【注釈】
■マルコ福音書の「最も重要な掟」
 皇帝への納税問答と復活問答の二つは「イエスを試そうとする」敵意から生じていますが、今回の問答の相手である律法学者には、そのような敵対意識は見られません。むしろ、イエスの教えに感銘を受けています。イエスのほうも、律法学者の受け答えを聞いて、彼を肯定しています。権威問答(マルコ11章27節以下)に始まる一連の問答が、今回の問答で転機を迎えることになったようで、次の問答では、イエスのほうから人々へ問いかけます。この構成は、イエスが、エルサレムでの伝道において、指導層との議論に勝利したことを表わすのでしょう〔フランス『マルコ福音書』476頁〕。
[28]【一人の律法学者】この律法学者は、イエスに感銘を受け、イエスもまた彼の受け答えを適切だと肯定しています。これで見ると、エルサレムの指導層はイエスを受け容れたかのようにも見えます。しかしイエスは、12章38~40節で、律法学者にも厳しい批判を向けていますから、今回登場する律法学者は、やや例外的な「一人」だったようです。
【議論を】原語は「互いに議論し合う」ことで、この律法学者は、論じ合っているのを「聞いているうちに」(動詞の分詞形)、自分もその論議に加わることになったのです。
【尋ねた】原語は「折り入って尋ねる」こと。
【掟】原語「エントレー」は「定め」「戒め」「掟」などの意味です。「数ある律法の中で、どれが最重要か?」という問題は、当時のラビたちの間でも議論の的になっていました。ラビたちは、数あるモーセ律法それぞれを「軽重」に応じて、幾つかにランク分けしていたようです。ラビによっては、例えばマタイ7章12節に出てくる教えも「最重要な掟」の一つだと見なしていました。
[29]~[31]ここで問われているのは、裁判の場合にどの律法が最も優先されるべきか?という律法の「法的な優先順位」だという見方があります。この見解は「間違い」ではないまでも、ここで語られている事の本質から見れば適切とは言えません。問いかけた律法学者のほうは、裁判の席での法的な優先順位を念頭に置いていたのかもしれませんが、答えるイエスのほうは、そのような法の優先順位にとらわれることなく、諸律法が指し示そうとしている本質な意図を「聖書から読み取る」よう指示しているのです。
 イエスが引用しているのは、申命記6章4節とレビ記19章18節の二つからです。さらに、列王記上8章5~9節も、今回のイエスの言葉の背景を理解する上で重要です。なお、新約聖書で、「愛の律法」と「隣人愛」との関係に触れているのは、ローマ13章8~10節とヤコブ2章8節です。申命記6章4節は、イエスに限らず、当時のユダヤ教でも最重要な教えだと見なされていました。申命記6章4節は「シェマグ・イスラエル(イスラエルよ聞け)」で始まりますから、「シェマ」とも呼ばれていて、ユダヤ教では毎日二度唱えるよう定められていました〔コリンズ『マルコ福音書』572~73頁〕。だから、イエスの答えは、誰が聞いても当然だと思ったでしょう。申命記6章4節とレビ記19章18節を対(つい)にするのは、ユダヤ教に先例がなく、この組み合わせにイエスの独自性を見出す説もありますが〔フランス『マルコ福音書』477~78頁〕、神への愛と隣人への愛のふたつの重要性は、イエス以前のユダヤ教でも指摘されていました〔コリンズ『マルコ福音書』566~67頁〕。「この二つ以上に<大きい>(掟)はほかにない」、というイエスの答えは、律法の優先順位を超える律法全体の「総括」として、キリスト教会に受け継がれることになります。
【一人の】この律法学者は「例外的に」イエスに好意を抱いていたのでしょうか?それとも、イエスの周辺の民衆たちと同じ思いを共有して、イエスに尋ねたのでしょうか。
【どれが】原語は「どんな種類の」ですから、数ある律法の優先順位を尋ねているようにも受け取れますが、ここは、そうではなく、「どんな/何の(律法)」くらいの意味です。
