ザアカイ
ルカ19章1〜10節
 
■ルカ19章
1イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
2そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
3イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
4それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
5イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
6ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
8.しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
9イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
10人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

                      【注釈】
【講話】
■ザアカイ物語の解釈
 今回の物語がどのように解釈されてきたかをボヴォン『ルカ福音書』(2)(601〜602頁)から紹介します。
〔アンブロシウス〕ミラノの司教アンブロシウス(340頃〜97年)は、ザアカイが、その信仰の美徳によって木に登ることで初めて、自己の誤り(罪)を見ることができ、イエス様に出会うことができたとして、人はだれでも「この世」という「地上にいる間は、イエス様を見ることができない」と説いています。彼は「木のたとえ」をさらに拡大して、実を結ばない無益な無花果の木をユダヤ人の宗教にたとえ(ルカ13章6〜9節)、ザアカイはその無益な木を「踏みつける」ことで実を結ぶ木になることができたが、その「実を結ぶ木」も、元はユダヤ教という木に接ぎ木されたものであると指摘しています(ローマ11章16〜24節)。アンブロシウスはさらに、貧しい盲人と金持ちのザアカイの二人の救いを比較して、富それ自体には罪がなく、富を正しく用いることを知らないところに罪が生じるとも言います。彼は、ユダヤ教を枯れ木にたとえ、キリスト教を実を結ぶ木に見立てたのです。
〔アルベルトゥス・マグヌス〕「大アルベルトゥス」(1200年頃〜1280年)は中世カトリック教会の博学な知の巨人です。彼の解釈によれば、イエス様がザアカイの家に入るまで、この徴税人の家は地獄であり、信仰と勇気において「背丈の低かった」彼ではあるが、十字架という「木に登る」ことでキリストに学ぶ者への模範となることができたのです。彼はまた、「木から降りて」イエス様に出会うことで謙虚な者にされたとも説いています。ザアカイの家は、かつて「この世の罪の家」であったのが、イエス様を受け容れることで「聖なる家(教会)」に変貌したことになります。アルベルトゥスは、木を十字架にたとえて、これに登りこれを降ることで「キリストに見習う」者になるべきだと解釈したのです。
〔エラスムス〕しばしばルターと比較対照されるオランダの人文主義者エラスムス(1466年〜1536年)は、ザアカイの内面に宿る美徳に目を留めて、この徴税人の美徳をファリサイ派の悪徳と対照させています(ルカ18章9〜14節のたとえ)。ザアカイは本質的に美徳を宿す者であって、木に登ることで初めて、キリストが受肉した神の子であるのを観ることができたと解釈します。ザアカイが信仰によって登らなければ、その桑の木は「実を結ばぬまま」であったろう。しかしザアカイが、自分の財産から四倍にして償うことで、その木は愛という「霊の実」を結んだことになります。イエス様こそ、ザアカイに潜む義の心を見抜き、ザアカイの信仰と敬虔によって、彼が「アブラハムの子」であることを認めたとエラスムスは言うのです。
〔ルター〕ドイツの宗教改革者マルティン・ルター(1483年〜1546年)によれば、ザアカイは、「神を捜し求める人間の魂」の複雑で矛盾した性質そのものです。ザアカイは美徳と悪徳の間を揺れ動いています。人間は、その心に、自分でも気がつかない意志と真理を潜ませています。たとえどのような善行でも、そこに心が宿らなければ、主の目からは空しいのです。徴税人の魂は、それが求めているものを求めようとせず、求めてもいないものを求める。魂は本当は何を求めているのかを自分でも知らないからです。ルターは、主を歓迎しながら求めている「ふりをするだけの」群衆とザアカイの「魂の格闘による主との出会い」を対照させるのです。
■ザアカイの出来事
 ザアカイの出来事は、ンザレのイエス様を通じて神が顕された絶対的な赦しの恩寵を証しする出来事です。これをどのようにでも解釈することができます。しかし、この出来事に、パウロがローマ人への手紙で証しするように、ユダヤ教の無益性とキリスト教の優越性を読み取ることはできません。ザアカイは、根が善良だったから救われたと言うのも正しくありません。彼が悪人だったから救われたと言うのも正しくありません。彼が桑の木に登ってイエスを求めたから救われたというわけでもなさそうです。彼の救いの出来事を彼の内面に潜む正しさに見出そうとする理由づけも、たとえその内面の格闘がどんなに複雑で真摯な心から出ていたとしても、彼の救いの出来事を理由づける根拠にはならないように思われます(今回の記事はそのような心理的格闘には全く触れていません)。この出来事が伝えるイエス様の絶対無条件とも言える愛と赦しには、どのような理由づけも合理的な判断も通用しない不思議な謎が秘められています。ただ分かるのは、出来事が「働きかけた」ことだけです。その結果、始めは、イエス様が「罪人の家」に泊まったと人々は批判します。ところが、ザアカイは、自分の罪を認めて、4倍の償いを自発的に申し出ます。イエス様の御臨在するところでは、常にこういう不思議な「恩寵の出来事」が生起します。実は、昨日(2017年4月27日)、アリゾナの石田さんと、日本での同性愛者の救いについて電話で話し合ったのですが、同性愛の人でもイエス様の赦しの恩寵に与ることが十分ありえます。放蕩息子の話の時にも言いましたが、イエス様を通じて掲示される「恩寵の神秘」は、放蕩息子の物語にでてくる「父」が次男に示した好意の謎に通じるものです。神が、イエス様の人格的な霊性を通して啓示する出来事は、愛と赦しであることに異存はないものの、神からのこういう慈愛の業に何らかの合理的な理由づけ与えようとすれば、必ず漏れ落ちてしまうものがある、この物語は、わたしたちに、まさにこのことを示唆してくれる思いがします。
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