177章 律法学者とファリサイ派を批判(後編)
マタイ23章13〜36節/マルコ12章40節/ルカ11章39〜54節
■マタイ23章
13律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
15律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
16ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
17愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。
18また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。
19ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。
20祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
21神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
22天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
23律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
24ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
25律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
26ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
27律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
28このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
29律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
30そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
31こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
32先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
33蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
34だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
35こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
36はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
マルコ12章
40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
■ルカ11章
39主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
40愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
41ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
42それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
44あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」
45そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。
47あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。
48こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
49だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
50こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。
51それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。
52あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
53イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、
54何か言葉じりをとらえようとねらっていた。
【注釈】
【講話】
■解釈の歴史
 前編と後編で扱っている「わざわい言葉」は、古代と中世ヨーロッパのキリスト教会では、採りあげられることが比較的少なく、「金銭欲が強い律法学者とファリサイ派」という印象以外には人々にあまり知られていなかったようです。これが注目を集めるようになったのは、印刷術が発達し、一般の人々が自国語で聖書を読むようになってからです〔ルツ前掲書(3)412頁〕。とりわけ、少数派のプロテスタントの側から、カトリックの教皇主義者や修道士たちの「金銭への貪欲」が強調され、「見せかけの人間の業」を誇る罪とされて、カトリックがその批判の的にされました。それにもかかわらず、プロテスタントの諸教会でも、「十分の一」献金が、それまで以上に(?)重要視され実施されてきたのです。こうして「偽善なる学者・ファリサイ派」のイメージがキリスト教会の中に定着するようになりました〔ルツ前掲書416頁〕。
 「律法学者とファリサイ派の偽善」に対するこの批判は、異邦人キリスト教徒を含む異邦人世界では、ユダヤ教そのものの偽善性へとさらに拡大解釈されることになり、ついには、「ユダヤ人」全体が金銭欲と偽善の代名詞とされるまでになります。わたしたちはこれの典型的な例を、シェイクスピアの『ベニスの商人』(1600年)に登場するシャイロックの人物像に見出すことができます。こういうユダヤ人像は、以後20世紀のナチスによるユダヤ人迫害へつながることになります。
