【注釈】(1)イエス様語録による批判
■イエス様語録の「律法学者とファリサイ派批判」
〔復元について〕
 今回のイエス様語録では、七つの「わざわいだ」が続き、終わりに「知恵の言葉」として、預言者たちと知恵者たちへの迫害が来ます。今回のイエス様語録の復元は、ことのほか困難です。その困難さは、イエス様語録の順序にも表われています。イエス様語録の複現では、例えば、ルカ11章42節(Q11:42=マタイ23章23節)とルカ11章39節(Q11:39b=マタイ23章39節)に見るように、ルカ福音書とマタイ福音書では順序が逆になっています。あるいは、マタイ福音書では「天国を閉ざす」(23章13節)が始めにきますが、ルカ福音書では「神の国の鍵」(11章52節)が終わりにきます。しかも、イエス様語録では、ルカ福音書では最後に来る「神の国の鍵」の後にルカ11章47~48節が続くことになります。今回のイエス様語録の語法は、全体としてルカ福音書にやや近いものの、マタイ福音書からのものもかなりあります。このように、今回は、イエス様語録ほんらいの順番と語法を正しく復元することは困難です。その理由として、イエスの言葉が幾つもに分かれて伝承されたことがありますが、それ以上に、次の項で述べるように、復活信仰以後のキリスト教徒による編集と追加が強く反映しているからです。
〔「わざわい言葉」の伝統〕
 旧約聖書の「わざわい言葉」は、イザヤ書5章8~22節にでてきますが、そこには六つの「わざわい」が並んでいます。これの七十人訳は、「わざわいだ」(ギリシア語「ウーアイ」)で始まり、「それゆえ」が来て神の裁きが告げられます。降って、知恵文学の時代では、『第一エノク書』の94章6節から100章9節にわたる「エノク書簡」や「エノクの言葉」(前2世紀)では、「わざわい言葉」が32ほど並んでいて、これに続いて「わたしは誓って言う」とあり終末の裁きが告げられます。『ソロモンの詩編』(前63年~48年頃)は、ローマの将軍ポンペウスによってエルサレムが占領されたことに抗議して、ファリサイ派の人が著わしたものです(現存するのはギリシア語で原文はヘブライ語)。そこでは、エルサレムの指導者たちは「敬虔な人たちの議場に座る律法違反の常習犯たち」であり、「激しい言葉で罪人らを裁いて断罪しながら、様々な罪と不摂生の責めを免れない者たち」であって、「人目につかないように罪を犯し、目であらゆる女によくない金をさしだし」、「聖者にまじって偽善に生きる者」「惑わす言葉で不義の欲望を遂げる者」、「恥も外聞もなく多数の人々の家を荒らす」と非難されています〔『ソロモンの詩編』教文館『聖書外典偽典』(5)旧約偽典(Ⅲ)33~36頁〕。ツァドク系で反体制的なクムラン宗団の文書では、ファリサイ派のことを「終わりの日々においても、へつらいを求める者たちで、欺瞞と偽りの行為に及んでいる」(Commentary on Nahum. Frag. 3-4. Col. 1.)〔DSS(2)246〕と批判してます。
 これらは、ユダヤ人がユダヤ人に向けて、相互に「異端者」「偽善者」「不義の者たち」呼ばわりをしているのですから、これを「ユダヤ人」全体に向けられた批判だと受けとると大きな誤解を生じます。このような相互批判は、ギリシア・ローマのヘレニズムの哲学者の間でも行なわれていて、ディオ・クリュソストモスは、弁論術に長(た)けたソフィストたちのことを「無知で不遜で自己欺瞞で、無学で、邪悪な精神で、不敬虔、不誠実、人でなし、恥知らず」だとののしっています。エピクテトスはプラトン主義者のことを「知的に死んだ者で詭弁に満ちている」と言い、エピキュリアン(快楽主義的な哲学者)のことを「言うこととすることが別で、悪しき教えで、社会体制を崩し、家族を破滅させる」と批判しています〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)258頁〕。
