【注釈】
■マタイ21章
 まずマタイから始めます。マタイでは、イエスの教えと律法との関係に続いて、殺人、姦淫、離婚、偽証、復讐、そして愛敵の6項目について、イエスの「御言葉」が語られます。そのうちで、殺人、姦淫、偽証の三つは、モーセの十戒にあるもので、イエスはこれらにご自分の「新しい解釈」を加えています。「昔の人に対してはこう言われている」とありますが、この「昔の人」というのは、特にモーセから十戒を与えられた頃のイスラエルの人たちのことです。これらの3項目は、マタイに伝えられた独自の資料から出たものでしょう。次の離婚(申命記24の1〜4参照)と復讐(出エジプト記21の24参照)と愛敵(レビ記19の18参照)に関するものは、十戒にはありませんが、それぞれ律法として伝えられていたものです。こちらの三つについて、イエスは、旧約の律法の「新しい解釈」ではなく、むしろ旧約的な律法の「廃止」を宣言しています。もっともこの「新しい解釈」と「廃止」とはつながっていますが。
 これらの六つの項目は、いずれも「あなたがたは聞いている・・・・しかし私は言う、(だれでも)・・・・」というパターンが基本になっています。「聞いている」と「しかし私は言う」とあります。ユダヤ教では、「聞く」は「命じられて聞き従う」ことであり、「言う」は「命じる」ことです。また「しかし私は言う」は、イエスだけの言い方ではなくて、ラビの聖書解釈でもこういう言い方がされていました。この言い方は、ユダヤ教の知恵文学の様式から出ています。ここで大切なのは、「あなたがたは聞いている・・・・しかし私は言う・・・・」というこの対立した言い回しです。実はこれが、2世紀以後になって、旧約と新約との対立あるいは対照として解釈されるようになったことです。

■ルカ12章
 ルカは、マタイと並行するこの記事を12章の終わりにおいています。この記事の前には、終末の時には家族さえも分裂するとあって、だから天候を見分けるように終末の時を見分けなさいという警告がされていて、これに続いてこの「仲直り」の記事が来るのです。ですから、ここは終末の最後の裁きに面することと結びついています。マタイもルカもイエス様語録(Q資料)を基に編集していますが、ここでもルカのほうがイエス様語録に近いです(クァドランス」や「下役」などはマタイが近い)。本来のイエスの御言葉は、終末が間近いことを前提に語られたと思われますから。エルサレムの神殿が破壊されてユダヤの国が滅亡するのは、イエスの時から約40年ほど後のことですが、洗礼者ヨハネもイエスも、やがて訪れるイスラエルの危機を見抜いていました。この二人の悔い改めへの伝道は、こういう切迫感なしには理解できません。
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