【注釈】
■マルコ福音書の「いちじくへの呪い」
今回のマルコ福音書の「いちじくへの呪い」は、イエス一行のエルサレム入城に続いて起こります。この出来事は、「呪いの奇跡」と呼ばれる異例の奇跡で、イエスの「神殿浄め」を囲む形でその前後に配置されています。後半の11章22~25節は、主題が、いちじくの出来事から「祈り」に移ります。後半部分は、ほんらい別個の伝承であったのをマルコがいちじくの出来事とつないで今回の箇所に配置したと考えられます。今回の「呪い」については、いくつかの疑問がつきまといます。一つは、なぜいちじくが呪われたのか? イエスによる呪いの理由がよく分からないことです。もう一つは、マルコは、どのような意図でこの記事を扱い、それを現行のような構成で配置したのか?という問題です。
先ず、イエスの「いちじくへの呪い」の理由ですが、いちじくは「遠くから見て葉を茂らせていた」とあります。空腹の足しにその実を食べようと近づいたイエスは、実を探しても見あたらなかった。まだいちじくの実がなる季節でなかったからです。季節はずれのいちじくが実を結ばないのは自然なことですから、これを理由にイエスがこの木を「呪う」のは、いかにも理不尽で、呪いの理由が納得できません。もう一つの疑問、マルコは、理不尽とも思えるこの出来事を、どのような意図でここに置いたのか?という点です。これら二つの疑問に対しては、以下のような答えが提示されています。
(1)イエスが最後にエルサレムを訪れたのは仮庵祭の頃(9月末から10月)ですから(ヨハネ7章2節と同10節)、今回の出来事は、マルコ福音書の記事にあるような過越の季節(3月~4月)のことではなく、実際は、秋の仮庵祭の時期のことではないかという見方があります〔フランス『マルコ福音書』440~41頁〕。秋のこの時期だと、まだいちじくの実が残っている可能性があります。今回の記事が、ほんらい「この時期」の出来事であったとすれば、イエスの呪いの理由もある程度納得できます(ルカ13章6~9節のたとえを参照)。ただし、この点については、13節の「いちじくの季節」の項を参照してください。
(2)ほんらい秋の出来事であったとすれば、マルコは、その出来事を過越祭の時節に移すことで、イエスのいちじくへの呪いをエルサレム神殿の浄めの行為と結びつけたことになります。イエスの神殿浄めは「神殿への神の裁き」を象徴する行為ですから、これを「いちじくへの呪い」で挟みこむことで、いちじくへの呪いが「神の裁き」という象徴的な意味を帯びることになります(マルコ13章28~29節を参照)。マルコ福音書もその読者たちも、エルサレム神殿が、すでに破壊されて失われていることを知っています。マルコは、「葉を茂らせているのに実のない」いちじくの木を、見せかけは立派なのに内実を伴わないエルサレム神殿制度と重ね合わせているのでしょう。ただし、この場合、マルコが「まだいちじくの季節ではなかった」とわざわざ断わっている理由が問題として残ります。イエスは、いちじくが「まだ実を付ける季節でない」ことを承知の上で、その木をあえてイスラエルとその神殿の象徴と見なして、これを呪った、こうマルコは考えたのでしょうか〔コリンズ『マルコ福音書』523頁参照〕。
(3)最後に残る疑問は、ではイエス自身は、この呪いをどのような意図によって行なったのか?という点です。たとえ秋の季節であっても、そうでない季節はずれでも、イエスは、葉の茂ったいちじくの木に実がないのを見て、これを「実を結ばないイスラエルの民(の神殿)」に対する神からの裁きを表わす象徴として、今回の「呪い」を発したというのが一般的な見方です。
このように、神によるイスラエルへの「裁きのたとえ/象徴」として「いちじくの木」を用いるのは、旧約聖書以来の伝統です。とりわけ今回の出来事には、その背景としてミカ書7章1~3節があげられています(さらにエレミヤ書8章13節/ホセア書9章16~17節をも参照)〔コリンズ『マルコ福音書』524頁参照〕。イエスは、これら旧約の預言者たちの象徴を受け継いで、「葉があるのに実がないいちじく」を呪う行為を通じて、神の裁きを弟子たちに証ししようとしたことになります〔フランス前掲書439~41頁参照〕。資料的に見ると、マルコ福音書の22~23節はイエスにさかのぼると見られていますが、いちじくの出来事それ自体については、エルサレムの近くにあった「枯れたいちじく」にまつわる伝説が採り込まれたのではないか、という見方もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)149頁〕。
