【付論】
イエス前後のユダヤの復活思想
ここで、前3世紀~後1世紀のユダヤ教の復活思想について概観します。
〔『第一エノク書』20~32章〕『第一エノク書』/『エチオピア語エノク書』の「見張りの天使たち」の巻(前250~前200年頃)。エノクの第二の旅が始まり、エノクが見ると、ウリエル(タルタロスを見張る)とラファエル(人間の魂を見守る)とラグエル(世界と天体に復しゅうする)とミカエル(選民たちを護る)とサラカエル(罪に誘う人間の魂を見張る)とガブリエル(蛇とエデンの園を見張る)とレミエル(よみがえる者たちを守る)の七大天使たちがいます。またエノクは、混沌の荒れ野を見ます。そこでは、「天の七つの星たち」が、それらの「罪の日数が満ちるまで」神によって縛られています。次に燃えさかる炎と大きな火の柱を見ます。そこは堕落天使たちが永遠に留め置かれる場所です。さらに行くと、高い山とその回りに四つの窪地があります。そこは、死者の魂が、終末の大審判の日(22章3節)に裁きを受けるまで留まる場所です。また「死んだ人の子たちの霊魂の叫び」を聞きます。それはカインによって殺されたアベルの(すなわち殉教者たちの)叫びです。
四つに区切られた場所では、死者の霊魂が、選り分けられてそれぞれの場所に住んでいます。悪人は、「裁きの日に殺されることもなく、ここから連れ出してもらえない」のです。彼はさらに、駆けめぐる火と、火の山を見、美しい七つの山を見ます。真ん中の山は、主のみ座にも似た高い山で、薫り高い木に囲まれています。エノクは、その場所に、裁きと復しゅうの時に選ばれた者に与えられる命の木の実を見ます(25章3節)。それらの実は、艱難がなく先祖たちのように長生できるようにと永遠の王が造られた木です(25章6節)。祝福の土地があり、そのまわりに呪いの谷が見えます。ここで「復活」がでてきますが、ここで言う復活とは、再び地上に戻ることを意味しています。
〔ダニエル書12章2~3節〕(前164年頃)。この箇所は、旧約聖書で「死者の復活」が明瞭に語られる最初の箇所として重要です。神の民が大苦難の中でミカエルに護られている時に、「天の書」に名前が記されている者が救われます。この時、「地の塵の中で眠っていた」人類全体が目覚めます(復活を意味する)。ある者は永遠の命へ、ある者は永遠の恥辱へいたるために。賢者は大空の光のように輝き、人を義に導いた者は星のように世々限りなく輝きます。
〔第二マカバイ記7章〕(前124~前63年)。以下のように、殉教者6人の口から復活への希望が語られます。ここには、当時のユダヤの「復活」に関するほとんどすべての考え方が網羅されています。
(1)第二マカバイ記7章9節:「(ユダヤ人を)迫害する王は、わたしたちを今のこの人生/世から解放するから、わたしたちは、新たに造られる永遠の命へよみがえる」(「新たに造られる」は〔REB〕の読みを採ったものでフランシスコ会訳にはない)。
(2)7章11節:「わたしはこの舌や手を天から授かった。主の律法のために死ぬわたしは、主から再びこれらを返してもらえると確信する」〔REB〕。ここには、「現在のからだ」がそのままよみがえると言われています。
(3)7章13節:「たとえ人に殺されても、再びよみがえるという神の約束に生きるほうがよい。だが、迫害するあなたに復活はない。」「復活」という言葉に注意。
(4)7章22~23節:殉教者の母の言葉。「あなたたちに霊と命を与えたのはわたしではない。人類の始まりを図り万物の起源を考案された宇宙の創造主は、憐れみをもってあなたたちに霊と命を返してくださる。」
(5)7章28節:同じく母の言葉。「天と地を見なさい。神はこれらをすでに存在したものから造られたのではないと悟りなさい。人類もまた同様に(無から)造られたのです。」
