【注釈】
■マタイ23章
[13]ルカ11章52節では、この言葉が法律家に向けられていて、「知識の鍵を取りあげる」ですが(『トマス福音書』39の1では「知識の鍵を受けたが、それを隠した」)、マタイ福音書では「天国の(扉を)閉ざす」です。彼らは宗教的な指導者だからです。イエス様語録では、この「わざわい言葉」が中程に来ますが、マタイ福音書では最初です。マタイはおそらく、この「わざわい」を以下の「わざわい言葉」全部のまとめとして冒頭においているのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)285頁〕。「入ろうとする人も入らせない」は、「背負いきれない荷物を人々の肩に乗せる」(23章4節)ことを指すのでしょうか。なお、ここの「天国の扉」は、ペトロに与えられた「天国の鍵」(16章18節)と対照されているという見方もあります。「入る」「入らせない」の動詞は現在形で、神の国が「今現在来ている」ことを表わしますが、この現在形は未来をも含みます(逆に未来形でも現在が含まれます)。
[15]【陸】原語は「乾いた(地)」で、この言い方は創世記1章9節にさかのぼります。
【改宗者】原語は「プロセーリュトス」(英語は「プロセライト」"proselyte")。これは七十人訳のギリシア語からで、ヘブライ語の「ゲール」(訪問者/よそ者/外国人)の訳語です。「ゲール」は、ほんらいのイスラエルの民でなく、イスラエルに在留する他国人のことです(サムエル記下1章13節)。したがって、このヘブライ語のほんらいの意味は「改宗者」ではありません。しかし、ユダヤ教でも新約聖書でも、このギリシア語は、イスラエルの民でない異邦人が割礼を受けてユダヤ教の律法を遵守する「改宗者」のことを指しています(使徒言行録2章11節/同6章5節/13章43節)。もしも15節がイエスにさかのぼるとすれば、イエスはここで、パレスチナに在留する親ユダヤ教の異邦人(特に「神を畏れ敬う異邦人」と呼ばれる人たち)だけでなくパレスチナの外にいる異邦人にも割礼を施すことで、自分たちと同じ「完全な」ファリサイ派ユダヤ教徒にすることを指していることになります〔デイヴィス前掲書288頁〕。しかし、「海と陸を巡り歩くが」は、おそらくマタイによる追加の編集でしょう。マタイは、ここで、パレスチナ以外の異邦人の改宗者をも含めているのです。15節はマタイ福音書だけですから、この節全体が、イエス以後のキリスト教会で成立したという見方が強いようです。詳しくは、共観福音書補遺の「改宗者」を参照してください。
【倍も悪い】13節とのつながりから見て痛烈な皮肉になります。
[16]16~22節はマタイ福音書だけです(ただしルカ6章39節参照)。先ず、16~22節までの構成に注目する必要があります。冒頭に「盲目な指導者どもよ!」と呼びかけが来て、神殿を指して誓うことと神殿の黄金を指して誓うことが対比され(16節)、これに対する反論が語られます(17節)。次いで、祭壇を指して誓うことと祭壇の供え物を指して誓うことが対比され(18節)、これに対する反論が来ます(19節)。したがって、16~17節と18~19節は並行法で構成されています。
 20節で、今度は「祭壇と供え物」が先に来て、21節で「神殿」が来ます。だから、先の「神殿」と「祭壇」の並行法が、20~21節では、「祭壇」と「神殿」のように順序が逆になりますから、先の並行部分に対応して、今度は交差法(ABB'A')になり、22節は、構成全体から見ると「はみ出し」になります〔ルツ『マタイ福音書』(3)389頁〕。もしも22節を後半の交差部分に含めるとすれば、3構成(ABB'A’C)になります。16~19節の並行法は、イエスにさかのぼると見ることができますが、20~22節の構成は、イエスの言葉を受けてこれを発展させたマタイの教会で形成された可能性が高いでしょう〔デイヴィス前掲書290頁〕。
【ものの見えない案内人】この言い方は、ユダヤでは伝統的な批判の言葉ですが、今回の箇所は、より直接にマタイ15章14節から来ています。パウロはこれを踏まえて、同じ批判をユダヤ人一般に拡大しています(ローマ2章19~20節)。
