【注釈】
■ザアカイの物語
 ルカは、マルコ福音書のエリコでの盲人の癒やしとイエス一行のエルサレム入城との間に、ザアカイの回心とムナのたとえとベタニアでの油注ぎを挿入しています。しかし、ルカ19章のムナのたとえは、マタイ25章ではタラントのたとえとして、イエスがエルサレムで終末について語る一連の説話の後に、10人の乙女のたとえとペアで語られています。ルカ福音書のムナのたとえも、その内容から判断して、マタイ福音書のタラントのたとえと同様に、終末にかかわるたとえとして扱うほうが適切だと思われます。また、ベタニアでの塗油は、四福音書ともにエルサレムでの出来事と一体化して扱われています。したがって、今回のザアカイの出来事は、ガリラヤからユダヤにいたるイエスの旅をしめくくる出来事になります。ルカもこの事を意識しているのでしょうか、この物語には、罪人の赦しと回心と救い、これに向けられる批判、一般的な価値観の逆転など、ルカ福音書特有の「排除された者たちへの福音」の特徴がすべて含まれています〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)592頁〕。ここは、ルカ15章の放蕩息子の物語に次ぐ重要な出来事だと言えましょう。
〔物語の構成と特徴〕
 今回のザアカイの物語は、わたしたちに何を語ろうとしているのでしょうか?その構成に従って順に見ていくことにします。
(1)1~4節での主役はザアカイです。彼はイエスを見ようとする気持に突き動かされて桑の木に登り、その熱意が応えられてイエスと出会い、思いがけない回心を体験します。だから、この物語全体がザアカイを軸に展開しているという解釈があります。
(2)5~6節へ来ると、今度は焦点がイエスに移ります。イエスが評判の悪い徴税人の「罪人ザアカイ」を呼び出して、「彼の家に泊まる」と告げると、ザアカイは喜んでイエスを受け容れます。この物語は、ルカ5章27~31節の徴税人レビの召命と重なることが指摘されていますから、これを罪人を救うイエスの物語として読むことができます。
(3)7~8節に来ると様子が変わります。ここで「群衆/人々」が登場しますが、群衆は3節にでてきて、ザアカイがイエスと出会うきっかけを間接的に作っています。「人々」のこの存在が「人々のつぶやき」(7節)となり、ザアカイとイエスに批判が向けられます。この批判とこれに対する答えこそ、この物語の焦点だという見方もあります。ザアカイは、イエス(と批判する人々)に、自分の財産の半分を貧しい人たちに施す」と宣言します。彼の言葉には、自分を「罪人」と見なす人々の誤認と偏見を正す意図がこめられているという見方があります。同時に、ザアカイのこの善行がイエスから認められ、彼の正しさが立証されたという解釈もあります。これとは反対に、ザアカイの「これ見よがし」の行為を批判する解釈もあります。ここでは、ザアカイの回心と、彼も「アブラハムの子」であったことをイエスが立証するという構成になっています〔ボヴォン前掲書593頁〕。
(4)9~10節では、この物語にもう一つ大事な点が潜んでいることに気づかされます。それは、この物語には、イエスから示される「救い/恵み」を受けるザアカイの側に、それにふさわしい信仰も、悔い改めも、赦しや救いをもたらすような行為も、何一つ見あたらないことです。この物語では、救いの恵みが、イエスを通じて、言わば「絶対無条件に」授与されるのです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1220頁〕。これは、放蕩息子を出迎える父の行為をも上回るほどの不思議な謎です。この謎は、この物語が、ルカや彼以前のキリスト教徒によって意図的に作られたものではなく、エリコという特定の場で、イエスと出会った「ザアカイ」という人の身に生じた「出来事」それ自体から発生してくるものです。「出来事」は、人の意図や思惑に左右されることなく生起しますから、どのようにも解釈できるのです。
 このように見ると、ザアカイの物語は、ザアカイとイエスと、どちらが物語の主役なのか?という疑問を生じさせるだけでなく、いろいろが解釈を誘い出す重層的な意義を帯びているのが分かります。
〔資料問題〕
 文献批評は、聖書の物語をその文学様式によって決定しようとします。ブルトマンは、今回の物語を19章8節のザアカイの言葉(これにもルカの編集が加えられている)を核にして構成された「伝説」あるいは「逸話」だと考え、物語全体が、ルカの手によってザアカイの回心物語として理念的に創出されたものだと見なしました〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(1)(原書は1931年)59頁/101頁/262頁〕。
 しかし、ブルトマンのルカ創出説は現在では支持されていません。物語は、ルカの創出ではなく、彼の独自資料(L)によるもので、これにルカが手を加えたと考えられるからです。1節と10節は物語本体とは関わりが薄いため、ルカの手による追加と見なされていましたが、10節はイエスの言葉として別個に伝承されてきたものが、ルカによってここに加えられたと考えられます。