(6)7章36節:殉教する弟の言葉。「わたしたちの兄弟(肉親に限らず信仰を同じくする者たち)は、束の間の苦しみを堪え忍び、神の契約のもとに永遠の命の水を飲んだ。しかしお前(迫害する王)は、神の宣告を受けて、その残忍な高慢に相当する罰を受ける。」
〔クムラン宗団〕
「ベリアルへの怒りの時であり、
近づく死の縄から逃れる術(すべ)はなく、
ベリアルの奔流は高い堤を超えて
すべての水流(?)を食いつくす炎となって
・・・・・・・
逆巻く火炎の炎は
水を飲む者どもすべてを消し去る。」
〔1QHymns.Col.XI:27-31.〕〔DSS(1)333〕
クムラン文書では、光と闇の闘いとこれの結末として訪れる裁きの終末が語られ、ベリアルの者どもへの容赦ない断罪が告げられます。ただしこのような破壊を越えてその後がどのようなるのかは示されていません。これに対する答えが、『宗規要覧』の3~4章に表れます。
「なぜなら知恵の人は、人の子らすべての歴史を光の子たちに告げ知らせる。・・・・・今あることも今後成るべきこともすべてが知恵の神から出る。それらが成る/存在する以前から、神はそれらをことごとく計画され実現される。彼の栄光の計画に従って定めた通り何一つ変えずに。」〔Rule of the Community(1QS).Col.4.13-16.〕〔DSS(1)6〕。
ここでは、個人の行ないに応じて報酬と罰が与えられるだけでなく、闇の子たちとその世界の消滅に対応して、光の子たちが新たに創造されて、彼らは、神のご計画によって創造される世界を治めるのです〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 273-74〕。
現存するこの世の秩序が消滅する時、次に何が生起するのでしょうか? ここで、ヘブライ語の「クゥム」(復興する/復活する)の思想が、事態を生起させる基として働き、 世の終わりが創造へ結びつきます。
「今にいたるまで、人の心には、真理の霊と不義の霊が対立し合い、人は皆、知恵と愚かを兼ね具えて歩む。あるいは真理と義を賦与されるままに不義を厭い、あるいは受け継いだ不義のままに邪悪を行ない真理を厭う。神は人にこれらの霊を等しく与え、定められた終わりと新たな創造にいたる」〔The Rule of the Community(1QS).Col.4.24-25.〕〔DSS(1)7〕〔DSS(2)121〕。
クムランの神学として重要なのは、「堕落した人間性の回復」です。これは、創造によって授与されていたほんらいの人間性の栄光を取り戻すことです。このような「人間性の回復」は、否定的な消極面と肯定的な積極面の二面性を具えています。
(1)否定的な消極面では、「人間性の浄め」があります。『宗規要覧』(前100年~5前50年?)4章20~21節に次のようにあります。
「邪(よこしま)な時代に神の真理が裁きとなって降るその時には、神はその真理によって、すべての人の行ないを浄め、ご自分のために人間性(人の成り立ち/身体)を浄め、人の体の奥に潜むあらゆる不義(邪悪)の霊をはぎ取り、聖なる霊によってあらゆる不敬虔な業を浄める。神は人に真理の霊を輝く水のように注ぎ、すべての忌むべき欺きと、汚れた霊による汚染を浄める。」〔The Rule of the Community(1QS).Col.4.20-22.〕〔DSS(1)7〕〔DSS(2)121-22〕