 今回のイエス様語録も、ユダヤだけでなく当時のヘレニズム世界のこのような相互批判を受け継いでいます。イエス様語録は、パレスチナがユダヤ戦争に向かう時期に編集されたと考えられますから、『第一エノク書』やクムラン文書に見るような終末的黙示思想の影響を受けています。そこには、(1)同じユダヤ人同士でありながら、対立するユダヤ教を批判しこれに反論することと(2)パレスチナの内外のキリスト教徒に向かって、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)とキリストの教会(エクレシア)との違いを明確にするという二重の意図がこめられています。共観福音書のほうはエルサレム滅亡以後に書かれましたから、(2)のほうも重視されているのでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)157頁〕。それにしても、イエス様語録の段階で、なぜファリサイ派と律法学者/法律家とに分けて批判されているのでしょうか? イエス様語録の時代のユダヤ教も幾つかに分かれていたのでしょうか? それとも、ユダヤ教側だけでなく、キリスト教徒相互にも分裂があって、キリスト教会内の二つの運動が相互に批判合っていたのでしょうか?〔ボヴォン前掲書158頁〕。
〔イエスにさかのぼるか?〕
 今回のイエス様語録は「ダビデの子」問答に続いていますから、イエスが「ダビデの子」であることを否定する人たちに向けて語られたという説があります。しかし、内容的に見ると、このイエス様語録には、イエスをメシアと信じるかどうかは、いっさい問われていません。また、イエスの復活信仰以後において、ユダヤ教の側からキリスト教徒に向けられた批判も(少なくとも表面的には)いっさい表われません。ただひたすら、ファリサイ派と律法学者たち自身の有り様だけが厳しく批判されています(批判される側がこの批判を受け容れるとは思えませんが)。
 マタイ福音書とルカ福音書に共通する今回のイエス様語録には、ナザレのイエスに実際に生じた出来事とその際に語られたイエスの言葉が伝承されていると見ることができます。しかし、今回のイエスの言葉は、ファリサイ派に属する律法学者の中でも、特殊なグループとイエスとの間に起きた衝突から生じたものであろうと推察することができます。イエスの頃のファリサイ派の中にも、律法遵守の厳格さにおいて異なる様々なグループがありました。この点から見ると、ルカ福音書の今回の場面設定はとても示唆深いと言えます。ルカ11章37節以下は、ルカの編集によるとは言え、イエスがファリサイ派の指導者に食事の席に招かれた場面で始まります。そこには、イエスと弟子たちだけでなく、イエスの霊能による癒やしを求める人たちが(中には「罪人」や「悪者」とされていた人たちも)「押しかけてきた」と考えられます。これを見たファリサイ派の一部の厳格な人たちからイエスに非難が向けられ、イエスがこれに答える中で、その人たちのファリサイ主義を厳しく批判した。こういう出来事が実際にあったと推定できます。
 しかし、今回のイエス様語録には、復活信仰以後のキリスト教徒の視座、加えて共観福音書の時代のキリスト教徒の視座が加味されていますから、そこにどの程度イエスにさかのぼる信憑性があるかを見分けるのがことのほか難しいようです。ノウランドは、ファリサイ派と法律家とに分けたルカ福音書の批判は、イエス以後に編集されたと見ていますが、彼は、今回のイエス様語録がどの程度イエスの史実にさかのぼるのか、この辺の難しさを次のように述べています。
「ここで語られている断片的な言葉以上に歴史のイエスにさかのぼるのを判定するのは、かなりの学問的なためらいがあった。学界は、ファリサイ派と律法学者に分けられたこの批判部分をイエスにさかのぼらせるのをためらってきた。学者たちがこの部分の(イエスにさかのぼる)信憑性について口をつぐむのは、一つには、ここに1世紀のファリサイ派を不幸にも戯画化する傾向が見られるからである。いったいだれがここに語られている批判を受けるに値するのか? これについて、福音の伝承過程において、その(信憑性の)程度が定かでないからである。この伝承には、初期(キリスト)教会が体験した衝突の跡がはっきりと刻まれている。問題は、ほんらい、あるグループ内の特定の人たちに向けられたものが、そのグループ全体に及ぶ批判だと受け取られたことにある。預言者的な意識に燃えるあまり発せられた言葉が誇大に拡張されて、一部の人だけにあてはまる内容が、グループ全体を表わすと受け取られるようになった。成長しつつある教会とユダヤ教指導層との度重なる衝突の過程において、キリスト教徒が、これらの(批判)言葉を(イエスの言葉の)正当性にもかかわらず、これを歪めて論争の具にする危険をおかしたのである」〔John Nolland: Luke 9:21-18:34. Word Biblical Commentary. (Vol.35B). Texas: Word Books(1993). Logos Bible Softwares: An electronic edition.〕。
〔語句の注釈〕
