし、こういう解釈がわたしにはどうも納得ゆかないのです。はたして、ヤコブとヨハネは、イエス様が「御栄光を受ける」時に、イエス様が、まるでローマ帝国の代官であったピラトのように、あるいはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのようになるとでも思い込んでいたのでしょうか? 二人はすでに3度の受難予告を告げられており、山上でのイエス様の「栄光に輝く」変貌を体験しています。これらの一連の出来事の後で、二人の内弟子が、メシアとしてのイエス様を異教徒の権力者と同一視していたとは、とうてい思えないのです。二人の願いは「無思慮で浅薄だ」〔コリンズ『マルコ福音書』496頁〕という指摘がありますが、こういう割り切り方には注意が必要です。
マルコ福音書で二人が、イエス様に向かって「あなたの御栄光の際には」と言う時、彼らは、かつてのイザヤやエゼキエルやダニエルが想い描いていた、「輝きに満ちた神のイスラエル」が再び地上に出現することを期待していた。わたしには、どうしてもそうとしか思えません。彼らは、イエス様から、「わたしが受けようとしている(苦難の)洗礼をあなたたちも受けることができるか?」と尋ねられて、すかさず、「はい、できます」と答えています。彼ら二人はそれれだけ真剣で、イエス様にどこまでも従おうと思い詰めているのです。こういう二人が、その時点で想い描くことができた「イエス様の御栄光」の時とは、「神に支配された麗しのイスラエルの民」の姿であったろう。そうとしか思えないのです。
だとすれば、二人が思い描いていたイエス様の御栄光の成就とは、現在のキリスト教会が、あるいはその教会に属するわたしたちクリスチャンたちが、今この時点で想い描く「イエス様の御栄光の時」の到来とそれほど違わないのではないか? わたしには、そう思えるのです。過去に経験したことのある「イスラエルの神の御栄光」の顕現、これなしに、そもそも、何らかの栄光を「想い描く」ことなど、わたしたちにはとうていできないからです。
■イエス様の戒め
もしもそうだとすれば、イエス様がここでわたしたちに向かって言われている戒め、「互いに仕え合いなさい」は、「(教会では)この世の権力者たちのように威張るな」という意味だと割り切って済ますことができないことになります。教会への奉仕にせよ、エクレシア全体の益のためにせよ、わたしたちが、イエス様のエクレシアのために行なおうと努める業が、何らかの意味で「(人の)上に立とうとする」意欲と結びついていないかどうか? 「人に負けまい」とする密かな思いとはたして無関係かどうか? 特定の教団内で、あるいは広くエクレシア全体の中で「偉くなりたい」という隠れた意図が潜んでいないかどうか? こういうことが問われるからです。パウロは、当時コリントの近くで行なわれていたギリシアの競技大会(オリンピアの競技に近い)を引き合いに出して、自分は「イエス・キリストにあって、神からの<上への召命の賞>」(フィリピ3章14節)を目指すと言っていますが、彼が指し示す「賞」の真意を、わたしたちは改めて問い直す必要がありそうです。
■ルカ福音書の戒め
こういうことを考えると、今回のルカ22章24〜30節が、ユダの裏切りへの予告(21〜23節)とペトロの否認への予告(31〜34節)とに挟まれていることが気になります。しかもこれら一連の悲しい予告は、ルカ福音書では聖餐制定の直後のことなのです。イエス様のパンと杯をいただいて「新しい契約」に与った弟子たちは、イエス様の受難を目前にして緊張と不安だけでなく、自分たちがイエス様の御国を証しする大事な共同体であることをこの上なく明確に自覚させられたでしょう。ペンテコステに始まるイエス様のエクレシア共同体が、その起源となる原初体験をこの最後の晩餐に求めたのは、弟子たちが、最後の晩餐のパンと杯を自分たちイエス様共同体の始原と見なして、これを記念するために「聖餐」を守り伝えたことで分かります。この晩餐での弟子たちとイエス様の間の「新たな契約」こそ、後のエクレシアの有り様の核心となるからです。ところが、ルカ福音書によれば、最後の晩餐での十二弟子の原始共同体は、すでにその発祥の時から、ユダの裏切りを宿しており、「上に立とうとする」弟子たちの野心に犯される危険を帯びており、ペトロの否認を予測させるものだったのです。異邦人の王たちが通常帯びている権力による支配と隷従の弊害が、すでにエクレシア共同体の始原にも芽生えていることを、ルカ福音書の今回の記事はわたしたちに教えてくれます。「上に立とうとする」野望は、弟子たちの間に「争い」を生じ、争いは必ず「分裂」をもたらします。