(2)次に人間性の回復の肯定的な面をあげますと、それは「アダムの栄光の回復」です。荒れ野でイスラエルの民がさまよった後で、次のようにあります。「しかし彼らの中から残されて神の戒めを固く守る者たちとは、神はイスラエルのために永代まで契約を立て、イスラエルのすべてがさまようもととなった隠れたことを彼らにあらわし給うた。すなわち彼(神)の聖なる安息日と栄光ある定めの祭りと彼の義の証言と彼の真理の道、そして人が行なうならばそれによって生きる御心の要求を、彼(神)は彼ら(イスラエルの残りの者たち)の前に披瀝(ひれき)し給うた。それで彼らは豊かな水の井戸を掘ったのである。それを軽んずるものは生きないであろう。しかし彼らは人間の罪に、汚れの道に身を汚した。・・・・・しかし神はその奇しき秘密において彼らの罪を償い、その咎を赦し給うた。そして彼(神)はイスラエルのうちに固き家を建て給うたが、そのようなものは古(いにしえ)より今にいたるまで建ったことがなかった。それを固く守る者は永遠の生命を得、アダムの栄光はすべて彼らのものとなる」〔日本聖書学研究所編『死海文書』の「ダマスコ文書」(前175年~前40年?)3章12~21節。256頁〕
ここには「アダムの栄光」の回復が語られています。この回復は「永代の契約」に結びついていて、終末的な意味を帯びており、大地が、そこに住む人(アダム)と共に初めに創造された状態へと回復されるのです。しかもこの回復には、人の罪の完全な贖いが伴います。
クムラン宗団には終末に達成される超越的な命が信じられていたのでしょうか? 上にでてくる「永代までの」人の生命の延長も、最終的には死を免れることができないとすれば、死の先に何があるのでしょうか?ユダヤの終末的な希望は、基本的に現世的です。クムラン宗団の終末も地上的であり、たとえ時代が新たに更新されたとしても、それはやはり地上的ですから、「死をも超えた」宗団の「超越的な命」を臨むことができるのでしょうか? 「わたし(霊的に礼拝する者)の目は永遠を見つめる、人の目から隠された知恵を(見つめる)。それは人の子らからは隠された知識と思慮であり、肉の集まりから隠された義の源、力の井戸、栄光の泉である。これらを神は永遠の所有として選ばれた者たちに授けた。神は彼ら(選ばれた者たち)を聖なる方の相続を受け継ぐ者とされた。神は彼らを天の子たち(天使たち)と共に一つの交わりとして集め、『会衆』(ヤハド)とした。彼らは聖なる事、来るべき世世にわたる天の土地/農園のために立てられた集まりである。」〔The Rule of the Community(1QS).Col.11.5-10.〕〔DSS(1)18〕〔DSS(2)134〕
ここには明らかに地上を越えた霊界への信仰が語られており、宗団はその交わりに加えられるのです。ここには、クムラン宗団が到達した最も高い宗教的体験が描き出されています〔Deasley.The Shape of Qumran Theology. 296〕。
〔『モーセの遺訓』9章〕
『モーセの遺訓』と『モーセの昇天』は、ラテン語の写本で、ミラノのアムブロシウス図書館で発見されました(1861年刊行)。これらの写本は5世紀頃にギリシア語から訳されたものですが(写本は6世紀末のもの)、その原本はヘブライ語かアラム語だと推定されます。「遺訓」と「昇天」との関係は、同じ文書の前半と後半とにそれぞれ与えられた名前だとする説と、全く異なる文書であるとする説と、「遺訓」あるいは「昇天」のどちらかがほんらいの名称だとする説とがあるようです。
著作年代は、紀元7~30年の間だと推定されますから、イエスが伝道を開始する直前の時期になります。これの内容は、マカバイ戦争直前(5章)、アンティオコス4世の迫害時代(8~9章)、ハスモン王朝以後の時代(6章)という見方があります。しかし、8~9章は、アンティオコス4世時代の内容と見るよりも、歴史的終末を一般的に描いているという見方が強いようです〔『聖書外典偽典』(補遺Ⅰ)土岐健治/小林稔訳註159~60頁〕。
『モーセの遺訓』には四福音書と同じような表現が多くでてきます(7章4節「大食漢で酒飲み」/8章1節「世の初めからなかったほどの困難」/10章の終末など)。この遺訓の9章に「タクソ」という人物が登場します。彼は、第一のバビロン捕囚の苦難にも匹敵する第二の苦難(アンティオコス4世の迫害)の時代の人で、タクソの7人の息子たちは、「父祖たちの神の戒めを踏み外すよりも、むしろ死のう」(9章6節)と告白します。だから、ここにも無実な者たちの死が神の裁きをもたらすという思想が表われます。「わたしたちの血が主の御前で報いを求める」(9章7節)のです。これは、カインに殺された弟アベルの血が神に叫ぶ(創世記4章10節)のと同じ意味です。
