176章 律法学者とファリサイ派を批判(前編)
マタイ23章1〜12節/マルコ12章38〜40節/
ルカ11章43節/46節/同20章45〜47節
■イエス様語録(Q11:39〜52)
わざわいだ、あなたたちファリサイ派の人たち。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(うい きょう)の十分の一は捧げる。しかし、公正と慈愛と誠実はなおざりにする。前者も実 践しなければならないが、後者をおろそかにしてはならない(Q11:42)。
わざわいだ、あなたたちファリサイ派の人たち。杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と不潔でいっぱいである(Q11:39b)。盲目なファリサイ派よ。外側を造った方は、内側も造ったではないか(Q11:40)。杯の内側を浄めなさい。(そうすれば)外側も浄くなる(Q11:43)。
わざわいだ、あなたたちファリサイ派の人たち。宴会での上席や会堂での上座(かみざ)や広場での挨拶を好んでいる(Q11:43)。
わざわいだ、あなたたちファリサイ派の人たち。まるで見分けのつかない墓のようだ。人々がその上を歩いても分からない(Q11:44)。
わざわいだ、あなたたち法律家たちも。重い荷物を括(くく)って、それを人々の肩に乗せながら、自分たちは、己の指を動かそうともしない(Q11:46b)。
わざわいだ、あなたたち法律家たち。あなたたちは、人々の前にある神の国に鍵をかける。自分たちも入らなかったし、入ろうとする人たちが入るのも許さなかった(Q11 :52)。
わざわいだ、あなたたちは。あなたたちは預言者たちの墓を建てる。しかし、彼らを殺したのはあなたたちの先祖たちだ。自分で、あなたたちの先祖の子孫だと証ししている(Q 11:47〜48)。
それゆえに、知恵もこう語った。「わたしは、彼らに預言者たちと知恵者たちを遣わす。しかし彼らの中から、殺される者、迫害される者が出る」(Q11:49)。
こうして、この世の基(もとい)ができてから流されてきたすべての預言者たちの血が、この世代 に対して請求される(Q11:50)。
犠牲の祭壇と本堂の間で失われたアベルからゼカリヤにいたるまでの血が、この世代に請求されることになる(Q11:51)。
                                                                          〔『ヘルメネイアQ』266〜289頁〕
■マタイ23章1〜12節
1それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
■マルコ12章
38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、
39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、
40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
■ルカ20章
45民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
46「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
47そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
■ルカ11章
43あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。
 
46イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。
【注釈】(1)イエス様語録
【注釈】(2)共観福音書
【注釈】(3)前編

【講話】
■口伝の時代
 今回の箇所は、その長さもさることながら、いろいろと問題の多い箇所で、イエス様語録をも含めて、注釈が(1)〜(3)まであります。今回の共観福音書の言葉は、イエス様以後のキリスト教会が、自分たちに敵対する宗団(主としてユダヤ教ファリサイ派)に向けて語った論争の影響が著しいと言われています。したがって、これらの言葉のどこまでが、イエス様にさかのぼるのか? これについて口をつぐむ学者が多いのです。
 しかし、例えばマタイ23章9節のように、ナザレのイエス様にさかのぼる内容が、今回の批判の言葉の基になっていると見て間違いないでしょう。今回の箇所を読み解くためには、その背後の成立過程をたどる必要がありますが、これが難しいのです。今回の箇所の背後にはアラム語の語法が想定されています。あえて推定するなら、イエス様は、律法学者たちやファリサイ派の中の特殊な人たちから激しい非難と中傷を浴びた際に(例えばマルコ3章22〜30節を参照)、彼らに向かって預言者的な熱を帯びた批判と反論を加えたのでしょう。宗教的な信念の持ち主たちは、批判にも執念深いから、同じ批判が繰り返され、イエス様が彼らに答える事態が1度ならず生じたと思われます。
 イエス様による批判はアラム語で行なわれましたが、これを聞いていた人たちの中には、アラム語だけでなくギリシア語を話す人たちも相当数いたと考えられます。だから、イエス様の御言葉は、語られたそもそもの初めから、すでに、アラム語だけでなく、ギリシア語でも伝えられたことになります。そのお言葉は、初めからいくつもに分かれて、口頭で人づてに伝承されたのでしょう。これらの「わざわい言葉」が、まとめて口頭で伝承される期間が、イエス様以後に、少なくとも15年間ほど続いたと思われます〔James D. G. Dunn. A New Perspective on Jesus. Michigan: Baker Academic (2005).〕。イエス様の十字架を30年とすれば、30〜45年ほどは、文献ではアプローチできない「謎の15年間」になるわけです。
