171章 悪い農夫たち
   マルコ12章1〜12節/マタイ21章33〜46節/ルカ20章9〜19節
 
■マルコ12章
1イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
2収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。
3だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。
4そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。
5更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。
6まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。
7農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
8そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。
9さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。
10聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
11これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」
12彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。
■マタイ21章
33「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。
34さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。
35だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。
36また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
37そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。
38農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』
39そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。
40さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」
41彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」
42イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』
43だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。
44この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
45祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、
46イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。
■ルカ20章
9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
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そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。  
■参照『トマス福音書』
(65)彼が言った、「ある良い人がぶどう園を持っていた。彼はそれを農夫たちに与えた。彼らがそれを耕して、それから収穫を得るためである。彼は僕を送った。ぶどう園の収穫を出させるためである。彼らは僕をつかまえて、袋だたきにし、ほとんど殺すばかりにした。僕は帰って、それを主人に言った、『たぶん『彼ら』は『彼』を知らなかったのだ』。主人は他の僕を送った。農夫たちは彼をも袋だたきにした。そこで主人は自分の子を送った。彼は言った『たぶん彼らは私の子を敬ってくれるであろう』。ところが農夫たちは、彼がぶどう園の相続人であることを知っていたので、彼をつかまえて、殺した。耳のある者は聞くがよい」
(66)イエスが言った、「家造りらの捨てた石を私に示しなさい。それは隅の頭石である」〔荒井献『トマスによる福音書』223頁〕。
                       【注釈】
【講話】
■伝統的な解釈
 今回のたとえ話は伝統的に次のように解釈されてきました〔ルツ『マタイ福音書』(3)267〜68頁〕。ぶどう園はイスラエルの民、垣根は(旧約の)律法、酒槽(さかぶね)は祭壇、櫓は(エルサレム)神殿、農夫は民の指導者、僕は旧約の預言者たち、そして、隅の親石は神の子イエス・キリストというように。その上で、マタイ21章43節は、神の国がユダヤ人から異邦人へ移されたことを指すというのが、キリスト教会の一般的な解釈で、このような解釈は、現在でもそれほど変わらないようです。こういう解釈の仕方を寓意(アレゴリー)的な解釈法と言います。オリゲネスは、この物語に違う寓意を読み取って、ぶどうの樹は人間の理性、農夫は悪の力、ぶどう園の歴史は人間の歴史だと見ています。カルヴァンは、寓意的な解釈を避けて、神に選ばれることは「永代借地権」が与えられることではないのだから、「肉に対する虚しい誤った信頼を抱きすぎてはならない」と戒めています〔ルツ前掲書268頁〕。
 寓意を解釈する場合、細部にこだわりすぎると、逆に寓意を壊すおそれがありますが、歴史的な出来事を視野に入れるなら、教会の伝統的な解釈は「誤り」だとは言えません。しかし、カルヴァンにならって、「現在のわたしたち」の視点から今回のたとえ話を読むなら、「ぶどう園=イスラエルの民」では、とうてい済まされなくなります。神が独り子に相続させようとしておられるぶどう園が「神の国」を指すことを思えば、わたしには、今回のぶどう園が、現在地上に存在している可視的・不可視的な「神の国」を指していて、神が御子に与えたイエス・キリストを頭とする「エクレシア」そのものを表わしていると思われるのです。そうだとすれば、これを管理運営している農夫たちとは、可視・不可視的なエクレシアを指導する人たちのこと、かく言うわたし自身もその一人なのかどうかはともかく、そういう指導者たちを指すことになりましょう。
■預けられた「エクレシア」
 牧会にせよ、伝道にせよ、並大抵の苦労でないことをわたしも重々承知しています。だから、苦心して建てた教会堂もそこに集う信者たちも「自分のものだ」と思う気持ちは、牧者にとって自然な情というものでしょう。けれども、そういう「我が教会」、「我が教団」意識こそ、エクレシアの指導者にとって最も警戒すべき罠であり、これが募(つの)れば恐ろしい反逆の罪にもなりえることを、今回のたとえ話は証ししているように思われます。
 伝統的な解釈にある通り、ぶどう園の管理と手入れが、悪い農夫たちから別の農夫たちの手に委ねられるのは、ちょうどユダヤ人から異邦人へと担い手が移行したように、それまで神の国を担(にな)ってきた民から、御国を知らなかった別の民へ移譲されることを意味します。こういう救済史的な視野は、御国の福音が、ある特定の民から、それまで福音とは縁がなかった別の民へ受け継がれるという見通しを可能にします。
 年末を控えたテレビは、今年(2016年)起こった重大ニュースの中で、イギリスのEU離脱と、アメリカの世界規模の介入政策からの撤退宣言は、特に重要な歴史的な事件だと報じています。わたしは、この二つの事件を「アングロ・サクソン時代の終焉」を告げる晩鐘だと評しました〔『コイノニア』96号(2016年冬号)〕。イエス・キリストのエクレシアは、今後世界史的にどのような展開を見せるのか? この問題を含めて、今後のキリスト教会の歩みも混迷を深めると予想されます。こういう時に、キリストのエクレシアにとって最も大事なことは、福音の本義に立ち帰り、自己の教派や教団意識にとらわれることなく、一人の牧者を仰ぎ、一つの御霊、一つの信仰を目指して一致へ向かうことです(エフェソ4章2〜6節)。
 人がイエス様を信じてキリスト教徒の道を歩むためには、自分の罪深さと肉の弱さに怖じけて肉の働きに負けることなく、十字架と復活の主に従い、力不足は承知の上で、それでもわたしたちにはキリスト者の歩みを続けることが「赦されている」という信仰に立つほかはありません。個々の信者の歩みがそうであれば、エクレシアを託された指導者たちもまた、そのいたらなさ、その欠点にもかかわらず、それでもエクレシアを指導することが大牧者イエス・キリストから「赦されている」という謙虚な思いで、伝道と牧会に携わるほか道がないのではないでしょうか。神のエクレシアは、授かり物ではなく預かり物であることを心に留めて、水を注ぐのは自分たちの仕事でも、「育てる」のは神の御業であり、「実を結ぶ」のは、わたしたちの力の及ぶところではないと心得ることこそ、ぶどう園の管理と運営を委ねられた者の心がけだと思うのです。御子の十字架と贖いに基づく「和解の力」、これこそが、エクレシアの土台となる「常世(とこよ)の岩」だからです。
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