47章 和解しなさい
マタイ5章21〜26節/ルカ12章57〜59節
【聖句】

イエス様語録
あなたを訴える人と一緒に行く途中の間に、その人と仲直りするように努めなさい。
さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、
下役はあなたを牢に投げ込む。
あなたに言っておくが、最後のクァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。

マタイ5
21「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

ルカ12
57「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
58あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。
59言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

【注釈】

【講話】

■殺人の内面化
 さて今度は「殺人と怒り」についてです。モーセの教えでは、殺人は裁判にかけられて場合によっては死刑にされました。ところがイエス様は、実際に人を殺さなくても、心に怒りや憎しみを抱いてもいけない。「ばか」と言っただけでも「天国の裁判所で罰せられる」〔塚本訳〕と言われるのです。行為としての殺人は、証人がいれば地上の裁判所でも罰することができます。しかし地上では、誰も人の心の底までは見えませんから、これは神様の法廷で裁かれ罰せられなければならないのです。
 殺人に続く以下の項目でもそうですが、ここでイエス様は、旧約の律法の解釈を外面的な行為、すなわち犯罪として罰することのできる「外から見える」行為としてではなく、人の心の中の問題へと「内面化」して見ておられます。このような「内面化の論理」は、これ以後のキリスト教の歴史で繰り返し表われてきます。宗教改革の時にも同じことが行なわれました。行為としての殺人から、行為にいたる前の段階での「心の内面」において、すでに憎しみや怒りとなって殺人が始まっている。この「心で生じる殺意」がなくなれば、行為としての殺人もなくなるはずです。しかし、これがなくならないといつまで経っても殺人はなくなりません。
 ところで、この「内面化」の意味することは単純ではありません。例えば制度としての教会、すなわち教団組織、教会堂、儀式などは、信仰を保つための外面的な行為であり見える形です。しかし、その行為や制度や形を支える内面が失われたらどうなるのか? もはやそのような制度も建物も意味を失うから、これは廃止せよ。これが信仰の自由を唱えたミルトンたちピューリタンの考え方でした。
 ここで注意しなければならないのは、教会制度を廃止したからと言って、キリスト教への信仰それ自体を破棄したことにはならないことです。なるほど、キリスト教を否定する人たち、例えばイスラム教徒や仏教徒なら、キリスト教の教会は要らないと思うでしょう。それはこの人たちが、制度としての教会を否定するよりも、それ以前にキリスト教それ自体を否定しているからです。ところが、ミルトンたちはそうではありませんでした。彼らは、制度そのものが、中身に合わなくなった。だから制度としての国教会を廃止せよと主張したのです。このような人たちが、制度や外見を廃止せよと言うのは、キリスト教それ自体を否定するからではありません。逆に、キリスト教の信仰の中身をいっそう純粋に保ちたい。一般の人以上に、信仰の「内面」を大事にしたい。こう思うからなのです。
 このように見ると、内面化することは、場合によっては、その制度や律法を「廃止」するほうへつながることが分かります。イエス様の教えが、律法を内面化すると同時に、律法そのものを廃止するところまでいくのはこのためです。イエス様は、律法は要らないと言って、律法を無視したり否定したりしているのではありません。律法の本質的な精神を内面化して深めておられる。いわば霊的にとらえておられるのです。これは信仰や結婚の自由を考えるときに、重要な問題です。
■怒ること
 では、語句の説明に入ります。「人を殺した者は裁きを受ける」というのは出エジプト記(20章13節)にあります。また「兄弟」というのは、ここでは肉親のことではなくて、同じユダヤ人同士のこと、「同胞」の意味です。モーセの十戒は、同じユダヤ人同士の間では通用したけれども、異なる民族や異教徒には当てはまりませんでした。「殺すな」というのは同じイスラエルの共同体の中でのことで、異民族との戦で相手を殺さずに赦すことは、むしろ罪になると考えられたのです。しかし、こういう解釈は、キリスト教の時代になると変わってきます。すべての人間は神様の前に平等だから、どんな人をも殺してならないという意味に理解されるようになってきたのです。聖書の御言葉は、その時代で解釈が変化しますが、それは当然のことで、この場合はそのいい例です。
 ところがイエス様は、兄弟に対して怒る者は殺人に等しいと厳しい御言葉を発しておられます。聖書に「兄弟を憎む者は人殺しである」(第一ヨハネ3の15)とありますが、これはヨハネ宗団の言葉です。ヨハネ系の文書では、「兄弟」は同じ教会の内部の人を指しています。ヨハネ系の文書は霊的ですが、こういうところがマタイといささか違いますね。マタイのほうでも、「兄弟」は、ユダヤ人も異邦人も含めた集会(教会)の人々を指しています。けれどもこれは、キリスト教の教会の内部だけのことだと理解して、教会内のクリスチャンは憎んではならないが、それ以外の人はかまわないというのは、現代では合わないです。むしろ今では、イエス様のこの御言葉は、民族や性別や宗教にかかわらず、人間として人を憎むことは御霊に反する。こういう意味に理解されています。パウロの聖霊観には、すでにこういう傾向が見られます。マタイ福音書のここでの「怒り」と「憎しみ」も、このように解釈されていて、現在では人類全体の倫理の基準となる性格を帯びてきています。マタイ福音書は、こういう普遍性を持つ倫理的霊性を帯びていて、そこのところがとてもいいです。
■怒りは罪か?