【ファリサイ派】イエスの時代以前から、イエスの時代を経て、後70年の神殿の消滅から共観福音書の成立の頃(70年代~90年代)までのファリサイ派の歴史をたどるのは難しいです。ごくおっざっぱに概観すれば次のようになりましょう〔ルツ『マタイ福音書』(3)426~35頁を参照〕。
 ギリシア系の王朝セレウコス4世フィロパトルが没した時に、その息子デメトリオスは、ローマから帰国して王位を継ごうとしますが成功せず、結果として、セレウコス4世の弟エピファネスが王位を継いで、アンティオコス4世エピファネスとなります(在位前174~164年)。この王が、エルサレム神殿にアポロンを祀り、ユダヤ人に対して律法に背く行為を強要するなどユダヤ教を激しく迫害したことが、マカバイ戦争(前169~164年頃)の発端になりました(第二マカバイ記6章)。マカバイ戦争を契機に、ユダ・マタティアによるハスモン家が台頭します。アンティオコス4世エピファネスが没すると、その息子がアンティオコス5世となりますが(在位前164~162年)、セレウコス4世の息子デメトリオスは、ローマを脱出して従兄弟のアンティオコス5世を殺害し(第一マカバイ記7章1~4節)、王位についてデメトリオス1世ソーテール(救い主)となります(在位前162年~150年)。この王が、ユダヤと和睦を申し入れることで、マカバイ戦争は終結を見ることになります(第一マカバイ記7章1~節。)
 マカバイ戦争が終結すると、デメトリオス1世によってアルキモスが大祭司に任命されます(前162/3年)(第一マカバイ記7章5~9節)。それまでの大祭司がツァドク系であったのに対して、アルキモスはアロン系だとされています。大祭司アルキモスは、王とユダヤとの和解を装(よそお)って穏やかにユダヤ側と交渉を進めます。しかし彼は、デメトリオス1世と組んでハスモン家を中心とするマカバイ派と対立しこれを弾圧しました(第一マカバイ記7章10~11節)。これに対して、「ハシダイの人たち/ハシディーム」(第一マカバイ記2章42節)と呼ばれる者たちは、迫害に抗して闘い、異邦の地へ逃れました(第一マカバイ記2章29~44節)。この人たちの中から、後に「ファリサイ派」と呼ばれるグループが生まれることになります。ハシダイの中には、アルキモスを受け容れる者たちもいましたが、欺かれて虐殺に遭うことになります(第一マカバイ記7章12~25節参照)。これら「ハシダイの人たち」は、ほんらいツァドク系の支持者であったと考えられます〔TDNT(7)39〕。ユダヤ側を欺いた大祭司アルキモスは、その後もユダヤ支配の王権に批判的であったユダヤ人たちに対する迫害を続け、このため、エルサレムを中心とするユダヤ教は分裂を深める結果になりました。ただし、アロン系の台頭により、ツァドク系とその支持者たちが力を失ったと考えるのは大きな誤りでしょう〔TDNT(7)38〕。
 その後非ツァドク系であるハスモン家のヨナタンが大祭司となり最高指導職を兼ねます(前152年)(第一マカバイ記10章18~21節)。ツァドク系のクムラン宗団の「義の教師」への弾圧が行なわれたのはこの頃でしょうか? ヨナタンの死後、その弟シモンが大祭司職と最高指導職を兼ねます(前143~34年)(第一マカバイ記14章24~49節)。次いで前134年に、シモンの子ヨハネ・ヒルカノス1世が大祭司と最高指導職を兼ねることになると、彼はサマリアのゲリジムにある神殿を完全に破壊しました。サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派などが成立したのは、この頃であろうと考えられています。
 当時のユダヤは、マカベア系の大祭司とエルサレム神殿を中心とする祭政一致の王国でしたから、ファリサイ派と呼ばれる人たちが、政治と宗教とをどの程度区別していたかを見分けるのは困難です。彼らが、クムラン宗団ほどではないまでも、当時の王権と貴族階級に批判的であったのは間違いないでしょう。ファリサイ派は宗教的にも政治的にも民衆から支持されていました。
 ハスモン王朝の暴君と呼ばれたアレクサンドロスが没して(前49年)、その妻がアレクサンドラ女王となった時から、ファリサイ派は、女王と組んでユダヤを支配する実権を握るようになり、その勢力を拡大したとヨセフスは述べています〔ヨセフス『ユダヤ戦記』1巻5章2~3節/新見宏訳『ユダヤ戦記』(1)58~59頁〕。ハスモン家のマリアンメとユダヤの南部にあたるイドマヤ出身のヘロデ(後の大王)が結婚(前37年)した後も、この非ツァドクで、非ユダヤ的な政治体制に対するファリサイ派の批判的な傾向は抑制されていたと言えましょう。
