173章 復活問答
    マルコ12章18〜27節/マタイ22章23〜33節/ルカ20章27〜40節
■マルコ12章
18復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
19「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
20ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
21次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
22こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
23復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
24イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。
25死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
26死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。
27神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
■マタイ22章
23その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
24「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
25さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
26次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
27最後にその女も死にました。
28すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
29イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
30復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
31死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
32『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
33群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。
ルカ20章
27さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
30次男、
31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
32最後にその女も死にました。
33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
【注釈】
【付論】
【講話】
■ルカの復活問答
 今回に限りませんが、わたしはルカ福音書の記事を比較的重視しています。とりわけ、今回のルカ福音書の34節以下は、ルカの編集によるところが大きく、この部分は、2世紀以後のキリスト教に大きな影響を与えました。洗礼を受けた者は「死をもたらす」結婚を避けて純潔を重んじるべきだという教えや、洗礼を受けて「魂が霊的な存在」に変えられた者は、もはや死ぬことがないと信じられたりしたようです。異端とされたマルキオンは、「彼(か)の時代」の旧約聖書の神は結婚を支持し、「この時代」の新約聖書の神は純潔を尊ぶと考えました。ルカ福音書の今回の記事は、純潔を重んじ「復活」を魂の不滅と同一視したり、「復活」を肉体的な存在を離れた天使の霊的な状態に近づけたりするという解釈をもたらしました。中世のヨーロッパでは、今回のルカ福音書が、修道院的な純潔生活を支える理念とされたようです〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)73〜77頁参照〕。
 16世紀以降のプロテスタントは、今回の復活問答の解釈において、禁欲と処女性重視から離れますが、18世紀以降の合理主義的な見方は、「天使のような存在」それ自体にも死後の生命にも懐疑的になりました〔デイヴィス『マタイ福音書19〜28』(3)230〜31頁〕。20世紀の神学者バルトは、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が生きた者の神である」とあるのを、教会が現存し続ける限り、教会の中に、過去の父祖たちも現存して生き続けていることだと解釈しました。最近では(2012年)、フランソワ・ボヴォンによって、以下のように、正しい解釈が提示されています。「ルカ20章34〜36節は、復活がもたらす命と、同時に、『彼(か)の時代』の輝きが『今の時代』の存在にも入り込むこと、この両方を力強く言い表わしているのです。」〔ボヴォン前掲書〕