■キリスト教の達成とこれへの裏切り
残念なことに、ルカ福音書のこの警告は、それ以後の「キリスト教会」の歴史において「実証される」ことになります。パウロがエクレシアの形成において体験した数々の辛酸については控えます。イエス・キリストのエクレシアがローマ帝国の下で体験した数々の迫害も略します。キリスト教が東地中海の全域に広まった3世紀頃から、ローマを中心とする西のラテン教会と、エジプトのアレクサンドリアを中心とする東のギリシア教会との間に異端論争が起こり、アレクサンドリアのオリゲネスたちが異端とされる事件が起きます。教会の教義を巡るこの指導権争いは、教会の統一を危うくしますが、3世紀中頃、アフリカの主教キプリアヌスは、教会の分裂を恐れてその統一に力を尽くしました。
その後、キリスト教はローマ帝国の公認宗教とされ(313年)、小アジアのニカイアでの教会会議で、三位一体の最初の教義が採択されるにいたります(325年)。その後、キリスト教は、時のローマ皇帝の勅令によって、ローマ帝国の国教になります(392年)。イエス・キリストのエクレシアは、その長い迫害を経て、ようやく勝利したのです。しかし、国教化されたものの、キリスト教会は、やがて東西に分裂することになります(484年)。エクレシアが地上において展開するキリスト教会は、拡大と統一を図りながら、それがようやく成し遂げられる時になると、争いが生じ分裂を繰り返したのです。
時代が変わって、16世紀の宗教改革の時にも、プロテスタントとカトリックの間で厳しい宗教戦争が起こりました。とりわけイングランドでは、ヘンリー8世の下でカトリックから独立したイングランド国教会が、さらに徹底した改革を求めるピューリタンたちによる抗議を受けていました。国教会からの弾圧を逃れて、ベルギーに逃れていたロビンソンたちピューリタンは、紅海ならぬ大西洋を横断して、アメリカの東海岸に到着し(1620年)、本国では実現できなかった理想のキリスト教共同体を目指して「ニュー・イングランド」を設立します。しかし、イギリスとの独立戦争で独立を勝ち取った(1783年)新しいキリスト教国アメリカは、当初から奴隷制の陰を引きずっていました。奴隷制反対運動や禁止令にもかかわらず、アメリカでの奴隷制はなくなることがなく、ついに南北アメリカの分裂と内戦をもたらします(1861年〜65年)。
わたしたちに身近なところでは、16〜17世紀に、日本にキリスト教が伝わりますが、日本人が受け容れたキリスト教は、当時ヨーロッパで生じていたカトリックとプロテスタントとの激しい争いの陰を帯びていました。スペインのある船長が秀吉と会見した際に、自分の軍艦の砲撃の強さを誇り、その優越性を秀吉に対して印象づけたことが、秀吉に警戒心を起こさせたと伝えられています。秀吉の後を継いだ徳川政権が、江戸幕府を「お上(かみ)」とする「徳川の平和」をもたらすためと称して、苛酷なキリシタン弾圧を繰り返したのは周知の事です。ただそこれには、キリシタン弾圧に名を借りて、徳川幕藩体制を意図する政治権力による宗教全体への支配の確立という側面があったことを見逃してはなりません。
20世紀の半ば、日本が米英との太平洋戦争に敗れると(1945年)、アメリカ占領軍の司令官マッカーサーは、日本の占領を無事に成功させ、これを手土産にアメリカの大統領選挙に臨むことを考えていました。彼は、アメリカのピューリタンたちを招いて、日本の憲法を作らせます。任務を与えられたピューリタンたちは、マッカーサーの意図よりも、むしろ彼ら自身の神学的な意図を実現しようとする「ピューリタン的理想主義者」たちだったのです。日本では、この憲法が日本を無力化するための「押しつけ」だという見方をする人が多いようですが、これは、その時に起こった「出来事」の実際の意義を日本の国という限られた視野から見たやや感情的な見解です。