 問題は8節です。ブルトマンは、民衆がつぶやく7節から、つぶやく人々にイエスが答える9節へつながるほうが自然だから、8節はルカによる創作と挿入だと見ています。しかし8節は、ルカの編集が加えられているとは言え(例えば「主よ」)、ほんらい独自資料に組み込まれていたと見ることができます〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1219頁〕。9節の「この人もアブラハムの子」はイエスの言葉にさかのぼると見られること、エリコという場所、ザアカイという名前など、この物語は、ルカによる創出ではなく、史実に基づく出来事を核にして形成されたと見ることができます〔マーシャル『ルカ福音書』695頁〕。
 ボヴォン『ルカ福音書』(2)(2013年)593~95頁によれば、この物語は、3~4段階の形成過程によって重層的な意味を帯びるにいたったと考えられています。8節はルカ独自の資料(L)に属するもので、Lの段階で、裕福なキリスト教徒たちが、自分たちの富をどのように用いるべきかについて、貧しい信者層からの批判に答えようとして8節が形成されたと見ています。10節には「イスラエルの失われた羊」を見出そうとするイエスの言葉が反映しています(エゼキエル書34章)。Lよりもさらに古い層では、パレスチナの民衆の間ではまだ少数派であったイエスの信者たちが、自分たちも「アブラハムの子」であると主張しています。ルカは、「エリコのザアカイ」という特定の場所と人名によって、この物語が史実に基づく「イエスの出来事」であることを見失わず、その出来事が秘めている謎をそのままよみがえらせようとしているのです〔ボヴォン前掲書595頁〕。
[1]1節はルカによる導入ですが、地名と人名はルカの独自資料からです。
【通る】原語は「(エリコを)通り抜けようとしている」で、「ベツレヘムへ<向かおう>」(2章15節)/「人々の間を<通り抜けて>」(4章30節)など、ルカがしばしば用いる語です。イエスがエルサレムへ向かってまっすぐ歩んでいく様を描くものです。
[2]【ザアカイ】ギリシア語読みの「ザッカイオス」はヘブライ名「ザッカイ」からです(エズラ記2章9節/ネヘミヤ記7章14節)。ヘブライ語「ザーカー」(清く透明である)から出た名前です。
【徴税人の頭】この役職がでてくるのは聖書中でここだけです。パレスチナには徴税所が数多くありましたが、ヘロデ時代のエリコはエルサレムへ巡礼に向かう要地でもあったから、ここに徴税の総責任者がいたのでしょうか。「しかも彼は(大)金持だった」とあるのはその「役得」のためでしょう。2節には「しかも彼は」が二度繰り返されています。
[4]【先回り】走って群衆よりもずっと先に出たのです。「群衆の先頭まで走って」という異読もあります。木に登らなくても、通常のパレスチナの家なら屋根の上から見ることができますから、出会いの場はエリコの街を離れた郊外だという推測があります。しかし、ヘロデが建てた当時のエリコはローマ風ですから、大通りに街路樹があってもおかしくありません。
【いちじく桑の木】ギリシア語「シュカモレア」は、ヘブライ語では「シクマー」で「いちじく桑」のことです(イザヤ書9章9節/アモス7章14節/詩編78篇47節)。いちじくに似た小さな実をつけるのでこの名前で呼ばれています。10メートル以上になる大木で、幹の太さも1~2メートルほどで、比較的低いところに枝を伸ばす木です。イスラエルでは、ガリラヤなどの北部にもありますが、寒さに弱いので南部に多く生えていました。イエスが「抜け出して海に根をおろす」(ルカ17章6節)と言ったのもこのいちじく桑のことでしょう〔廣部千恵子『新聖書植物図鑑』56~57頁〕。
[5]【その場所に来ると】ここは次のような異読があります。「イエスが通りかかると彼(ザアカイ)を見て彼に告げるという出来事が起こった」(It happened, in his passing through, that Jesus saw him and said to him )。この読みだと、5節が物語の大事な中心になります。
【ぜひ泊まりたい】これはイエスの強い願いですが、直訳すれば「(神のはからいによって)今日は、あなたの家に泊まるよう定められているのだから」です。「泊まることになっている」〔塚本訳〕。"I must stay"[NRSV]〔REB〕。「今日」と「あなた」が強調されているから「急ぐ」のです。
[6]【迎える】客として受け容れること。
[7]【人たちは皆】ここには弟子たちも含まれているのでしょうか(ルカ3章15節を参照)。
【つぶやいた】不満を抱いて文句を言い続けること(ルカ15章2節)。「入って宿泊する」はその家の人と親しく交わることを指すから。
[8]【立ち上がって言った】改まった態度で謹んで宣誓するように言うことです。彼はこれを「家の中で食事の後で行なった」と推測する説もありますが確かでありません。
