【注釈】
■ルカ19章41~44節
 ルカ福音書の今回の箇所は、直前の19章37節での弟子たちの歓呼と鋭い対照を見せています。イエスをダビデ的なメシア王の凱旋として喜ぶ弟子たちとこれを出迎える民衆に囲まれながら、イエスはエルサレムのために嘆くのです。今回から一連のエルサレム伝道が始まりますが、イエスは、自分がエルサレムでは拒否されること、その結果、受難にいたることをすでに予知しています。しかし、イエスが嘆くのは、自分の受難のことではなく、「エルサレムの受難」ほうです。イエスを拒否することで、エルサレムは、悔い改めへの「最後の機会」を失うからです。弟子たちと民衆が歓呼するのはダビデ的な王としてのメシアです。しかし、イエスのほうは、民と国のために、預言者的なメシアとして嘆くのです。
〔資料問題〕
 共観福音書には、今回のイエスのエルサレムに対する預言と類似した箇所がほかに2箇所あります(ルカ13章34~35節=マタイ23章37~39節)。今回の出来事は、ルカの独自資料(L)からですが、ルカ福音書とマタイ福音書の並行箇所のほうはイエス様語録からです。イエス様語録(QS49)の出来事のほうは、裁きに関する一連の語録の中に置かれています。だから、イエス様語録の出来事のほうは、これをイエスのエルサレム訪問の前に置くルカ福音書よりも、エルサレムでの終末に関する教説の中に置くマタイ福音書の配置のほうが適切です〔ヘルメネイアQ420~23頁〕〔マックQ98頁〕。
 今回の記事についてブルトマンは、エルサレムの滅亡<以後に>ルカ自身かあるいは教会によって創出され、すでに起こった出来事をあたかもイエスが預言したかのように、これをイエスの口から語らせている「事後預言」だと見なしました〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(Ⅰ)64頁〕。しかしこの見方は現在支持されていません。
(1)今回の箇所の文体がルカ的ではなく、アラム語的な特徴を有するからです(特に44節)〔マーシャル『ルカ福音書』716頁〕。したがって、今回の記事はルカの独自資料からで、彼はマルコ福音書の出来事に沿いながら、ここに独自資料を挿入していると見ることができます。
(2)イエスの言葉が、将来起きるエルサレムの出来事というよりも、むしろ、旧約聖書を通じてイエスが熟知している出来事、かつてのエルサレムの滅亡とそのことへの預言(イザヤ書29章1~4節/エレミヤ書6章6~8節/同16~19節/ハバクク書2章8節)を色濃く反映しているからです。この点は、ブルトマンの説への批判として早くから指摘されてきたことです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1255頁〕。
(3)エルサレムの滅亡<以前から>、エルサレムの滅亡を預言したのはイエスだけではありません。「アナニアスの息子イエス」と呼ばれる人物も、62年頃から7年半にわたり、エルサレムの滅亡を預言し続けたことがヨセフスによって記録されています〔ヨセフス『ユダヤ戦記』6巻5章300~309節〕。このように、当時のパレスチナで、エルサレム滅亡を預言した人はイエスのほかにもいたのです。
 ただし、今回の記事の詳細部には、70年のエルサレム包囲と滅亡の出来事も反映されています。したがって、今回のルカの記事は、ルカの独自資料によるものであり、その資料は、イエスが幾つかの機会に語った言葉にさかのぼると考えられます。ただし、今回の記事は、かつてのネブカドネツァルによるエルサレム滅亡を記した旧約聖書の記事を踏まえていて、さらにルカによって(?)、70年に起こったエルサレム滅亡の出来事もここに反映していると見るのが最も適切でしょう〔フィッツマイヤ前掲書1255頁〕。
■ルカ19章
[41]原文には、ただ「市に近づいた時」とあって「エルサレム」はでてきません。
【泣いた】その市のために「泣いた」ので、イエス自身のためではありません。「声を上げて泣き出された」〔塚本訳〕。これは伝統的に「預言者の涙」です(列王記下8章11~12節/イザヤ書22章4節/エレミヤ書8章23節)。
[42]【もしこの日に】この句は、節の後半の「しかし今は」と対応して、イエスの願いが叶えられないことを表わし、さらに43節の「やがて時が来る」と対照されています。この句は、後半の「隠されている」と対応して、エルサレムの滅びが、神のはからいによって、もはや避けられないことを意味するのでしょうか〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1258頁〕。それとも、「もしもこの日に」は、「もしもお前さえその気になれば」、まだ悔い改めて滅びを避ける時が残されている事を言うのでしょうか。「きょうでも平安の道が見えたならば、まだ遅くはないのに!」〔塚本訳〕。神の「摂理(せつり)」とは、ギリシア的な運命でも宿命でも必然でもありませんから、預言者の嘆きと弾劾には、心を入れ替えることで「立ち帰る」道がまだ残されていることを含むのでしょう。滅びへの預言と弾劾が救いへの可能性を創り出すというこの矛盾・逆説は、イザヤ書42章18~20節とエレミヤ書5章21~25節を反映していて、こういう預言は、新約聖書でも、その全体を流れる大事な主題になっています(マルコ8章18節/ヨハネ12章39~40節/使徒言行録28章25~27節など)。
