165章 エルサレム入城
マルコ11章1〜10節/マタイ21章1〜11節/ルカ19章28〜40節
■マルコ11章
1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
4二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
6二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
7二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
9そして、前に行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
10我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
■マタイ21章
1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
3もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
10イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
■ルカ19章
28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
32使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
33ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
34二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
38「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
【講話】
■シュロの典礼
今回の箇所には、イエスに命じられた通りに弟子たちが準備していること(マルコ14章12〜17節/マタイ26章17〜20節/ルカ22章7〜14節)、イエスが「ユダヤ人の王」であること(マルコ15章2節=マタイ27章11節=ルカ23章3節=ヨハネ18章33節)、「主の名によって来たる者に祝福あれ」(マタイ23章39節=ルカ13章35節)などが含まれていて、これ以後のイエス様をめぐる受難の出来事を予想させていると言われています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)128頁〕。
この見方は、共観福音書以後の教会に受け継がれていきます。4世紀頃のパレスチナの教会では、受難に先立つ「棕櫚(しゅろ)の日曜」に、司教に率いられた会衆がオリーブ山で午後を過ごし、午後5時頃に入城物語の朗読があり、それから、子供たちは小枝とシュロの葉を手にして、会衆全員が徒歩で山の麓にある復活教会へ向かったと記録されています。これは、会衆と共に今も御臨在くださる復活のイエス・キリストを悦び祝うためです。この「シュロの行列」は以後の教会の典礼に受け継がれます。ヨーロッパ中世の典礼では、「ホサナ」の代わりに「グロリア(栄光)」が歌われ、イエスのエルサレム入城は、罪と死を克服した復活のイエス・キリストの凱旋として祝われました(この解釈を最も鮮明に提示しているのはヨハネ12章12〜19節です)。ちなみに、シュロの枝は、死に打ち勝った命の君イエスの勝利を表わすから、シュロの木は死に対する命の勝利を象徴するものと見なされて、行列で用いられたシュロの小枝は「シュロの聖別式」で特別な力を帯びる物とされて、参加した人々は厄除けのために家々に持ち帰ったと言われています。罪と死に勝った栄光のイエス・キリストを祝うシュロの行進を祝う典礼は、カトリック教会で現在も受け継がれています〔カトリック教会「受難の主日(枝の主日)」2016年3月20日の「聖書と典礼」参照〕。この典礼には「福音の全体像」がこめられているからです〔ルツ『マタイ福音書』(3)235〜36頁〕。ただし、この典礼は宗教改革以後のプロテスタントの諸教会では廃れ、これに伴う「シュロの功徳」も失われたようです。
■神の出来事
共観福音書に限らず、聖書に記されている「出来事」は、新聞記事が伝えるような「その日限りの」事としてではなく、それが後の世まで伝えられる出来事として描かれています。こういう描き方は、聖書に限らず文芸など芸術作品でも用いられます。トルストイの『戦争と平和』(ロシアとフランスのナポレオン戦争)、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』(アトランタを巡るアメリカの南北戦争)、ディケンズの『二都物語』(フランス革命とイギリスを結ぶ物語)、我が国の『平家物語』(源氏と平家の一連の闘い)などは、それぞれの出来事を「過去の歴史」として伝えるだけでなく、作品を通じて、その出来事が「今もなお」わたしたちに大事なことを語り続けています。「出来事」とは、それが起こっている最中も、それが完了した時も、それ以後も、その時その時に応じて、無数の「解釈」を生じさせるからです。しかもその解釈は、時代と共に変化し、変化しながら「その時起こった事」の意義がいっそう深められます。出来事には、このような不思議な力が宿っているのです。
こういうことを言うのは、現在のキリスト教界では、歴史的な人間存在としてのイエス(史的イエス)を復活して神の子と信じられているキリスト、すなわち教会が伝える「キリスト」から区別して考える傾向があるからです。福音書は「史的イエス」を語っていないという主張も、福音書は「復活したキリスト」を語っているという主張も、どちらもナザレのイエスと復活したイエス・キリストとを区別するところから生じる見解です。わたしが「イエス様の出来事」と言うのは、上に述べた「二つの」イエス・キリストを一つにして見る言い方です。改めて言うまでもないことですが、イスラエルの民なしに、ナザレのイエス様の存在はありえません。ナザレのイエス様が地上に生まれなければ、イエス様の復活もありえません。したがって、教会が復活したイエス・キリストを信じるという「出来事」も起こりえません。これら<一連の出来事>は、地上にお生まれになったナザレのイエス様なしには、決して起こりえなかった「出来事」です。共観福音書の記者たちは、これら一連の出来事を<こういう視点から>見て、「ナザレのイエス様の出来事」を伝えるために書いているのです。当たり前のことですが、これを確認するのは大事です。
