【注釈】
■マルコ福音書の納税問答
今回から「納税問答」と「復活問答」と「最重要な掟」と「メシア問答」が続きます(マルコ12章13~37節)。これに、先に出て来た「イエスの権威問答」を加えて、これら五つの問答は、マルコ以前からの伝承資料の段階で、すでにセットになっていたのではないかという説が提示されてきました(1920年から)。しかし、この説は現在では(2001年以降)支持されていません。マルコは、自分に伝えられた資料からこれらの問答を選び出して、イエスのユダヤ伝道の中に組み込んだと考えられています〔コリンズ『マルコ福音書』550~51頁〕。
納税問答には、ファリサイ派とヘロデ党が登場しますが、彼らは遣わされた人たちですから、遣わした側は、いぜん11章27節の祭司長、律法学者、長老たちです。今回の問答は内容的にまとまっていて、イエスの頃のパレスチナの状況を正しく反映していますから、この問答はイエスにさかのぼると見なされています〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(1)45頁〕〔コリンズ『マルコ福音書』552頁〕。
〔資料について〕
今回の「納税問答」については、共観福音書以後に書かれた三つの資料が注目されています。『トマス福音書』の成立を1世紀ではなく、遅いほうの2世紀以後に設定するならば、以下の三つは、ほぼ同じ頃のものになります。
(1)『トマス福音書』(100):
「人々がイエスに金(貨)を示し、そして彼に言った、『カイザルの人々が私たちから貢を要求します。』彼が彼らに言った、『カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。そして、私のものは私に返しなさい。』」
〔荒井献『トマスによる福音書』267頁〕。
『トマス福音書』のここは、用語において今回のルカ福音書と類似すると指摘されています(「貢ぎ」とあるのもその一つ)。その上、共観福音書にはない「私のものは、私に返しなさい」が来ています。グノーシス的な世界では、宇宙は半神(デーミウールゴス)による創造物です。グノーシスでは、人間は、最低次の「肉体」と中間の「魂」とその上位にある「(人の)霊」の三層から構成されています。ここの『トマス福音書』は、グノーシスによれば、物質的な「肉体」を「カエサル」と、「魂」をグノーシス的な創造神と、そして、「霊」をほんらいの真理を宿す「自己」を意味する「私(イエス)」と対応させていると解釈できます〔荒井献『トマスによる福音書』270頁〕。ただし、この解釈は、『トマス福音書』を2世紀以後の作だと見ているところに生じるものです。
(2)エジャトン・パピルス(Egerton Papyrus 2 ):
1934年に大英博物館が購入した五つのパピルス断片です。出所は不明ですが、100~150年頃にさかのぼるもので、キリスト教に関する最古の資料の一つとされています。パピルス(2)は、12センチ・10センチほどで、欠けた部分を補うと、その大要は次のようです〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)1290頁〕。
「彼のところへ尋問しようとやってくると、彼らは彼を試そうとして言った『先生イエスよ、あなたは神から来ていると知っています。あなたのなさることは、すべての預言者たちを超えているからです。そこで、教えてください。王たちにその支配権に属する支払いをするのは法に適っていますか?私たちは彼らに支払うべきですか、支払うべきではありませんか?』しかし、イエスは彼らの意図を悟り、怒って言った。『なぜ私を呼ぶのに「先生/師」を口にするのか。私の言うことを聞こうともしないのに。イザヤは、あなたたちのことをよくも言ったものである。「この民は、口先で私を敬うが、彼らの心は私から遠く離れている。無意味に私を敬うが、彼らの教えは・・・・・」』」。
ここには、ヨハネ3章2節とマルコ7章6~7節と同12章14節後半が混淆していますから、このパピルスは四福音書の伝承から出ていると考えられます。
(3)殉教者ユスティノス(100年頃~165年頃)は、ギリシア人でキリスト教の最初期の護教論の教父とされています。仏教をも含む幅広い宗教的な視野を持ち、ローマにキリスト教の神学校を設立し、165年頃殉教しました。