■イエス様の復活信仰
 今回のイエス様の復活に関する教えは、旧約聖書の伝承に基づくものですが、そこには、イエス・キリストの福音が伝えようとするきわめて大事なメッセージがこめられています。イエス様は、旧約の伝承を受け継いで、その霊性をさらに深めて、神の御霊の働きによる「人類の新たな創造」を啓示しました。今回の問答では、サドカイ派の言う「地上の結婚生活」と、イエス様の言う「来たるべき時代」の天使の霊的な有り様とが対比されている、という見方が今もなお強いのですが、この見方は「間違い」ではないものの「違って」います。なぜなら、これでは、「アブラハムの神」が「今も生きて働く命の神」であるという大事なメッセージを受け損なう危険があるからです。
 イエス様がもたらした「復活の命」とは、「今の時に、この地上において働きつつ」、同時にそれが、「来たるべき時代」へ永続するという「永遠の命」にかかわるものです。洗礼を受けることで「生まれ変わる」とは、人がこの地上で生きているまさにその間に起こることです。しかも、その「生まれ変わり」が人にもたらす命は、アブラハムが信じた「命の神」そのものであり、今の時に人を活かし続けると同時に、人の身体がこの地上から消滅しても、なお失われることがなく、永遠に遺るということです。これこそ、今回のイエス様の復活観がわたしたちに告げている事態です。
 このように、現世と来世をつなぐ「命の神」から来るイエス様の復活観は、ひたすら「来世」を信じる仏教にも、現世的な神道にも、ヒンズー教にもイスラム教にも、世界のどのような宗教にも見出すことができない独特の「命の神」の働きを啓示しているのです。
 このような「復活の命」は、今のこの時代に生きるわたしたちに、十字架と御復活から来るイエス・キリストの贖いによって、聖霊が人類に与える「霊の体」としてパウロに受け継がれています(第一コリント15章35〜44節)。生まれ変わりによって生じるイエス・キリストの御霊の命は、この世においてすでに「力と愛と慮(おもんぱか)り」の御霊として働きます。
 「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)に具わる善意と悪行の二面性は、人類の共同体に分かちがたく結びついて具わっています。こういう人類の善悪二面の「宗教」性や、人類のその他のあらゆる罪深い仕業にも限定されないのが、宇宙万物を調和と和解へ導く「万有和解力」として働きかける御霊のすごいところです(コロサイ1章17〜20節)。
■福音的生命観の成り立ち
 アウグスティヌスは、「人(自分自身のこと)は、なぜ<永遠の命>ということを考えるのだろうか?」という問いかけで、福音の命を考え始めめました。わたしも同様に。「なぜ人間は、福音的な命を信じるのだろうか?」と考えています。長い長い生命体の進化の過程を見ると、到底信じられないような事態が幾度も起こっています。一例をあげると、ネズミは、何百万年以前かは分かりませんが、卵を産む卵生でした。ところが、ある時突然に(?)、卵生から胎内で子供を育てる胎生へと進化したのです。この進化は、一説によれば、地上に生んだ卵だと、すぐに他の動物に食べられるので、生命の存続が脅かされたからです。こんな驚くべき出来事が、どうして生じたのでしょうか? 
 ネズミが、「なんとか胎生になりたい」と主観的に想っただけでは、こんな事態は起きないでしょう。ネズミが主観的にどこまで熱心に望んだかどうかは分かりませんが、これに呼応して、何か客観的な事態が、ネズミのDNAに(?)起こることで、こんな不思議が生起したのだと思わざるを得ません。ここでは、主観と客観が一つになる「主客一如」の事態が生じた、と言うよりも、そういう主客一如の世界が存在する。こう考えたほうが納得できます。西田幾多郎が、ネズミのことを考えたかどうか知りませんが、彼は、こういう主客一如の領域が存在すると考えました。
 2011年3月11日、東日本を襲った地震とこれに伴う津波の大震災は、これに遭遇した当事者たちの霊性に大きな影響を残しています。その一つとして、石巻市のタクシードライバーたちが見た「幽霊現象」が報告されています〔東北学院大学金菱清ゼミナール編『呼び覚まされる霊性の震災学』新曜社(2016年):第1章「死者たちが通う街」工藤優花1〜23頁〕。多くのタクシー運転手の体験の中から三つの例だけをあげます。
(1)震災から3ヶ月ほど後に、石巻駅前で待っていると真冬みたいなコートを着た女の人が乗ってきて、「南浜まで」と告げた。「あそこはほとんど更地ですが、かまいませんか?」と返事すると、彼女は「わたしは死んだのですか?」と震えた声で応えた。驚いてミラーを見ると、だれもいなかった(56歳男性)。
(2)震災の翌年8月頃、駅で待機していると季節外れの厚手のコートを着た20代ほどの男性が乗ってきた。目的地を尋ねると真っ直ぐ前を指さした。もう一度尋ねると「日和山」と言うので、そこまで走り、到着すると男性はいなかった(41歳男性)。
