178章 やもめの献金
     マルコ12章41〜44節/ルカ21章1〜4節
■マルコ12章
41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。
42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
■ルカ21章
1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
                  【注釈】             
                  【講話】
 神に献げる献金が持つ意義は、その額の大小ではなく、捧げる人の心がけだという教えは、仏教でもヘレニズム世界でも旧約のイスラエルでも共通しています。例えば、ソクラテスは、「神々が、小さな供儀より大きな供儀を嘉(よ)しとするなら、それはよからぬ者たちの供儀をよい者たちの供儀よりも尊ぶことになるから、神々がこのようなことはしない」と言っています〔内田勝利訳『クセノポン ソクラテス言行録』(1)1巻3章3節。京都大学出版会〕。今回の記事も、教会の信者の献金について正しい心得を諭すための後代の創出だとか、やもめが2レプタしか所有しないことは、彼女以外誰も知らないはずだから、この話は、ほんらい、イエスが語ったたとえ話が実際の出来事に転じた、などという合理化した推測もあります。実際の出来事なのかフィクションなのか? いつもながら学問的な結論は「藪の中」です〔マーシャル『ルカ福音書』751頁〕。ルカの記述には、この話を「献金する額の多い少ないと捧げる人の心」についての教訓だと見ている節があります〔マーシャル前掲書750頁〕。しかし、わたしはあえて言いますが、今回の「出来事」は、「献金の額とする人の心得」ではすまない、さらに奥の深い意義をイエス様は洞察しているように思われます。
 注意してほしいのは、このやもめの貧しさから出た行為が「喜ぶべきこと」だとは、今回の話のどこからも聞こえてこないことです。彼女がこういう状態に置かれたことは、決して「いいこと」でもなれば「祝福すべき」ことでもないからです。ここではむしろ、神殿宗教制度の下で、ローマと神殿税などの二重の負担を強いられて、貧しい者から情け容赦なく奪う経済的搾取に、このやもめがさらされている状況を想い描くほうが適切です。
 当然のことながら、これに対する過激な抵抗運動が、北ガリラヤなどで生じていました。ところが、このやもめは、困窮した自分の生活のために残されたレプタ二つを神への供え物として投げ入れるという思い切った行為に出たのです。いわば、彼女の生存それ自体を神の御手に投げ入れたのです。愚かな女だ、自殺でもするつもりか? 余裕のある知的な人なら、利口ぶってこう判断するかもしれません。しかし、イエス様は、この女性の行為をそんなふうに見ませんでした。イエス様は、そこに彼女の神への絶対的な信仰を洞察したのです。彼女の行為は、極端に言えば、理由を知らされずにイサクを犠牲に捧げようとしたアブラハムの信仰にも通じる「神への全託」ではなかったでしょうか。
 ここで大事なのは、彼女の行為が、期せずして、イエス様の目に留まったことです。ここでイエス様がかかわることで、彼女の行為が、「イエス様の出来事」へ転じることになったからです。その結果、彼女に何が起こったか? 聖書の記事は、それ以上何も語りません。語られないままに、その判断は、読む者に委ねられているのです。
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