 イエスの頃のファリサイ派は、ユダヤ教の数ある諸グループの中でも最も重要なグループで、ユダヤの民衆に大きな影響力を及ぼしており、エルサレムの最高法院(サンヒドリン)にも多くのメンバーを送っていました。彼らは、文書(モーセ律法)と口伝(ハラハー)の両方を重んじますが、クムラン宗団のように、自分たちのことを民衆から区別された「イスラエルの選ばれた者」とは見なさず、イスラエルの民全体を「神の律法による清浄」へ導くことを目指したのです。このために、日常生活の儀式的な清浄を細かく定義して、これを民衆に守らせようと努めました。ファリサイ派は、食事における交わりの清浄を重視しましたから、彼らを「食卓共同体のセクト」と呼ぶ説さえあります〔ルツ前掲書427頁〕。だから、ファリサイ派の教えは、ユダヤ教の中でも比較的イエスが説く「神の国」に近く、このために、イエスおよびその弟子たちとファリサイ派とは、ある意味で「競合する」関係にあったと言えます。このことが、イエスと以後のキリスト教徒がファリサイ派と厳しく対立する原因の一つになったと思われます。
 使徒時代のファリサイ派については、使徒言行録5章33~40節(同23章9節も参照)に出てくるガマリエル1世がいます。この人は、ヒレル学派の系統のタンナイームの一族に属しています。使徒言行録の記事から判断すると、ファリサイ派は、サドカイ派などに比べると、最初期のキリスト教徒、とりわけイエスの弟のユダに代表されるエルサレムのユダヤ人キリスト教徒たちには寛容であったようです。このガマリエル1世は、パウロのエルサレム時代の師でもありました。
 ユダヤをローマ帝国との闘いへ向かわせたのは、ゼロータイ(熱心党)と呼ばれる過激な民族主義者たちでした。彼らは民衆を扇動すると同時に、ローマの支配に屈する者には死をもって報いると脅したのです〔ヨセフス前掲書2巻8章6節〕。ファリサイ派もこういう「ユダヤ人の反乱分子」の運動に次第に巻き込まれていったようですが、それがどの程度なのか確かでありません。ガリラヤのヨタパタに立て籠もってローマ軍と戦ったヨセフスは、ローマ軍の捕虜になりますが、後に許されてローマ皇帝によって厚遇されます。彼もファリサイ派に近かったと言われますが、確かでありません〔ルツ前掲書430頁〕。70年以後、ファリサイ派がユダヤ教の再建を図ろうとして、これがローマに認められたことから判断すると、ファリサイ派の反乱軍への参与はそれほど積極的でなかったのでしょうか。
 紀元後70年のエルサレム神殿の喪失以後に、神殿の喪失によって崩壊の危機に瀕したユダヤ教の再建を図ったのがヨハナン・ベン・ザッカイです。彼もヒレル系のファリサイ派で、使徒やガマリエル1世と同時代の人です。彼は、ローマの許可を得て、エルサレムの西方にあるヤブネ(ヤムニア)に、ユダヤ教の宗教的な教義を裁定するための法廷(ベト・ディン)を作りました(70年頃)。これは、神殿時代のエルサレムの最高法院(サンヒドリン)に相当する権限を持つユダヤ教の宗教的な裁定機関で、サドカイ派や神殿中心の祭司制度が失われた後の70年以後のユダヤ教は、このヤブネの学院を中心に、ヘレニズム世界に広がるユダヤ教を復興することになります。律法学者であるガマリエル2世がヤブネの宗教学院と宗教議会の総主教になると(90~110年頃)、彼は、「ナザレ派の異端」(イエスを信じるキリスト教徒のこと)を含むユダヤ教の異端を厳しく取り締まるために、異端者を呪う十八祈祷文を会堂のユダヤ人に唱えさせるよう指令しました。このため、ユダヤ教ファリサイ派とキリスト教徒との間の緊張が一挙に高まったと言われています。
 共観福音書が成立する70~90年代は、ちょうどファリサイ派によるユダヤ教再建の時期と重なりますから、ヘレニズム世界全体に広がろうとするキリスト教と、同じようにヘレニズム世界に広がるユダヤ教との間に、厳しい競合が生じる結果になりました。共観福音書には、ユダヤ教ファリサイ派と対立するこの時代のキリスト教徒によるこういう「反ファリサイ派」の傾向が反映しています。今回の記事のファリサイ派批判には、こういう「不幸な時代」の影響があることを知っておく必要があります。
【いのんど、茴香(ういきょう)】ここはマタイ23章23節の原語「アネーソン(いのんど)」と「キュミノン(くみん)」からです。ルカ11章節では「ペーガゴン(うんこう)」と「ラカノン(野菜)」です。
【いのんど】「いのんど」はスペイン語 "eneldo"から来ています。いのんどはセリ科で、イスラエルの地中海(西)側にいのんどの原種が自生しています。1本の茎から幾つも枝分かれして黄色の小さな花が集まって咲きます(4~6月頃)。その実は食物の香りづけに、葉は香料に用いたり、香水や薬草としても使われます〔廣部千恵子『新聖書植物図鑑』(教文館)125~26頁〕。