 しかしながら、マタイ23章に代表される「律法学者・ファリサイ派」への批判は、ユダヤ人がユダヤ人に対して向ける容赦のない自己批判ですから、そもそも、反ユダヤ主義的な意図を持つものでは「なかった」ことを心に留める必要があります。こういう過去の誤った解釈に対する反省に立って、現在の聖書学会では、律法学者とファリサイ派に対する批判は、ユダヤ社会だけでなく、古代のヘレニズム世界にも共通する手法であり、学者仲間の内部や同一民族同士での非難合戦にほかならないという見方を強めています。その上で、批判の厳しさそれ自体も、ほんらいのイエスの批判が拡大解釈されて、その上、1世紀後半のユダヤの会堂とキリストの教会との間の軋轢を反映しているから、イエス様ほんらいの「悔い改めに導く」意図から逸れて、敵意と憎悪に満ちた弾劾へと増幅されていると考えられています。
■指導層への弾劾
 イエス様からの今回の厳しい批判に対する現代の「抑制された」解釈について、わたしは次の幾つかの点を指摘したいと思います。
(1)同じ民族の同じ宗教の指導者でありながら、自分の国の指導層によって迫害され殺される例は、オリエント世界ではきわめて希で、「預言者たちの殉教」は旧約聖書から新約聖書に受け継がれているユダヤ=キリスト教の特徴だと言えることです(ヘブライ11章32〜38節参照)〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)164頁〕。
(2)旧約聖書においては、例えば詩編の58篇に見るように、国の王侯たちやイスラエル共同体の指導層に対する批判はとりわけ厳しく容赦がないことです。エリヤに始まりアモスとホセアに受け継がれ、イザヤとエレミヤにいたる預言者たちの指導層への容赦ない批判は、そのまま今回の律法学者・ファリサイ派への批判にも受け継がれています。人間の幸いを平然と踏みにじる国家や社会の指導者の背後に「この世の支配者」(ヨハネ14章30節)であるサタンの働きを見ているからです。指導層の犯す過ちと罪が、彼らの支配下にある人間にどれほど悲惨な結果をもたらすか、このことを旧約と新約聖書の著者たちは深く洞察しているのです。
(3)もう一つ、今回の記事で指摘しなければならない重要な点があります。それは、今回のイエス様の弾劾が、「律法学者とファリサイ派」という宗教的な指導者たちに向けられていることです。民を虐げる暴君や国の財政を左右する悪徳商人、江戸時代の時代劇に登場するような悪徳家老や悪代官たちに向けられる厳しい弾劾なら、わたしたちも納得できます。ところが今回のイエス様は、情け容赦のない批判を「宗教」それ自体を司る指導者たちに向けるのです。いったいこれはなぜでしょうか? イエス様の頃のユダヤ教の指導者たちは、ほかの民族の宗教的指導者に比較して、それほど悪徳と偽善に満ちていたのでしょうか? どうもそうではないようです。異邦の諸民族の神殿祭司たちに比べると、当時のユダヤ教の宗教的な指導者は、その倫理性においても生活ぶりにおいてもはるかに優れていたと言えます。
 ただし、ここで確認しておきますが、「宗教的」とは言え、イエス様の頃のユダヤ教の指導者は、安息日制度や十分の一税などを通じて、彼らの支配を民の生活の全領域におよぼしていました。だから、政教分離の現代から見れば、当時のユダヤは、ほとんど祭政一致の宗教的政治体制であったと言えます。この事態を考慮に入れたとしても、今回の弾劾記事は、サドカイ派や神殿の祭司たちではなく、むしろユダヤ教の真髄を体現する宗教の指導層に絞られています。わたしたちは、この点に、今回の弾劾記事の重要な意義が隠されていることを洞察する必要があります。
■宗教の「偽善」とは?
 批判されているのは、彼らが自己の宗教に熱意が足りないからではありません。宗教的律法をおろそかにしているからでもありません。事実はその逆で、彼らが、あまりに些末なことまで宗教的な律法にこだわりすぎるからです。律法に対して厳格すぎるからです。世俗の人間と変わらない堕落した生活を送るからではなく、逆に世俗の民から「分離する」(「ファリサイ」の意味)ことを求めるからです。だから、ここでのイエス様の批判は、彼らの宗教的探求がおろそかだからではなく、むしろ逆に、あまりにも些細な点にいたるまで宗教的な自己実現を遂げようと志すからなのです。
 あえて言えば、イエス様の頃のユダヤは、人類がそれまでに到達した最も高度な倫理性と祭儀性を体現する神殿祭政一致の宗教国家であったとさえ言えます。それは、人類の到達した宗教が、人と神の最も深いところで関わり合う姿を体現する制度だったと言えましょう。だとすれば、イエス様は、ここで人間の宗教性の「正当性」とこれの「限界」を鋭く指摘していることになります。イエス様の今回の批判の真意をパウロは次のように洞察しています。「彼ら(ユダヤ教の律法主義者たち)は、人間を正しくするための律法を追求するがゆえに、逆に人間を正しくする律法へたどり着くことができなかったのです。なぜでしょうか? 律法の諸行によって到達できているかのように思い込むからです。霊性の信心からでないからです」(ローマ9章31〜32節)。
 いったい、何が起こっているのでしょうか? 批判されている宗教的な指導者たちは、自分たちが到達することができない「正義」を標榜しながら、あたかもそれを達成しているかのように見せかけること、と言うよりも、ほんとうに達成できていると思い込んでいること、と言うより、達成できていると思い込むことが<できる>ように「正義」それ自体を「宗教」の名によって巧みに「すり替えて」しまっていること、これがイエス様によって厳しく糾弾されている彼らの宗教的偽善性なのです。ヘブライの「偽善」とは、自分が悪を行なっていると自覚しつつも、外に向けて正義面をすることだけではありません。神の御前に悪を行なっていながら、その悪に自分で気づかないままに自己を正当化することもまた「偽善」と呼ばれるのです。
 そうだとすれば、現在のキリスト教の諸宗派諸教団の指導者たちは、今回のイエス様の糾弾が、キリスト教と対立したユダヤ教の指導層の偽善を暴いているのだと思い違いをしてもいいのでしょうか? 現代のキリスト教の諸宗派は、新約聖書がわたしたちに啓示している高い倫理性を宿す霊性が、現在の教会の指導者たちによってすでに「達成されている」と思い違いをしていないでしょうか? それだけでなく、わたしたちの犯している宗教的な偽善のゆえに、いまだキリストを知らない他宗教の人たちからも、その偽善性を批判されたり軽蔑されたりする事態が生じてはいないでしょうか? 現在わたしたちが行なっている「キリスト教の宗教的霊性」のほうが正しくて、ユダヤ教の霊性が間違っているとか、キリスト教以外の諸宗教、例えば仏教や神道やその他もろもろのアジアの諸宗教が誤りだとか、それらは「悪霊の仕業」だなどと決めつけてもいいのでしょうか?
