163章 盲人バルティマイの癒やし
        マルコ10章46〜52節/マタイ9章27〜31節/同20章29〜34節
         ルカ18章35〜43節
 
■マルコ10章
46一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
47ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
48多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
49イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
50盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
52そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
■マタイ9章
27イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
28イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。
29そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、
30二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
31しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
■同20章
29一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
30そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
31群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
32イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
33二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
34イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
■ルカ18章
35イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。
36群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
37「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、
38彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。
39先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
40イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。
41「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
42そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
43盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。
                         【注釈】
                         【講話】
■バルティマイの開眼
 今回の記事で共観福音書の作者たちは、「霊的な盲目」の癒やしを比喩的に表わそうとしているというのが、現在では一般的な解釈です〔コリンズ『マルコ福音書』506〜507頁〕。エリコで現実に起こった出来事が、イエス様への信仰に起因する「霊的な」出来事であるのは間違いありません。だから、この出来事を現代の霊的な視点から、「人類はキリストに自分の視力の回復を祈り求めなければならない」〔ボヴォン『ルカ福音書』589頁〕と理解したり、この出来事を「世界を盲目性から救い出す実在の神の人イエス」〔ルツ『マタイ福音書』(3)208頁〕の働きを伝えていると見るのも、それなりに意義深いことです。
 ただし、今回のバルティマイの癒やしを、ほかの癒しの出来事、例えばベトサイダでの盲人の癒やし(マルコ8章22〜26節)と同じような出来事だと見ることができないと思われます。
 ベトサイダの癒やしでは、盲人は「人々に連れられて」イエス様のもとへ来ます。内容から判断すると、彼は生まれながらの盲人であったという印象を受けます。イエス様は彼を、わざわざ「村の外へ連れだして」、癒やしは二人だけで行なわれます。癒やしの後でイエスは、「村に入ってはいけない」と彼に口止めしています。
 ところが今回のバルティマイの癒やしでは、彼自身が、人々の制止にもかかわらず、大声でイエス様に呼ばわり続けます。英訳によれば、彼は、生まれつきの盲人ではなく、かつては目が見えたのに、その視力を失ったという印象を受けます。だからこそ彼は、失った視力の回復を切に望んだのでしょう。癒やしは人々の目の前で行なわれます。そして癒やされたバルティマイは、その後、イエス様の弟子になります。だから、ガリラヤからエルサレムへの旅の前後に置かれている二つの盲人の癒やしは、決して同一ではないのです。何よりも、今回の癒やしの出来事では、人間バルティマイの<激しい呼び求め>にその特徴を見ることができます。イエス様は、彼の呼び求めに応じて、「あなたの信仰があなたを救った」と告げています。
 このように見ると、「人類はキリストに自分の視力の回復を祈り求めなければならない」というだけではすまないところがあります。「求めなければならない」のは分かるけれども、そもそも現代の人類は、自分たちが「盲目だ」と思っているのでしょうか?まして、バルティマイのように、自分の霊的な「盲目」を鋭く意識して、これの癒やしを大声で願い求めているのでしょうか? この辺が大いに疑問です。人間の無明/霊盲を強く意識して、これの開眼を切に求めた人と言えば、わたしには、釈迦やソクラテスやプラトンくらいしか思い浮かばないのです。大部分の人類は、自分が霊盲であるという自覚さえ持ち合わせておらず、まして、自分の霊的盲眼を開いてほしいなどと夢にも思っていない、というのが現実です。だから、今回のバルティマイの激しい呼び求めは、現在のわたしたち人類への痛烈な皮肉/風刺、あるいは鋭い批判として受けとめるほうが適切だと思われます。
