169章 権威について
マルコ11章27〜33節/マタイ21章23〜27節/ルカ20章1〜8節
 
■マルコ11章
27一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、
28言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
29イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
30ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」
31彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
32しかし、『人からのものだ』と言えば・・・・・・」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネを本当に預言者だと思っていたからである。
33そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
■マタイ21章
23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
■ルカ20章
1ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、
2言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
3イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
4ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
5彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
6『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
7そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
8すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
                                   【注釈】
【講話】
■権威の起源を問う
 今回は、「権威」についてです。「権威」は、「権力」とは違いますから、権威に「力」は直接かかわらないと思われがちですが、必ずしもそうではありません。特に今回、イエス様が「権威」と言われる時には、単なる尊敬や名目的な評価のことではなく、明らかに神からの聖霊の働きを伴いますから、この「権威」は「威力」をも意味します。ギリシア語の「エクスーシア」は、「力」「権威」「威力」などを指します。
 エルサレムの指導者たちは、「あなたの権威は<どこから>与えられているのか?」と詰問します。これは、イエス様の振舞いや行為だけでなく、イエス様の教えすべてを含めて、誰からそのような言動を許可されているのか?と尋ねているように聞こえます。しかし、詰問する側の真意はそうではなく、「我々は」お前にそのような振舞いを許可した覚えがないぞ、という強い抗議と批判です。彼らはイエス様の神殿での言動に、神殿制度に支えられている自分たちの権威が根底から脅かされているのを感じとったです。
 これに対してイエス様は、逆に彼らに向かって、「洗礼者ヨハネの権威」を問い返します。その際に、イエス様は、洗礼者の権威が「どこから」来ているのか?と洗礼者の言動よりも、それを生じさせている根源の働き、すなわちその起源を問うのです。「神<から>遣わされた人が<出できた/生じた/起こった>、その名をヨハネという」(ヨハネ1章6節)とあるように、洗礼者の出現は、ひとつの「出来事」です。それはヨハネという人間がこの世に生まれてきたことをも含みますが、それ以上に、「洗礼者」と呼ばれるヨハネという人物が、いったい<どこから出てきた>のか?という問いかけです。
 神が起こされた出来事の起源に答えるのは難しいです。問われているのは、洗礼者ヨハネの人となりについての「彼らなりの」判断ではありません。問われているのは、これに答えようとする「彼ら自身の内面」なのです。人は神の出来事を「判断する(裁く)ことで判断される(裁かれる)」からです。人は、神の出来事を判断し、批判し、裁くことによって、逆に自分の内面が暴露されるのです。だから利口な彼らは、イエス様の質問の真意を見抜いて、自分たちの内面の暴露を恐れて、自分たちの真意を隠そうと「言い逃れ」する(「論じ合う」の意味)方法を選んだのです。 彼らが「分からない」と答えたのは、その裏にこのような警戒がこめられています。
■共同体の信
 なぜ、指導者たちは、それほどまで警戒したのでしょう。彼らは指導者として「民衆の支持を失う」ことを恐れたからです。人と人との共同体を成り立たせる根源の働きは「信頼関係」です。彼らが答えをしぶったのは、「民衆を恐れた」からだとあります。権威は、その人(たち)への信頼に裏付けられているからです。「信なくば立たず」と『論語』にあるとおり、国を治める根底には「民の信」がなければなりません。だから、うっかり自分の本音が暴露されると、民の信頼を失う。指導者たちはこれを恐れたのです。
 紙幣はただの紙切れです。それが、千円、1万円の値打ちを発揮するのは、紙幣を発行する国家への「信用」に裏付けられているからです。お金の<威力の起源>は信用です。医療の威力は、医学とこれに携わる医者への信用から出ています。政治でも経済でも、そして宗教でも、突き詰めると、人間同士の「信頼関係」に行き着きます。共同体の「信頼」と「評判」こそが、政治と経済と宗教の最終的な決め手なのです。これを逆に言えば、民の信を操る者は、その国を操ることのできる者です。このことはイエス様もご存知だし、指導者たちも知っています。だからイエス様は、相手側に向かって、洗礼者ヨハネの権威の起源を問うたのです。
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