この信仰は第二マカバイ記7章17節/同19節と共通します。しかし、注意したいのは、第二マカバイ記と『モーセの遺訓』との類似だけでなく、両者の違いです。第二マカバイ記の殉教は武力による抵抗によって生じますが、『モーセの遺訓』では、最後まで無抵抗の非暴力に徹して、終末の裁きに身を委ねているのです〔『聖書外典偽典』(補遺Ⅰ)概説163頁〕。ここでの非暴力が、例えば現代のガンジーやキング牧師の唱える<積極的な>非暴力思想と同じかどうかは、確かでありません。また、ここにでてくるタクソは「メシア」ではありません。殉教者たちは敵の手から取り去られて「諸星の天」に住まい(10章9節)、地上では終末の時に罪人らが滅びますが、殉教者の復活は語られません。しかし、『モーセの遺訓』には、非暴力の殉教と、死後の救済と、迫害された義人の「身の証し」"vindication" が語られており、しかも、世界を創造された神は、「すべてのことを世々にわたって予見しておられる」(12章13節)のです。
〔イエスの復活思想〕
1世紀前後のヘレニズム世界には、エジプトのイシス神話、ギリシアのエレウシス祭儀に起原をもつよみがえり神話、ディオニューソスのよみがえり神話、アドーニス伝説の再生神話、また、小アジアやマケドニア地方では、太母神キュベレのよみがえり神話などが再生とよみがえりの永生宗教の基になっていました。これと共にギリシア哲学(プラトニズム)に基づく「魂の永遠/不滅性」を唱える哲学も存在していました。この哲学は、アプレイオスの『黄金のろば』に収録されているエロースとプシュケーの神話に結晶しています。また、パレスチナの東方では、かつてのペルシア帝国の時代にさかのぼるゾロアスター教の影響が強く残っていました。パレスチナの人たちもこれらのヘレニズム思想や諸宗教の影響を受けていたのは間違いありません。
したがって、ユダヤにおいても、魂の不滅や霊的生命の永遠性を信じる思想家たちがいました。特に、パレスチナ以外のヘレニズム世界に住む「離散のユダヤ人」(ディアスポラ)の間では、ユダヤ教の信仰に基づきながらも、ヘレニズムの影響を強く受けていたと思われます。アレクサンドリアのユダヤの思想家フィロン(前20~後45/50年)は、これの代表的な人物だと言えましょう。
パレスチナのユダヤ教においても復活信仰が保持されていましたが、その信仰は決して一様ではなく、これに関して幅広いバリエーションが共存していました。だから、サドカイ派が復活を否定する一方では、霊魂不滅説や天使の永遠性や天体(恒星や惑星)の永遠性にあやかろうとする人たちもいたのです。
パレスチナのユダヤ教の復活信仰を全体として見るならば、民族的にせよ選民的にせよ、なんらかの<共同体的な復活>であり、それも、終末の裁きを待ち望む<未来の復活>信仰の傾向が強かったと言えます〔Keener.
The Gospel of John.(2)1175-77.〕〔TDNT (1)369-70.〕。オリーブ山の西斜面、すなわちエルサレム神殿に面する斜面には、終末での復活を待ち臨むユダヤ人の墓でびっしりと覆われていました〔一世紀のユダヤの墓については共観福音書補遺「一世紀のユダヤの墓」参照〕。
イエスに始まる最初期のキリスト教とこれに基づく新約聖書の復活信仰は、このようなパレスチナ・ユダヤ教の伝統的な信仰から生じたものです。しかし、その信仰は、イエスの場合にはっきりと見られるように、上に述べた二つの点で、すなわち「共同体的」と「未来の終末」の二つの側面で重要な変容を遂げました〔Keener.