【誓う】「誓い」には、「~しない」と「~する/実行する」の両方の「誓い」がありますが、ここでは「~する/実行する}ほうの「誓い」のことです。マタイ5章33~37節でイエスは「決して誓うな」と命じています(これは主として「決して~しない」と誓うことを指すのでしょうか?)。人に対してであれ神に向かってであれ、「誓う」ことは、もしもこれを破った場合に、何らかの「呪い/たたり」がその人に来るという恐れが一般的にあったようです。こういう「呪い」への恐怖を避けるために、正式の「誓い」に代わる「より軽い誓い方」があったのでしょうか〔デイヴィス前掲書291頁〕。
【神殿の黄金】神殿の宝物殿はヘブライ語で「コルバーン」(犠牲の供え物)と呼ばれていました(マルコ7章10~13節参照)。確かではありませんが、ここで言う「神殿の黄金」とは、この宝物殿のこと、とりわけそこにある黄金のことだと考えられます〔ルツ前掲書391頁〕〔デイヴィス前掲書291頁〕。英訳では「神殿」が"sanctuary"〔NRSV〕〔REB〕となっていますが、これだと神殿内の「聖所」を指すことになります。イエスの頃のヘロデの神殿では、聖所の入り口には黄金の扉があり、さらに、聖所の入り口の左右に立つ黄金の柱と上部の梁には、人の体ほどの大きさの黄金の葡萄の房が幾つも垂れ下がるツタが絡まっていました。それらの房は、人々の寄進によるもので、ヘロデの神殿は、この「黄金の葡萄のツタ」でヘレニズム世界に知られていたようです〔ヨセフス『ユダヤ戦記』5巻210節〕。ただし、「神殿の黄金」を指して誓う例は文献的に確認できません。
【果たす】原語は「債務を負う」こと。神に対しても人に対しても、「誓う」ことはそれを実行する責務(債務)を負うことを意味します。神殿が存在していた時代であれば(70年以前)、誓いを「果たす」義務の有無は祭司の判断に委ねられていました。しかし、ファリサイ派など特定の宗派の場合は、それぞれの宗派内で、誓いへの義務が定められていましたから、ここでは、ファリサイ派内の定めのことを批判していることになります〔デイヴィス前掲書291頁〕。
[17]神殿の中にある黄金と神殿それ自体とを区別することによって、「誓い」の義務に差を付けるやり方は、きめ細かいふるい分けによる神学論です。祭儀的な視野から見れば、神殿とそこにある黄金を区別することなどできません〔ルツ前掲書392頁〕。しかし、ここでイエスは、祭儀を視野に入れているのではなく、そもそも「誓い」に区別をつけることそれ自体を真っ向から否定しているのです〔デイヴィス前掲書292頁〕。神の前では、人間的な思考によるそのような誓いの「ふるいわけ」など通用しないからです。それくらいなら、人は神の前で「いっさい誓ってはならない」と言うほうが適切です(マタイ5章33~37節)。
【愚かな】マタイ5章22節には「兄弟」(家族のことではなく信仰を同じくする仲間のこと)に向かって「愚か者」呼ばわりしてはならないとありますが、イエスの律法学者とファリサイ派に対する批判には、「同信の仲間」同士の掟さえも踏み越える厳しさを帯びています。人間世界に働く悪霊の力が、国や民の指導者に及び、彼らを支配することは最悪の事態ですから、神の前には、それだけ許しがたい事態だからでしょう。
[18]【供え物】ギリシア語は「ドーロン」(中性名詞)で、ヘブライ語は「コルバーン」です。
[19]【祭壇】マタイはここで、とりわけ出エジプト記29章37節を念頭に置いているのでしょうか。
[20]~[21]20節前半の「(供え物にかけて)誓う」はアオリスト形で、後半の「(祭壇の上のものにかけて)誓う」は現在形です。だから、「誓った」ことと「誓っている」ことの違いになります。アオリスト形は、一度限りで繰り返しがないことを指すのでしょう。後半の現在形は、マタイがこれを編集している時には、まだエルサレム神殿が存在していた(70年以前)のではないか?という憶測を呼びます。しかし、エルサレム神殿が喪失した後のユダヤ教でも、神殿は「永遠に存在する」と見なされていましたから、この憶測は確かでありません〔デイヴィス前掲書293頁〕。