アメリカは戦後の世界全体をどのような基本理念によって秩序づけようとしているのか?平和憲法の草案を作成したアメリカ人の真意は、日本の占領政策を通じてこれを世界に提示する重要な実例にすることだったのです。「自由と民主主義の国アメリカ」、このピューリタン的な理想こそ、戦後一貫してアメリカが世界政策の基本理念として訴え続けてきたことで、その事情は今でも変わりません。日本の占領政策と平和憲法は、この理念形成の出発点だった言えます。戦後のアメリカの世界政策は、この視点に沿って形成されてきました。彼らは、このピューリタン的な理想に基づいて、かつて地上に存在したことのない「平和国家」を目指す憲法案を作成し、これをマッカーサーに上申したのです。結果としてそれは、アメリカの憲法も実現できなかった人類の理想を追求する憲法だったのです。それは政治的な憲法と言うよりも、神学的な意図に基づくものであり、しかも彼らの目指す平和憲法は、天皇を戦争責任から回避させるという思惑も兼ねていましたから、日本人だけでなく、全世界に向けて「新しい日本」の有り様を提示するねらいもこめられていました。
驚くべきことに、この憲法を日本人はそのまま受け容れたのです。日本の国の内外の犠牲があまりにも大きく、その犠牲があまりにもひどかったからです。戦争で死んでいった多くの若者たちは、自分たちの死が、将来戦争のない平和な日本をもたらすことを信じて逝った。このことを生き残った日本人が心に刻んでいたからです。だから、日本人は、人類の生存をかけた宗教的な悲願としてこの憲法を守り通してきたのです。草案はアメリカ側によるものですが、これを実現しようと守り抜いてきたのはまさしく日本人です。アメリカにとって皮肉なことに、これには、日本が世界で唯一の被爆国になったことが大きく作用しています。戦争の犠牲者への追悼と原爆の被災者の叫びと、歴史が授与した平和憲法、この三つが戦後日本の国家理念を支える支柱となります。
しかし、ようやく訪れた平和国家日本にも、戦前・戦中の指導層の中には、敗北と多大の犠牲への反省よりも、日本の戦争の正当性を主張しアメリカに対する恨みを抱き、与えられた平和憲法を「屈辱」だと受けとめる人たちがいました。確かにこの憲法は、日本に限らず、アメリカをも含めていかなる国家に適用されても、その国家と民族性それ自体をも超えようとする理想追求を包摂しているからです。人類に奉仕する平和国家日本よりも、人類に君臨する戦争のできる国家を目指そう。こう考える人たちがいぜんとして残っていたのです。
ところが、不思議なことに、この憲法の下で、日本は空前の経済発展を遂げます。それだけでなく、世界における日本の評価をかつてなかったほどに高める結果になったのです。だから、アメリカとソ連との冷戦が終結した時に、アメリカの新聞はこう書きました。「アメリカとソ連との冷戦は終わった。勝ったのは日本である。」
これらの諸例に見るように、神の御霊のお働きによってようやく成就したかに見える御国の理想も、それが「成就した」と思われるその時から、裏切りと支配欲が生み出す争いの種を宿す、ということが歴史で繰り返されてきました。
■恩恵を与える方
今回の箇所では、この世の支配者たちとエクレシアの指導者たちとの有り様が対照されていますが、ここでイエス様が言及している「恩恵を与える方」と呼ばれた支配者たちについて触れておきます。人を導く者たちは「互いに仕え合う」ことを心がけるようにというイエス様の教えは、必ずしもイエス様だけではありません。旧約の預言者たちのことは控えますが、孔子は、この世の支配者が民を保護し、民に仕えるべきことを教えています。ヘレニズム世界でも、支配者のあるべき理想の姿が教えられていました。
前5世紀に、当時ペルシア帝国の小アジアの総督であったキュロス王子は(ペルシア帝国の創立者である「大キュロス」に対して「小キュロス」と称される)、ダレイオス2世の息子でした。彼は、兄のアルタクセルクセス2世から王位を奪うためにギリシアと組んで反乱を起こします。ギリシアのアテナイの人クセノフォン(前431頃〜前355年)は、この反乱軍に加わりますが、王子が敗北したために長旅の退却を余儀なくさせられます。クセノフォンは、自分が理想とする君主の姿を描くために『キュロパエディア』(前370年?)を著わし、ペルシア帝国の創立者であるキュロス大王(前580頃〜前530年)を君主のモデルとして描きました。この大王は、囚われていたユダヤ人をエルサレムへ帰還させたことで、第二イザヤから「神の僕」と呼ばれています(イザヤ書49章3節)。クセノフォンは『キュロパエディア』(これのラテン語名から『キュロスの教育』と訳される)で、大王のことを「恩恵を与える方」と呼んでいるのです〔大貫隆・他編訳『新約聖書:ヘレニズム原典資料集』127頁〕。ただし、クセノフォンの描いたのは「慈悲深い顔をした専制君主だ」という批判もあります。
