175章 「ダビデの子」とは?
マルコ12章35〜37節/マタイ22章41〜46節/ルカ20章41〜44節
 
■マルコ12章
35イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
36ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
37このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
■マタイ22章
41ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
42「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
43イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
44『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
45このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
46これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。
■ルカ20章
41イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
42ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
43わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』
44このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
                           【注釈】
【講話】
■ダビデの子から神の子へ
 今回の箇所は、ナザレのイエス様への信仰が、「ダビデの子メシア」であると同時に「神の子キリスト」でもあるという信仰へ達する重要な過程を示しています。この過程は、今回のルカ福音書に最もよく表われています。イエス様が「肉によればダビデの子孫」で「聖霊によれば神の子」であるとパウロは言っていますから(ローマ1章3節)、「ダビデの子」と「神の子」の二つの称号は、すでに原初キリスト教会の頃から用いられていたのでしょう。今回の箇所は、イエス様の復活を機に、原初キリスト教徒によって創出されたという説があります。原初キリスト教徒の信仰が今回の記事に反映しているのは確かですが、それだからと言って、今回の記事がイエス様自身の言葉にさかのぼるもので<ない>と判断する根拠にはなりません。むしろ今回の記事は、イエス様がその生前に「ダビデの子」と「メシア」との関係についてお尋ねになった出来事にさかのぼる。こう考えることができます。ただし、イエス様が、「ダビデの子/子孫」について、どういう状況で、いったい何を問われたのか?この点がはっきりしません。その謎はそのまま、今回の記事にも未解決のまま残されています。
 イエス様に宿っていた霊性は、捕囚期以後の第二イザヤによる「受難の主の僕」伝承と、ダビデ王朝時代にさかのぼる「ダビデの子メシア」伝承と、大きくこの二つの流れから出ていると考えられます。「受難の僕」伝承は、イエス様の内面的な「メシアの秘義」として外の人たちから隠されていましたが、「ダビデの子」伝承のほうは、むしろ、霊能のイエス様に人々が与えた名称でしょう。パウロが言う「肉によればダビデの子孫」で「聖霊によれば神の子」であるというこの信仰は、キリスト教会の正統の教義としてテルトゥリアヌス(160年頃〜220年以降)に受け継がれ、アウグスティヌスの師であったアンブロシウス(339年頃〜397年)もこれを確認しており、現在にいたるまで、キリスト教会の正統な信仰とされています。
 イエス様が、「肉体をとって地上に来られた神の御子」であることをここで繰り返すことはしません。そのイエス様が、それまでユダヤ教で伝えられてきた「ダビデの子孫」であるだけでなく、「万民を救う神の子キリスト」であるという信仰は、イエス様の復活によって明らかにされ、エクレシアを始め人類に啓示されました。では、「ダビデの子(子孫)」と「神の子キリスト」との関係は? これが今回の記事の最大の問いかけです。
 ■メシア民族主義か、霊的な神の御子か
 二つの称号の関係には、イエス様以後のキリスト教徒の信仰、とりわけ共観福音書時代のそれが反映しています。なぜそれが大事かと言えば、ユダヤ民族は、とりわけ50年以降、終末における「ダビデ王国の再興」を目指して、過激な民族主義者たちに引きづられるままにローマ帝国との闘いに入り、このため、エルサレムの滅亡(70年)と祖国の喪失を招く結果になったからです。だから、共観福音書の記者たちは、地上における「ダビデ王国」の喪失と「神の子イエス・キリスト」への信仰の間に立たされて、「肉によればダビデの子孫であるメシア」と「霊によれば神の御子であるキリスト」という二つの称号の意義を改めて見直さなければならなかったのです。終末には、地上に神の国が実現するという信仰に扇動されて、民族的で宗教的な情熱が、逆にその民自身へ「終末」をもたらす、という恐ろしい皮肉(アイロニー)をわたしたちはここに読み取るのです。共観福音書の記者たちも、イスラエルのこの悲劇を目の当たりにして、「肉によればダビデの子孫」でありながら、「霊においては神の子キリスト」であるナザレのイエス様のメシア伝承を改めて再認識したに違いありません。だからルカは、地上に神の国を実現させようとする宗教的な情熱を警戒して、イエス様の口から「神の国は目に見える形で来るのではない。また『見よ、ここに。見よ、かしこに』とも言えない。神の国は、あなたたちのただ中にあるのだ」(ルカ17章20〜21節)と語らせています。
 今回の記事で、もう一つ学びたいことがあります。それは、共観福音書の記者が、イエス様のお言葉伝承を受け継ぎながらも、これをただ字義どおりに伝えることをせず、現在自分たちが置かれている視座から読み直していることです。イエス様が聖霊によってお語りになったお言葉は、今の自分に与えられているイエス様の聖霊によって、これを読み直すよう求められるのです。神が語られた過去の出来事を現在における神の言葉として受けとめる解釈の方法を「タイポロジー」と言いますが、ナザレのイエス様の出来事も、復活されたイエス様の御霊にあって、常に読み返す必要があります(第二テモテ3章16節)。神学的に言えば、共観福音書の記者たちは、今回のイエス様のお言葉を「キリスト論的に」読んでいるのです。こういう聖書解釈に立って、今回の記事を読み解こうとすると、わたしたちは、地上に御国をもたらそうとする「ダビデの子メシア」伝承と、地上を超えて終末を目指す「神の御子主イエス・キリスト」との間に潜む奥深い秘義を洞察することができます。今回の記事は、そのどちらをも否定していません。この秘義を原理化したり一般化したりすることもできません。なぜなら、エクレシアの「一人一人が」、主イエスの御霊にあって、「それぞれに」自分の置かれた視座から、具体的な状況を霊的に洞察することが求められるからです。これによってしか、聖霊は具体的な力を発揮できません。この秘義は大きく重要です。なぜなら、この地上に具体的に働きかける聖霊の驚くべき「御力」が、この秘義に隠されているからです。
■現代への問いかけ
 追加します。イエス様は、人々が期待を寄せている「ダビデ的なメシア」像を決して否定してはいません。しかし、同時にイエス様は、そういう地上の王国を目指すメシアを超える「霊的なメシア」像が存在することを人々教えようとしたようです。方や、誰の目にも明らかに分かるメシア像であり、方や、人の目からは隠されたメシア像です。イエス様が今回提示した、二つのメシア像の違いを共観福音書の記者たちは鋭く洞察しました。ユダヤ民族主義のメシア像が、彼らの目の前で崩壊したからです。それから二千年。失われていたイスラエルは、1948年5月にパレスチナに再び誕生しました。 2018年の現在、イスラエルは、その版図を拡大しようと目指しており、トランプ政権は、アメリカの親イスラエルのキリスト教徒に支援されて、アメリカ大使館をエルサレムへ移す計画を進めています。中東情勢は、イランとトルコとロシアが同盟し、これに対して、イスラエルとサウジアラビアとアメリカとが、これもゆるやかな同盟関係を結んで、相互に対立し合う構図ができあがりつつあります。イスラムは、イランを中心とするシーアー派とサウジを中心とするスンニー派に分裂したまま、宗教的な対立を深めています。民族的なダビデ的メシアか、民族や宗教の対立を超える霊のメシアか、古くて新しい問題が、現在も、世界規模で、わたしたちに向けられているのです。 
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