[22]【天にかけて】「天にかけて誓う」という言い方は外に例がありません。22節はマタイによる付加だと考えられていますが、マタイはイザヤ書66章1~2節を念頭に置いているのでしょう。神殿が地上における神の臨在の場であるのなら、20~21節の「誓い」は、「天の神の玉座」に向けられる誓いと変わるところがありません。そもそも神殿を始め「すべてのもの」は、神が創造し、神が行なわれる出来事であるのなら(イザヤ書66章2節)、人が神の玉座を指して何事かを誓う行為それ自体が、その有効性を問われてくることになります。このように見るなら、20~22節は、マタイ5章33~37節と通底するところがあり、両者は決して矛盾するものではありません〔ルツ前掲書393頁参照〕。
[23]23節はイエス様語録の最初に出てくる「わざわい言葉」で、イエス様語録はほぼマタイ福音書の通りです。しかしマタイはここで、イエス様語録に「律法学者」と「偽善者」と「律法の中の最も重要なもの」を加えています。マタイ福音書の「慈悲と誠実」はルカ福音書では「神の愛」です(前章のイエス様語録の注釈を参照)。「律法の中の最も重要なもの」とは、ユダヤ教の「ハラハー」を「より軽い」ものと「より重い」ものとに分類するラビの方法に従うものです。マタイ(とその教会)は、「十分の一税」が適用される範囲に関して、ユダヤ教のハラハーを基準にしながらも、その範囲を制限していたのかもしれません。十分の一税の適用範囲と諸律法の軽重の判定において、マタイと同時代のファリサイ派とは異なっていたために、キリスト教の教会とユダヤ教の会堂との間に論争が生じていた可能性があります〔ルツ前掲書397~98頁参照〕。マタイの編集は、ユダヤ教の律法(ハラハー)を否定するのではなく、その本質的な重要性を活かすことを求めているのです。「十分の一税」については、共観福音書講話の補遺の「十分の一税」を参照してください。
[24]【ものの見えない】原語は「オデーゴイ(道案内者/手引きする者)・テュプロイ(盲目の)」(複数)。16節の同じ言い方と対応して、16~24節を囲いこんでいます。
【ぶよを漉す】「羽があり、四本の足で動き、群れを成す昆虫はすべて汚らわしいものである」(レビ11章20節)とありますから、ぶどう酒などに紛れ込む「ぶよ」や「蚊」をうっかり飲まないように、ファリサイ派は、葡萄酒などを必ず濾して飲んでいました。大きいらくだもブヨなどを飲み込むために穢れた動物だと見なされました(レビ11章4節)。「ぶよを漉してらくだを飲む」は、些細なことで大事なことを見失うことの諺として用いられていたのでしょう。本質を観ないで枝葉末節にとらわれることです。
 23~24節は、イエス様語録では、冒頭の「わざわい言葉」にあたります。イエス様語録は、イエスにさかのぼる真正の言葉が核になっています。例えばブルトマンによれば、マタイ23章16~19節/23節/25節などが真正なイエスの言葉を含むとされています〔ブルトマン『共観福音書伝承史』(Ⅰ)253~54頁〕。イエスにあっては、この批判の言葉は、ファリサイ派が律法を厳格に守ろうとすることそれ自体を批判するのではなく(「前者も実践しなければならない」に注意)、ファリサイ派に、律法の本質に宿る霊性に気づかせることで、彼らを悔い改めに導こうとする意図から出たものでした。しかし、マタイの場合は、すでにそのような「反省を促す」余裕はなく、教会と会堂との亀裂が決定的になった今、会堂の敵対する指導者たちに弾劾と裁きの言葉を向けることになります。ただし、マタイは、ユダヤ教の十分の一税に関する細則が、それなりに意義を持つことを認識しています。ところが、現代のわたしたちにとって、かつてのユダヤ教の十分の一税は、その細則共々に、完全に時代遅れで不可解な規定としてしか認識できません〔ルツ『マタイ福音書』(3)399頁〕。それにもかかわらず、いわゆる「十一献金」は、制度として、現在もなおキリスト教の諸教会で実施されています。レビ記や民数記で定められた「祭儀律法」の中で、「十分の一税」は、旧約から現在にいたるまで継続している数少ない祭儀律法の一つなのです。
[25]~[26]この部分は、イエス様語録では、二番目の「わざわい言葉」になります。
【皿】マタイ福音書では「パロプシス」(鉢/皿)でルカ福音書では「ピナクス」(書き板/大皿/盆)です。伝承過程での変化と言うより、そもそもの初めから、同じアラム語が異なるギリシア語で訳されて伝えられたのでしょう〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)297頁〕。
