172章 皇帝への納税
マルコ12章13〜17節/マタイ22章15〜17節/ルカ20章20〜26節
■マルコ12章
13さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。
14彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」
15イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」
16彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、
17イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
■マタイ22章
15それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。
17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。
19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、
20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。
21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
22彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
■ルカ20章
20そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
21回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
22ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」
23イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
24「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
25イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
26彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。
                      
【注釈】
【講話】
■納税問答の解釈史
 今回の出来事は、古代の教父の時代から、「皇帝の肖像を刻んだ貨幣」と、「神の似姿に造られた人間」とが対比されて、両方の相互の関係をどうするのか?という問題として解釈されてきました。注釈で引用した殉教者ユスティノスの言葉は、為政者に納税の義務を果たすこともまた、神への従順に含まれると言おうとしているのでしょう。彼のこの解釈は、現代でも基本的には有効だと見なされています〔マーシャル『ルカ福音書』736頁〕。ただし、ユスティノスが言おうとする真意は、皇帝と神とを「対等に置く」ことではないでしょう。人は国家に対する義務を負っていますが、神に対する義務のほうが「この世の国」への義務を上回るというのが信仰の根本だからです。
 中世のカトリックでは、「この世」に属する「一時的なもの」(身体を持つ人間の有り様にかかわるすべてのこと)は、国家の支配者に属するものであるけれども、これ対して、人間に具わる「永遠で霊的なもの」こそ、神に属するという二分法がなされました。宗教改革時代では、カルヴァンは、「霊的な統治」と「政治的な統治」を明確に区別して、国家の秩序を覆そうとする者は神に対する謀反人であると述べています〔ルツ『マタイ福音書』(3)306頁〕。ルターもその『キリスト者の自由』で、人間の身体的な存在は国家に義務を負うと同時に、キリスト教徒には、これに束縛されない信仰的な自由が与えられていると述べています。
■お言葉の意味
 「カイザルのものはカイザルへ。神の者は神へ」というイエス様のお言葉の真意をめぐって、現在でも意見が分かれています。
(1)二つの王国説。この世の王国と神の王国を対等だと見なして、そのどちらにも義務を果たすべきだとする解釈です。これは、イエス様の頃の熱心党(ゼロータイ)が主張したローマへの納税拒否という姿勢を否定するものです。だからこの解釈は、皇帝への納税を「肯定的に」見ています。この点では、サドカイ派に近く、ファリサイ派の言う「仕方のない納税」という消極的な納税容認とは少し異なるでしょう。
(2)皮肉説。「カエサルのものなら、カエサルに突き返してやれ!(それ以外では、お金を含めて、カエサルに反抗せよ)」という主旨で、これはイエス様が、その場で与えられたとっさの機知から出た言葉だという解釈です。これは、納税を通しても、皇帝への服従を拒否する姿勢を表わすよう促しているとも受け取ることができます。
(3)神の王権説:「納める<貨幣>は皇帝に属するが、納める<人>は神に属する」という解釈です。これも、ゼロータイの納税拒否を否定する立場です。貨幣による暮らしは皇帝に従属させつつ、暮らす人間それ自体は神の支配に従属するという意味ですから、皇帝の「王権」と、神の「聖域」との相互関係はどうなるのか?という問題を引き起こすことになりましょう。ここでは、「神の聖域」が支配する「領域」の意味が、改めて問われることになります。神の王権は、地上の(皇帝の)一時的・相対的なものではなく、王権を上回る永遠の絶対的な超越性を有するものです。だから、王権と~権は、これらをどちらも相対的に扱って、両者を対立させるべきものではありません。王の権力と神の聖域とを、この世と永遠の霊的な世界と見て、両方の統合と調和を図る姿勢は、ユダヤ人が、捕囚から帰還して以後に、ペルシア帝国の支配から、エジプトのギリシア系プトレマイオス朝へ、さらにギリシアのセレウコス朝へと、様々な支配体制を体験してきた中で生まれた伝統的な考え方から来ています(箴言8章15〜16節/知恵の書6章1〜11節/ダニエル書2章37〜38節/なお、ローマ13章1〜7節/第一ペトロ2章13〜17節をも参照)。
