【注釈】
■マルコ福音書の「やもめの献金」
 マルコ福音書の今回の場面設定は、12章35節の「ダビデの子」に始まり、「律法学者への批判」に続いていますから、「神殿の境内」でのイエスの説話の続きです。これらの説話は問答形式はありませんから、イエスの業と言葉だけが語られています。ただし、今回のイエスは「賽銭箱の向かい」に座っていたとありますから、境内とは言っても、異邦人の庭ではなく、本殿の内部に場面が移行します。今回の記事は、後の教会による献金についての創出説とか、イエスのたとえ話が実際の出来事へ転じたという説などがあります。しかし、ルカ福音書もマルコ福音書と全く同じ構成を採っていますから、これら一連のイエスの言葉は、この順序で組み合わされて伝承されたと考えられます。一連の出来事は、イエスの出来事へさかのぼると見ていいでしょう〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)92頁〕。なおこれらの出来事は、内容的に見て独立していますから、これらをすべて「神殿制度」と結びつけて解釈する必要もないでしょう。マルコ福音書では、続いて13章から「終末説話」になり、受難週へ続きますから、今回を含む一連の説話は、イエスのユダヤ伝道の最終部分に近くなります。
■マルコ12章
[41]【賽銭箱】原語の「ガゾフュラキオン」は「宝物殿」のことです(ヨハネ8章20節)。神殿の本殿は、東側から西へ、「女性の庭」、「イスラエル男性の庭(回廊)」、「祭司の庭(回廊)」、「犠牲の祭壇」、「聖所へのポーチ」、「聖所」、「至聖所」の順になっていました。女性の庭から祭壇までは屋根がありません。女性の庭の北側と南側の4隅にかなり大きな屋根付きの部屋が四つあり、ナジルの誓いを立てたものが伸びた髪を切ったり特別の食事を作ったりする部屋(民数記6章2~5節)、捧げ物用のオリーブ油やワインのある部屋、癒やされた皮膚病の患者が水で浄めを行なう部屋、祭壇で用いる薪に汚れがないかを調べるための薪の部屋がありました。さらに西側には、聖所と至聖所の塔を中心に境内があり、その境内の南に三つ、北に三つ部屋があり、これらの部屋には神殿の祭儀に用いる諸道具や貴重な品々や大量の金貨・銀貨が保存されていました。だから神殿は、言わばイスラエルの経済を動かす「銀行」でもあったのです。「宝物殿」とは、通常これらの部屋のことを指します〔Leen & Kathleen. The Ritual of the Temple in the Time of Christ. Israel: Carta(2002)12-13/16-17〕。しかし、今回の「ガゾフュラキオン」は、この宝物殿のことではなく、女性の庭を囲む東側と南側と北側の3つの回廊に置かれていた賽銭箱のことだと考えられます。賽銭箱は全部で13置かれていて、トランペット(ラッパ)のような円筒型で先が開いていました〔前掲書16〕。それらは、「旧シェケル用」「新シェケル用」「小鳥の供え物」「若鳥の燔祭」「供え物の(?)薪」「香料」「贖いの座の黄金」などに献金の種別が分かれており、その他の六つは「随意の捧げ物」となっていました〔コリンズ『マルコ福音書』588頁〕〔Leen & Kathleen前掲書16頁〕。だから、今回のイエスは、女性の庭の回廊で語っていたことになります。
【金】イエスの頃のパレスチナでは、ギリシアの貨幣が用いられることが多かったのですが、これにローマの貨幣も混じり、したがって貨幣の呼称もユダヤとギリシアとローマのものがありました。大事なのは、貨幣の呼称よりも、それが金貨か銀貨か青銅貨か銅貨かの区別でした。基本となるのは、ユダヤの銀1シェケル(約5.6グラムの重さの銀)=ギリシアの4ドラクメ銀貨=ローマの4デナリ銀貨です。ギリシアの1ドラクメ銀貨=6オボロス青銅貨 =48カルコス青銅貨=約95~100レプトン銅貨ほどです。ローマの貨幣では、1デナリ銀貨=4セスティルス青銅貨=10アース(アサリオン)銅貨=40クァドランス銅貨というところです。したがって、ローマの1クァドランス銅貨=ギリシアの2レプトン銅貨になりましょう。当時のパレスチナでは、銀貨以上の貨幣の鋳造は許可されておらず、銀貨はフェニキアのティルスで鋳造されたものが用いられていました。したがって、ガリラヤの領主ヘロデ王には青銅か銅の貨幣の鋳造だけが許可されていたのです。今回出てくるレプトン銅貨は、直径1センチにも満たない小さなコインです。
[42]比較的裕福な人たちが大勢訪れて、おそらく神殿用に両替した銀貨をそれぞれ決められた賽銭箱に入れていたのでしょう。ところが、貧しい人たちは、6箇所に配置された「随意の捧げ物」用の賽銭箱に銅貨を入れるのが精一杯だったのです。「一人の貧しいやもめ」とあるのは、それ以外に貧しい人が来ていなかったことではなく、イエスは、貧しい人たちの中の一人に目を留めたのでしょう。「レプトン二枚、すなわち1クァドランス」とありますが、マルコが貨幣の呼称をローマ式に言い換えているのは、この福音書がローマで書かれからだという推定もあります。確かではありませんが。
【入れる】原語は「投げ入れる」で、今回の話ではこの動詞が繰り返し出てきます。ヘレニズム世界で金銭を「投げ入れる」とは、「投資する」「(お礼に)お返しする」「施す」「供える」などの意味で用いられたようです〔ボヴォン『ルカ福音書』(3)94頁〕。
[43]~[44]【弟子たちを呼び寄せ】10章42節の場合と同様に、イエスはここで特に「弟子たち」への教えとしています。このことから、今回の話は、後の教会の指導者たちへの財政運営のための教訓として、教会によって創作された逸話ではないか、という見方があります。今回のイエスの教えが、イエス以後の教会の指導者たちへの指針となるのは確かですが、そのことから、これをイエスの出来事から切り離された「逸話」だと見なすのは適切でないと考えます。
【だれよりもたくさん】「貧しい」とは、朝食にありつけたからと言って、昼食が、あるいは夕食が保証されないことを意味します。2枚の銅貨を両方とも入れたことは、それ以後の食費がなくなることです。
【生活費全部】「自分の所有するもの全部」をさらに言い換えて、直訳すれば「彼女の生活そのものを投げ入れた」のです。
■ルカ21章
 ルカは今回も、マルコ福音書の一連の記事とその順序を資料として重視しながら、語句などを言い換えています。
[1]ルカはマルコと異なり、イエスが、その居場所を変更したとは見ていません。また、「金持ち」を最初に出して「やもめ」との対照を明確にしています。
【見ておられた】「目を上げて」金持ちが献金する様子を見ていたのです。イエスが、「それまでの長々した議論に疲れて嫌気が差した」〔プランマー『ルカ福音書』475頁〕からかどうかは分かりませんが。
[2]マルコの「貧しい」をルカは「困窮している」と言い換えています。これは「物乞いするしか生きる道がない」という意味ではなく、生きるために働くのが精一杯な状態のことです。
[3]~[4]ルカは、マルコの「アーメン」を「ほんとうに」と言い換え、マルコのローマ貨幣への言い換えを省いています。イエスは、金持ちからやもめへ目を移しますが、洞察はやもめから金持ちへ移行し、「乏しい中から」を「有り余る中から」と対照させています。平たく言えば、「ぎりぎりの中から」と「余ったものの中から」の違いです。
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