【茴香】「ういきょう」は「クミン」とも呼ばれます。これはセリ科で、カレー粉の原料にもなり、スペイン料理などでも用いられます。エジプト、シリア、レバノン、トルコが原産地とされています。晩春に白から紅色がかった小花をつけます。種子は香りがあり、パン焼き、魚、肉料理に使用しますが、インドではカレーの原料にもなります。この種子は薬としても用いられました。なお、イスラエルでは、クミンとは別種の茴香(ういきょう)があり、聖書時代にはサラダなど野菜の香味料にも薬用にも使用されていました〔廣部前掲書127頁〕。
【十分の一】十分の一税は、レビ記22章や民数記18章で定められています。イエスの頃の「十分の一税」は、三つあるいは四つの段階に分けられていました〔石川耕一郎/三好迪訳『ミシュナ』(Ⅰ)「ゼライーム」の「解説」390~92頁。教文館(2003年)〕。だから、農産物などの収穫量への計算が分かりにくく、「地の民」(アム・ハ・アレツ)と言われて差別されるイスラエルの庶民の中には、これをきちんと守らない者が少なくなかったようです。とりわけ、価値の低い収穫物や野生のもので誰の所有か判然としないまま採取された植物などは、「デマイ」(疑わしい物)と称されました。十分の一税を取り分けていない産物を世俗の人が食べると、神への聖なる捧げ物を口にしたことになり、冒涜罪になります。したがって、ファリサイ派など、律法をことのほか厳格に守る者は、うっかり「疑わしい物」あるいは「聖なる物」を口にしないように、一般の庶民からは食物を買わないようにする者もいました。また、「デマイ」にあたる物にもさらに細則を設けて、食べていい物と悪い物を区別しました。ラビによる『ミシュナ』の規定では、価値の低い野性のなつめやしや一部の茴香(ういきょう)などは、十分の一税を免除されていました〔『ミシュナ』前掲書78頁〕。また、例えば、野菜の中には葉を切り落として売買されるものがあったから、葉をも含めた全体の収穫量が特定できないために、十分の一税が取り分けられていない場合がありました。このため、切り落とされた葉をうっかり食べると冒涜になるおそれがあったので、野菜の葉などは、たとえ切り落とされてもそれを捨てたり、他人が食べることがないように定められていました〔『ミシュナ』前掲書80頁〕。詳しくは、共観福音書補遺の「十分の一税」を参照してください。                      
【公正】原語「クリシス」は、裁判の際の判定、公正、正義のこと。
【慈愛】ホセア書6章6節を参照。
【誠実】原語は「ピスティス」(誠実/信仰)です。ここでは、パウロ書簡にある「イエス・キリストに対する信仰」のことではなく、税を納める場合をも含めて、神の前に「誠実」なことです。
【なおざり】マタイ福音書では「見棄てる/ほうっておく」、ルカ福音書では「見過ごす/なおざりにする」。この「わざわい言葉」の内容がイエスにさかのぼるとすれば、イエスは、十分の一税などの祭儀律法を誠実に実践することと、イエスの説く神の国の「正義/公正と愛」は矛盾しないと教えていたことになります(ミカ書6章8節を参照)。
【内側】2番目の「わざわい言葉」の鍵は「浄める」です。イエス様語録では、「浄め」が祭儀的な意味から、より倫理的な意味に転じています。「外側を造った方」とは神のことですから、これこそが神の御心に適うことを指します。祭儀から倫理へのこの転移はイエスにさかのぼるものでしょう。人の内面が「強欲」で「汚れて」いるのであれば、その「不潔」を取り除くことは、祭儀ではもはや不可能で、深く厳しい「反省」と「悔い改め」によらなければならからです。なお、容器の外側は浄く見えるが、そこに入れられている「中味(内側の食物)」のほうは汚れでいっぱいだという解釈もあります。
【盲目なファリサイ派】マタイ23章26節から採用。
【上席】ユダヤの会堂では、ヘレニズム時代の劇場と同じように、社会的身分によって座る場所が自ずと区分けされていました。ユダヤ教の会堂の「上座」は、「名誉の座」とされる最上席のことです。小アジアのあるユダヤ人街で、タティオンという婦人が、周囲に回廊をめぐらす会堂を建てて、これをユダヤ人に寄贈したことで、黄金の冠と「名誉の座(上席)」を授与されたと記録されています〔コリンズ『マルコ福音書』583頁〕。かつてのアメリカ南部の教会でも、座席が社会的身分によって定められており、ペンテコステ系の教会でも、指導者が集会の上席に座るのが常でした〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)262~63頁〕。