 ではクリスチャンは怒ってはならないのか? 怒って「ばか」と言ったら「天国の裁判所」で裁かれるのか? こう皆さんは心配するかもしれません。先に話したように、イエス様は「愛の心を失うな」という大事な点を教えるためにこういう鋭い表現で語られたのです。「バカは死ななきゃ治らない」は、受け取りようによっては「バカは死ね」という意味にもとれますが、これはそういう意味ではないです。ピリッと短く鋭く言う諺的な表現法です。イエス様の語り方は、このような諺や格言などの知恵文学の語り方です。この辺のところを取り違えないでください。「ばか」は今では日本でも禁句ですが、原語の「ラカ」は、ヘブライ語あるいはアラム語で「アホ」「間抜け」の意味です。こんな言葉を出しただけで「最高法院」、これはユダヤの最高裁判所ですが、そこに引き出される。「愚か者」も原語は「モーレ」で、これはヘブライ語ともギリシア語ともとれます。これを言うと地獄(ゲヘナ)の火で焼かれる。地獄の火は地上の火より60倍も熱いそうです。
 ここで「裁きを受ける」とあるのはギリシア語の法廷用語で、かならず「裁判にかけられる」という意味です。段々罰がひどくなりますが、「ばか」より「愚か者」のほうが程度が悪いということではないですよ。どれも同じことです。三つの裁判は並列されているにすぎません。「怒り」は知恵文学では、しばしば「知恵」と対立させられます。こういう比喩や諺的な表現は文字通りにとるとおかしなことになりますから、どうか霊的にとらえてください。でもイエス様の頃のエッセネ派の人たちは、これを文字通りに守ったそうです。
 旧約の詩編なんかを読むと悪者を呪う言葉が随所にでてきます。58篇や59篇などを読んでください。パウロもそうですが、イエス様だって「災いだ」と怒りの言葉を発しておられる。しかしこれらの怒りは、どれも政治権力や宗教的権威を持つ指導者や支配者による暴虐や搾取や圧政に向けられているのに注意してください。イエス様の怒りは、正義と公正を無視して、貧しい者や弱い者を踏みにじる者たちへの怒りと呪いです。
 実はわたしも、人を憎んではならない、怒ってはならないというイエス様の御言葉は、こういう暴虐の支配者や指導者の場合は例外ではないかと思うことがあります。特にナチスの独裁者たちやイラクのフセイン、それに北朝鮮の金日正などには憤りが湧きます。金日成のような暴虐な人物をどうして北朝鮮の人々は倒せないのかともどかしく思うことがあります。「他国の圧制者よりも自国の圧制者のほうがもっと質が悪い。支配者が民を圧迫するとき、彼は国民と国家の敵となり反逆者となり犯罪者となる」とミルトンは言っています(『イングランド国民への弁護論』書評を参照)。こういう不法な政権を「平和に」存続させるよりも、武力を用いて倒す方が正しいのではないか? こう思うときがあります。アメリカ大統領のブッシュが喜びそうな言い方だと皆さんは思うかもしれませんがね。
 バルトが、スイスのバーゼル大学で講義をしたときのことです。聖書的に見るなら、戦争はいかなる場合も避けなければならない。武力は否定しなければならない。こう教授が講義すると、聞いている学生達は、非常に緊張したそうです。スイスには正規の軍隊がないのです。その代わり国民皆兵ですから、若い人たちは全員軍隊に入るのです。ところが、最後にバルトが、「しかし、例外的に避けられない戦争もある」と言ったので学生たちはホッとしたという話を聞いたことがあります。
 実は、同じことをマタイ福音書の編集者は思ったのでしょうね。22節を「(理由なしに)兄弟に腹を立てる者は」というふうに、「理由なしに」を挿入した読み方をする写本があるのです。原語は「エイケー」(理由なく・根拠なく・軽率に)ですが、おそらくこれを挿入したのは、今私が述べたような理由からでしょう。「理由のある怒りは怒りではなく、公正な判決である」という言葉があるそうです。「悪には怒れ」ということでしょうか。「人には怒るな。赦してやれ。しかし忘れるな」という言葉もあります。
■和解せよ