さらに、神殿浄めに続く後半部では、裁きの象徴としての「しるし」から「イエスを信じる者たち」に授与される「祈りの力」に焦点があてられます。イエスからその信仰者へ受け継がれるのは、イエスに働く絶大な力と、その働きを可能にする信仰者の「祈り」の力であり、その力ある祈りがもたらす「赦し」の実現です。
■マルコ11章
[12]【翌日】エルサレムへ入城してから、イエスは神殿を訪れ(11節)、その様子を見てからベタニアへ戻り、翌日、エルサレムへ上る途中(ベトファゲで?)のことです。「翌日」は、19節の「夕方」につながり、20節の「次の日の早朝」へ続きます。これによって、神殿浄めといちじくへの呪いが時間的に密接に関連し合うことになります。マルコはここで、イエスのエルサレム入城を受難につながる「聖なる週」の始まりと見ているのでしょうか。
【空腹を】「呪い」を象徴的に解釈するなら、この「空腹」も、「霊の果実」を求めた神がその期待を裏切られたという意味に解することができます。マルタの料理の朝ご飯でお腹がいっぱいだったはずのイエスが、なぜ空腹なのか?などと詮索する必要はありません〔コリンズ前掲書525頁参照〕。この「空腹」は、おそらくミカ書7章1節からでしょう。
[13]【葉の茂った】マルコは、このいちじくが遠くから見て葉が茂っている様子を強調しています。いちじくの木は、葉が茂る前に実がなります。だから、葉が茂っているといかにもおいしい実があるように見えたのでしょう。このいちじくの姿をエルサレム入城に際して、歓呼してイエスを迎えた群衆にたとえる解釈があります。群衆の歓呼とは対照的に、実際の神殿には、イエスの心を満たすものは何一つなかったことを表わしているというのです〔コリンズ前掲書526頁〕。
【いちじくの季節】「いちじく」は、アダムとエヴァがその葉を綴り合わせて腰に巻いた(創世記3章7節)とあるのに始まって、パレスチナでは大事な木とされてきました。「ぶどうといちじくの木」は、イスラエルの民にとって平安な暮らしの象徴なのです(列王記上5章5節)。
「いちじく」の学名は"Fics carica" で、英語は"fig"、ヘブライ語「テーナー」、ギリシア語「スケー」です。パレスチナのいちじくは、日本では見られないほど大きくなり、食用だけでなく、その葉も実も薬用として用いられます。いちじくは、年に2度、場合によっては3度実を付けます。最初が「初なりのいちじく」(ミカ書7章1節)「夏の前の早生(わせ)のいちじく」(イザヤ書28章4節)で6月の終わり頃です。その次は「夏のいちじく」で8月頃です。さらに「時節はずれのいちじく/冬のいちじく」と呼ばれるものがあり、春(過越の頃)に風の当たらない場所などで青い実を付けます(ヨハネ黙示録6章13節)〔M. G. Easton. Easton's Bible Dictionary. Electronic edition.〕。
「いちじくの季節(カイロス)ではなかった」とあるのは、ここでのいちじくがイスラエルを象徴するいう解釈を困難にしているとも思われます。しかし、「カイロス」は季節だけでなく適切な「時節/時期」をも指しますから、イエスのエルサレム入城が、エルサレムの指導層に受け容れられない「時」であったことを表わすのでしょう〔コリンズ前掲書526頁(注)32〕。
[14]【言われた】原文は「答えて言った」です。木に向かって「答える」のはおかしなことですが、ある「出来事」あるいは「状況」に対してこのように「応える」のは古代の人たちの言い方です。イエスの「応え」は、「木」だけでなく、その場にいる弟子たちにも向けられていますから、「弟子たちはイエス(の言うこと)を聞いていた」とあります。
【実を食べる者がないように】動詞「食べる」は、アオリスト形の希求法という新約聖書ではやや珍しいギリシア語動詞の形です。これは、語り手の意志や予期を表わしますが、不確実性を含みます。ただし、その不確実性は「神でもできない」ことがありえるという意味ではなく、語り手の遠慮した意志表示を表わします〔Wallace. Greek Grammar: Beyond the Basics. ZonderVan.481.〕。イエスの言い方も遠慮がちですが、「今から後いつまでも」とありますから、事実上は木に対する「呪い」と見ていいでしょう。