【上(かみ)座】宴会の座席も客の身分によって区分けされていました。通常は宴会の「ホスト」が最上位に座り、その向かって右に最も名誉ある客が体を横たえて座るのが慣わしでした。特にパレスチナでは、食事は宗教的な意味合いを帯びていましたから、クムラン文書では、飲食の際の集会のメンバーの座席が厳格に決められています(『宗規要覧』6章4節)〔日本聖書研究所『死海写本』103頁〕。
【広場】町の中心にある広場のことで、そこは多くの店で囲まれ、広場として競技や大きな集会などに用いられました。マタイ23章7節では、これに加えて「人々からラビと呼ばれることを好む」とあります。
【挨拶】特に「ラビ」として敬意を表すること。
【墓】ルカ11章44節の「人目につかない墓」からですが、マタイ23章27節では「白く塗られた墓」です。パレスチナでは、死体を葬った墓は不浄な場所とされていましたから(民数記19章16節参照)、うっかり手を触れて汚れを受けないように白く塗ってありました。
【重い荷物】ここで言う「重荷」とは、十戒に記されている倫理的な律法のことではなく、主として祭儀にかかわる律法のことでしょう。イエスの頃のユダヤ教の律法/規定で禁じられている項目は613にも及び、中でも、安息日に禁じられている行為は39項目に及ぶと言われています〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)164頁〕。
【法律家】今回の復元では、マタイ福音書の「律法学者」(原語「グランマテウス」)を採るか、ルカ福音書の「法律家」(原語「ノミコス」)を採るか、という大きな問題があります。マタイ23章は「律法学者たちとファリサイ派」で一貫していますが、ルカ福音書のほうは、11章では、前半の37~44節は「ファリサイ派」への批判ですが、後半の45~54節までは「法律家」への批判になっていて、両者が判然と区別されています。ところが、ルカ11章53節は「律法学者たちとファリサイ派」とあって、マタイ福音書と同じ用語でしめくくられています。
 イエス様語録では、前半ではマタイ福音書の「律法学者たち」を省いて「ファリサイ派の人たち」のみを採り、5番目と6番目の「わざわい言葉」では、ルカ福音書の「法律家たち」を採っていますが、この場合、ルカ福音書の「法律家たち」か、ルカ福音書の「ファリサイ派の人たち」か、名詞を全く省くか、マタイ福音書の「律法学者たちとファリサイ派の人たち」を採るか?という選択が可能なようです〔ヘルメネイアQ278~79頁〕。なお、ルカ20章45~47節では「律法学者たち」(グランマテウス)が用いられています。
 ルカは、「律法学者」(ルカ11章53節/20章46節)と「法律家」(7章30節/10章25節/11章45~46節/14章3節)と「律法の教師(ノミディダスカロス)」(5章17節/使徒言行録5章34節)のように、三つの用語を用いていますが、これらの間にそれほど違いがないようです〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)163頁〕。ルカは、「グランマテウス」に「秘書」の意味をも読み取っていたので、「法律家」と区別したのでしょうか?それとも、ヘレニズムの読者たちに分かりやすいように「法律家」を用いたのでしょうか? あるいは、ルカの手元に届いた資料の段階で「法律家」となっていたのでしょうか?〔マーシャル『ルカ福音書』499頁〕。どちらとも決めがたいようです。したがって、ここでは、「法律家」よりも「律法学者」のほうを扱うことにします。
【律法学者】律法学者は、捕囚期直後のエズラにさかのぼります。ただし、この人物は、以後の初期ユダヤ教時代に「モーセに次ぐ偉大な律法学者」として伝説化されましたから、正確なことは分かりません(エズラについては、コイノニア会ホームページの「ヘブライの伝承とイエスの霊性」22章「神殿と城壁の再建の指導者たち」の「エズラ」の項を参照してください)。エズラのことはエズラ記7章1~26節に出ています。エズラは、ペルシア帝国の王アルタクセルスセス1世の時に、「モーセ律法を民に正しく布告する」ために、ペルシアの宮廷からユダヤに派遣されました(前398年?)。