174章 最も重要な掟
マルコ12章28〜34節/マタイ22章34〜40節/ルカ10章25〜28節
 
■マルコ12章
28彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
29イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
31第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
32律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。
33そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
34イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
■マタイ22章
34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38これが最も重要な第一の掟である。
39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
■ルカ10章
25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
                 【注釈】
                 【講話】
■神への愛
 確か西ドイツの時代のドキュメンタリー映画だったと想います。ベルリンから、多数のユダヤ人が、貨車に乗せられてアウシュビッツへ輸送される途中のことです。貨車が途中の停車駅で止まった時に、あるユダヤ人の両親が、貨車の床に穴を開けて、小さな穴から幼い子供を外へ逃がす場面がでてきます。その時に両親は、もう二度と会えない幼い子供に向かって、「いいかい。何かあったら、これだけを覚えて唱えるのだよ」と言い聞かせます。親が別れる子供に教えた唯一のこと、それが、今回の申命記6章4〜5節を唱えることです。現在のユダヤ人にとっても、今回のお言葉は、最も大事な教えであって、イエス様の時代と少しも変わりません。
■隣人愛の問題点
 今回の箇所で、イエス様は、申命記6章4〜5節の「神への愛」をば、おそらく初めて明確にレビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と結びつけて教えられたと言われています。ただし、この「最大の愛の教え」について、問題が二つあります。
(1)キリスト教の「隣人愛」が、常に人類全体へ普遍性を持つ「博愛」だったのか?と問われると、必ずしもそうではないことです。現在では、今回の箇所が、「唯一神教的倫理」とか「~観的人道主義」などと呼ばれています。しかし、そもそもの初めから、イエス様の愛の教えが、このような普遍性をもつ博愛だと理解されていたわけではありません。異邦人あるいは異教徒の間に存在する比較的小さなキリスト者共同体であった「エクレシア」では、このエクレシア中心の「隣人愛」という解釈も長い間行なわれてきました(ガラテヤ6章10節/ヨハネ13章34〜35節/第一ヨハネ3章10節など)〔ルツ著『マタイによる福音書』(3)326頁〕。自分の命を捨てても守る「隣人」とは、同じキリスト教徒の仲間のことだったのです。
(2)もう一つの問題は、今回の愛の掟で説かれている「愛」とは、自分を殺す「自己否定的な」愛を指すという解釈です。こういう自己否定的な解釈は、近世の宗教改革の時代に、人間の罪性に鋭く目覚めたルターの「罪人(つみびと)」観から生じていて、「自己愛」は罪であるという考え方が、特にプロテスタントの間で強いようです。
 ルツが指摘する通り、今回の箇所から、民族や人種や宗教の共同体を超える「普遍的な」隣人愛を直接に導き出すことはできません。また、「自己否定」に基づく隣人愛を導き出すこともできません。それは、イエスの「愛敵の教え」(マタイ5章43〜48節)と結びついて始めて可能な解釈だからです〔ルツ『マタイによる福音書』(3)334頁〕。
 むしろ、今回の隣人愛で、わたしたちが留意しなければならないのは、ルカ福音書との二重の並行関係です。ルカ福音書では、今回の愛の掟が、善いサマリア人の話の前置きとして、「永遠の命」と結びつけられています。さらにこの隣人愛は、らくだが針の穴を通るたとえで語られるほどハードルが高く、「人間にはできないこと」であること、しかも「神には何でもできる」と言われていることです。聖書は<人間にできない>ことを命じているのでしょうか?
■愛憎一如の「宗教する人」
 人類の共同体の形成過程をたどると、家族、親族、部族、民族内の結合に行き着きます。裸で無防備な人類が生存するためには、知能を働かせて共同体を形成し、外敵から身を守ることが必須条件だったからです。その際の「最も重要な定め」は相互信頼です。わたしたちは今でも、自分が属する共同体を「信頼する」ことで生活しています。互いに<信頼し愛し合う>ことこそ人の生存を支える根源です。信頼と信仰とは不可分ですから、人間は「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)だと定義することができます。
 この「宗教する人」共同体は、相互の信頼と親愛とちょうど同じほどに、自分たちの生存を脅かす「外敵」への憎悪と不信に裏打ちされて生きてきました。だから、「宗教する人」共同体は、「うち」と「そと」への愛憎一如の世界にいることになります。イスラエル共同体に対する異教の諸民族(異邦人)、ギリシア人に対する未開人(バルバロイ)、大和朝廷に対する夷狄(いてき)、日本民族に対する異民族への不信と憎悪などがあります。宗教する人共同体として見れば、仏教共同体に対するイスラム共同体、キリスト教共同体に対するイスラム共同体などの敵対関係が現在も続いています。