「それゆえ、私たちは、誰よりも進んで、あなた(為政者)に任命された人たちに、日常・非日常の税を支払うのです。それは彼(キリスト)に教えられたからで、当時彼の下へある人たちが来て、カエサルに貢ぎを支払うべきかどうかと尋ねた時、彼はこう答えています。「言ってみなさい。この貨幣にある肖像は誰なのか?」すると「カエサルのです」と彼らが言います。彼は彼らに再び答えます。「それなら、カエサルものものはカエサルに、神のものは神に戻しなさい。」それだから、私たちは神のみを礼拝します。しかし、他のことについては、あなたがたを人の上に立つ王侯であり支配者であると認めて、私たちは喜んであなたがたに奉仕し、あなたがたが、王侯にふさわしい力によって、賢明な判断を具えられるよう(神に)祈るのです。」
(The First Apology of Justin. Chap.17.Christ Taught Civil Obedience.)〔Ante-Nicene Fathers. Vol.(1). Trans. by Alexander Roberts and James Donaldson. T&T Clark. Electronic edtion.〕
■マルコ12章
[13]【ヘロデ派】ファリサイ派とヘロデ派の組み合わせはマルコ3章6節にも出ています。ヘロデ派/党(ヘローディアノイ)は、ほんらいヘロデ大王の支持者たちのことを指していたと思われますが、イエスの頃は、その息子ヘロデ・アンティパスがガリラヤの領主であったので、ローマ帝国と融和関係を保ち続けていたヘロデ王家の支持者たちのことだと考えられます。政治色の強いヘロデ党と宗教的なファリサイ派との組み合わせが不自然であるだけでなく、ガリラヤではなくユダヤで、なぜヘロデ党が出てくるのかも疑問でした。しかし、ヘロデ王家は、紀元6年以前までと37年以後からは、大祭司職をボエトゥス家から任命していました。これに対して、イエスの頃の6~37年の間は、ローマの後ろ楯を得ていたサドカイ派が大祭司職の人事を取り仕切っていたと指摘されています。今回のヘロデ派とは、エルサレム神殿制度に携わるラビたちで、ボエトゥス家を支持するグループのことを指すのではないかと言われています〔フランス『マルコ福音書』151頁/467頁〕。ただし、それがどのようなグループであったのか、よく分かりません。なお、カエサルへの納税が「律法に照らして正当か、否か」と問いかけたのは、律法に厳しいファリサイ派の者でしょう。
【言葉尻を捉える】カエサルへの納税については、後出の注釈を参照してください。納税を拒否すれば、ローマへの犯行の罪で告訴することができるし、納税を肯定すれば、ローマに与(くみ)する者と見なされて、民衆の信用を失わせることができるというが、彼らのねらいだったのです。
[14]【先生】ギリシア語は「ディダスカロス」で、広い意味での教師を指します。パレスチナでは宗教的な指導者の「ラビ」をも含めて「師/師匠」を意味します。12章19節と32節にも同様の呼びかけが出てきますから、この一連の問答では、イエスの警戒心を解くための「上辺だけのへつらい」の呼び方でしょう。
【真実な方】ここでは、「真実/誠実で偽りがない」(ヨハネ7章18節参照)というほんらいの意味よりも、裁判官などが「公平/公正」な姿勢で人に接することを指しています。「だれをもはばからない」の「はばかる」は、「(人の)面倒を見る」「心にかける」ことがほんらいの意味です。しかしここでは、「私情にとらわれる」ことですから、「はばからない」は、相手の権威や利害関係に左右されないことです。
【分け隔てせず】原語は「人の顔を見る/うかがう」で、この言い方は旧約以来の慣用です(レビ記19章15節「弱い人を偏ってかばう、強い人の肩を持つ」/申命記10章17節など)。新約ではガラテヤ2章6節にこの言い方が出てきます(使徒言行録10章34節/ローマ2章11節をも参照)。なお、「人にはばからない」はヘロデのことを、「人を分け隔てしない/誰であれ容赦しない」は皇帝のことを暗に示唆しているという説もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)213頁〕。イエスも「彼ら同様に」人の権威にとらわれないという意味でしょうか。