エズラ記には彼のことを「天にいます神の律法(ノモス)の書記官(グランマテウス)」(七十人訳エズラ記7章12節)とあり、「祭司エズラ」(同11節)とありますから、彼は祭司の家系で、「天にいます神の律法」を「探求する」ことによって、民を「教育する」役割を担う人です。彼のような律法の「グランマテウス」(書記官/学者)は、神殿と祭司職に密接に結びついています。捕囚期以後に「神の知恵」が重視されると、「知恵の教師」が現われますが、エズラは「知恵の教師」と「律法学者」を併せ持つ人物と見なされました。シラ書39章1~11節には、理想的な「知恵の律法学者」像が描かれています。律法学者は、律法の裁定と民の教育に携わる者として、政治的な活動も行ない、イスラエルの議会(ブーレー)においても衆会においても意見を述べることができました。
 マカバイ戦争以後においては、、エッセネ派、ファリサイ派、サドカイ派などのどの派にも、それぞれに与する律法学者がいましたから、律法学者と神殿制度との結びつきは薄れたようです。ほんらい律法を扱う人たちですから、中でもファリサイ派との結びつきが強かったようです。
 イエスの頃以降、律法学者は、例えばヨセフスなどによって、ギリシア語で「ヒエログランマテウス」(祭司律法学者)とも「ソフィステース」(知恵の人)〔ヨセフスの文書〕とも呼ばれたようです。共観福音書の「グランマテウス」(律法学者)は、七十人訳から出ているやや古い用語だと思われます〔ルツ著『マタイによる福音書』(3)EKK新約聖書註解426頁〕。
【神の国に鍵を】ルカ11章52節では「知識の鍵を取り上げる」で、「鍵」という名詞が用いられています。マタイ23章13節では「天国を<閉める>」(原語「クレイオー」=「閉ざす/鍵をかける」)ですから、「鍵」の使用は動詞の意味として読み取れるだけで、名詞の「鍵」はでてきません。"lock people out of the kingdom of heaven"〔NRSV〕/"shut the door of the kingdom of Heaven in people's faces"〔REB〕。なおイエス様語録では、ルカ福音書にある「知識の鍵を取り上げる」とマタイ福音書の「天の国を閉ざす」を合成して、その上で、マタイの「天の国」がほんらいは「神の国」であったと推定して、「神の国の鍵をかける」となっています。
【先祖の子孫だと】Q11:47~48は、内容が分かりにくいので、ルカ11章47~48節は、「こうして、あなたたちは先祖の業を是認していることを証しする。彼ら(先祖たち)が彼ら(預言者たち)を殺し、あなたたちが墓を用意するのだから」〔REB〕と補っています(第一テサロニケ2章15~16節を参照)。しかし、ルカ福音書の説明でも、真意がよく分かりません。殺された人の「墓を用意する」ことは、殺人者の行為を是認するよりも、むしろ、彼らを非難することを意味するからです。一方、マタイ23章29~32節は「あなたたち」の内容を「律法学者とファリサイ派の偽善者たち」とした上で、「あなたたちは言う。『もしもわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、彼らに与(くみ)して預言者たちの血を流すことは決してなかった』と。このようにあなたたちは自分で認めている、預言者たちを殺した者たちの子孫であると」。マタイは「偽善者たち」と呼んで、「生きている間は義人を嫌悪し、死んでから敬う」〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)304~5頁〕彼らの業と言葉の離反を突いています。おそらくルカ福音書よりもマタイ福音書のほうが、イエス様語録の真意に近いでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)303頁〕。
【それゆえに】先のことを受けて、そこから結果する神の裁定を語る時のヘブライ語(ラーヘン)からでた言い方です(イザヤ書5章24節/エレミヤ書23章2節)。
【知恵も】イエス様語録では、七つの「わざわい言葉」(Q11:39~48)の後で、「それゆえに」と前置きして「知恵」が登場します(Q11:49~51)。ここで、語り手がイエスから知恵に代わり、弾劾される者が、「ファリサイ派」と「律法学者」から「この世代」全体に移ります。この「知恵」による弾劾部分は(Q11:49~51)、ほんらい別個に伝承されたものが、イエス様語録の形成段階で「わざわい言葉」と結びつけられたのでしょう〔ルツ『マタイによる福音書』(3)440頁〕。