 さてイエス様は、これに続いて、敵対する者と「仲直り」するよう教えておられます。ガリラヤの人たちが、わざわざ遠いエルサレムへ出かけていって、神様に罪の赦しの献げ物(これは多分羊などの犠牲の動物のことでしょう)を捧げようとした。ところが、いざ捧げる時が来たとき、誰かの恨みをかうようなことをしていたのをはっと思いだした。人は自分の恨みはよく覚えていますが、人に与えた恨みはすぐ忘れますからね。そんな時には、せっかくここまで来たのだから、献げ物を捧げて、後で和解しようなどと思ってはいけない。その場で、献げ物をそこへ残しておいて、もう一度ガリラヤへ戻ってその人と仲直りをして、それから再び出直してエルサレムへ旅をして献げ物をしなさい。こういう意味です。もっともマルコ11章(25節)では、「自分が誰かに対して恨みを抱いていたら」となっていて、「恨みを抱く」ほうがマタイとは逆ですが、どちらでも和解という点では同じです。
 さらにイエス様は、今度は、誰かと裁判沙汰のもめ事があって、その人と一緒に裁判所へ行く時には、なんとかして途中でその人と和解しなさいと教えておられます。そうでないと、会堂の役人に牢に入れられるかもしれませんよというのです。この当時は、今と違って、刑事事件でなくても、民事事件でも裁判で負けたら罰せられる場合がありました。この25節〜26節の部分は、マタイもルカもQ資料からとっています。ただし、二人はそれぞれに少しずつ言い方を変えていますが。ここで、「和解」というのは、仲直りしなさいという意味ではなくて、裁判沙汰で訴えられる前に相手側と「示談で」〔塚本訳〕きれいさっぱり縁を切りなさいということです。アメリカは訴訟の国と言われていますが、最近は日本でも、物事を訴訟で解決しようとする風潮がでてきています。これはいいことなのか、悪いことなのか? とにかく、平和に話し合って解決するほうが、よりいいのは間違いありません。それにしても、イエス様は、「愚か者」と言っただけで地獄の火で焼かれるなどと、どうしてこんなに厳しく平和に解決しなさいと言われるのでしょうね。この点を理解するために、今度はルカのほうを読みます。
■終末と寛容
 ルカは、ここを終末との関係において見ています。このことはここでの「仲直り」の記事にとっても非常に大事な意味を持っています。なぜなら、クリスチャンの生き方には、その道徳面においても、仕事の面でも、終末の神の裁きに備える、あるいは神のみ前に責任をとる、という意識が強くあって、こういう終末志向が、クリスチャンの生き方の大事な側面だからです。
 現在のイスラエルとアラブとの対立を持ち出すまでもなく、人間というものは、自分の憎む相手とそんなに易々と「和解」したり「仲直り」したりできるものではない。特に歴史的な背景を持つ民族間の争いなどはそうです。国全体、民族全体、家全体で、永年の恨みを忘れようなどといくら言っても、そんなことでは解決しません。どうしても、「ひとりひとり」が、それぞれの置かれた立場で、偏見を持たずに接することによってしか、敵対する民族との和解は生まれません。和解は民族がするものではない。和解は個人と個人が、歴史や民族の壁を越えてするものです。そこからしか、ほんとうの平和を造り出す力は生まれてきません。だからイエス様は言われました。「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」とね。「自分で」とあるのは、「ひとりひとり」が個人でという意味です。
 では「ひとりひとり」をそのように仕向けるものは何か? それは、このままでは大変なことになるという危機意識です。明日死ぬとわかったら、あなたは隣人や友人と喧嘩しますか? わたしなら仲直りをして、安らかな気持ちで死にたいです。キリスト教は終末だとか裁きだとかを教えるからイヤだ。皆さんはこう思うかもしれません。しかし、人間はあなたがたが考えるほどきれいなものでも、賢いものでもない。やがて、主様のみ前にでる。あるいは、終末が訪れて神の裁きに直面する。こういうのっぴきならないことに面して初めて、永年の敵とも仲直りしよう。お互いに赦し合おう。こういう気持ちになるのです。宗教的な寛容と言いますが、口で言うのは簡単でも、キリスト教とイスラム教、仏教とヒンズー教、仏教とイスラム教が、互いに仲良くすることなどなかなかできるものではない。このままいったら人類全体が滅びる。どの宗教が救われて、どの宗教が滅びるなどと馬鹿なことを言っているヒマはない。こういう核戦争の脅威に直面した時に初めて、宗教の違いを乗り越えて、平和を創り出さなければならない。こう真剣に考え始めるのです。だから、ほんとうの意味で、終末を生きる人は、裁きに面して責任をとる人で、寛容と赦しを生み出す人です。