【放縦】「不正(な放縦)」あるいは「不潔」などの異読があります。
【内側をきれいに】イエスの頃のファリサイ派で、食物を入れた容器の外側が、何らかの祭儀律法に抵触して「汚れ」を帯びた場合に、その容器の中味である食物も同様に汚れるかどうか? これをめぐってヒレル派とシャンマイ派の間で論じられていたようです。ヒレル派は、容器の外側が汚れていても、中の食物を捨てる必要がないと判断して、容器の「外」と「内」とを祭儀的に区別しようとしました〔ルツ『マタイ福音書』(3)402頁〕。このような祭儀的な律法と関連づけて、今回の箇所は、ファリサイ派が「祭儀的な」律法にこだわるあまり、食器や手洗いへの規定を細かく厳格に遵守することが、今回のような批判を招く原因になったのでしょう。しかし、ここでの非難は、彼らが祭儀に忠実であることに向けられているのではありません。皿を洗うのに、外側だけをきれいに洗うことなど常識的に考えられません。そうではなく、彼らの外面と内面とが正反対であることを比喩化して、外は清貧で禁欲的に見えながら、その実、彼らの内面は、金銭を含む強欲と性的な放縦でいっぱいだという意味です。ここの比喩的な言い方は、マタイ15章17~19節と同じことを指しています。『トマス福音書』(22)にも、イエスの言葉として、人が神の国に入るためには「内を外のようにし、外を内のように」することで、内と外を一致させよとあります。ただし、今回と同様の非難は、ヘレニズム世界でも、論敵に向かってしばしば用いられた常套的な手段であることを知る必要があります。
[27]~[28]この部分は、イエス様語録では四番目の「わざわい言葉」になっていますが、マタイ福音書では、「内」と「外」の対比として、25~26節に続いています。内容的にルカ11章44節と並行しますが、用語も墓の比喩の仕方も異なりますから、イエス様語録とは別の伝承からマタイのもとへ伝えられたのでしょう。28節はマタイ福音書だけで、マタイによる比喩の説明です。27~28節は厳しい批判になっていますが、これはマタイの編集によるものでしょう。ただし、偽善者を「立派に見える墓」あるいは「記念碑」にたとえるその手法自体はイエスにさかのぼる可能性があります〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)300頁参照〕。
【白く塗った】「類似している」も「白く塗った」もマタイ福音書のここだけに出てくる用語で、背景にアラム語があるのではないか、と言われています。エゼキエル書13章10節/22章28節に「漆喰を塗った石の壁」が出てきます〔デイヴィス前掲書300頁〕。これは野外の石を積み上げただけの壁に漆喰を塗ることで、外見は強そうな防備用の守護壁に見せかけるものです。「白く塗った」も同じように外側だけをきれいに見せるたとえです。ただし、白く塗ってあるのは、うっかり墓に手を触れて「汚れ」を受けないためでもあったようです。
[29]~[31]この部分は、イエス様語録の最後の7番目の「わざわい言葉」に相当します。イエス様語録では、その真意がくみ取れないので、マタイは、より分かりやすく「父祖の子孫」であると認めながらも「父祖の業に与(くみ)しない」という弁明を与えています。29節後半の「義人の記念碑を飾る」は、マタイ福音書だけですから、マタイの編集による付加でしょうか〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)304頁〕。「義人の記念碑を飾る」例は第一マカバイ記13章25~30節に出ています。しかし、その記事からは、これを偽善者の行為だと見なすことはできません。おそらくマタイは、裕福な貴族階級や権力者が、自分の功績を誇示するためにかつての預言者たちや義人のために立派な記念碑を建てる行為を批判しているのでしょう。ただし、その批判が「ファリサイ派」への批判として適切かどうかは問題です。マタイの意図は、かつてのファリサイ派よりも、むしろマタイと同時代のファリサイ派が、義人であり預言者でもあったイエスの殺害に与しているだけでなく、現在もなお、イエスの信者たちを非難し迫害し続けていることに向けられているのです〔ルツ著『EKK新約聖書註解・マタイによる福音書』(3)410~11頁〕。