■「宗教する人」の破綻
 「到達できていない正義」が達成されていると思い込んだり見せかけたりする偽善性は、ユダヤ教だけでなく、現代のキリスト教の諸宗派諸教団でも、事情は全く変わらないのではないでしょうか。わたしたちは、現在の中東で現実に起こっているおぞましい事態、女性や子供にまで爆弾を巻き付けて、彼らを人間の盾にしながら、自爆するこの人たちに「アッラー・アクバル」(アッラーは偉大なり)と叫ばせるISの指導者たちの宗教的偽善を軽蔑したり嘲笑したりできるでしょうか? あるいは「彼らのやっていることは宗教ではない」などと嘯いて、己の知的レベルを正当化する欧米の知識人たちや日本の知識人のように、自己の知識(グノーシス)宗教に酔っていていいものでしょうか? アッラーを信じて、自分の命を犠牲にしてまで「聖戦」に殉じる人たちのことを「宗教とは無関係だ」と見なすのは驚くべき欺瞞です。人間とは、しかも人間だけが、何らかの形態の宗教なしに生存することができない生物であることを思う時に、わたしたちは改めて、「宗教する人」に潜む功罪に目覚めるべきです。
 事は人類それ自体の宗教性に及ぶ問題です。だから、ここでキリスト教や仏教やイスラム教やヒンズー教や神道や儒教などに代表される諸宗教の、どれが正しくどれが間違っているかなどという優劣争いはもはや意味を失っていると思うべきです。今回の批判記事がわたしたちに突きつけていることは、人間にまとわりつく宗教性に潜む偽善性であり、その矛盾です。わたしたちはここに、「宗教する人」としての人間が、真の平和と真理に到達するほんらいの意図から見て完全に破綻している。この現実に率直に対面するべきです。今回の聖書のお言葉がわたしたちに迫るのは「この現実」なのです。
■義とされる人
 では、わたしたちはどうすればいいのでしょうか? どうすれば「正義」を真の意味で体得することができるのでしょうか? このことを教えてくれるのがルカ18章9〜14節の「ファリサイ人と徴税人のたとえ」です。
 イエス様のこのたとえ話では、ファリサイ人は、神からの義を得るために、自分がどんなに良いことをしているかを神に向かってとくとくと告げます。これとは正反対に、徴税人は、「神に向かって顔(目)を上げもせず」、自分の胸を叩いて、「どうか罪人のわたしをお赦し(贖って)ください」とつぶやくのです。イエス様は言われます、「二人のうちで義とされて帰ったのは徴税人のほうである」と。
 ここで、ファリサイ人のほうは「より宗教的」で「信心深い」人であり、対する徴税人は「非宗教的」で不敬虔だ。こう考えている人は、大きな思い違いをしています。神様の目からご覧になると、どちらも「人間」です。神殿にお参りする人間とは「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)のことです。自分は無神論だから神仏を信じない。こう言い張る人は、もうその言葉が、自分は「宗教する人」だと公言しているのと同じです。人はそれとは気づかずに経済的に生活しているのと同様に、自分では気づかずに宗教する人として振る舞い、考え、生活しているからです。そして、これが大切ですが。神殿にお参りして神様に出会うまでは、どちらも同じ「義とされていない」罪人なのです。「義とされていない」とは、正しい生活ができていないことです。ファリサイ人が自分をどう思おうと、彼は、神様の前に正しい生活が<ほんとうはできていない>のです。もしも正しく生きていると思い込むなら、彼は偽善者です。
 ここでイエス様は言われます。正しい生活ができるよう「ほんとうに変容される」のは徴税人のほうだと。徴税人は「赦された/贖われた」とありますが、「赦す/贖う」には、このように「人間を変容させる」事態を含みます〔織田『新約聖書ギリシア語小辞典』268〜69頁参照〕。徴税人が変容できるのは、「宗教する人」として自分の罪を自覚した/させられたからです。彼は、罪人であることを洞察したからこそ自分の胸を打った。すると、彼に向かって神様からの絶対恩寵が啓示された。宗教する人のどうにもならない不義と罪性が、そのあるがままで、神からの「赦しと贖い」に出合うという不可思議な事態が起こるのです。「人が自分で実現できると思い込んでする行為」が実は失敗の原因なので、自分ではとうていダメだと悟って、とにかく神様の前に出た人のほうが義人に変容する、というより「変容させられる」事態こそ、先にパウロが「霊性の信心」から生じる神の知恵の神秘だと洞察したことなのです。