【施します】原語は「与える」ですが、この動詞は後の「返す/戻す」とともに現在形です。このため、ザアカイは「うわさされているような罪人ではなく、実際は、正直で貧しい人たちに施しをしていた人物だった」と見る解釈があります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1225頁〕。これだとザアカイは、人々の批判に反論して自慢しているような印象を受けます。この現在形は「これから行なおうとする」気持ちを表わすもので、イエスの思いがけない好意に触れて「圧倒された」結果の宣誓だと受け取るべきでしょう。「ご覧なさい。私の財産の半分を」とあるのも、彼の突然の発言であったことを示しています〔プランマー『ルカ福音書』434~35頁〕。
【だまし取った】原語は「偽りの訴えをする」。パレスチナのユダヤ人の家が、決められた徴税額を徴税人に支払わなかった場合、徴税人は裁判所に訴えることができました。しかし、この制度を悪用して、徴税人が「偽りの証拠をでっちあげて」余分に徴税額を上げることがあったのでしょう。徴税人はローマに対して年間の税の総額を請け負うという制度でしたから、個々の家からどれだけ徴収するかをローマ側は直接関知しませんでした。このため、徴税人は、不正に税額を上げて徴収することで、請け負った税額を上回る分を自分の役得とすることができたのです。
【四倍にして】四倍にして償うのは、ユダヤ教の律法では最も厳しい弁償に入ります(出エジプト記21章37節/サムエル記下12章6節を参照)。償う側が自発的に弁償する場合は、弁償額の5分の1を加えると定められています(民数記5章7節)。ただし、今回の場合、そのような法的な決まりを意識したのではなく、ザアカイは、イエスへの感謝の気持から、多分の賠償を申し出たのです。
[9]9節の冒頭の原文は「そこでイエスは彼に向かって言った」ですが、「彼に向かって」を「彼について」と解釈することもできます。このため、イエスは、批判する群衆に向かってザアカイのことを弁護したという説があります。しかし、ここでは、ザアカイをも含めて周囲の人たち全員に語ったと見るべきでしょう。
【救いがこの家を】イエスは、救いが、「今日」という時に「この家」という場において生起した「出来事」であることを強調しています。出来事はどのようにも解釈できますから、これを「アブラハムの子」と関連づけているのです。
【アブラハムの子】原文は「なぜなら、この人も(確かに)アブラハムの子だから」です。
古代の教父たちは、「アブラハムの子」をパウロが言う霊的な意味に理解して、ザアカイがイエスを信じて与えられた信仰による救いの恵みを指していると解釈しました。しかし、イエスはここで、彼がイスラエルの民の一員であることをあげて、今回の救いの出来事を理由づけていると見るほうが適切です。洗礼者ヨハネがイスラエルの民に「悔い改めの実を結ぶまでは、アブラハムの子だと思うな」(ルカ3章7節)と告げていますが、ザアカイはここで、「アブラハムの子」にふさわしく悔い改めの実を結んで、洗礼者の教えを成就していると指摘されています〔ボヴォン『ルカ福音書』〕(2)600頁〕。人でなしのように言われるこの人も、やはりあなたたちと同じアブラハムの末(すえ)だから」〔塚本訳〕。
[10]10節は「失われた者が見出される」というルカ福音書の救いの特徴をよく表わしています(ルカ5章32節)。しかし、ここは「ルカ自身による創出」ではなく、真正のイエスの言葉として独立して伝えられたものをルカが物語の最後を締めくくるためにここに置いたのでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』698~99頁〕〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1222頁〕。10節にはエゼキエル書34章(とりわけ16節)が反映していて、自(みずか)ら「イスラエルの羊飼い」としてイエスが語った真正性を帯びています。「人の子」とあるので、ブルトマンは、この名称をユダヤ黙示思想が神話化されてヘレニズムのキリスト教会で用いられたものだと見て、10節は後の教会による創出だと見なしました〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(1)262頁〕。しかし、この見方は誤りです。「人の子」がユダヤ黙示思想と関連するのはその通りですが、イエス自身がその黙示思想を生きていたと考えるほうがより適切です。また、「人の子」が生前のイエスのものでないという前提も誤りです。イエスは自分を指して「人の子」と言い〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)184頁〕、そこにダビデ的なメシア像よりも、黙示的でしかも第二イザヤが預言した「受難の僕」としての「人の子」像を読み取っていたと見ることができるからです〔マーシャル前掲書〕〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1226頁〕。
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