[32]~[33]この部分はイエス様語録にありませんが、33節は洗礼者ヨハネの用語を反映していますから(マタイ3章7節=ルカ3章7節)、イエス様語録にさかのぼります〔ヘルメネイアQ3:7/8頁〕。
【悪事の仕上げ】「(悪事を)仕上げる」の原文は「あなたたちが、あなたたちの先祖の<量(はか)りを満たす>」です。神の怒りの日に向けて「悪事を仕上げる/その量を満たす」という「深遠な皮肉」〔ルツ『マタイによる福音書』(3)411頁〕を含むこの考え方は、創世記15章16節に出てきます(カナンのアモリ人の罪が「その極に達する」時にアブラハムの子孫がそこへ戻る)。罪人の「罪が満たされる」というこの思想は預言者たちに受け継がれ(アモス4章4~5節)、ダニエル書の黙示思想において「世界における神の摂理/計画」を推し量る独特の発達を遂げます(ダニエル書8章23節/9章24節)。また、第二マカバイ記6章14~15節には、イスラエルの罪は「直ちに罰せられる」が、異邦人の場合は、「その罪が満ちる」時まで裁き(罰)が来ないとあります。洗礼者ヨハネの「悔い改め」の呼びかけにも、その背後に「悪人の罪の満たし」という考え方を見ることができしょう(マタイ3章7~10節を参照)。ただし、洗礼者ヨハネが言及するのは「ファリサイ派やサドカイ派」など、イスラエルの指導者の罪のことです。パウロでは、「満たされる」のは「ユダヤ人の罪」のほうになりますから(第一テサロニケ2章15~16節)、先の第二マカバイ記とは、ユダヤ人と異邦人との「罪の満たし」が逆転することになります。マタイは今回の箇所で、彼の教会の言葉を聞こうともしないユダヤ教の会堂の指導層を念頭に置いているのです。
[34]~[36]この部分は、イエス様語録の締めくくりの「それゆえに」以下にあたりますが、主な用語はルカ福音書からです。マタイ福音書では「知者を遣わす」がイエス様語録に含まれます。なお、「救済史が断罪史となる」34~36節は、その構成が37~39節の構成と対応していると見て(34=37/35=38/36=39)、これらを一つにして「エルサレムのために嘆く」にまとめることもできます〔デイヴィス『マタイ福音書』(3)311~14頁〕。
【預言者、知者、学者】この三者を旧約から新約へいたる時代順に見る説もありますが、それほど判然とした区分ではなく、マタイは、キリスト教徒の「預言者、知者、学者」たちをも念頭に置いていますから、神と(その御子イエス)が遣わす人たち全体を指すのでしょう。34節の後半「十字架にかける」以下は、イエスと弟子たちの体験を伝えていますが、マタイによる付加部分でしょう。「殺し、十字架につけ」は「殺すために十字架につけることさえする」という含みです。
【バラキアの子ゼカルヤ】ゼカリヤ書1章1節の「ベレクヤの子預言者ゼカリヤ」は、捕囚直後の預言者で、神殿の完成を見ることなく世を去りました。彼が殉教したという記録は聖書にはありません。しかし、歴代誌下24章17~21節には「祭司ヨヤダの子ゼカルヤ」の殉教が語られていますから、「バラキアの子」はマタイの記憶違いでしょう。
【正しい人の血】マタイは、イエス様語録の「すべての預言者の血」を「義人たちの血」と言い換えています。また、イエス様語録では、「知恵」が「わたし(知恵)は彼ら(律法学者とファリサイ派?)に預言者たち知恵者たちを遣わそう」と告げていますが、マタイはこれを「わたし(イエス)はあなたたち(律法学者とファリサイ派)に預言者と知恵者たちと律法の教師たちを遣わそう」と言い換えています。マタイが「知恵」をイエス自身と同一視しているのは、当時のキリスト教会のイエス・キリストへの理解を反映しています。しかし、ここで問われている「義人の血」は、特にマタイ27章25節でのユダヤの民衆の叫び「その男(イエス)の血はわたしたちとわたしたちの子孫の上に」とあるのに結びつくのでしょう。こうして、神の知恵者として遣わされたイエスからの厳しい弾劾が、イエスの時間を超えて、マタイたちの「今のこの世代」の上にも転移されることになります。
【地上に】より正しくは「この地で」。マタイ福音書では、これは神の聖なる国土としての「イスラエルの地」(アレツ・イスラエール)のことです。
■マルコ12章