もう一つ中国の例を孔子の『論語』から引用します。
子の曰わく、千乗(せんじょう)の国を道びくに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。(『論語』学而編5)
子の曰く、弟子(ていし)、入りては則(すなわ)ち孝、出でては則ち弟(てい)、謹(つつし)みて信あり。汎(ひろ)く衆(しゅう)を愛して仁(じん)に親しみ、行ないて余力あれば、則ち以て文を学ぶ。(『論語』学而編6)
『論語』の学而篇の5と6は対になっていて、どちらにも「信」と「愛」が出てきます。学而6は「弟子(ていし)」への呼びかけですから、孔子が自分の弟子(でし)たちに説いています。ここでは、弟子個人の道徳だけでなく、「自分の身を正しさえすれば、政治は難しくない」(子路編13)として、弟子たちが国の要職に就いた場合の心得を説いているのです。「天」は犠牲の献げ物と儀礼を好む。しかしそれ以上に、人倫による行為、とりわけ徳のある政治を好むから、君子は、哲学的あるいは神学的な探求に重きを置かず、何よりも先ず現実の具体的な人間存在にかかわらなければならない。孔子が重視するのは、「小人」(普通の人)を「君子」に変容させることです。孔子の眼は、天から古来の霊的な伝統へ、さらに現在の国の有り様、すなわち「国治」に向けられています。「事を敬して信」とは、国事を行なう場合には、何よりも信義を重んじることで、民からの信用を得るように心がけること。「用を節する」とは、国事にかかる費用を節約して、民に負担をかけないよう思いやること。「民を使う」とは民に国家の労役を課す場合には、農繁期を避けることです。「民を使う」には、国同士の戦争において「民の命を使う」ことも含まれるのでしょう。「民は信なくんば立たず」(顔淵編7)とあるように、国を支配する者は信義によって民の思想を信頼へ導くようにせよと孔子は説いています。「人の道」とは人倫のことですが、「人倫」は、人それぞれの倫理・道徳に限定されず、「国治」(国を治める)にかかわらざるをえないからです。孔子の「信と愛」は、そういう政治的・社会的な巾と奥行きをもって語られています。しかも孔子の思想の本質には、妥協を許さない宗教的な霊性が一貫していて、「予(わ)れは一(いつ)以(も)ってこれを貫く」(衛霊公編3)とあり、「聖人の道」と異なる道を研究するのは邪道だと言うのです(為政編16)。 学而編の5と6は、一見すると、かつての教育勅語にある「親に孝、君に忠、朋友相(ほうゆうあ)い信じ」の一句を思わせますが、実は、孔子ほんらいの教えは、後代の儒家が説くような「家では親孝行、国では君主へ忠義」の忠孝の道を本義とするものではありません。孔子の「道」は、家を捨て仕事を捨てて出家の道を歩む仏道とは異なり、「国治」を何よりも大事にする「信愛」の道です。だから国の要職にある者は、そういう「仁の人」を己の親友にせよと説いています。愚かな小人が国政に参与するならば、自分の言いなりに民を操(あやつ)ろうとして国を過(あやま)つから、孔子は、国をそのような過ちから防いで、民と国を護ろうと志すのです。「信と愛」の仁をもって、民と国を正しい道へ導こうとする。これが、孔子ほんらいの教えの真髄であったのです。「人の道」(人倫)こそが、民と国を正しくする根源の力ですから「正とは政なり」(顔淵編17)です。人を愛する仁の道(顔淵22)、これあって初めて、為政者が国を正しく治めることができるからです。「徳は孤ならず、必ず鄰(となり)あり」(里仁編25)とはそういう意味でしょう。