【皇帝】「皇帝」のギリシア語は「カイサル」です(ラテン語 "Caesar")。ほんらいはローマの共和制の末期に暗殺されたユリウス・カエサル(英語名「ジュリアス・シーザー」)のことですが、彼の甥であるオクタヴィヤヌスがローマの初代皇帝になったことから、「カエサル」は「皇帝」を指すようになりました。
【律法に適う】原語は1語で「認可されている」「合法である」「正当である」の意味です。ユダヤ教ではモーセ律法を初め、もろもろの宗教的・社会的な「定め」(ユダヤ教の「ハラハー=歩み/規定」)にかなうことを意味します。
【税金を納める】新約聖書のギリシア語で「税」(神殿税を別にすれば)は、
(1)「ケーンソス」(マタイ22章17節)で、これはラテン語「census(ケーンスゥス)=査定/人口調査」から出たギリシア語で、主として「人頭税」のことです。
(2)特に人頭税を指すギリシア語には「エピケファライオン」があり、これはラテン語「capitularium(カピトラーリゥム=人頭税)」の直訳語です。
(3)「テロス」(マタイ17章25節)があります。これは主として通行税や関税を指し、複数形で用いられます。「徴税人」(テローネース)はこの語から出ています。
(4)ギリシア語の「フォロス」は、ラテン語の「tributum(トリブトゥム=貢ぎ物/租税)」にあたる語で、征服民が被征服民に課す税です(英語のtribute)。
マルコ福音書のギリシア語は(1)ですが、イエスの頃のパレスチナでは、(1)(マルコ12章14節)と(4)(ルカ20章22節)はそれほど区別されませんでした〔TDNT(9)81〕。
ローマ帝国では、原則として、成人一人の人頭税と、穀物の収穫の10分の1の穀物税が徴収されました。その他、物品の輸送に課せられる関税や通行税もありました。1世紀のイエスの時代のパレスチナでは、ガリラヤはヘロデ・アンティパスの支配する領土ですが、ユダヤは紀元6年からローマ皇帝の直轄領になっていました。皇帝の直属州からの税は皇帝の金庫に納められました(ほかに元老院に属する諸州があります)。ガリラヤなどヘロデ家の領地では、税はヘロデ家の金庫に入りました。ただし、ヘロデを含む帝国内の地方の諸王からは、皇帝や帝国に貢ぎや税が納入されましたから、ヘロデによるガリラヤでの税は、領地内の宮殿建築などと皇帝への貢ぎ物の課税が重なるために、過酷な取り立てが行なわれました。
イエスの頃のパレスチナでは、クィリニウスがシリア州の総督になるとcensus(ケーンスゥス=査定/人口調査)が施行されました(6~7年)。これによるローマ帝国からの直接税は二つに大別されます〔コリンズ『マルコ福音書』552~53頁参照〕。
(1)農産物などに課せられる税で、家ごとに収益の10分の1ほどの税額です。これの納入には、品物と貨幣の両方があてられました。
(2)家族の構成員個人に課せられる「人頭税」があります。一人あたり年額1デナリほどでした〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)214頁〕。人頭税は女性と奴隷にも課せられましたが、子供と老人は免除されました。ただし、人頭税のほうは、これが実際に課せられたのはユダヤが滅びた70年以後のことではないかという見方がでています〔コリンズ『マルコ福音書』553頁〕。
通常は徴税の役を請け負うテローネース(徴税人/取税人)たちがいて、ローマ政府やヘロデ家のために徴税を行ないました。徴税は総額の請負制だったために、不当に徴収したり、不公平な徴税が行なわれたようで、このために、テローネースたちは人々から憎まれ蔑まれていました。税が払えないときには、息子や娘を奴隷として売るために連れ去ることもありました。赤いマントをまとい馬に乗ったローマ兵と徒歩の徴税人が家々を訪れて、徴税人が税を徴収するのをローマ兵が黙って見ている姿が目に浮かびます。
[15]イエスは、相手への好意を装う呼びかけの裏に潜む彼ら下心を見抜いたのです。イエスは、質問者だけでなく、双方の問答を側で聞いている人々をも意識して、デナリオン銀貨を「見せる」よう求めたのでしょう。一人分の人頭税にあたるデナリオン銀貨は、高額の貨幣だから、イエスの一行はこれを持ち合わせていなかったのでしょうか。