 イエス様御復活以後の教会でも、イエス・メシア教を信じる小さなセクトに対するユダヤ教徒や異邦人からの批判が続きましたから、これに反論するために、メシア(キリスト)教の人たちは、イエス様の語った「わざわい言葉」をそのまま用いて反論したと思われます。このために、ほんらい、ごく一部の人たちとイエス様との間で語られた「わざわい言葉」が、「律法学者とファリサイ派」全般に向けられる批判へと拡大されたと見られています。加えて、70年のエルサレム滅亡以後に、新たに復興したユダヤ教と共観福音書の教会との間でも論争が行なわれましたから、今回のわざわい言葉には、30〜90年という60年以上にわたる成立過程が想定されます。それだけ、重層的で奥の深い内容を秘めていると見るべきでしょう。近年では、今回の「わざわい言葉」が、既存のキリスト教会の指導層にも向けられているという解釈がなされるようになりました。
■「わざわい」言葉伝承
 ヘブライ語の「ホーイ」は、「ああ、何ということだ!」という驚きとも嘆きともつかない叫びで、これが「災いだ!」と訳されています(イザヤ書5章8〜22節の「わざわい」)。今回のイエス様の「わざわいだ!」も、旧約の預言者たちのこの叫びと通底する響きを帯びていて、しかも、イエス様の御言葉には、明らかに「怒りと憤り」が感じられます。旧約の神は「怒りの神」、新約の神は「赦しの神」だと割り切って、新約聖書のイエス様の神を旧約聖書から切り離そうとしたマルキオン(1世紀末〜2世紀半ば)という人が居ました。こういう見方からすれば、今回のイエス様は、共観福音書の中でも旧約聖書に最も近いと言えましょう。
 では、イエス様の怒りと憤りの発端は何でしょうか? 今回の箇所からすると、それは宗教に携わる指導者たちの「偽善」です。彼らの偽善とは、自分たちが「人の上に立つ」存在であることを誇示しながら、上に立つ責任を負わされている自己の責務を自覚することも、その責任を果たそうともせず、自分が説くことを自ら実行しようとしないことです。彼らは、上辺ではあたかも責任を果たしているかのように見せかけるのです。宗教的な世界でも、政治・経済の世界でも、指導者の悪徳には変わりありませんが、イエス様は、自分に従う弟子たちと人々に向かって、「あなたがたはそうであってはならない」と言われ、「一番偉い人は、一番下になって仕えなさい」と言われるのです(マタイ23章11〜12節)。人の上に立つ者は、民に奉仕して、下の者を助け導き保護すること、これが、イスラエルの宗教的な指導者が神から委託された責務であり、この委託は、ユダヤ=キリスト教を通じて一貫して変わることなく受け継がれるべき大事な使命です。
■相互批判の宗教
 ユダヤ教では、同じユダヤ教徒同士が、互い批判し合う「相互批判」の伝統があります。これは、ユダヤ=キリスト教の伝統だと言えます。注意してほしいのは、わたしたちのような外部の者が、こういう批判を聞いて、ユダヤ教やファリサイ派は、ダメな宗教だと思い込むことです。これはとんでもない誤りで、厳しい相互批判は、ユダヤ教も、これを代表するファリサイ派も、人類の諸宗教の中では極めて高度で優れた宗教だと言うことです。ユダヤ人同士の批判を外部の異邦人が聞いて、ユダヤ教の宗教は神の御前においてダメな宗教だという思い違いをするのは、キリスト教の歴史の最大の悲劇です。だから、イエス様が、ファリサイ派を非難したのは、彼らが、ある意味でそれほど優れた宗教の当事者であり、当時の人類の最高度の「宗教する人」だったからなのです。
■「宗教する人」の落とし穴
 わたしたちは、ここに、ホモ・レリギオースゥス(宗教する人)の最大の落とし穴を見ることができます。イエス様が、彼らを厳しく批判したのは、彼らの宗教の高度な知識と霊性にもかかわらず、というよりは、まさにそのゆえに、彼らは、人間的な誇りと自信過剰の落とし穴に陥って、神が啓示してくださったイスラエルの宗教の本質を忘れたからです。与えられた啓示と霊性が、人からではなく神から出ていること、この一事を忘れ、己の能力と欲望に支配されるところに、高度な宗教する人の最大の弱点があるのです。今回のイエス様からのファリサイ派や律法学者への批判は、その厳しさのゆえに、まさに「このこと」をわたしたちに悟らせてくれます。最も霊能に恵まれた人こそ、己に与えられた恵みに奢り、与えたくださった神を侮る愚かさに陥るからです。彼らには、「霊能の怖さ悟りて罪に泣く」ことが求められています。これこそ、彼らに対するイエス様からの警告です。
 自信過剰に陥った宗教する人の指導者ほど頑迷なものはありません。「蛇の毒にも似た毒を持ち、耳の聞こえないコブラのように、耳を塞いで、蛇使いの声にも、巧みに唱える呪文にも応じない」(詩編58篇)者たちに通じるのは、「わざわいだ」という呪いに近い言葉だけです。イエス様も新約聖書も、神は「怒ること遅く、憐れみ深い」方であると教えていますが、イエス様もパウロも、こういう偽善と悪徳の指導者たちに向かう時だけは、彼らを「この世」を支配する悪霊の頭サタンに対するように、厳しい呪いの言葉を発するのです。
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