The Gospel of John.(2)1175-77.〕。なぜなら、キリスト教の復活信仰は、イエスという<歴史上の個人の>復活であり、しかもそれが<すでに起こった>出来事であったからです。
イエス自身が、受難と復活を預言したかどうかは、マルコ8章31節にもでてくる「人の子」預言と関係します。イエスが宣べ伝える「神の国の福音」(マルコ1章14節)は、イザヤ書61章1節や同52章7節と関連しますが、マルコ福音書では、神から遣わされて福音を伝える預言者と、伝える預言者自身が実はその福音の内容でも<ある>という、二重の意味での「メシア的預言者像」が形成されています〔コリンズ『マルコ福音書』47頁〕。
『第一エノク書』の「人の子」は、神に選ばれ贖われた共同体が、終末的な裁きに先立って、王たちや権力者たちの前に<突然の啓示>によって顕れ、権力者たちを驚かせます(知恵の書5章1~9節参照)。同時にこの「人の子」は死者の復活と新天新地を待望させる新たな時代(アイオーン)をもたらす者です。この「人の子」は、「世の初めから隠されていた者」ですから、彼は、「先在の人の子」とも言われる存在です〔コリンズ『マルコ福音書』60~61頁〕。このように「受難の死の預言者」と「勝利するメシア」の二つが結合している「人の子」が、マルコ8章27~33節のイエス自身による預言の「人の子」です。このようなメシア像は、ユダヤ教には見られないマルコ福音書独特のものですから、これこそ、ナザレのイエス自身にさかのぼる「メシアの霊性」であったと考えられます。マルコは、復活信仰の視点から想起して、この事態を「メシアの秘密」として描いています。
?? マルコ9章2~8節の山上での変貌記事には、変貌の際の天からの声が記録されていて、それはイエスの洗礼の時の天からの啓示の声です。二つの天の声は、イエスの変貌がその洗礼と対応していることを示唆するものです。しかも、この変貌が、イエスの復活の出来事と対応しています。変貌記事それ自体がほんらい復活の記事であったのではないかとさえ言われていますが、復活にモーセとエリヤは出てきません。復活は、変貌に見るような<輝く栄光>を伴って描かれることがありません。また、四福音書を通じて、復活と変貌では語り方がずいぶん違っていますが、イエスの洗礼と復活がこの変貌の出来事と関連づけられることは確かです。なぜなら、イエスにあって働いていた聖霊がイエスを復活させた神からの御霊だということは、イエス復活以後になって初めて弟子たち全員に知らされたからです。
マルコ福音書やマタイ福音書の変貌の記事は、イエスの復活を伝える意図から出ているものでは<ない>ことに注意しなければなりません。そうではなく、変貌記事は、イエスがまだ地上にいた間に、イエスの霊性がモーセやエリヤの神的な臨在を伴うものであったこと、まさに<このこと>が三人の弟子たちに啓示されたことに変貌記事のほんらいの意義があるのです。だからイエスは、「わたしが復活するまでは、あなたがたが見たことをほかの弟子たちにさえ話してはいけない」と命じられたのです。マルコ福音書はイエスがメシアであることを最後まで秘密にしていたと言われています。これは、ともすれば、地上のイエスはただの人間であって、復活して初めて神の霊性を表わす者とされたという誤解を招く恐れがあります。そうではなく、地上で弟子たちと共に過ごしていたすでにその時に、イエスの霊性には神自身の聖霊が働いていたこと、<そのことが>三人の弟子だけに啓示された。イエスの霊性が隠されていたことをも含めて、まさに<このこと>が、イエス復活以後になって初めて、使徒たちを含む弟子たちに啓示された。これがマルコ福音書の変貌記事の真意です。したがって、変貌記事は、復活顕現以前の在世当時のイエスの霊性を探る上できわめて貴重な証言であることが分かります。
したがって、イエスの復活観について、以下の三つの点を確認したいと思います。
(1)最初期に伝えられた福音の本質は、<ナザレのイエスの復活>にあります。福音のすべてが<この出来事>に含まれていると言っても過言ではありません。
(2)弟子たちがイエスの復活を信じることができたのは、イエスの顕現を初め種々の復活体験に接したことによるものですが、これらの顕現や体験は、<イエスがその生前に>、自分を含めて復活について語った言葉に基づいていると見るべきです。