【下心】原語は「ヒュポクリシス」(演技/芝居/偽善)です。マルコ福音書にこの語は、今回と7章6節に「偽善者」としてでてくるだけです。善意を装う悪意という意味で、日本語の「偽善」とほぼ同じですが、ヘブライ語の伝統では、人が、たとえ本心から「正しい」と思い込んでいたとしても、それが首尾一貫しない場合には、神の前で正しいことでないとして「偽善」だと見なされます(ガラテヤ2章13~14節)。しかし、今回のマルコの用法は、自ら偽りを自覚しながら装う不誠実のことです。
【試す】原語は「罠にかける/誘惑する/試す」です(マルコ1章13節/同8章11節/同10章2節)。今回は「テストする」よりも「罠にかける」ほうでしょう。
〔歴史的背景〕
ヘロデ大王の息子で、大王の死後3分割されたユダヤ地区の領主であったヘロデ・アルケラオスは、度々の失政のため民の不満をかい追放され、ユダヤ地区はローマ皇帝の直轄領になりました(紀元6年)。そこでシリア州の総督クィリニゥスは、ガリラヤとユダヤ地区に皇帝への課税のためにcensus(ケーンスゥス=査定/人口調査)を施行します(6~7年)。ところが、ガリラヤのユダという人物が、「ローマに貢納金をおさめたり、ひとたび神のみを主権者と仰いだのに、なお死ぬべき人間〔ローマ皇帝のこと〕に仕えるなどというのは卑怯者だ」〔秦剛平訳『ユダヤ戦記』(1)243頁〕と民衆を扇動して、騒乱を起こしました(使徒言行録5章27節参照)〔ヨセフス『ユダヤ戦記』2巻8章118〕。ユダヤの国土は「神の領地」であるから、そこから生産される産物もまた神のみに属する。ユダはこのような考えたのでしょう。この考え方だと、神の民「ユダヤ人」がローマ皇帝へ税を納めることと、神に納税することとは相容れない対立関係に陥ります。
ユダのこの反乱は、皇帝への従属を嘉(よし)としないけれども、皇帝への納税は容認するファリサイ派よりもいっそう過激で、神こそが唯一の「主」であるとして、ローマ皇帝を「主」と呼ぶユダヤ人は、たとえ近親者でも友人でも容赦せず、自分たちの命を賭(と)して彼らを襲い復讐することを誓い合ったのです〔ヨセフス『ユダヤ古代誌』18巻1章23節〕。これが「ゼロータイ」(熱心党)と呼ばれる過激派の発端となり、以後、この運動は、60年以降のユダヤ戦争へ発展してユダヤの滅亡へつながることになります。
ファリサイ派とヘロデ党が「カイザルへの納税が是か非か」と問いかける背景には、このような政情がありました。イエスの頃のゼロータイは、まだそれほどの影響力がなく、ローマへの反乱にいたるほどではありませんでした。ただし、マルコ福音書が書かれた頃は(70年頃)、ユダヤ戦争が最終段階に来ていた時と一致しますから、「カエサルか、神か」というこの問いかけは、マルコとその共同体にとって、身近で切実な問いだったでしょう。マルコ福音書で、「律法に適うかどうか」の後に「税を納めるべきか、納めるべきでないか」と二重の問いかけがなされているのは、「ユダヤ人にとって」を強調するためでしょうか。
[16]~[17]
【肖像と銘】イエスの頃は、銀貨はフェニキアのティルスで鋳造されていました。ただし青銅貨はヘロデ・アンティパスのガリラヤでも鋳造が許可れていました。ヘロデ大王(在位前37~前4年)の時代の青銅貨幣には、片面にアポロンの三脚台と裏面に香の祭壇が刻まれていて、ヘレニズムとユダヤの両方向きの図柄になっています。大王の息子でガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパス(在位前4年~後39年)の頃の青銅貨幣では、椰子や花冠の図柄だけしか用いられていませんが、同じ頃の東方ガウラニテスの領主フィリポによる鋳造青銅貨幣には皇帝の像や異教の神殿が刻まれていました〔教文館『聖書大事典』311~312頁〕。イエスの頃は、初代皇帝アウグストゥスの養子であるティベリウス帝(在位14~34年)の時代で、 当時のデナリオン銀貨の片面には、皇帝の頭が刻んであり、これを囲むように、右下から左下までの順で読むと、TI(BERIVS)/CAESAR/DIVI/AUG(VSTI)/F(ILIUS)/AVGVSTVS(ティベリウス・カエサル・神君アウグストゥスの子・アウグストゥス=神君アウグストゥスの子である、皇帝ティベリウス・アウグストゥス)と刻んであります〔『旧約新約聖書大事典』教文館778頁図参照〕。これの裏面には貞節と不動の杖を持つ女神コンスタンティアの図像が刻まれていて、その左右にPONTIF(E)・MAXIM(VS)(大祭司)と刻まれています〔『新約聖書・ヘレニズム原典資料集』51頁〕。女神はここでは「平和の維持者」の象徴として皇帝の皇妃リヴィアを表わすのでしょうか〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)216頁〕。このため、ユダヤ人はこれを偶像と見なして、使うのを嫌ったのです。ただし、日常生活では、皇帝像の刻まれていない青銅貨が多く用いられていました。
