167章 神殿を浄める
    マルコ11章11節/同15〜19節/マタイ21章12〜17節
    ルカ19章45〜48節
 
■マルコ11章
11こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
 
15それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。
16また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。
17そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」
18祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。
19夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
 
■マタイ21章
12それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
13そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」
14境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
15他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
16イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
17それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。
 
■ルカ19章
45それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
46彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
47毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
48どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
                      【注釈】
【講話】
■イエス様と神殿
 今回のイエス様の神殿浄めの出来事は、イエス様の批判が、神殿の犠牲の献げ方に向けられていたのか、神殿が形成する制度に向けられていたのか、それとも神殿の存在それ自体に向けられていたのか、いろいろ議論されています。さらに、イエス様の神殿批判は、およそ40年後のエルサレム神殿の崩壊とユダヤの滅亡を預言するものだったのかどうか?という点も議論されています。
 エルサレム神殿が崩壊した時に、ユダヤ教徒たちは嘆きに打ちひしがれたでしょう。一方で、イエス様の神殿浄めの出来事と神殿崩壊への預言を知っていたキリスト教徒は、「やはり、預言どおりに神の裁きが下った」という想いを抱いたと言われています。これでは、キリスト教徒は、神殿の崩壊を「悲しまなかった?」ようにも聞こえます。けれども、イエス様が神殿を批判し、これの崩壊を預言した時に、イエス様が、その心の内に激しい悲しみと痛みを覚えていたことを前回のイエス様の嘆きは伝えています。思うに、当時のユダヤ人を含めて、神殿の崩壊を誰よりも悲しんだのは、イエス様ご自身ではなかったか、わたしはこう思っています。
 だからわたしは、イエス様の神殿浄めに対する上にあげた幾つかの批判のどれが正しいのか?という言うよりも、イエス様の神殿浄めの記事は、上にあげた全部を含んでいると思うのです。細かなふるい分けが無意味だというのではありませんが、わたしは今、もっと巨視的な視野から、この問題を見つめています。それは、いったい、人類が「宗教する」とはどういうことなのか?という根本的な疑問です。
■イスラエルの宗教性
 今回の出来事について、イエス様の当時のエルサレムの神殿制度が欺瞞と腐敗に満ちていたという論評や注釈をよく見かけます。わたしもそうで「なかった」とは言いません。けれども、それなら、当時のヘレニズム世界の諸民族の神殿や宗教制度が、エルサレムの神殿制度やユダヤの律法宗教よりも優れていたのか?と言えば、そうではなかったと考えています。むしろ、エルサレムの神殿制度は、当時のヘレニズム世界のいかなる宗教制度、いかなる神殿制度よりも宗教的にも霊的にもレベルが高く優れていた。こうわたしは観ています。