(3)イエス自身のこのような復活信仰は、旧約聖書の時代からイエスにいたるまでの間、<イスラエルに受け継がれてきた復活伝承>に基づいています。
次に新約聖書が証しするイエスの復活信仰の特徴として、以下の三つの点を指摘したいと思います。
(1)イエスの人格的霊性の現われとしての<からだの復活>であること。
(2)ナザレのイエスという歴史上の<個人の復活>であること。
(3)復活は<すでに起こった出来事>であること。
次にイエスの復活信仰は、新約聖書において、次の三つの点で変容の過程をたどることになります。
(1)復活が、「からだ」の復活であると同時に「霊的な」復活であること。
(2)復活が、個人の復活であると同時にエクレシアを含む共同体的な復活であること。 (3)復活が、すでに起こった出来事であると同時に終末において成就する出来事でもあること。
「変容の過程」と言いましたが、このことは、イエス自身が、復活に含まれる二重性を自覚していなかったという意味ではありません。そうではなく、復活が、「からだ」であると共に霊的な有り様であること、「人の子」とは、イエス個人にかかわるだけでなくイエスを信じるすべての人たちをも含む共同体的な意味をもつこと、そして「人の子」とは、イエス自身のことであると同時に、未来に顕れる人の子でもあること、このような復活の秘義を、イエスは自分に授与された霊性によって覚知していたと思われます。
〔『シリア語バルク黙示録』27~30章〕(紀元70~90年頃)〔『聖書外典偽典』(5)旧約偽典(Ⅲ)100~103頁〕。ここでは、終末のメシアの到来に先立って、全地に12の艱難が訪れます(27章)。しかし、聖地にいる選ばれた者たちは、主によって保護され、全地を襲うべく予定された艱難が完了すると、メシアが顕現します(29章3節)。全地は豊かな産物に恵まれますが、メシアの滞在期間が満ちて、彼が天へ帰還する時には、メシアを待ち望む者たちが復活して、定められた数の義人たちの魂が住まう倉の扉が開かれます(30章)。しかし、不敬な者たちの魂は、自分たちに破滅と責め苦が来たことを悟るのです。
〔ラテン語エズラ記7章〕28~44節/88~99節。ラテン語エズラ記の3~14章の部分は、これだけ独立して「第四エズラ記」"4 Ezra"とも呼ばれています。現存するのはラテン語とギリシア語版だけですが、ギリシア語版から判断すると、原書はアラム語/ヘブライ語であったと考えられます。エルサレム滅亡以後のユダヤ黙示文学を代表する作品で紀元95~100年頃に書かれたと推定されます。本書は、ユダヤ教よりもキリスト教会において認められ、1546年のトリエント公会議で、第二正典と認められました〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅲ)440~41頁〕。なお『シリア語バルク黙示録』との共通性が指摘されますが、どちらが先かは確定できません。時期的にはマタイ、ルカ、ヨハネの三福音書が書かれた時と並行します。
第四エズラ記は七つの幻で構成されていて、7章は、6章35節に始まる第三の幻に含まれます。第三の幻では、先ず七日間の天地創造の業が語られ、その六日目のアダムの創造からは、神が造ったアダムの中から選ばれたはずの「最愛の民」(イスラエル)が、なぜ「無に等しい諸民族」の支配に屈しなければならないのか?と訴えます。天使はエズラに、「神が約束した新しい創造」(7章60節)の祝福に入るためには、狭く苦しい道を通り抜けなければならないと諭します。天使は、律法を守る義人が数少ない貴重な存在であることを告げて、「知性を持ちながら(律法を守らず)不正を行なう」(7章72節)大多数の人類は必ず懲らしめを受けると告げます。
天使は「終わりの時」について予告し、「花嫁の姿をした市(まち)」のしるしが現われると告げます。メシア(キリスト)が救われた人たちと共に現われて、「生き残った人たち」に400年の間、喜びを与えてから、その後メシアも息ある人も絶えて、「七日間」太古の静寂の時が続きます。その後に、世界は滅びに向かって「目覚め」ますが、その時に、陰府(よみ)に住む全人類の魂が眠りから覚めてよみがえります。「真理が立ち信仰が力を得る」と、諸民族は、いと高き方(神)によって、地獄と楽園に振り分けられます(7章26~43節)。ここでは、メシアの到来と全世界に臨む終末とが「メシアの400年」によって結びつけられています。
