【注釈】
■二人の息子
 この物語は、28~30節の譬えの部分と、31~32節の譬えの適用の二つに分かれていて、どちらもイエスの問いかけで始まります。前半の譬えは、父への二人の答えと続く行動が、それぞれ正反対の対照的な構成になっています。後半は譬えに基づくイエスからの問いかけで始まりますが、洗礼者に対する態度において、彼を「受け容れた」徴税人や娼婦と「拒絶した」祭司長や長老たちとが正反対です。後半では「あなたたち」が繰り返されているのが注目されます。
〔資料問題〕28~31節前半は、マタイだけの独自資料(M)からです。並行する構成と用語はマタイによる編集を思わせます(「どう思うか」「アーメン、わたしはあなたたちに言う」「彼らに向かってイエスが言う」など)〔ルツ『マタイ福音書』(3)253頁〕。マタイ以前からの口頭による(?)伝承をマタイ流に編集したと考えられます。しかし譬えそのものはイエスにさかのぼるでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)165頁〕。なお、後半部はルカ7章29~30節と内容的に並行するところがありますが、ルカ福音書のこの部分は共観福音書講話81章「洗礼者について証しする」で扱っています。
 手法的に見れば、二人の兄弟を対照させる手法、口先だけで行ないを伴わない者などは、ユダヤ教で伝統的に用いられてきた手法です。内容的に見れば、共観福音書の放蕩息子の話(ルカ15章11~32節)や悪い小作人たちの話(マルコ12章1~9節)に通じると指摘されています。
■マタイ21章
[28]【あなたたち】23節の「祭司長たちと長老たち」を指しますから、洗礼者ヨハネについての問いかけがまだ続いています。
【あなたたちはどう思うか】原語は3語で、語り手が聞き手の矛盾や罪性を暴こうとする際に用いる問いかけの手法で、マタイ福音書で用いられています(17章25節/21章28節/22章17節/同42節/26章66節)。
【息子】原語は「テクノン」で、「ヒュイオス」よりも親しみをこめた言い方です。イエスが神の「御子」であること表わす場合は「ヒュイオス」で「テクノン」は用いられません。
【ぶどう園】旧約以来、神の民イスラエルの象徴です。ここの「ぶどう園」は、33節以下につながります。
[29]29~31節には異読があり、本文のテキストが混乱しています。この部分の読みは三つに大別できます〔新約原典テキスト批評55~56頁〕。
(1)兄のほうは、「いやだ」と言ってから、後で考え直してぶどう園へ行きます。弟は「はい」と言っても行きません。イエスの問いかけに対する祭司長と長老たちの答えは「兄のほう」です。
(2)兄のほうは、「いやだ」と言ってから、後で考え直してぶどう園へ行きます。弟は「はい」と言っても行きません。イエスの問いかけに対する祭司長と長老たちの答えは「最後(弟)のほう」です。
3)兄のほうは「はい」と言っても行きません。弟は「いやだ」と言ってから、後で考え直してぶどう園へ行きます。イエスの問いかけに対する祭司長と長老たちの答えは「弟のほう/最後(弟)のほう/兄のほう」です。
 (2)は、ユダヤ人の答えが意味をなさないので、写筆の際の誤りだと考えられます。(1)と(3)では、兄と弟の言動が正反対です。(3)の場合だと、兄の答えを聞いた父がさらに弟のほうに頼む理由がなくなります。またユダヤ人の答えの部分の異読が混乱していますから、これは後の読み替えだと考えられます。したがって、(1)が、ほんらいの読みとして適切だと考えられます。
【いやです】兄の返事は弟のほうに比べてそっけなく率直です。
【思い直す】原語は「メタメロマイ」(配慮する/気にする/心がけを変える/悔いる)の受動態アオリスト形です。「悔い改める」には通常、根本的な回心を意味する「メタノエオー」が用いられます。
[30]弟の返事を直訳すれば「わたしです。ご主人様/主よ」です(使徒言行録9章10節のアナニアの返事と同じ)。"I go, sir."〔NRSV〕/"I will, sir"〔REB〕。この言い方は旧約以来で(士師記13章11節/列王記上13章14節参照)、相手を敬う丁寧な答え方です。「主よ」とあるのは、マタイ7章21節を想い出させます。
[31]【兄のほう】先の洗礼者ヨハネについての問いかけの際には、返答を保留した指導者たちですが、今回ははっきりと答えています。指導者たちは罠を仕掛けるのに巧みですが、その罠に自分がまんまとはめられるのもみごとです〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)168頁〕。
【徴税人や娼婦たち】この組み合わせは新約聖書中、ここだけです。イエスが「徴税人や罪人」(マタイ9章10~11節)と交わりを持ったことはよく知られています。彼らはユダヤ教の説く「義の律法」からは除外され排除された人たちです。この二組は、パレスチナに駐屯するローマ兵と関わりが深かったからでしょうか。洗礼者ヨハネが、この二組と交わりを持ったという記録はありませんが、彼らの中には洗礼者ヨハネの教えを受け容れて「悔い改めの」洗礼を受けた者たちがいたと推定されます(ルカ3章12節参照)。おそらくこれが言い伝えとしてマタイのもとに届いていたのでしょう〔デイヴィス前掲書169頁〕。
【神の国】マタイは普通「天の国」と言いますから、今回の言い方はマタイの資料からだという見方があります。「神の国」はマタイ福音書では5回だけですから、マルコ福音書とルカ福音書に比べるとはるかに少ないのは事実です。しかし、イエスの言う「父」とは「神」を指しますから、今回の「神の国」がマタイによる編集でないと言い切ることもできません(21章43節参照)。
【先に入る】言葉通りに解釈すれば、指導者たちも「後から」神の国へ入ることができることになります。しかし、彼らは「悔い改めようとしなかった」のですから、御国に受け容れられるとは考えられません。
[32]【義の道】「神の道」(22章16節)とも言います。「義の道/神の道」は、旧約聖書以来のユダヤ教の伝統的な言い方で、神の律法を守り「永遠の命」へいたる道を指します。今回の「道」は単数ですが、複数の場合もあり、意味の上で違いはありません。原初のキリスト教では、イエスの福音が「この道」と呼ばれていますが(使徒言行録9章2節/19章9節/同23節/22章4節/24章14節/同22節)。今回の場合は、洗礼者に示された神からの啓示と教えに従い、悔い改めて義の道を歩むことで<神に受け容れられる人>になることを指します。徴税人や娼婦と同じように「律法の外に」いた異邦人が、「悔い改めて」異邦人キリスト教徒になったことから、今回の「兄」=「徴税人。娼婦」は、ユダヤ人に対して異邦人キリスト教徒のことを指すというのが、キリスト教会での伝統的な解釈です。しかし、今回の「神の道」を「信じる/信じない」は、同じイスラエルの内部における亀裂が露呈された状態を表わすと見るほうが、より適切な解釈でしょう〔デイヴィス前掲書172頁〕。
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