 現在(2016年)、パレスチナのイスラエルでは、イスラムの神殿が置かれている神殿の丘に、その神殿に代わって、かつて失われたエルサレムの神殿を再建しようという計画が進んでいると聞きます。わたしは、現在のイスラエルの人たちの神殿を求める宗教心とイエス様の頃のユダヤ人が抱いていた神殿への想いとが、それほど違うとは思えません。宗教的なレベルの高さから観れば、現在のイスラエルの宗教心とイエス様の頃の宗教心とは、その純粋性においてほとんど変わることがなく、しかも、どちらも、それぞれの時代の宗教心の最高レベルの霊性を保っている。こう思います。事「宗教」に関する限り、旧約聖書のイスラエルの民が到達した宗教性は、その律法観をも含めて、それまでの人類が到達しえた最も高いレベルの霊性に支えられていたからです。イスラム教や仏教やヒンズー教をも含めて、現在の世界でも、モーセ十戒を超える宗教的な高さと倫理性を見出すことができないという現実が、このことを物語っています。キリスト教の諸教会は、今のイスラエルの宗教よりも霊的に優れていると思いますが、それなら、一体どこがそんなに優れているのか? この点を改めて見直す必要がありましょう。
■「宗教する人」への批判
 イスラエルの宗教は、「シオニズム」などと呼ばれて、パレスチナでは、平和どころか最も激しい紛争の種になっています。イスラムやヒンズーや仏教やいわゆる「キリスト教」など、現代の人類の「宗教」は、世界において最も深刻な争いの種となり、イスラムの自爆テロに見るように、「宗教する人」でありながら、最も残忍で非人道的で邪悪な行為を正当化する手段と化しています。だから人類に宗教は要らないとか、「アッラー・アクバル」と唱えて自爆する人たちの行為は「宗教」とは関係がないなどと言う人たちがいますが、部外者たちのこういう「非宗教的な」評論は、自爆する人たちの信仰を無視するだけでなく、このような宗教不要論や非宗教化する見方からは、紛争を解決する有効な手段は生まれてこないのです。そうではなく、<宗教する>人類には、どういう欠陥が潜んでいるのか? 今回のイエス様のエルサレムの神殿浄めは、「宗教する人」に潜む真相を見極める上でとても重要で、人類の宗教に潜む欠陥を暴く大事な視点を教えてくれます。
 事は、出来事を非宗教化して見せたり、経済や政治レベルの分析で「解決」できると思い込むほど生やさしい事態ではありません。問われているのは、人類の最も優れて最も高度だと思われていた「宗教する人」としての有り様にかかわるからです。事態の深刻さは、非宗教的でもなければ、政治的、経済的なレベルの問題でもありません。事の真相は、宗教する人(ホモ・レリギオースゥス)としての人類の「宗教」それ自体が破綻していることなのです。イエス様の時代に比べて、現在のわたしたち人類(ホモ・サピエンス)には、キリスト教の教会があるから心配がないと思う人たちをも含めて、今わたしたちには、善くも悪くも「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)としての有り様が問われているのです。
■神殿浄めの意義
 わたしたちは、こういう視点から、イエス様の神殿浄めとこれの崩壊の預言の真意を悟ることができます。イエス様が批判し、その崩壊を預言したエルサレム神殿は、今も昔も変わらない人類の宗教そのものを具現する象徴にほかなりません。今回の神殿浄めの出来事は、イエス様が十字架される「直接の」きっかけになった出来事です。だとすれば、イエス様は「エルサレム神殿に携わる「宗教する人間」によって十字架された。こう見ることができましょう。イエス様は、エルサレム神殿を批判しましたが、それは神殿を大切に思う心から出たもので、神殿そのものを決して否定していません。むしろエルサレム神殿に携わる指導者のほうがイエス様を否定したのであって、イエス様のほうが神殿を否定していません。だとすれば、イエス様は、あの時あの場のエルサレム神殿の指導層だけでなく、人類の「宗教」そのものによって十字架された。言い換えると、当時のユダヤの指導者たち、すなわち最も高度だと見なされていた「宗教する人」が、イエス様を十字架刑にしたと見るべきでしょう。さらに驚くべきことは、イエス様は自分を十字架したまさにその「宗教する人」のために、彼らの罪を赦し、人類の罪を贖うために、己を神の神殿に犠牲として献げたという出来事です。四福音書やパウロ書簡を始め、新約聖書がわたしたちに証ししているのは「このこと」です。人間の罪は、人間が「宗教する」そのことに潜んでいるのであり、これがいかに恐ろしく、いかに巧妙で欺瞞に満ちているかをイエス様の十字架が暴き出しているのです。しかもイエス様の十字架は、暴く(裁く)ことで宗教する人間を赦し、赦すことで、人類を<その原罪>から贖いだして、新らしい人類、新しい「宗教する人」を創造するためだということです。 地上の生命の長い歴史が証ししているように、現在の人類(ホモ・サピエンス)にも、滅び去る時が、何時か必ず来ます。その時に、イエス様の十字架による贖いによって、現生人類から「新たに創造された」霊性を有する人類が、永遠の生命を宿す新たに「宗教する人」とされて、新たな「地を受け継ぐ」(マタイ5章5節)ことになるでしょう。「天と地は滅びる。しかし、わたしの言葉は滅びることがない」(マタイ24章35節)からです。
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