天使はさらに人の死について語り、人の霊は死後に人の体を出て自分を与えてくれた方(主なる神)のもとへ帰るが、律法に背き、神を敬う人を憎んだ者たちは、死後に懲罰七道を体験して、終末の裁きに遭うことになります。一方で、律法を守ろうとして神に受け容れられた義人の魂は、救いの七段階を経過してから神のみ顔を仰ぐことができます。悪人の七道と義人の七段階の期間は「七日間」(7章101節)だとあります。ここには、ギリシア的な霊肉二元論が影響していると言われますが、肉体が否定されているわけではありません。
終末は「裁きの日」であり同時に「不死の時代の始まり」(7章113節)です。終末には、もはや神の憐れみは存在しません。また神の大きな憐れみなしには、人は誰一人、来たるべき世(時代)に入ることはできないでしょう。
第四エズラ記(ラテン語エズラ記)7章26~44節では、メシア(キリスト)が、マルコ13章と同じ黙示的な状況にあって、彼を信じる共同体と共に終末の時に顕現します。第四エズラ記7章は、まだキリスト教の影響を受けていないユダヤ教の部分に入りますが、興味深いのは、このメシアが「死ぬ」と預言されていることです。受難の死は、伝統的に預言者に帰せられていますから、それだけここでの「メシアの死」が注目されます。しかもこのメシアは、同11章36~39節では、邪悪な鷲(ローマ帝国)を打ち負かすライオン(ヨハネ黙示録5章5節の「ユダのライオン」を参照)の姿で顕れます。ライオンの姿をしたこのメシアは、世の初めから先在しているのです。
〔ヨセフス〕ヨセフス(38年~100年)は、ユダヤ戦争を生き延びたユダヤの歴史家です。彼の『ユダヤ戦記』から、1世紀のユダヤの復活思想について述べた箇所は次の通りです。
(1)「パリサイ派はいっさいを運命と神に帰した。彼らは、義を実践するか否かはかなりの程度人間に依存するが、あらゆる行為に運命が関与すると考えていた。霊魂はすべて不滅であるが、他のからだに移ることのできるものは義人のたましいにかぎられており、悪人のたましいは永遠の刑罰をうける、と彼らは主張した」〔『ユダヤ戦記』2巻8章14節(163)新見宏訳〕。
(2)サドカイ派は運命を全く否定し、神は悪を命じないばかりでなく、悪を見ることさしない高みにいると考えた。彼らは、人間は善悪の選択の自由をもち、善悪の一方を選ぶのは一人一人の意志である、と主張した。霊魂の死後の存続とか、陰府における刑罰とか、報いなどについては彼らはいっさい否定した」〔『ユダヤ戦記』2巻8章14節(164)新見宏訳〕
(3)「エッセネ派は、身体は滅びるものであって、物質的な肉体は一時のものであるが、霊魂は不死であり永遠であるという教理を確信していたからである。また霊魂は、最も希薄な大気の中から流出し、自然の呪縛によって、あたかも牢獄にとじこめられるように肉体の中に引き込まれているが、いったん肉体の束縛から解放されるや、喜んで天上に引き上げられる。長い奴隷の苦役から自由にされたかの如く。ギリシア人と同様に、彼らは有徳な人の魂は大洋のかなたに保護されていると信じている。そこは雨にも雪にも暑さにもおかされず、大洋からのそよ風さえ吹き込んで快い気分ををつねに保っている。しかし、邪悪な霊魂のためには陰惨な冷たい洞穴がそなえられており、永遠の刑罰があると考えていた」〔『ユダヤ戦記』2巻8章11節(154~55)新見宏訳〕。
(4)「諸君、知らないのか。自然の法則に従って、この世の生命を与えたもうた神がその生命をご自身のもとに返されることを望みたもうたときに、神から受けた負債である生命を返済する者には永遠の栄光がついてまわる。彼の家や親族はともに安泰であり、死んだ者の魂も汚れのない従順な魂として存続し、天において最も聖なる場所がわり当てられるのだ。そしてその魂は、時の流れの後、輪廻転生、再び罪のない肉体に宿ることができるのだ。それに反して、自らの手で生命を断つ者の魂の行き着く先は、黄泉(よみ)の世界の暗黒である。そして彼らの父なる神は、彼らのなした傲慢な行為の報いを子孫におよぼし、罰したもうのだ」〔『ユダヤ戦記』3巻8章5節(374~75)新見宏訳〕。
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