【思いを尽くし】マルコ福音書の引用は、「心を尽くし」「精神/命/魂を尽くし」「思いを尽くし」「力を尽くし」です。これは語順と用語の二つで七十人訳のギリシア語とは異なっています。七十人訳では「あなたの<心>を尽くし、あなたの<魂/命/精神>を尽くし、あなたの<力>を尽くし」の三つになっています(「心を尽くし」を「思いを尽くし」と訳してある七十人訳版もあります〔コリンズ前掲書574頁〕)。また、七十人訳では、続いて「これらの言葉が・・・・・あなたの心に、あなたの魂/命/精神にあるようにせよ」が来ています。なお、ヘブライ語原典は「あなたの心を尽くし、あなたの魂/精神/命を尽くし、あなたの力を尽くし」です。したがって、七十人訳の「心」と「精神/命」と「力」のほかに、マルコは四つ目に「思い」(ディアノイア)を加えたことになります。これはマルコ自身の編集によるものなのか、よく分かりません。33節では「心」と「知恵」と「力」の三つですから、30節の「精神/命/魂」(プシュケー)の代わりに「知恵」(シュネシス)が来て、「思い」が抜けています。「プシュケー」を「シュネシス」に変更すると同時に(同じ人によって?)30節に「思いを尽くし」が加えられたのでしょうか〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)242頁〕。
【力を尽くし】マルコ福音書の「力(イスクス)」は七十人訳の「力」(デュナミス)と異なります。ヘブライ語「ムオッド(力)」はギリシア語「デュナミス(力)」と訳される場合が多いので、マルコ福音書の訳語はやや異例です。内容的に変わりませんが。
【隣人を自分のように】申命記6章4~5節とレビ記19章18節を今回のように明確に結びつけたのはイエスにさかのぼると考えられます。しかし、イエス以前の伝承で、神への愛と隣人への愛がひとつになっているものに『十二部族の遺訓』があります。『十二部族の遺訓』の「ヤコブとレアの五男イッサカルの遺訓」5章2節に「主と隣人を愛し、貧しい者や弱い者に同情せよ」とあります。この遺訓集は、ほんらいヘブライ語で書かれたものですが、現存する主な写本はギリシア語で、その他シリア語やアラム語などの断片があります。成立はマカバイ以後(前2世紀以降)だと見なされますが、遺訓の内容はそれよりも古いと考えられますから、捕囚期以後の前5~前3世紀(?)頃でしょうか〔教文館『聖書外典偽典』(5)旧約偽典Ⅲ概説221~224頁〕。だから、これら二つの掟は、ヒレル派のラビによっても一体だと見なされていました〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)244頁〕。レビ記19章18節は、イスラエル共同体への倫理的な教えとして重要視されていました。このために、イエスの教えはごく自然に律法学者に受け容れられたのでしょう。イエスの二つの引用は、モーセ十戒の前半と後半をそれぞれ言い表わしていると言えます。イエスは、富める青年に対する答えでも(マルコ10章19節)、十戒の後半をあげています。
【愛しなさい】原語のギリシア語は「あなたは愛するであろう」で2人称単数未来形です(共観福音書に共通)。ギリシア語動詞の未来形は命令をも表わしますが、特に旧約聖書からの引用では、ギリシア語の未来形が用いられています。ちなみに、ヘブライ語原典の申命記4章6節で、「愛する」は男性の2人称単数完了形です(この「完了形」は、過去・現在・未来を通じて変わらない行為や姿勢を表わします)。「愛するであろう」〔岩波訳〕。
【第二の】順番が次に来ることを指すのですが、内容的に「副次的である」ことを意味しません。二つの掟は「一体」で分かちがたく結びついています(第一ヨハネ4章20~21節)。なお、共観福音書では、共通して「第二は~<である>」の動詞「である」が抜けています。共観福音書以前の伝承段階で、「第一」と「第二」がすでに一組に扱われていたことを示すのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)243頁(注)51〕。
[32]~[33]この律法学者の答えは、イエスが、二つの愛の掟をひとつにして、これを(ほかのどんな定めよりも)「大きい」と答えたのを受けて、イエスの答えをさらに敷衍(ふえん)しています。律法学者は先ず、イエスの答えが「真理に基づいている」から適切だと述べて、その理由を以下のように説明します。
【神は唯一】マルコ12章32節の律法学者の引用は「(神は)唯一である。そして、彼をおいてほかに居ない」です。ここは、次の三つに準拠していると考えられます。
(1)七十人訳申命記6章4節「わたしたちの神、主は、唯一の主である」
"The Lord our God is one God."
(2)七十人訳申命記4章35節「あなたの神、主は神である。そして彼をおいて(神は)居ない。」"Lord thy God he is God, and there is none besides him".