■同11章
[20]【翌朝早く】これは13節から続きます。
【根元から枯れる】この言い方は、七十人訳ホセア書9章16節の「エフライム、その根は枯れている。彼はも早実を結ぶことがない」を踏まえていると指摘されています〔フランス『マルコ福音書』447頁(注)64〕。かつての北王国イスラエルに向けられたこの預言が、今回はユダヤのエルサレムに向けられているのです。
[21]【ペトロは】ペトロが弟子たちを代表してイエスに驚きを表明しています。「あなたが呪った」と言っていることから、ペトロたちは、イエスの言葉を「(呪いの)祈願」として受けとめたのが分かります。これが、22節以下の「祈り」の問題へつながります〔フランス前掲書447頁(注)65〕。
【ラビ】「ラビ」という呼びかけが、「教え」を請うためではなく、不思議な業を見た驚きと共に用いられています。イエスの頃のユダヤ教では、通常「ラビ」に不思議な業を求めることをしません。ここの「ラビ」は、より古い時代の用例を受け継いでいるのでしょう。
[22]ここからは、神の偉大な力を引き出すために、どのように祈るべきかが説かれています。しかも、今回の文脈では、ここで言う「祈り」の在り方が、「祈りの家」(17節)であるべき神殿の在り方と関連していることに注意しなければなりません。マルコ福音書は、エルサレム神殿が神の裁きを受けて滅び、「祈りの共同体」によって引き継がれることを示唆しているのでしょうか〔フランス『マルコ福音書』448頁〕。
【神を信じる】原文は「神の信(実)を持ちなさい」です。祈る人間の側の信仰心ではなく、「神の真実」から与えられる恩恵に完全に頼るという意味に理解することもできますが、「神<の>信」とある属格を「神<を>信じる」ことを表わすと受け取ることも可能です。「枯れたいちじく」も、続く「山が動く」ことも人間の力を超えた出来事を指すのは明らかですから、神に向かって信じる人間の心のほうか、祈りに応える神の真実かを区別したり分析する必要はないでしょう。ここでの祈りは、マルコ10章27節でイエスが教えたことに通じます。なお、「持ちなさい」が2人称複数形の動詞なので、ここで言われている祈りは、個人の祈りのことではなく、共同体全体の祈りを指すという解釈がありますが、このような区別も不適切です。
[23]【この山】イエスはここで、一行がいるオリーブ山を指していて、「海」とは死海を指すという説があります。また、ここでのイエスの言葉は、ゼカリヤ書14章4節の預言に「オリーブ山が真っ二つに裂けて南北へ移動する」とあるのを踏まえているという解釈があります〔フランス前掲書449頁参照〕〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)153頁〕。マルコはこのような状況を想い描いていたのでしょうか。
しかし、「山を動かす」は、人間には不可能なことを表わす諺として用いられていましたから、イエスもこれを引用しているという説もあります。パウロもこのイエスの言葉を知っていたことが第一コリント13章2節から分かります。「山を動かす祈り」は、今回の箇所以外にも、「からし種一粒ほどの信仰」の働きとして、マタイ17章20節=ルカ17章6節にも出てきますが、これはイエス様語録(Q)から来ています〔ヘルメネイアQ492~93頁〕。
【疑う】原語の「ディアクリノー」は「(その人の心において)吟味する/判別する/裁定する/裁く」ことです。この語はキリスト教徒によって「疑う」「ためらう」こと意味する独自の用語になりました(ヤコブ1章6節)〔フランス前掲書〕。
[24]ここで、「枯れたいちじく」への呪いから、「信じて祈る」ことへ移行します。しかも主を信じることで「どのような祈りでも」かなえられるとあるのが特徴です。「すでに得ている」は、あなたたちにあって「すでに存在している/実現している」ことですから、祈りがすなわち実現をもたらす力として働くことを示しています。ただし、「かなえられなかった祈り」が、不信仰の結果だと推論することは誤りであり、まして「答えられない祈り」を断罪するのは、ここのイエスの言葉の大きな誤用です。