次に我が国の聖徳太子の例をあげます。聖徳太子ゆかりの法隆寺には、今に遺る玉虫厨子(たまむしのずし)があります。そこに描かれている画(え)には、シルクロードを伝わってきた仏教の影響を読み取ることができます。この厨子は、特に「捨身飼虎(しゃしんしこ)」の画で有名です。飢えた虎の親子を養うために、自らの体を投げ与えて食べさせるという仏の教えを描いたものですが、捨身飼虎は、敦煌の遺跡の壁画にも描かれていますから、あるいは、キリスト教の影響が仏教と出遭って生じた教えかもしれません。これが、飛鳥時代の日本に伝わり、聖徳太子の教えとつながるのです。太子は「厩戸(うまやどの)皇子」と呼ばれましたから、彼の教えにはキリスト教が入り込んでいるのかもしれません。
以上の三つの例は、国事や政治と今回のイエス様の教えを考える上で大事なことを教えてくれます。イエス様が「あなたたちの間では、上に立とうとする者は下僕になれ」と教えていますが、これは、孔子が、政治を志す者は「仁の人」になれと言ったのと共通するところがあるように思われます。イエス様の教えが大事なのは、それが、このように人類に普遍する真理に根ざすからです。しかもイエス様は今回、「人に仕える」ことをいまだかつてだれも耳にしたことがないほどの奥深い秘義として、「多くの人の身代金として自分の命を献げる」(マルコ10章45節)ことだと言っておられます。パウロも、この点に比類のない「神の愛」を見出しています(ローマ5章6〜8節)。
■大臣と小者
「大臣」は英語で「ミニスター」ですが、これはほんらい「奉仕する者」のことです。この言葉はラテン語に由来し、「支配する大者」(ラテン語magister)に対して「小者](ラテン語minor)」から出ています。「上に立つ者」に対して「下僕」であったはずの「ミニスター」(ラテン語minister)が、今では字義どおりの「大臣」になりました。名目は「ミニスター(奉仕者)」ですが、現実はそうでありません。現在では、「民に奉仕する」かに見せかけて権力の座につくと「支配者」として振る舞うのが世の習いです。こういう姿を、シェイクスピアは「謙遜は野心家の登るはしごである」(『ジュリアス・シーザー』)と言い表わしました。
いかなる共同体においても、人は、自分が「上に立ちたい」という欲望に動かされます。そこに「競い合い」が芽生え、「争い」が生じると、「争い」は分裂をもたらし、共同体は崩壊します。この競い合いが権力集団に生じる時には、恐ろしい独裁が生じる素地になります。政治だけでなく、軍隊、官僚、企業などの組織内にも競い合いによる独走が起ります。それらの支配層を総合的にコントロールするのが真の民主主義の理念ですが、事は世俗の権力や企業集団にとどまりません。宗教的な団体でも、規模が大きくなると、宗団内での地位をめぐって競い合いと出世欲に動かされる者が出るのは避けられません。イエス様が弟子たちに最後まで言い聞かせ、それでも弟子たちが受難以後まで悟り得なかったことがまさに「御国における支配欲」でした。イエス様が、洗足を模範として「互いに奉仕する」ように諭し、「上に立とうとする欲望」に警戒せよと命じたのはまさにこのことです。
エクレシアにとって最も大事なことは、イエス様が伝えた「永遠の命」であり、これに生きることです。だからアッシジのフランシスは、「主よ、どうかわたしをあなたの平和のために用いてください」と祈り、その後半でこう祈りました。
「慰められるより慰めることを、
理解されるより理解することを、
愛されるより愛することを
お与えください。
人は与えることによって与えられ、
赦すことによって赦され
死ぬことによって
永遠の命に生きるからです。」
【付記】戦後の日本へのアメリカの政策だけでなく、戦後の中国共産党の日本人戦犯に対する扱いについても同様のことが言えます。戦後中国から帰国した日本の軍人たちは、中国の戦犯裁判が、厳しい取り調べと罪の告白を迫る割には処刑者が少なく、大勢の軍人たちが帰国を許されたと証言しています。当時の周恩来の日本びいきをその理由とする日本中心の見方をする人が多いのですが、中国共産党の実際のねらいはそうではありませんでした。中国の対日戦犯裁判は、建国したばかりの新たな共産党国家としての中国が、公正で寛大な司法と裁判に基づくことを世界に訴えて、共産党国家としての中国の理念を世界に示するための重要な政策だったのです〔「中国での戦犯裁判:裁く側も問われた正当性のアピール」ケンブリッジ大学准教授(近現代日本史専攻〕バラック・クシュナー。『朝日新聞』2016年6月28日号〕
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