(3)七十人訳イザヤ書45章21節「わたしは神である。そして、わたしをおいて、<ほかに>(神は)居ない」"I am God, and there is not another besides me."
 これで見ると、律法学者は、イエスが引用した申命記6章4節に基づきながら、これを申命記4章35節の「彼をおいて」と重ねることで、「唯一神」であることを明確にしています。さらに、イザヤ書45章21節にある「ほかに」を加えることで唯一神の排他性をいっそう明確にしています。その上で律法学者は、イエスが二つの掟を一つにして提示したことを重視して、これをもう一度繰り返すことで確認してから、この一組の教えを「すべての燔祭や捧げ物よりも<なおいっそう>まさっている」と語気を強めて、「愛の戒め」を神殿の祭儀にまさると見なすのです。
【知恵を尽くし】律法学者の答えは、「心」と「知恵」と「力」を尽くすことですから、イエスの引用そのままではなく、「精神/命」が抜けていて、「思い」が「知恵」(シュネシス)に変更されています。「ディアノイア」(理解/思い)が「シュネシス」(知恵/知性/洞察)というギリシア的な表現になっているのです〔コリンズ前掲書576頁〕。
【焼き尽くす献げ物】「焼き尽くす捧げ物や捧げ物」は複数形です。「焼き尽くす捧げ物」は「燔祭(はんさい)」とも呼ばれます。燔祭は、神の幕屋/神殿の祭壇で献げる大事な捧げ物です(出エジプト記20章24節/レビ記1章13節)。イエスと律法学者に共通する「愛こそが燔祭やいけにえにまさる」という教えは、ホセア書6章6節にさかのぼります。ただし、ホセア書では、捧げ物を含む神殿での祭儀が、愛の行為と対立されているのではありません。ユダヤのラビの言葉にも「律法と神殿礼拝と愛の行為、この三つが世界を支える」とあります〔フランス『マルコ福音書』481頁(注)74〕。ここでの律法学者の答えについては、神殿制度を批判したイエスと、このイエスの教えを受け継いだ最初期のキリスト教徒が、従来の神殿での祭儀(と祭儀律法)を新たなイエスの福音においてどこまで遵守すべきか?という問題が、その背景にあると考えられます。エルサレム神殿が破壊された(70年)後のマルコ福音書の共同体にとって、犠牲制度を含む旧約の祭儀律法を遵守すべきかどうかが差し迫った課題だったのでしょう。幾つかの「美徳」をあげることで、人間の道徳の全体をまとめる発想は、ヘレニズムのギリシアでも行なわれていましたから、マルコ福音書が伝える今回の「愛の掟問答」は、ヘレニズム世界でギリシア語を語るユダヤ人キリスト教徒たちによって受け継がれ発展されているのでしょう〔コリンズ前掲書570頁〕。
[34]【適切に】原語は副詞で「思慮深く/賢明に/適切に」です。律法の教えを正しく把握し、これを「適切に」まとめて言い表わしていることです。これもギリシア的な明晰を好むヘレニズムのユダヤ人キリスト教徒からきているという見方があります。
【あえて】「~する勇気を持つ」こと。わたしたちはマルコ福音書を通じて、弟子たちを含む「人の思い」とイエスが伝えようとする「神の国」との対比と、これに伴う弟子たちの無理解ぶりを見てきました。ここにいたって、イエスの教える神の国から「遠くない」と言われる律法学者が登場するのが注目されます。人々が「もはやあえて質問する」ことを避けたのは、イエスの霊性には、人には図りがたい神の知恵が隠されていることを察知したからでしょうか。
■マタイ福音書の「最も重要な掟」
 マタイ福音書の「愛の掟問答」では、直前のイエスとサドカイ派との復活問答に続いて、ファリサイ派の「律法の専門家」がイエスを「試す/テストする」とありますから、マルコ福音書の「愛の掟」とは、問答の性格が異なります。したがって、相手の問いかけにイエスが答えるだけで、尋ねた側からの賛同も、イエスの答えの相手側による繰り返しも、イエスが相手を肯定する言葉もありません。「もはや、あえて質問する者はなかった」というマルコ12章34節の締めくくりも、マタイ福音書では、次の「メシア問答」の最後におかれています。マタイ福音書の記事はマルコ福音書の記事よりも切り詰められていて、セム的な語法が見られますから、マタイ福音書のほうが、ほんらいのイエスからの伝承により近いという見方もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)237頁〕。