24節をヨハネ14章12~14節と関連づける解釈があります〔コリンズ『マルコ福音書』536頁〕。ヨハネ福音書が言うイエスの「業」(エルガ)とは、共観福音書の言う不思議な「しるし」(セーメイオン)に相当するからです。ヨハネ福音書でもマルコ福音書でも、神とイエスの側から「信じる人間の側」へ祈りの出来事が移行していることが注目されます。イエスの行なった驚くべき「しるし」の「御業」が、地上における弟子たちに受け継がれるのです。なお、復活したイエスの御霊にあって祈る祈りが必ず実現するというこの教えは、ヨハネ16章23~24節へも通じています。
【得る】この動詞はアオリスト形です。これを現在形あるいは未来形にする異読があります。このアオリスト形は、ほんらい「預言が必ず成就する」というヘブライ語の語法から来ています。現在形や未来形は、このヘブライ語の語法を後により合理的に変えたものでしょう〔新約原典テキスト批評109~110頁〕。
[25]ここには、祈りがかなえられる条件あるいは根拠が「人を赦す」ことにあると明言されています。「天の父」への祈りが、「赦す」ことで自分たちの罪過も赦されるのは、マタイ福音書の主の祈りに通じます。24~25節は、マルコ福音書の「主の祈り」にあたると言えましょう〔フランス『マルコ福音書』450頁〕。24~25節を通じて、ナザレのイエスが地上で行なった不思議な「しるし」の「御業」が、ここでは、イエスを信じる人間の側の「祈り」となり、それがかなえられる条件として、絶対の「赦し」が前提とされていることに注目しなければなりません。
この25節も続く26節同様に、後からの追加だと見る説もありますが(欄外の書き込みが本文に採り込まれた?)、そうではなく、25節はマタイ6章14節と同じ伝承から出ていると考えられます。25節に続いて26節として「もしあなたたちが赦さないならば、天にいるあなたたちの父もあなたたちの罪過を赦さないであろう」が続く異読があります〔新約ギリシア語原典〕。26節は最初期の写本に抜けていますから、マタイ6章15節にならって、後から加えられたと考えられます〔新約原典テキスト批評110頁〕。
■マタイ福音書のいちじくへの「呪い」
マタイ福音書の今回の記事は、マルコ福音書に基づいていますが、マタイは、マルコ福音書の記事に大幅な修正を加えています。マルコ福音書の記事はふたつに分かれていますが、マタイ福音書では一つで、神殿の浄めに続きます。マルコ福音書ではイエスの言葉と奇跡とが二日にわたりますが、マタイ福音書では入城の翌日だけです。マルコ福音書では、エルサレムへ行く途中ですが、マタイ福音書ではエルサレムへ「戻る」時です。さらに、「いちじくの季節でなかった」が省かれていること、イエスの言葉によって、いちじくが「たちまち」枯れたとあることなどが違います。
なお、今回のマルコ福音書の記事では、マルコ11章22~23節=マタイ17章20節という並行関係、また、マルコ11章25節=マタイ6章14~15節という並行関係があります。マタイ福音書のこれらの箇所は、共観福音書講話120章の「悪霊憑きの子」と、同53章の「主の祈り」ですでに扱いましたので、今回は、マルコ福音書との並行関係にあたるマタイ福音書のこれらの箇所を省きました。
■マタイ21章
[18]マルコ福音書と共通するのは「空腹」だけです。
[19]【道端に】マルコ福音書では、イエスは「遠くから」いちじくを見つけます。
【たちまち】マルコ福音書では、枯れたことがその翌日分かりますから、時間的に大きな違いがあります。イエスの言葉によって「たちまち」枯れたとあることで、マタイは、イエスの呪いを「エルサレム神殿への裁き」の象徴としているのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)152頁〕。なおこれは、マタイ福音書で唯一の「懲罰の奇跡」です。マルコ福音書の「弟子たちはイエスの(呪いの)言葉を聞いていた」が省かれています。これも物語を一つにまとめるためです。
[20]マルコ福音書では「ペトロ」が尋ねますが、マタイ福音書では「弟子たち」です。たちまち枯れるのを全員が見て驚いたからでしょう。
[22]マタイはマルコ福音書の24節を大幅に縮小しています。「求める」がマルコ福音書の直説法現在形から仮定の意味合いがやや強い接続法になっています。なおマタイ18章19節と比較してください。
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