 「終末」と言うと人々は、これを神の裁きと結び付けて、そのためには、自分の信仰を妥協させることなく頑固に貫くようにと言います。ところが、ルカはここでは、それと全く逆のことを言っているのです。終末は神の裁きをもたらすから、あなた方はお互いに相図って、調和し、妥協し、赦し合いなさいと言っているのです。終末は争いではなく調和を、分裂ではなく一致を、戦いではなく平和を、罪の糾弾ではなく罪の赦しをもたらすのです(第一コリント6章1〜8節)。
 ルカが、なぜこの「仲直り」の記事を終末の裁きの後に置いたのかが、おわかりいただけたでしょうか? 実は、マタイの場合でも、事情は同じなのです。山上の教え全体は、こういう終末観に支えられていなければ、実行不可能です。ただしマタイは、ルカが一般的に「神の裁き」に出会うとあるところをさらに具体的に殺人や離婚や偽証など、ひとつひとつの行為として語っています。
■知恵の様式
 マタイには、それ以外に、もうひとつ大事な要素が取り入れられています。それは知恵の様式あるいは伝統です。知恵の様式には、大きく分けて二つの特徴があります。ひとつは知恵の持つ普遍性です。もう一つは、知恵の持つ具体性とこの世における現在性です。知恵は普遍的に、また現在において具体的に働きます。マタイは、ルカの終末性にこの知恵の持つ性格を加えているのです。終末の裁きへ向かう姿勢と、現在に生きる具体性、この両方の面を持っていることが、大事なんです。知恵の御霊というのは、このように終末的な信仰を絶えず現在の具体的な生活において現実させていく働きをします。つまり終末を現在と結ぶ、言い換えると、理念的教義的な信仰を現在と結びつける。これが御霊の知恵です。
 ところで、ルカでは、あなたを「訴える」人とありますね。マタイでは「反感を持つ」人です。マタイではまだ漠然としていますが、ルカのほうはかなりはっきりしています。これは「借金」のことです。どこぞの国の企業や銀行みたいに、借金しても国民の税金をつぎ込んで、棒引きしてもらって、結局誰も責任をとらない。こんなうまい話は神様の裁きの前では通用しない。だから、裁判沙汰になる前に示談にしなさい。そして、きれいさっぱり相手と「縁を切りなさい」(これが原語の意味です。「仲直り」という訳はここでは少しそれます)と言うのです。
 現在の日本では、借金が返せなくても、通常それだけで監獄に入れられることはありません。ところがルカでは、「看守」に引き渡されるのですから、これは監獄入りです。ところがユダヤでは、当時借金が理由で監獄に入れられることはなかった。これはローマの法制度です。ですからここでは、ローマの制度を頭に置いて書いているのがわかります。チャールズ・ディケンズという19世紀の有名なイギリスの作家がいます。『クリスマスキャロル』というお話を書いた人です。この人のお父さんは、飲んだくれで金にだらしのない人だった。とうとう借金がかさんで、家族全員が「負債監獄」という所に入れられて、そこで生活しなければなりませんでした。ディケンズは、靴磨きなどをして、苦労して有名な作家になりました。なお、「レプトン」とあるのはギリシアの貨幣で当時のパレスチナで使われていた最小単位です。マタイのほうの「クァドランス」はローマ貨幣で、これは2レプタ分です。「最後の1レプトン」とありますが、この「最後」には、終末の終わりの意味も含ませてあるのでしょう。
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