 マルコ12章38~40節は、ほんらいマルコに伝えられた伝承資料でしょう(イエス様語録と並行するのは39節だけ)。マルコは、「律法学者」に関する「イエスの教え」として、先の35節に始まるダビデの子問答に続けて、38~40節を配置したと考えられます〔コリンズ『マルコ福音書』582頁〕。
[40]この40節はルカ20章47節前半と並行します。実は、マタイ23章14節とも並行しますが、マタイ福音書のこの節は、アレクサンドリア写本その他の有力な写本では抜けていますから、おそらくマルコ福音書に倣(なら)った後からの挿入でしょう〔新約原典テキスト批評60頁〕。
【食い物にする】律法学者には、やもめの財産を管理するのも役目の一つでしたから、その役職を悪用して不当な利益を得ることを指します。「家」とあるのは、不動産のことだけでなく、家財全体をも含みます。ユダヤやローマの家父長系の社会では、やもめは法的にも不利な扱いを受けました。特にパレスチナでは、やもめは一般的に弱く貧しい者の代名詞とされました。ただし、クリスチャンの場合には、裕福なやもめも少なくありませんでしたから、マルコ福音書の批判が、マルコと同時代のキリスト教会の指導者たちをも示唆するとすれば、この批判は、彼らに対する鋭い風刺になります。
【見せかけの祈り】やもめのために「特別に長い祈り」をすることで、不当な利益を得ることだという解釈もありますが、後半の祈りと前半の「食い物にする」こととは別でしょう。ただし、いたずらに長い祈りが批判されるのは、パレスチナでもヘレニズム世界でも変わりありませんでした(マタイ6章7~8節参照)〔コリンズ前掲書585頁〕。
ルカ11章
[39]~[41]食物を容れた器の外側をきれいに見せるよりも、中味を人に施すことで、器の外も浄くなるというこの批判は、すでにイエスにおいて説かれていたように、祭儀的な浄めから倫理的な浄めへの転向を意味します。祭儀から倫理へのこのような転移は、神殿喪失以後のルカの時代には、とりわけ、ヘレニズム世界のユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒には受け容れやすいものでした。パウロの説くイエス・キリストの聖霊による「浄め」はルカの教会にも受け継がれていたでしょう。だから、ルカ福音書では、マタイ福音書のようにファリサイ派の「偽善」ではなく、彼らの内面に潜む自己中心の強欲性を糾弾し、「その中味」を人に施す慈善の心へ転向することを求めるのです(41節)。
[42]ルカ福音書同様にイエス様語録でも、これが「わざわい言葉」の1番目にあたります。「薄荷」はマタイ福音書と共通しますが、「芸香(うんこう)」と「あらゆる野菜」は異なります。「芸香」は薬草の一種ですが、これが栽培されたものであれば、十分の一税の対象になります。しかし、野生のものであれば免除されます。「あらゆる野菜」の中には、野生で採取された物や切り捨てられた野菜の葉なども含まれますから、十分の一税が適用されるかどうか「疑わしい」ものとして、免除される場合がありました。細部に厳格なファリサイ派は、十分の一を取り分けていない産物を食することで冒涜の罪/汚れを受けることを畏れて、これらすべても十分の一税の対象だと見なして几帳面に区別したのです。なお、ルカは「神への愛」を挿入することによって、隣人への愛の施しを促しているのでしょう。
[44]~[45]43節(前の章で扱いました)では、批判する相手が「ファリサイ派」と特定されています。しかし、44節では「あなたたちは」とだけあって、相手は特に指定されていません(ここに「偽善な律法学者とファリサイ派」を入れる異読がありますが)。おそらく、これが、続く45節での法律家からの抗議を招く前提になって、46節以下で「わざわい言葉」が法律家(ノミコス)にも向けられることになります。
 44節の墓のたとえは、マタイ福音書では「白く塗られた」とあって、外見だけがきれいに見える偽善性が強調されますが、ルカ福音書では「目立たない」とあって、人目に隠れたところに潜む悪徳と偽善性が指摘されています。偽善に騙されるのではなく、偽善に気づかないのです。
