168章 枯れたいちじくの木
マルコ11章12〜14節/同20〜25節/マタイ21章18〜22節
■ マルコ11章
12翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
13そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
14イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
20翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
21そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
22そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
23はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
24だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
25また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
 
■マタイ21章
18朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。
19道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
20弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。
21イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
22信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」
                    【注釈】
【講話】
いちじくの木の解釈
 今回のイエス様のいちじくへの呪いは、「呪いの奇跡」として特異な出来事だと見なされています。マルコ福音書は、この出来事を神殿浄めの前後に分けて配置することで、これがエルサレム神殿に対する裁きを象徴していることをはっきりさせています。いちじくの木をユダヤの民あるいはその宗教の中核であるエルサレム神殿の象徴と見て、イエス様は天の父から裁きの意向を受けてこれを呪ったというのです。この解釈は古代からで、2世紀以後も、オリゲネスやヒエロニムスなどに受け継がれて現在に続いています〔ルツ『マタイ福音書』(3)244頁〕。エルサレム神殿が破壊されたのは共観福音書が成立する以前のことですから(70年)、歴史的に見れば、この解釈は間違いではないでしょう。
 けれども、いちじくの木を「象徴」としてみれば、「ユダヤ人とエルサレム神殿への裁き」では済まないところがあります。イエス様が「霊的な飢え」を覚えて近づいたのに、ふさふさと葉が茂っているその木に「実」が見あたらないというのは、イエス様の頃のエルサレム神殿のことだけではないからです。キリスト教の教会が結ぶ「実」とは、御復活のイエス様の御臨在であり、その御臨在の働きがもたらす「善い実」のことです。壮大な神殿や壮麗な儀式で人々を招き寄せながら、そこには、イエス様が真に求める「実」が存在しないということ、これが、現在のキリスト教の教会にあてはまらないとは言えないからです。
 現在世界のキリスト教は、ロシアやギリシアの東方教会、南ヨーロッパと南米を中心とするカトリック教会、ヨーロッパ北部と北米大陸を中心とすプロテスタント諸派から成り立っています。ところが、アジアと日本には、これらすべてが揃うほどに多種多様の「キリスト教」が存在しています。けれども、はたしてそこに、キリスト教の教会に求められているイエス様の御臨在が、本当の意味で実を結ぶために働いているかどうか? こういう疑問を抱くのは、わたし一人だけでしょうか。イエス様の父なる神が、今本当に求めておられること、これに教会が応えているかどうか?これが、今回のいちじくの木の出来事がわたしたちに提示しているほんらいの課題なのです。
■祈りについて
 マルコ福音書で、いちじくの木の出来事が後半の祈りの教えへ続くのは、わたしにはとても示唆深いと思われます。マルコ11章24〜25節を通じて、ナザレのイエス様が行なった不思議な「御業」が、イエス様を信じる人たちの側、すなわちイエス様のエクレシアの「祈り」へとつながるからです。しかも、そのエクレシアの祈りが、「わたしたち人間の祈り」でありながら、「山を動かす」という人にはとてもできない出来事をもたらすのです。わたしたち人間の集まりであるエクレシアの祈りが、「神をも動かす」力を秘めているとここでイエス様は告げておられるのです。さらに大事なことは、わたしたちの祈りが、それほどの力を帯びるためには、その条件として絶対の「赦し」が前提されていることです。
 わたしたち自身の罪の赦しに始まり、エクレシアの交わりにある人たち同士の赦し合いへ、さらに、エクレシアの外の人たちへの赦しへと、イエス様にあるエクレシアの祈りが、「山を動かす」ほどの絶大な力を帯びて広がるのです。わたしたちの受けた赦しの祈り(主の祈り!)が、わたしたちが思いも及ばない不思議な出来事を成就させるのです。神がイエス様に与えられた御力が、イエス様を信じるエクレシアを通して、この世において「絶対の赦し」として働き、「赦し、赦される」その働きが驚くべき業を実現させる。こう、マルコ福音書は証言しているのです。神の力の偉大さは、そのままイエス様の力の偉大さとなり、イエス様の力の偉大さは、そのままイエス様のエクレシアの祈りの力の偉大さとなり、この地上に、「山を動かす」ほどの驚くべき出来事をもたらす。これが、今回の出来事がわたしたちに証ししているメッセージです。赦しの祈りの力が、これほど絶大な働きをすることを、誰が予想することができるでしょうか。
■十字架の赦しの力
 マルコ11章22〜26節では「山を動かす」祈りの力が罪の赦しと結びついています。イエスの御名によって祈る時に働く「ものすごい力と赦しの愛と思慮の御霊」(第二テモテ1章7節)です。世界の創造以前から定められていたイエス・キリストにある十字架の血の贖いから来る「罪過の赦し」です(エフェソ1章19節)。この絶大な力によって(エフェソ1章4〜10節)、隔ての障害を取り除いていただき、二つのものを一つにするイエス様の御霊を信じて(同2章14〜17節)、「一人の主、一つの御霊、一つのエクレシア」を目指して歩み続けるなら(同4章2〜6節)、一致は必ず達成されます。大事なのは寛容と慈愛とイエス・キリストにある平和の心です(エフェソ3章17〜19節/同4章30〜32節)。「真理はイエスにあります」(エフェソ4章21節)。日本と韓国と中国のエクレシアが手を携えて、東アジアキリスト教圏を成立させる祈りがここから湧くのです。絶対の恩寵と絶大な力の働く確信の祈りです。
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