■歴史による啓示の神 
 それにしても、今回のマタイ23章で、イエス様は「ものの見えない者たち(案内人)」を5回も繰り返して、ユダヤ教の指導者たちを厳しく非難しています。一体、両者の間に何が起こっていたのでしょうか? この点を考える手がかりとして、以下に、私見を述べてみます。ユダヤ教の指導者たちは、先祖伝来の宗教的な教えに支えられて、これを忠実に固守しようとしています。しかし、それは、イスラエルの神信仰の半面にすぎません。なぜなら、聖書の神は、出来事を通じて、歴史の中で啓示されるからです。アブラハムは、天地を創造した神には、あらゆる出来事が可能であることを知っていましたから、彼に啓示を与えてくださった神を「全能の神」(エール・シャダイ)と呼びました。神は、地上のすべての出来事を支配する方だからです。モーセは、神から啓示を受けた時、その神を「あらゆる出来事を生起させる」方として、出来事を通して民に語る神という意味で「ヤハウェ」と呼びました。イエス様の時代の「律法学者とファリサイ派」は、ひたすら「過去からの先祖伝来の教え」を固守していました。しかし、歴史の出来事を通じて語る神からの啓示は、常に、「現在において自分たちに生じている出来事」と切り離すことができません。アブラハムの神、モーセの神、イスラエルの神は、まさに歴史の出来事を通じて啓示する方であることを証ししてきたからです。
 ところが今、ユダヤ人たちは、「イエス様の御臨在」という不思議な出来事の前に立たされています。言うまでもなく、そのようなイエス様の御臨在は、ローマ帝国の支配下にある当時のユダヤを始め、パレスチナを取り囲む歴史の現実と切り離すことができません。彼らは、過去の教えを固守しながらも、現在の「この世」の現実に縛られていて、そこから逃れることができません。先祖伝来の宗教も、この現実の束縛から彼らを救い出すことができないのです。その現実の中で、彼らは、今イエス様という出来事を通じて、神からの語りかけを受けています。しかも、その啓示は、彼らがこれまで大事にしてきた先祖伝来の宗教を根底から覆すほどの変革を迫る「啓示」なのです。彼らは、現在生じている「この出来事」に、自らを明け渡して、思い切って、イエス様の言うアブラハムとモーセの神からの啓示として、イエス様による神からの啓示を受け入れることができるでしょうか? それとも、過去からの「自分たちの宗教」をどこまでも固守することで、目の前で生じている啓示の現実を頑なに拒否するのでしょうか? 彼らは、この選択を迫られているのです。彼らが固守する先祖伝来の宗教をイエス様を通じて啓示されている神の出来事の前に思い切って曝し、そうすることで裁きを受け入れ、決定的な変革を断行すること、これを、イエス様の父なる神が、彼らに迫っているのです。現在の出来事を通じて示された神の啓示に従うか、それとも、これを拒否して、どこまでも自分たちの既得の民族~に留まり続けるのか? 彼らは今、「この選択」を迫られているのです。結果として彼らは、過去からの「イスラエル民族の神観」を手放すことをしませんでした。ユダヤとその宗教が置かれている今の現実が、どのような状況にあるかを彼らは見通すことができなかったのです。その結果、ユダヤは滅び、エルサレムは滅亡しました。「ものの見えない者たち(案内人)」とイエス様が繰り返し非難しているのは、このことではないでしょうか?そして、まさにイエス様のこの御言葉を、マタイも同じ想いで、ここで繰り返し取りこんでいるのです。 

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