 ここの「知恵」(ギリシア語「ソフィア」)はヘブライ語の「ホク/フマー」にさかのぼります。「知恵者」も捕囚期以後に「知恵文学」が著わされ、例えばシラ書の著者のような「知恵の教師たち」(ホクミーム)が現われるようになりました。イエス自身も「知恵者」あるいは「知恵の教師」と呼ばれていました(マタイ11章19節/マルコ6章2節/ルカ7章35節)。この「知恵の教師」の伝統は、イエス以後のキリスト教会の指導者たちにも受け継がれます。原初の諸教会を巡り歩いて、癒やしの霊能を発揮したり、預言したりした「巡回する伝道者たち」(学問的には「放浪のラディカリスト」などと呼ばれます)も知恵の教師と呼ばれたのでしょう。「わざわい言葉」では、イエスが「あなたたち」に語っていたのが、ここでは、「知恵」が預言者や知者を遣わして「彼らに」語るのですが、これによって、学者・ファリサイ派に限定されていた「預言者たちの血」を流した罪が、「この世代」全体に問われることになります。
【知恵者たちを】これはマタイ23章34節からで、ルカ11章49節では「使徒たちを」です。
【預言者たちの血】ルカ11章50節からで、マタイ23章35では「義人たちの血」。
【この世の基ができてから】ルカ11章50節からで、マタイ23章35節では「地上で」。この言い方は七十人訳にはでてきませんが、「神の知恵による創造によって世界の基が定まる」ことは箴言8章22~29節にでてきます。新約聖書ではこの言い方がしばしばでてきます(マタイ13章35節/(同25章34節)/ヨハネ17章24節/エフェソ1章4節/ヘブライ4章4節/同9章26節/第一ペトロ1章20節/ヨハネ黙示録13章8節/同17章8節)。新約聖書にでてくるこの言い方は、「神の知恵」の体現者としてのイエス・キリストによる「救い」あるいは「裁き」と関連しています。
【この世代に】ルカ11章50節からです。マタイ23章35節では「あなたたちに」。「知恵」が「預言者たちや知者たち」を遣わすことによって、「わざわい言葉」では、学者・ファリサイ派に限定されていた弾劾が、「今のこの世代」全体となり、イエスの時代だけでなくイエス以後のあらゆる世代についても告げられることになります。こうして、イエスが告げた裁きと弾劾が、終末における裁きとして、あらゆる時代の、ユダヤ教(とキリスト教会)の指導者たちに向けられるのです。
【アベル】ルカ11章51節からで、マタイ23章35節では「義人アベル」。カインがその弟アベルを殺すことで「地上に流した血」によって、その土地が汚されます(創世記4章10~11節)。この「血」は、新バビロニアの王が、神に反逆した南王国ユダを攻めて、神の都エルサレムが滅ぼされた時に流された「血」ともつながり(エゼキエル書24章6~9節)、捕囚期とそれ以後に迫害され殺された「預言者」「義人」「知者」たちの血にもつながり、ユダヤ人の指導層とローマ帝国とが共謀して流した「イエスの血」(マタイ27章25節)へつながります。
【ゼカリヤ】ゼカリヤ書1章1節には、「ベレクヤの子預言者ゼカリヤ」とあります(マタイ23章35節を参照)。彼の預言者としての活動は、バビロンから帰還後の前520年~518年頃ですから、彼は神殿の完成(前515年)を見ることなく死去しています。「バラクの子ゼカリヤ」の殉教は、聖書には記されていません。しかし、旧約聖書時代の最後の殉教者としては、「祭司ヨヤダの子ゼカルヤ」のことが歴代誌下24章18~21節に出ています。だから、ここではこの「ゼカルヤ」のことでしょう〔ルツ前掲書446頁〕。アベルの殺人は「イスラエル民族」とは直接かかわりがなく、ゼカルヤの殉教もイエスの頃の律法学者・ファリサイ派とは直接関係がありませんが、先祖代々の指導者たちの流した「罪のない人の血」(箴言6章16~17節)の累積を受け継ぐ者として「今のこの世代」における「律法学者・ファリサイ派」が断罪されるのです。
【失われた】ルカ11章51節の「失われる/滅びる」からで、マタイ23章35節では「殺された」。
【本堂】ルカ11章51節からで、マタイ23章35では「神殿/本殿」です。マタイ福音書とルカ福音書では、「祭壇」と「本堂/本殿」の順が逆です。イスラエルの古代の幕屋では、幕屋の入り口の前に犠牲を捧げる祭壇が置かれていましたが、イエスの頃の神殿の内部では、聖所の前に祭壇が置かれていました。ここで言う「本堂」とは当時の神殿内の「聖所と至聖所」のことでしょう。「本殿」を「聖所」と訳す版があります〔D・ツェーラー『Q資料注解』133頁〕。
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