■「宗教する人」への救済
 「宗教する人」共同体にまつわる、この愛憎一如の有り様こそ、平和と戦争を繰り返してきた人類の歴史の根源に潜む闇の謎です。部族と部族、民と民、国と国相互の争いを避けて、いかにして平和を実現できるのか? この謎の答えを求める偉大な人たちが「聖者」と呼ばれる人たちです。誤解のないように付け加えますが、聖者たちが求めたのは、「宗教によって」人類を救うことではありません。そうではなく、争いを繰り返す「宗教する人」である人類そのものを救う道を求めたのです。「宗教する人の救済」への道が人類に啓かれた大事な時期があります。それは紀元前6〜4世紀です。この時期に、釈迦、第二イザヤ、孔子が現われ、少し遅れてソクラテスが現われます。
 釈迦は、人類に「業欲/煩悩」から解脱(げだつ)する道を説きました。釈迦の説く解脱の境地を言い表わす言葉として「慈しみ(慈)」「あわれみ(悲)」「喜び(喜)」「平静(捨)」があります。「滋」とは一切の生けるものの安楽を願うことであり、「悲」とは一切の生けるものの苦が除かれるよう願うことであり、「喜」とは生けるものの喜びを思いやることであり、「捨」とは己の苦楽に心を動かされないことです〔中村元『ブッダのことば』(岩波文庫)263〜64頁〕。これは、新約聖書でイエス・キリストの「御霊の実」としてパウロがあげた「愛、喜び、平安(平和)、寛容、慈愛、善意」(ガラテヤ5章22節)に通じるものでしょう。ちなみに、後にイエス様が、神の御言葉を説くことを種蒔きにたとえましたが、『スッタニパータ』(77)(『ブッダのことば』)でも、釈迦は「信仰は種」「苦行は雨」「智慧は牛の軛と鋤」などのたとえを用いています。
 孔子は、諸国乱立の戦乱の世に生まれました。彼は、共同体の内と外との平和を保つための心得として、「仁愛」の徳を為政者に求めましたが、受け容れられませんでした。彼の仁愛の徳は、その根源に「天道」への敬意があります。「天」への敬意を表わすものが「礼(らい)」です。孔子は、礼をもって天道を敬い、民に対して仁をもって接することが君子の道であると説いたのです。
 言うまでもないことですが、人間一人一人にとって共同体への信愛が大切なのは、それなしには「自分自身とその家族」の平和と安全を確保することができないからです。だから、「自己愛」と「共同体への隣人愛」は不可分です。血縁と宗教思想と政治経済が一体となり、互いを「外敵」と見なすもろもろの共同体が、それぞれの内部の和だけでなく、共同体同士の争いをもどのように防ぐのか? 世の中に平和をもたらすには、どうすればいいのか?釈迦も孔子も、この道を探り求めている点で一致しています。「宗教する人」としての人類の「狭い」隣人愛は、常に拡張・拡大されなければならないのです。
 第二イザヤは、釈迦や孔子とは少し異なります。イスラエル共同体は、唯一の神ヤハウェへの信仰の下で、他民族の支配という苦難を体験しました。第二イザヤは、その苦難を通じて、唯一の主なる神に対して犯した自分たちの罪を悟り、イスラエル共同体自身への深い自己洞察に目覚めたのです。同時に第二イザヤは、彼らの苦難体験それ自体を通じて、自分たちを苦しめた外部の諸民族をも巻き込む唯一の神からの「赦しと平和」を啓示されました。後に第二イザヤの信仰を受け継いだバルク書(前3世紀〜2世紀半ば)の著者は、その4〜5章で、異邦の諸民族に向けてイスラエル共同体の栄光を証しする道を「知恵」と呼び(バルク書4章1〜2節)、イスラエルに与えられる栄光を通じて、諸民族にイスラエルの神の正しさが必ず「立証される」という約束を預言します。バルク書は、これを「神の慈しみと義」(5章9節)と呼びました。
■十字架の出来事と愛の掟
 わたしたちは、今回、イエス様が、「神への愛」と「隣人愛」を一つに結んで教えておられることの意義を改めて考え直す必要があります。イエス様の教えは、イエス様の生涯を通じて証しされた「イエス様の出来事」と切り離すことができません。「イエス様の出来事」とは、イエス様の行なわれたもろもろの霊能の業や、イエス様が語ったお言葉だけではありません。イエス様が、その受難と復活を通して、わたしたち人類にお与えくださった聖霊の御臨在による「赦しと贖い」の業こそ、その生涯の中で、最大のイエス様の出来事だからです。だから、わたしたちは、今回の二つの愛の掟をこの「イエス様の出来事」を通じて学び取らなければなりません。わたしたち人類は、イエス様の贖いと御霊の御臨在にあって初めて、「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことを学び悟ることができるからです。
 上で述べたように、「隣人愛」は、わたしたちの「自己愛」と不即不離です。わたしたちはここで、 「自我の業欲」と「自己を愛する」こと、すなわち正しい意味での自己肯定とを混同してはなりません。「我が身可愛さ」は人類共通ですから、「自分と同じように隣人を愛する」とは、「自分にしてほしいことを人にもする」(ルカ6章31節)ことです。これには、「自分が他人からしてほしくないことを他人にしてはならない」という東洋版があります。この二つの教えと今回の掟とを合わせると、隣人を愛するとことは、本当の意味で「自分を愛する」ことにつながるのが分かります。イエス様の教えは、このような自他への愛が、「神に対する愛」と不即不離に結びつけられていることです。宇宙を創造し人類を生かしておられる神から啓示された「慈しみと義」、すなわちわたしたちの罪性をも赦して、神と隣人への愛に向かわせてくださる「イエス様にある自分」の有り様を大事にすることです。神に生きることを赦され「神の恵みの下にある自分」を愛することこそ、他者への隣人愛の根源だと言えましょう。だから、マタイ22章40節とパウロのローマ13章8〜10節は、イエス様の御臨在の御霊にあってひとつです。
                  
共観福音書講話へ        聖書講話へ