 マタイ福音書とルカ福音書に共通していて、マルコ福音書に見られない語法と構成上の特徴が幾つかあります。イエスの答えに「シェマ(聞け)」の部分が欠けていること、尋ねた側によるイエスの答えの繰り返しが省かれていること、語法では、マルコ福音書の「律法学者」(グランマテウス)とマタイ=ルカ福音書の「律法の専門家」(ノミコス)もその一つです。このために、マタイとルカは、現行のマルコ福音書よりも以前の「原マルコ福音書」を用いているとか、マルコ福音書とは異なる別個の口頭の伝承に準拠しているなどの説が出されています。しかし、マタイ福音書とルカ福音書とは、構成の違いもあり、逆にマルコ福音書とルカ福音書とが共通する面もありますから、マタイ=ルカ福音書の共通性は、相互依存によるものではなく、偶発的な一致だと見ることもできます〔コリンズ前掲書571頁〕。また、マタイとルカは、マルコ福音書だけでなく、ほかに共通する口伝をも併せて用いているという説もあります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)236頁〕。いずれにせよ、イエスが語った「愛の掟」が、口伝と文書(イエス様語録?)の両方で、異なる形で伝承されていたのでしょう。
■マタイ22章
[34]【言い込めた】原義は「やりこめる」「黙らせる」こと。サドカイ派は「言わなかった」のではなく「言えなかった」のです。
【一緒に集まる】サドカイ派とファリサイ派と律法の専門家とが共に集まって共同で謀議することですから、これは「総合的な」謀議体制です。
[35]【律法の専門家】原語は「ノミコス」(書記/法律家)で(ルカ福音書と共通)、マルコ福音書の「グランマテウス」(書記/律法学者)と異なりますが、内容的に大きな違いはありません。ここでは、律法に詳しいファリサイ派の中でも、特に律法に精通している人のことでしょう。
【試そうとして】この点でもルカ福音書と共通します。ユダヤ教では、600以上もある律法の諸規定の中で、どの律法が「軽い」のか?あるいは「重い」のか?が論じられていましたが、すべての律法が対等だという見方もありました。したがって、数ある律法の中から、どれか一つを採りだして、それに重要性を持たせることは、律法の専門家の間では、危険を伴う行為だったのです。
[36]【最も重要】マルコ福音書では「第一」ですが、マタイ福音書では「大きい」で、ここは「最大」の意味です。「どの?」とあるのも「何が?」ととれますから、「何が最大か?」というこの問いかけは、「最大級の諸律法に共通する性格/特質とはどういうものか?」という意味に採ることもできます〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)240頁〕。
[37]マルコ福音書では、四つの「尽くして」ですが、マタイ福音書では三つだけです(ヘブライ語原典に近い)。ただし、ヘブライ語原典の「力を尽くして」が、ここでは「思いを尽くして」になっています。七十人訳との関係については、マルコ12章30節の注釈を参照してください。
[38]【最も重要な第一の】これは「大いなる/最大の」と「最初の/第一の」の組み合わせです。これはマタイ福音書だけの表現で、「大いなる/最大の」は「最初の/第一の」と同じだという説もありますが、単なる二重表現ではなく、「最も優先させるべき大事な内容を具えている」という意味でしょう。
[39]【同じように】ここはレビ記19章18節からですが、「同じように」はマタイの編集でしょう。
[40]40節は、34節同様に、マタイによる付加でしょう〔ルツ著『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』(3)323頁〕。
【基づいて】「依存している/かかっている」。マタイは、モーセの十戒だけでなく、モーセ律法全体の主旨が、この二つの掟に準拠していると考えたのです(マタイ7章12節参照)〔デイヴィス前掲書245頁〕。マタイの編集によるこの追加は、パウロの言葉を想わせます(ガラテヤ5章14節)。マタイ22章36節とここ40節に「律法」(ノモス)とありますが、マルコ福音書の並行箇所にはこの語がでてきません。パウロが「(律法が)成就される」とあることを併せると、パウロからの伝承がマタイに伝わっていた可能性があります〔デイヴィス前掲書246頁〕。