 45節で抗議する「法律家(ノミコス)」とは、ファリサイ派の中でも祭儀を含む律法にとりわけ詳しい律法の専門家だと指摘されています〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)949頁〕〔マーシャル『ルカ福音書』499頁〕。この法律家は、イエスの批判が、ファリサイ派への弾劾を越えて律法それ自体への批判になると抗議したのでしょう。45節は、ファリサイ派から法律家へ移行するためにルカが挿入した編集だと言われています。44節の墓のたとえはイエス様語録で4番目に来る「わざわい言葉」で、イエス様語録では5番目の「わざわい言葉」(重い荷物のたとえ)から律法学者たちへの批判に移行します。ルカ福音書でも同様に、46節(前章で扱いました)の「重い荷物」のたとえから法律家へ移行しますから、45節の挿入はこの点をはっきりさせるためでしょう。
[47]~[48]イエス様語録では、ここが7番目で最後の「わざわい言葉」になります。しかし、この部分の「あなたたち」は特定されていません。ここで言う「あなたたちの先祖」とは、ファリサイ派を含む不特定の指導層の人たちを指します。ヘブライ語の「息子/子孫」は「その業を継承する者」の意味を含みますから、「あなたたちの先祖」は血筋のことではなく、かつて預言者たちを殺したイスラエルの指導層の業を今も受け継いでいる人たちの意味でしょう。預言者たちの墓を建てることが、なぜ、彼らを殺した人たちの業に賛同する証人の意味になるのか?その理由がよく分かりませんが、その主旨は次のようででしょう。「あなたたちも、預言者たちを殺したあなたたちの先祖と変わるところがない。なるほど、あなたたちは預言者たちの墓を建てる。しかし、あなたたちも先祖同様、預言者たちの言うことを聞こうとはしない」〔マーシャル『ルカ福音書』501頁〕。なお、「先祖とその子孫」の背景には、「息子たち」(バーニーム)と「墓(複数)」(ボーニーム)というアラム語の語呂合わせがあると指摘されていますが、確かなことは分かりません〔ボヴォン前掲書164頁(注)81〕。
[49]49~51節は、イエス様語録では「知恵」が語る言葉にあたり、一連の「わざわい言葉」の結びとして最後に来ます。しかし、ルカ福音書では、49~51節の位置が「知識の鍵」についての批判の前に移されています。これはルカの編集によるもので、ルカは法律家からの抗議(45節)で始まるイエスの答えを法律家への弾劾で終えることで53~54節へつなぐために構成し直したのでしょう〔マーシャル『ルカ福音書』502頁〕。
【神の知恵】イエス様語録では「知恵」で、マタイ福音書では「わたし(イエス)」で、ルカ福音書では「神の知恵」です。ユダヤ教の「知恵」は擬人化されて「わたしは語る」という言い方をしますから、続く引用に見るように、知恵が一人称で語るのは知恵文学の手法です。ところで、ここの引用が旧約聖書にも旧約から新約にいたる中間期の文献にも見あたりません。今は失われたユダヤ教の黙示文学に『神の知恵』という文献があったのではないか?〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)502頁〕という説もあります。新約聖書では、「神の知恵」をイエス・キリストと同一視しています(第一コリント1章24節/同30節/コロサイ2章3節)。ルカ福音書でも同じように、イエスを「神の知恵」の体現者としていますが(ルカ7章35節/11章31節参照)、ルカは、「この世の基が定まった時」よりも先に存在した(先在の)「知恵」とイエスとを同一視するにはいたっていないという見方もあります〔フィッツマイヤ『ルカ福音書』(2)950頁〕。
【預言者や使徒たち】「使徒たち」はルカ福音書だけです。これは、イエスの直弟子たち(パウロも含む)のことでしょう。「預言者や使徒たち」という順番から見ると、「預言者」のほうは、イエス以後のキリスト教会での預言者のことではなく、洗礼者ヨハネを含む旧約時代の預言者たちを指すと思われます。しかし、ここで言う「殺し迫害する」には、イエス以後のキリスト教徒へのユダヤ教の側からの迫害も反映していると見ることができましょう〔マーシャル『ルカ福音書』503頁〕。