(3)2013年の8月の深夜、巡回していると、季節外れの冬支度の小学生くらいの女の子が手を挙げた。深夜なので不審に思い「お父さん、お母さんは?」と尋ねると「ひとりぼっちなの」と返事をした。家の場所を尋ねてそこへ着いた時「おじちゃん、ありがとう」と言うなり姿を消した(49歳男性)。 
 石巻は昔から共同体意識が強く、これらのタクシードライバーたちも街の共同体のメンバーであることを自覚している人たちです。彼らは、自分が出逢った「人たち」と個人的な知り合いではないが、同じ共同体であるという意識を強く抱いている人たちです。おそらくそこには、不慮の震災から助かったのが「たまたま」自分であったこと、言い換えると出逢った人たちは、自分たちに代わって犠牲となった人たちであるという想いが心に潜んでいるのでしょう。石巻の人々の死は、いわゆる「自然死」ではなく、時ならぬ不慮の死でしたから、共同体内で起こった災害によるこれらの「犠牲者」たちからは、その共同体の「生き残った」人たちの霊性に、こういう不思議な働きかけがあったのでしょう。
 人類学的な視点に立って見るなら、所が変わり状況が変わっても、これと同じような体験や事例は、何百万年間の人類の歴史の中で数限りなく繰り返し生じてきたのは間違いありません。これからも生じるでしょう。単に死者を追悼するだけでなく「死者と共に生きる」というこのような霊性の有り様に、わたしたちは、人類に敷衍(ふえん)する「死者のよみがえり」思想/信仰の源泉を見出すことができます。このような体験から発生した「死者のよみがえり」信仰は、宗教する人(ホモ・レリギオースゥス)という霊的な特性を具えた現生人類(ホモ・サピエンス)において初めて明確な形を採ることになります。なお、旧約聖書からイエスにいたる復活信仰の形成過程については、この章の「付論」をお読みください。
■福音的生命の特長
 端的に言うと、わたしは、イエス様という「人間」が出現したことは、現生人類の歴史において決定的な転機をもたらす出来事だったと考えています。進化論的な言い方をすれば、人類は、この時点から、新たな「ホモ・スピーリトゥス」(霊知の人)への歩みを始めたと言ってもいいと思います。イエス様に始まる復活の命は、地上ですでに始まっているとは言え、まだ未完成のまま、終末での成就を目指しています。このようなイエス様の復活の出来事は、以下の三つの特長を具えています。
(1)既存の生命の有り様に基づきながらも、これを新たに変容させていること。
(2)
その変容がもたらす命は、この世の生命体においてすでに始まりながら、人間の肉体が消滅した後も失われることなく、恒久的に保たれること。
(3)
その生命体の完成が、現生人類(ホモ・サピエンス)の歴史的な終末の到来と結びついていること。
 こういう「復活の生命」観は、例えば、以下の三つの生命観とは、明確に異なっています。
【A】再生による永生:花が枯れて種を残し、その種が新たな花を咲かせるという自然のサイクルに沿う生命観で、神による子孫の存続を求めるサドカイ派の信仰がこれにあたります。これは、人類に普遍するもので、自然の生命の有り様に即した合理的な見方です。
【B】浄土信仰:人類は、この世では、変わることがなく、死んでから、「あの世」の死後の世界において、変容を遂げて浄土に行くことができる、あるいは、それがかなわない場合は、輪廻転生するという思想です。これは仏教的な思想に代表されますが、仏教に限らず、あらゆる「あの世」宗教に通じる考え方です。
【C】科学技術による人類の進歩を信仰する人たちがいます。現在すでに、金持ちたちが、貧しい者たちから腎臓を買うという臓器売買が横行しています。医学の進歩によって、将来、あらゆる方法で人体の再生が可能となり、一部の特権階級だけに「永生」が可能になる時代が来ると予想されます。これに伴って、臓器の売買や医学の恩恵に与ることができる人たちと、これができない人たちの間に「生命格差」が生じる事態が、将来の人類を襲うでしょう。さらに、核戦争などで地球に住めなくなった場合に備えて、火星への移住計画が、現在すでに進められています。アメリカ映画「エリジウム」に見るように、火星に移住する一部の特権階級と、「汚い」地球に取り残される大多数の貧乏人という、「宇宙格差」が実現する?可能性さえあります。人類が目指す科学技術は、その究極の目標をこのような「人体の永生保持」技術に定めているのは間違いありませんから。
 ただし、よく考えてみると、これら三つの生命観は、聖書の福音的生命観と相容れないものではなく、必ずしも対立するとは言えません。
(A)の生命観と福音的生命観とは、対立しないどころが、両者が相互補完的に神の祝福に与ることが、大いにありえます。
(B)の場合でも、地上で始まった福音的な生命が、肉体の死後も永続するのですから、「あの世信仰」と絶対的に矛盾するとは言えません。
(C)の場合は、人工の生命と神からの生命という、生命起源の有り様の違いが根本にあります。しかし、これとても、主イエス様にあって創造された新しい霊知の人(ホモ・スピーリトゥス)が、人類の達成した科学技術を用いることで、新しい「ノアの箱舟」を人類に提供する可能性がないとは言えません。          

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