■イエス様の答え方
 イエス様のお言葉は、(3)の旧約聖書の伝統を踏まえていると見ることができます。しかもイエス様は、この伝統を、イエス様がもたらした「神の国」の霊性のもとで、新たにとらえ直しておられます。イエス様のお答えが、(2)のように、あたかも「とっさの機知」から出ているかのように見えることが、ここではとても重要です。なぜなら、問題は、特定の原理や原則で説明したり、教義化し原理化できる性質のものではないからです。神が支配する領域は、無限の普遍性(universality)を有しますから、これを特定化することができません。言い換えると、イエス様の御名のもとにあるキリスト教徒は、その一人一人が、その時その場の政治的、歴史的、宗教的な状況に応じて、臨機応変に対応することが求められるのです。イエス様の答え方は、まさに<この方法>の典型を示しています。イエス様の御名のもとにある人は、だれでも、その場の状況に応じて適切に対応するよう、御霊の導きを与えられるからです。
 だから、キッテルの『新約聖書神学辞典』では、今回の税問答について、次のような解説がなされています。「イエスの答えは、納税拒否のゼロータイと納税義務容認のファリサイ派のどちらなのか、という歴史的な二者択一に判定を与えるものだと見るべきでない。むしろ、(イエスの答えは)問題を別次元へ高めるのである。それ(イエスの答え)は、特定の土地と民(ユダヤ人)の政治的合法性さえも、神の所有権に属する、というユダヤ人(ユダヤ教)の主張に限定を加えることである。だから(ユダヤ人の所有権を部分的に)地上の支配者(王権)に委ねる結果になる。ところが、イエスの(後半の)答えでは、王権に委ねたはずのその所有権を再び無限定(のレベル)へ引き上げることになる。このため、事実上は、皇帝の課税問題それ自体の(次元を)超える神の普遍の支配領域が示唆されてくることになる。(イエスの答えは)、このように謎めいていて、しかも簡潔であるから、この問題が実際はどのように解決するのか、納税問題がどのように決着するのか、これについては何の原理も示してくれない。その答えは、事実上、神の国の終末における成就と同時に、神の前に立つ個々のクリスチャンの決定に根を下ろすことになるからである」〔TDNT(9)81-82〕。
■国家とキリスト教徒
 税の問題は、これを拡大解釈すると、国家の権力の支配とはどういうものなのか?とい課題に突き当たります。国家権力は、その支配の下にある人間の「税」と「生命」と「思想(信仰)」の三つの領域に及ぶと考えることができます。17世紀のイングランドの貴族院と庶民院の議事録を通して見えてくるのは、「税と宗教と軍隊」の三つが、国家の主権を構成する基本だということです。だから、今回の納税問答は、国家への兵役とも、国家権力を象徴する「皇帝礼拝」の問題とも通底するところがあります。ローマ皇帝への税と、皇帝のための兵役と、皇帝礼拝の問題とが、共通することになります。税のために殉教したというキリスト教徒の話を聞いたことはありませんが、皇帝への兵役を拒否したキリスト教徒にトゥールのマルティヌス(315年?〜397年)がいます、彼は殉教者ではありませんが、現在の「チャプレン」(軍人への牧師)へ道を開いた人です。皇帝の命令で異教の神々に犠牲を献げることを拒否して殉教したキリスト教徒に「殉教者ユスティノス」(100年?〜165年?)がいます。時代が降ると、国王(ヘンリー2世)の法令よりも教会の法令を優先させたために殉教したカンタベリの大司教トマス・ベケット(1118年〜1170年)の事件は有名です。
 こういう視点から、今回の問題を考えてみると、イエス様のお言葉は、その場の状況に応じて、キリスト教徒の個人個人には、納税を義務として行なう自由から、これを拒否する自由までの間に様々に多様な選択がありえると思います。同様のことが、国家への兵役義務についても言えます。国家のために命を献げる覚悟から、太平洋戦争の際に、兵役を拒否した日本人のエホバの証人のような場合まであります。デズモンド・ドスというアメリカの青年は、銃を手にすることを拒否しながらも、兵役に参与することを求めて、軍法会議にかけられ、認められました。部隊の仲間からいじめを受けますが、沖縄戦の時に、傷ついて戦場に取り残された多数の兵士たちを命がけで救い出して、部隊の仲間の尊敬の的となり、最高の勲章を授けられました(アメリカ映画「ハクソー・リッジ」)。 現在世界各国で行なわれている「良心的兵役拒否」の制度は、こういう人たちの血によってできたものです。皇帝崇拝は、「宗教・信仰の自由」とも関連しますが、より積極的に、他宗教に対する宗教的寛容の問題まで発展します。
  この問題を扱った小説に遠藤周作の『沈黙』があり、わたしも市川崑の監督による「沈黙」を見ました。今回、新たに、アメリカのマーティン・スコセッシ監督が28年をかけて製作した「沈黙」が上映される予定です(京都では2017年1月21日以降に)。イエス・キリストの顔を踏もうとするロドリゴ神父に向かって、踏み絵のイエスが、「踏むがよい。あなたの痛みを私はよく知っている」と語りかける場面が印象的です。最後まで棄教することなく殉教を遂げた岐部ペトロもいますが、転びキリシタンとその子孫が今もなお250年間守り続けてきたキリシタン信仰もありますから、そこには様々な選択と、これらすべてを覆うイエス・キリストの十字架の無限に広がる愛と赦しの力を観る思いがします。 「この映画を作った背景には、分断を深め、排他的な空気が漂う米国や世界の現状への危機感がある」と監督は言います。
 現在、憲法を改変して、再び神社による国家神道体制を復興しようという動きがあります(『朝日新聞』2017年1月19日号「揺らぐ政教分離」)。神社礼拝を「国教」とすれば、日本の国教は、円紙幣と同じで、国の外では通用しないことになります。「カエサルものものは、カエサルに戻し、神のものは神の帰せ」というイエス様のお言葉は、ここで、全く新しい意義を伴ってわたしたちに語りかけることになりましょう。
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