■目を開かせる出来事
 わたしたちとバルティマイとの共通項と言えば、霊的な欠陥にせよ、身体的、現実的な障害にせよ、人々から受ける差別にせよ、わたしたちが何らかの辛い状況の中にいて、そこから抜け出たいという切実な願いに突き動かされる時です。その上で、その願いを「イエス様に向けて」訴え続けることが、わたしたちと彼との共通点となりえるところです。バルティマイの激しい願いは、彼が聞き知った「ナザレのイエス様」が、たまたま自分の側を通るという「偶発的な?」出来事によって生じたものです。彼はその「偶発」を自分なりに手放すまいと、自分の側を「通り過ぎようとする」イエス様の出来事を必死に「押し止め」、イエス様の目を自分に向けさせたのです。「ダビデの子よ」という彼の叫びから、彼にはそれが単なる偶然ではなく、まさに神のお計らいだと映ったのでしょう。
 人間の側からの必死の叫びと、これに応える神から遣わされた「ダビデの子」の相互の応答にこそ、今回の出来事がわたしたちに語りかける大事な意義があると思われます。だからわたしたちの場合は、「自分の霊盲」を開いてくださるよう求める以前に、そもそも自分が「霊盲である」そのことに気づかせてくださるのが、イエス様の出来事なのだと知るのです。わたしたちが「バルティマイ」になれるかどうかは、<この点>にかかっています。「あなたたちが盲目なら、あなたたちに罪はなかった。ところが、あなたたちは、今なお『見える』と主張している。だからあなたたちの罪は残る」(ヨハネ9章41節)というイエス様のお言葉こそ、今回の出来事がわたしたちに語りかけているメッセージではないか。そんな気がします。
■お言葉で触れるイエス様
 神から遣わされた方とわたしたちとのこのような相互関係は、そのまま、イエス様がバルティマイに行なわれた癒やしにも表われています。マタイ9章27節と同20章34節では、二人の盲人が「身体的にイエスに手で触れられる」ことで「目が開かれた」と証ししています。ところがルカ=マルコ福音書では、「イエス様のお言葉」が盲人の目を開けるのです。お言葉と身体的な触れ合い、この二つが、今回の癒やしでは一つになっているのに注意してください。
 わたしたち日本人のクリスチャンは、聖書のお言葉をわたしたちの理性的な判断や解釈に委ねて、これをイエス様を通して与えられる神からの直接の<触れ合い体験>と区別する傾向があります。このために、お言葉と聖霊体験が、分離したままでなかなかつながらない。頭では分かっていても、現実に体験することができない。「頭」と「身体」とのこの分離状態(?)は、実は近世以降の欧米の先進国(と日本)の特徴です。だから、現在の欧米では、せっかく与えられた霊的な体験さえも、それらの体験が、宗教的・霊的な出来事であることを否定して、心理学や社会科学の方法論を通じて、あたかも宗教とは関わりがないかのように「非宗教化する」傾向があります。
 この傾向は現在の日本の知識層でも顕著で、新聞や雑誌などのメディアだけでなく、学問的な分野でさえも聖霊の身体的な働きかけや霊的な体験を「非宗教化」することで合理化しようとする傾向が強いのです。キリスト教界では、プロテスタントにこの傾向が強いようです。だから、カトリック教会で、ミサのパンがイエス様のお体であると信じるクリスチャンが、御聖体をいただくと同時に異言が与えられたという体験を理解することができないのです。御聖体とは「お言葉」であり、そのお言葉が、異言という聖霊の身体的な働きかけと一つになることが、信じることができないのです。
■お言葉の出来事
 今回の出来事は、霊的・宗教的な出来事を何か別のものにすり替えて合理化しようとする現代的な傾向への強い警告です。バルティマイは、自分の盲目を強く意識していました。しかも彼は、自分の哀(かな)しい現実から抜け出す術(すべ)を全く与えられていませんでした。ところが、神は彼に「ナザレのイエス様」というお言葉を通じて語られた。お言葉は、先ず大勢の人たちが自分の側を通り過ぎる物音で始まりました。彼は、これを聴いて、いったい何事ですか?と問いかけます。神様が<出来事を通じて>語りかけてくださる時、その語りかけに、先ず「自分で言葉を発して」問いかけたのです。すると、「ナザレのイエス」という答えが返ってきた。そこで彼は、その出来事の中に「ナザレのイエス」がいることを初めて知った。そこで、今度は、その「ナザレのイエス」に向かって呼びかけます。しかし、彼は、「ナザレのイエス」の正体をまだ知りません。だから彼は、最大限の信仰を働かせて、自分が知っている最高の宗教的な名称で呼びかけます。「ダビデの子よ、イエスよ」と。「キリストよ」でも、「主よ」でも、「神様」でも、とにかく自分の知っている最高の宗教的な呼び方で「御名を呼んだ」。しかし、彼は、今自分が呼びかけている相手が、一人の具体的な実在する「人物」だとはっきりと知っています。
 驚くべきことが起こった。その方が「お前を招いている」という信じられない知らせです。彼は、自分が「ダビデの子」と呼びかけたお方の前に連れ出されます。すると、「わたしに何をしてほしいのか?」と尋ねられます。彼は、<黙っていないで>、「目が開くことです」と応えます。お言葉を与えられたら、<黙っていないで>、<必ず>言葉を発する。これが<救われる秘訣>です。するとその時、彼は、誰かの手が自分の両眼に触れるのを実感するという不思議な体験をします。ある出来事から始まって、<なんだか分からない働きかけを>自分の体で実感するようになるという不思議な体験です。その体験が、「あなたの信じている通りになれ」」という言葉になると、その時、目が開かれるという願いが成就します。彼は、それまで想い描いていた「ダビデの子」がどういう方なのかを初めて見ます。「ナザレのイエス様」です。彼は、自分を救ってくれたそのナザレのイエス様に付き従った。
 自分の側を人々が通り過ぎる出来事で始まり、自分がナザレのイエス様に従う出来事で終わる。その二つを結ぶのは、イエス様に触れられるという身体的体験の出来事です。これらの一連の出来事に宿るのは、耳で聞き、手で触れられ、目で見るナザレのイエス様という「お言葉」です。これがバルティマイに起こった一連の<救いの出来事>です。「事(こと)」は「言(こと)」です。
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