【皇帝に返す】原文は「カイサルに戻す」です。「カイサル」(ラテン語 "Caesar" )はローマ皇帝のことです。貨幣に刻まれた肖像から見れば、その金を使用する者はだれであれ、皇帝の権力の下にいるという証拠です。だから、その金を皇帝に「戻す」のは当然である。イエスは、「皇帝に<与える/払う>べきか」という問いかけに対して、皇帝に「返せ/戻せ」という言い方で、納税が許されるだけでなく正当な行為であることを示唆するのです。イエスのこの答えからは、貨幣の使用だけでなく、皇帝の支配下で暮らす者が皇帝から課せられた義務を果たすのは正当だという意味を読み取ることもできましょう。しかし、後半に「神に属するものは神に返す/戻す」とあるのは、いったい何を「神のもの」と見なすのか?という問いの前に人それぞれを立たせます。この問題は、具体的な暮らしの中では、人それぞれに様々な答えを可能にします。だから、皇帝の支配下で暮らす義務と神の支配下にある者の義務とが、どのように関係し合うのか? これの両立と相克は、その時の状況に応じて決まるか、あるいは人それぞれの状況に委ねられることになりましょう〔フランス『マルコ福音書』468~69頁〕。
このような解釈は、イエスの答えを「あれか、これか」の二者択一ではなく、皇帝と神の二つの支配の両立も可能だと見る解釈です。これに対して、「神の目から見れば、汚れた皇帝の支配そのものが汚れているのだから、貨幣は皇帝に突き返せ」と、納税を皇帝の支配を拒否する手段に利用せよと促しているという解釈もあります。そのほか、貨幣は皇帝の肖像、イスラエルの民は神の肖像(創世記1章27節)だから、両立は難しいという解釈から、皇帝の経済に屈するのは資本家に屈することであり、イエスはこのようなブルジョア的な解釈を拒否しているという説まであります〔フランス前掲書469頁(注)38~40〕。今回のイエスの答えからは、何らかの原理を引き出すことがそもそも間違いで、イエスは、何が皇帝のもので、何が神のものかという問いそれ自体を、貨幣を手渡した相手側に「戻した」という見方もあります〔コリンズ『マルコ福音書』557頁〕。
■マタイ福音書の納税問答
イエスのエルサレム入城に始まり、権威問答からメシア問答にいたる一連の出来事は、マルコ福音書とマタイ福音書でほぼ並行しています(マルコ11章~12章37節=マタイ21章~22章)。ただし、マタイ福音書の「王子の婚宴」(22章1節~14節)だけがマルコ福音書に抜けていますが、この記事は、ルカ14章15~24節と並行しますから、ルカ福音書に合わせて、エルサレムへの旅の途中の出来事として先に扱いました。今回の皇帝への納税問答でも、マタイはマルコ福音書に依存していますが、マタイは、マルコ福音書の記事を以下の注釈にあるように編集し直しています。
■マタイ22章
[15]マルコ福音書では「派遣した」の主語がはっきりしませんが、マタイ福音書では、質問者たちをヘロデ派と共に遣わすことを「共謀した」のはファリサイ派です。「罠にかける」もマタイ福音書だけですが、先に述べた通り納税を肯定しても否定しても、イエスの立場を不利にする意図がこめられています。
[16]~[17]マルコ福音書では、質問者たちのはじめの言葉は、「真実な方である」「だれもはばからない」「人を分け隔てしない」「真理に基づいている」のように、二つの否定「~でない」を二つの肯定「~である」で囲んでいます。マタイはこれを「真実な方である」「真理に基づいている」「だれもはばからない」「人を分け隔てしない」のように、二つの肯定と二つの否定に分けています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)211頁〕。マタイは、ファリサイ派が派遣したのなら、「律法(法)にかなうかどうか」だけが問われていると解釈したのでしょうか。なお、「ファリサイ派の弟子」という言い方は、共観福音書ではここだけですが、ヨハネ福音書には、ファリサイ派が「人を遣わした」ことが3度でてきます(ヨハネ1章24節/7章32節/18章3節)。