【お前が】「もしもこの日にお前も知ってさえいれば」と「お前」が強調されています。この部分には「もしもお前が、少なくとも、お前のこの日に、お前にとって平和になることを悟ってさえいれば」(直訳)と「お前」がくり返される異読があります。これがエルサレムにとって「最後の救いの時」であると言おうとしているのです。
【平和への道】原語は「平和へ向かう物事(複数中性の定冠詞だけで表現)」です。"the things that make for peace" 〔NRSV〕/"the way that leads for peace"〔REB〕。内容から判断して、「平和」とは「戦いのない状態」のことです(ルカ14章32節と同じ)。
 今回の箇所には「エルサレム」という語は直接でてきません。イエスのここの言葉が、その名を示唆しているだけです。それでも、この場を借りて「エルサレム」の呼び名について見ることにします。前回の「エルサレム入城」の記事では、四福音書の表記はギリシア語読みで「ヒエロソリュマ」です。ヘブライ語の「エルサレム」については、先ず「シャーレムの王、メルキ・ツェデク」(創世記14章18節)があります。次に「アドニ・ツェデク、イルーシャラィームの王」(ヨシュア記10章1節)とあって、これが聖書で「エルサレム」が出てくる最初です。これは「平和の所有/平和の基」を意味する双数(二つを指す)から出た名前で、双数はエルサレムがシオンの丘とモリヤの丘の二つの上に建てられているからだと思われます〔Easton's Bible Dictionary〕。これがアラム語で「イルーシャレム」(エズラ記4章8節)、あるいは「イルーシャレィム」(ダニエル書5章2節)になります。この固有名詞のほんらいの意味は失われたと思われますが、「シャーレム(平和)」の原義は、ヘブライ語の「シャーローム(平和)」とアラム語の「セラーム」として伝わっていたでしょう(詩編76篇3節参照)。フィロンはこの名前を「平和のヴィジョン/平和を見る」と解釈しました〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1256頁〕。「『平安を見る(エルサレム)』という自分の名のように、きょうでも平安への道が見えたならば」〔塚本訳〕。新約聖書では、「メルキゼデク」の名を「義の王」であり「サレムの王、すなわち『平和の王』」と紹介しています(ヘブライ7章2節)。今回のイエスの言葉には、その背景として詩編147篇12~17節を想定することもできますが、確かでありません。
[43]~[44]【敵が周りに堡塁を】語法的に見て、七十人訳のイザヤ書29章3~5節やエゼキエル書4章2節の預言が反映しています。これらの預言は、かつての新バビロニアによるエルサレムへの包囲攻撃の出来事から出ているのでしょう。ところが、紀元70年のエルサレム陥落の際にも、ティトスの率いるローマ軍は、エルサレムの城壁の前に高い堡塁を築いて攻撃しましたから、ここは、その事実を踏まえたルカによる編集ではないかとも言われています。「取り囲む」は、堡塁のことだけでなく、大軍勢に包囲攻撃されることです。
【お前の子ら】エルサレムの住民のことですが、字義どおりに「子供たち」も含まれていることを示唆するのでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』719頁〕。
【石を残らず崩して】マルコ13章2節=マタイ24章2節=ルカ21章6節を参照。これはサムエル記下17章13節にさかのぼるのでしょう。
【訪れの時】七十人訳のエレミヤ書6章15節には「そして訪れの時に彼らは滅びる(と主は言われる)」とあります。ただし、裁き罰するための「訪れの時」と、「神が恵みをもって訪れる」(創世記50章24節)という善い意味とがあります。ヘブライ語の「パーカッド」(訪れる/罰する/責任を問う)は、ほんらい、帝王がある都市を視察する目的で「訪れ」、そこで賞罰を与えることを指すのでしょう。
 43~44節で語られる悲惨な場景は、ヨセフスの『ユダヤ戦記』6巻8章374~377節/403~408節〔秦剛平訳『ユダヤ戦記』(3)185~190頁〕で語られる70年のエルサレム陥落の出来事とも類似しています。紀元前の捕囚前のエルサレム陥落の出来事とイエスの預言と紀元後のエルサレム陥落の出来事が、このように関連し合い類似した語り方がなされるのは、これらが「神によって生じた出来事」だからです。旧新約聖書は、「神による」出来事を伝える語り方を知っていますから、預言者たちもイエスもヨセフスも「この語り方」で伝えるのです。
                      戻る