出来事が、特に神によって生じたと信じられる場合に、それは「神の言葉」と見なされます。出来た「事」が神によって語られた「言」(こと)と同じだと見なされるのです。神は、生起する(ヘブライ語「ハーヤー」)「こと」(事)を通して「こと」(言)を発するのです。「ハーヤー」(生起する)は、聖書の神の名前である「ヤハウェ」の語源につながると考えられます。このように、「神による」出来事を語ることは、神の言葉を語ることと同じです。神が言葉を発するとは、神の霊が働くことと同一だと見なされますから(創世記1章1〜3節)、神の出来事は神の霊言です。
今回のイエス様の出来事のように、それが旧約聖書で預言された出来事として扱われる場合は、神の「言」が神の「事」として成就したことを意味しますから、起こった出来事が、それ以前からの出来事と結びつけられます。だから、イエス様のエルサレム入城の出来事は、過去の預言に基づくと見なされるのです。それだけでなく、このように預言され成就された神の出来事は、それ以後の出来事へもつながることになります。神の出来事は、このように、過去の出来事を現在の出来事へ結び、そうすることで未来の出来事へつながるのです。
神の事を語るのは、一般に「神話」と呼ばれています。しかし、いわゆる「神話」には、特定の「出来事」に不可欠な「時」が存在しません。ギリシアの神話も日本の神話も、「昔々」から始まって今も続く無時間の世界で語られます。ゼウスもアマテラスも、歴史に実在した人物ではありません。だから、このような神話の語り方では、聖書の神の出来事を伝えることができないのです。「神の出来事」を伝える語り方として最も適切な方法を創り出したのが、旧約聖書の記者たちです。とりわけ、創世記から列王記上14章まで(?)を編集し記述したと見なされている「ヤハウィスト」(南王国ユダの後期から捕囚期にいたる人?)と呼ばれる叙事作家の語りの手法は、後のヘブライの聖書記者たちの語りの手法に大きな影響を与えました。ヤハウィストに限らず、旧約聖書の語りの手法は、新約の記者たち(ユダヤ人キリスト教徒)に受け継がれます。
■出来事の典礼化
イエス様のエルサレム入城の物語は、ゼカリヤ書の預言と結びつきながら、それ以後のイエス様の受難と復活の出来事につながるものです。入城の出来事は、それが実行されている最中にあっては、この出来事に秘められている「ほんとうの意義」が、弟子たちからもそこに集う人々からもまだ隠されています。イエス様の誕生、イエス様の入城、イエス様の受難と復活、イエス様の御霊の降臨、これら神によって生起した一連の「事」が、神が語った「言」として啓示され、人々に理解されるのは、その全体像が明らかにされてからのことです。起こった一連の出来事が、神によって語られた「事」であり「言」であることが啓示されて初めて、それが「福音」と呼ばれるようになり、この福音が、神の「お言葉」(英語では単数のThe Word)として弟子たちによって語られるのです。
ここまで来ると、イエス様のエルサレム入城は、人々は言うまでもなく、ひょっとするとイエス様ご自身さえもその時には知らなかったかもしれない(?)意義を帯びるようになります。4世紀頃の教会は、イエス様のエルサレム入城に「福音の全体像」を象徴させる意義を見出していました。しかし、イエス様の入城の出来事を描く際に、マルコ福音書の記者はこれだけの意義を読み取っていたでしょうか? マタイ福音書の記者はどうでしょうか。ルカ福音書の記者は(ヨハネ福音書の記者も)、おそらくその意義を感じとっていたようです。4世紀の教会が入城にこのような意義を見出したのは、この出来事が、当時の教会によって祭儀化され、「典礼化」されていたからです。祭儀として「典礼化」することによって、その出来事に含まれる過去と現在と未来の「時」が一体化されて、その全体像が明らかになるのです。いったい、聖書の出来事を「解釈する」とは、どういうことを意味するのか? わたしたちはここで、聖書解釈の大事な問題に突き当たります。
■典礼の変容と更新
典礼は過去・現在・未来を一つにして、その時々の人たちに対応して出来事の意義を伝えます。しかし、このために典礼化された出来事は、時代と共に、次第にそのほんらいの出来事が指し示していた意義からそれて、典礼の意義が変容するのを避けることができません。このゆえに、典礼は、常に新しく解釈し直されなければならないのです。神の「言」が「事」となる出来事は歴史的に一度限りです。イエス様のエルサレム入城は、後にも先にもない一度限りの出来事、その時その場に働きかける神の御霊によって生じた出来事です。しかも、その出来事が、イエス様の受難と復活から降る聖霊によって弟子たちに伝えられ、それ以後の教会においても、その時その場のそれぞれの人たちの信仰に応じて「再現される」のです。だから、わたしたちは、典礼化されて伝えられたイエス様の出来事を今に生きるために、伝えられた出来事のそもそもの意義を常に問い直すこと、言い換えると、かつて起こった出来事をもう一度そのほんらいの時に戻して、その意義を新たに問い直すことを忘れてはならないのです。聖書の神が語られる聖書の出来事のほんらいの意義を求めて解釈し直すことを忘れてはならないのです。学問的な探究が必要なのはこの理由によります。
出来事を祭儀として伝える典礼化は、これに基づく祭儀を通じて、人々の集合体であるエクレシアを統一しますから、エクレシアに画一化をもたらします。わたしたちは、典礼化された出来事がほんらい帯びていた一度限りの出来事の意義を問い直すことによって、その出来事を生じさせ、その出来事を担った一人一人に働きかけた神の御霊の御臨在を改めて確認し、そうすることで、画一化されたエクレシアの一人一人に、個人としての御霊の働きかけをよみがえらせ、これを通して、復活のイエス様の証人となるよう求められているのです。
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