[18]マタイはマルコ福音書の「彼らの偽善」を「彼らの悪意」に変えて、マルコ福音書の「納めるべきか、納めるべきでないか」を省いています。
[19]~[20]ここの「お金」を「人頭税の貨幣」〔岩波訳〕とする訳があり、また、「持ってくる」を「持ち合わせていた」の意味に解する説もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)215頁〕。だとすれば、彼らは予め貨幣を用意していたことになりますが、確かでありません。
[21]~[22]マルコ福音書では、「驚いた」が未完了過去形で、マタイ福音書はアオリスト形です。マルコ福音書で「驚いた」とある主語は「彼ら」、すなわち周囲の人々ですが(「人々は大変彼に驚いた」〔岩波訳〕)、マタイ福音書では「遣わされた者たち」のほうです。。なお、マタイは、「立ち去った」を加えることで、次のサドカイ派との問答との間に切れ目があることをはっきりさせています。
■ルカ福音書の納税問答
ルカは、マルコ福音書の記事に準拠していますが、マルコの用語をルカ流により明確に言い換えています。マタイ=マルコ福音書とルカ福音書の最大に違いは、ファリサイ派やヘロデ派などの敵対者を出さず、代わりに民衆の存在を意識させることで、出来事をローマ皇帝の下での納税問題に絞っていることです(ルカ23章2節を参照)。
■ルカ20章
[20]ルカは、マルコ福音書の出だしを全面的に書き換えて、この問題へのルカの視点を明確にしています。まず、マルコ福音書に登場するファリサイ派もヘロデ派もでてきません。だから、20章1節の「祭司長と律法学者と長老たち」が主語になるでしょう。ルカは「<監視するために>、<自らを正しいと装う偽善の><スパイ(回し者)たち>を派遣した」のように補足し言い換えて、派遣の意図を明確にしています。その上で、「イエスの言葉から<(訴える口実を)掴む>」ことによって、「<為政者の支配(司法当局)とその権力>に彼を<引き渡す>」意図を抱いていたとあります。派遣された者たちは、イエスの言葉を理由に、逮捕して当局に引き渡すよう指令を受けていたことが分かります。「彼を総督の当局とその司法権力に引き渡す」〔岩波訳〕/「総督の役所や官庁に引き渡す」〔塚本訳〕。
【正しい人を】ここでは、偽善を隠すために「正直」で「誠実」な様子を見せることです。
【総督】ローマの「プラエフェクトゥス」とは、ほんらい騎士階級に属する人たちが多く、彼らが地方に派遣された場合は、地方の州総督の下位になります。イエスの頃のピラトもシリア州の総督の下位にあたる「プラェフェクトゥス」です。彼らの職務は治安と徴税が主で、手持ちの軍隊もそれほど多くはなく、ユダヤ地区から募集した兵士たちが多数を占めていたと思われます。権限も限られていましたから、「総督」と言うよりも「代官」のほうが近いでしょう。
[21]~[22]【正しく】マルコ福音書の「真実」をルカは「正しく/適切な」に変えています。法に背かず教義的にも異端にならないよう「適切に」発言をすることです。「神の道」とありますから、イエスが納税を拒否するように誘導しているのでしょうか。ルカは、イエスの答えが驚くほど「適切」であることも言外に含ませているのかもしれません。だから、彼らは最後に「何も言えなくなった」のです。
【税金】これもマルコ福音書の「ケーンソス」と異なる「フォロス」で、これには国家への単なる税のほかに、征服者が被征服民に課す「貢ぎ」の意味も含まれます〔織田『新約聖書ギリシア語小辞典』624頁〕。
[23]【たくらみ】ルカはマルコ福音書の「偽善を見抜いて」ではなく「策略を察知して」と言い換えています。
[24]~[25]ルカは、マルコ福音書の「彼らが持ってくると」を省いています。また、イエスの答えを「(なるほど)それなら、」で始めて、カエサルに戻す理由をよりはっきりさせています。"Very well then, "〔REB〕
[26]【民衆の前で】ルカは、「できなかった」をマルコ福音書よりも強めて、その上で「民衆の前で」を加えています。ルカのこの付加は、敵対者たちと民衆とを対比させる意味で重要です。
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