[50]【こうして】英語の "so that..."のように、目的と結果の両方が含まれます。ヘブライでは、神が遣わした義人たちを殺害することによって、神に敵対する者たちの「罪の升目(ますめ)が満たされて」、神からの復讐の裁きが降るという思想があります(詩編9篇13節/エレミヤ書33章2~5節/エゼキエル書33章7~9節/知恵の書19章5節/マタイ23章32節/コロサイ1章24節を参照)。
【天地創造の時から】字義どおりには「この世の基(ができて)以来」(イエス様語録参照)。この句はマタイ福音書にはありません。
【今の時代の者たち】マタイ福音書では「あなたたちに(ふりかかる)」です。ルカ福音書のほうは、より広い意味で、ルカと同時代のユダヤ教(とキリスト教会)の指導者たちをも含めているのでしょう。
【責任を問われる】原語は「請求する」「血の代償を求める/復讐する」です。マタイ福音書では「血が(あなたたちに)降りかかる」です。
[51]二度にわたって「今の時代」がでてきますので、51節は後からの書き込みが本文に混入したのではないか?という説があります。しかし、アベルもゼカリヤも、旧約聖書では「預言者」と呼ばれていないのに、ここでは、イエスの時代のユダヤ教の慣例に従って「預言者」として扱われています。またイエスについては何一つ触れていません。だから、これは、イエス自身にさかのぼるほんらいの説明だと見ることができます〔マーシャル『ルカ福音書』506頁〕。しかし、51節後半の強調には、1世紀のキリスト教会が受けた様々な迫害も反映されていると見るほうが適切です〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)166頁〕。
[52]イエス様語録では6番目に来る「わざわい言葉」ですが、ルカ福音書では最後に置かれています(マタイ福音書では最初の「わざわい言葉」)。これは「法律家」への弾劾をこの言葉でまとめるためのルカによる編集です。
【知識の鍵】マタイ福音書は「天国を閉ざしている」ですが、ルカ福音書では「知識の鍵を取り上げた」です。マタイ福音書の現在形もルカ福音書の過去(アオリスト)形も、おそらくほんらいのアラム語の完了形(現在をも指す)から出た訳でしょう。マタイ福音書もルカ福音書も、御国が現在すでに人々の前に存在していることを意味します。「知識の鍵」とは、「神の国」それ自体を顕わす「知識」のことだけでなく「神の国」へ入るために必要な「知識」の両方を含む言い方です〔マーシャル『ルカ福音書』507頁〕。なお、「知識」はルカによる言い換えではなく、イエス様語録ほんらいの言葉ではないかという説もあります〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)166頁〕。
[53]~[54]この部分はマタイ福音書にありませんが、ルカの語法とも異なりますので、ルカの資料からだと思われます〔マーシャル『ルカ福音書』507頁〕。この部分には二つの異読があります。ここでは、そのうちの一つを、(D)と呼ばれる「コデックス・ベザ」写本(53節冒頭部分)と(アレフ)と呼ばれる「シナイ写本」(53~54節)をつないで、直訳体(?)で訳出してみます〔新約原典235頁53~54欄外〕。
「彼(イエス)がこれらのことを(食事の席にいた)人々みんなに向かって語っていると、ファリサイ派の人たちと法律家たちは、激しい怒り(恨み)を抱いて、(イエス)に向かって、さらにいろいろな問題で口論を仕掛け始めた。何とかして彼(イエス)を捕らえる口実を探して、彼(イエス)を訴えるためである。」
 この異読は、現行の本文よりも分かりやすいですが、現行の本文では、「イエスが立ち去った」後にファリサイ派と法律家たち共謀していることが異読との大きな違いです。現行の本文のほうは、「法律家たち」ではなく「律法学者たち」とあり、また、「真意を聞き出そうと詰問する」「彼に罠を仕掛けて」「強引に捕らえようとする」など、やや特殊な言い方が用いられています。ここの彼らの言葉による攻撃は、後の受難の際には現実の暴力となってイエスを襲います。友好的とも思われる食事の席で起こったこの悲劇的な結末は、イスラエルの預言者たちの身にも生じたことで、言わば「福音の縮図」〔ボヴォン『ルカ福音書』(2)167頁〕とも言えましょう。
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