 第一の掟(申命記4~5節)と第二の掟(レビ19章18節)とを組み合わせる律法解釈は、すでにイエス以前のパレスチナで行なわれていました。ただし、そこで愛の対象となるのは、同胞のイスラエルの民であり、ヘレニズム時代でも、パレスチナと離散のユダヤ人共同体の間のことに限られています。民族や人種を越えた「博愛」もギリシア語圏のユダヤ教の間で語られていましたが、博愛を根拠づけるものとしてレビ記19章18節が引用されることはありませんでした。したがって、人種と民族共同体を越える意味で、レビ記19章の「隣人愛」を神への愛と結びつけたのはイエスです〔ルツ著『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』(3)333~34頁〕。
■ルカ福音書の「最も重要な掟」
 今回のルカ福音書の記事は、すでに扱った「善いサマリア人」の話しの前置き部分です〔「善いサマリア人」の注釈の解説を参照〕。なお、ルカ18章18節以下でも、金持ちの議員が「永遠の命」についてイエスに問いかけると、イエスは、モーセ十戒の後半部をあげて愛の実践を説いています。
 ルカ福音書では、「イエスを試そうと」尋ねた側が、逆にイエスに問いかけられて、掟の内容を答える構成をとっています。尋ねた相手をイエスが肯定している点ではマルコ福音書と共通し、マタイ福音書と異なります。ルカは、マルコ福音書の記事を「永遠の命」と結びつけて、サマリア人の話しの前置きに用いたとも考えられますが、むしろ、ルカの今回の部分は、ルカ独自の資料(L)からだという見方があります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)878頁〕。「愛の掟問答」は、イエスが語った時から、幾つかの異なる形で伝承されていたのでしょう。また、ルカ福音書とマタイ福音書との共通点から(「律法の専門家」「試みる」「律法に」「先生」など)、ルカの資料はイエス様語録からだという見方もありますが、今回の部分とサマリア人の話しとの結びつきは、ルカの独自資料(L)からでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)53頁〕。
 「愛の戒め」と「永遠の命」の結びつきは、イエス以後のキリスト教会によると考えられますが、この二つの結びつきが最も強いのはヨハネ福音書です。今回の記事の背後には、マタイ=マルコ福音書系とルカ=ヨハネ福音書系の二つの伝承の流れが存在していたのでしょうか。注意したいのは、マルコ福音書では、「愛の戒め」が「復活問答」の次に来ていることです。だから、ほんらいイエスにさかのぼる「愛の戒め」が、イエス以後の教会によって復活問答とつながり、このつながりが、さらに「愛の戒め」と「永遠の命」との結びつきへ発展していった。このような筋書きを想定することができるように思われます。
■ルカ10章
[25]【すると】ルカは冒頭を「すると、見よ」で始めています。直前の出来事との間にかなりの時が経っていることを示唆するのでしょうか。質問するのはマタイ福音書と同じ「律法の専門家」ですが、その内容はマタイ福音書と全く異なります。
【試す】原語は「強く問い詰める/問いかける」ことです。
【永遠の命を】この質問はルカ18章18節と同じです。この質問者は、おそらく本気になって「永遠の命」を求めているのでしょう。
【何をする】「する」は「実践する」(アオリスト分詞形)ことです。「なすべき事はすべて告げられていますが、実践することだけが残されているのです」〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)55頁〕。
[26]~[28]27節の答えは、マルコ福音書と同じ四つの「尽くして」ですが、「思いを尽くして」と「力を尽くして」の順序が逆になっています。また、マタイ=マルコ福音書と異なり、続いて短く「隣人愛の掟」を加えています。ルカ福音書のイエスは、続く「善いサマリア人」の物語で、この「隣人愛」をイスラエル民族共同体に限定することなく、ユダヤ人からは異端と見なされていたサマリア人へと拡大しています。この点がマタイ=マルコ福音書との違いです。ルカは、イエスの生前の出来事をイエス以後のキリスト教徒の視点へつなぐことで、イエスを「試みる」視点からイエスを「正しい」とする視点へ移行するのです。26節のイエスからの問いは、聖書からの引用とその引用を正しく読み取るように迫ることで、相手側に、「隣人とは誰のことか?」という問いを誘発させます。
【正しい(答え)】イエスは「あなたは正しく答えている」と相手を肯定しています。この点でマルコ福音書と共通しますが、マタイ福音書と異なります。「正しく」は副詞で「まっすぐに」「的確に」です。
                     
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