179章 神殿崩壊と終末のしるし
マルコ13章1〜13節/マタイ24章1〜14節/ルカ21章5〜19節
 
■マルコ13章
1イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」
2イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。
4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」
5イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
6わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
7戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
9あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。
10しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
11引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
12兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
13また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
■マタイ24章
1イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
2そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
3イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
4イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。
5わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
6戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。
7民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。
8しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
9そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。
10そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。
11偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。
12不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
13しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
14そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
■ルカ21章
5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決っているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
10そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
11そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
12しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
13それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
14だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
15どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
16あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
17また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
18しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
19忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
                         【注釈】
【講話】
■共観福音書の終末説話
 これから取り扱う終末説話について、次の四つが重要な視点としてとりあげられています〔ルツ『マタイ福音書』(3)522〜26頁参照〕。
(1)語られる内容が終末のことであり、語られる手法が黙示的であるという理解から、ここで語られていることは、共観福音書の視野から見れば、神殿崩壊を中心に<すでに起こった過去の出来事>です。しかし、共観福音書は、過去の出来事から、さらに進めて、これを<現在の自分たちへ向けられた>神からの啓示として<教訓的に>受けとめています。
(2)しかも、共観福音書は、過去の出来事を教訓的に受けとめるにあたり、「人の子」としてすでに来臨したナザレのイエスの歴史的な出来事にさかのぼり、「イマヌエル」(神がわたしたちと共に)をもたらした人の子イエスによる「御国の福音」を告知するのです。
(3)その告知は、しばしば誤解されるような人類の終末への非現実的な比喩ではなく、人の子の再臨とこれに伴う終末が、この宇宙において現実に起こると告げています。それは、時間と空間を具えたわたしたちの世界を根本的に粉砕する出来事であり、これの実現は、人間の合理的な思考を超える出来事です。
(4)その上で大事なのは、インマヌエルとしてのイエス・キリストが、今もなおわたしたちと共に臨在しておられて、「荒廃をもたらす憎むべき者」の存在や、偽預言や無法のはびこる世にあっても、なお変わらぬ力を発揮して、最後まで「わたしたちを支えてくださる」ことです。
 以上が、これから何回かにわたって終末説話を見ていく基本的な視点です。上にあげた視点は、どれも重要ですが、これらはせいぜい、答えではなく「問いかけ」にすぎません。この意味で、これら四つの視点は、弟子たちがイエス様に問いかけ、イエス様が語り始めるきっかけを作った「最初の問い」にあたるものです。
■エルサレムの神殿
 思い切って申し上げると、わたしは、今回のマタイ24章1〜14節までを原文と英訳と日本語で読むうちに、これはユダヤ人イエスが、同じユダヤ人である弟子たちに、ユダヤ人にこれから起こるであろう出来事、70年のエルサレム神殿崩壊とこれにいたる一連の出来事だけでなく、それ以後も続くユダヤ人の受難の歴史、とりわけ、20世紀に起こった、あのナチスを始めとする諸国の民によるユダヤ人への迫害と虐殺までをも予告していると読むことができます。
 第1次世界大戦が終わった1917年に、イギリスの外相バルフォアが、パレスチナにイスラエルの国家を樹立することを認めると宣言しました(バルフォア宣言)。これと時を同じくして始まったマルクス主義によるロシア革命、ここから、世界大戦の主役となったキリスト教諸国に向けた<ユダヤ教からの批判>が始まったとも言えます。バルフォア宣言から30年後の1948年に、イスラエルの建国が国連で認められました。しかし、そこにいたるまでの間に、ナチスによるユダヤ人虐殺という大きな悲劇が起こったことを忘れてはならないでしょう。イスラエルの建国から70年後の2018年の1月現在、アメリカは、エルサレムをイスラエルの首都として正式に認めるために、大使館をエルサレムに移そうとしています。イスラエルは喜び、周辺のアラブ諸国は憤慨して敵意を露(あらわ)わにしています。
 ペルシア帝国が興り、捕囚のユダの民がエルサレムへ帰還して神殿を復興しようとした時にも、ちょうど同じように、周辺諸国は警戒してペルシアに抗議し、新イスラエルに敵意を露わにしたことを思い起こします(ネヘミヤ記3章33〜35節/同6章1〜9節)。「神の平和の都=エルサレム」をめぐっては、常に敵意と喜びが同居してきたのです。
 わたしの推測が正しければ、イスラエルの次の狙いは、現在、神殿の丘に建つ「岩のドーム・モスク」を取り壊して、そこに念願の「イスラエルの神殿」を建てることです。もしもこれが強行されれば、現在よりもはるかに大きな敵対と緊張が中近東にもたらされるでしょう。場合によっては、核戦争すれすれの緊張が生じることが予想されます。そうなると、聖書が預言するように、終末期の混乱と大きな艱難が、地球環境を襲う天変地異を伴って人類を脅かすかもしれません(マルコ13章24〜27節)。今回の聖書の記事にある神殿崩壊から2000年後の2070年頃に、このような危機状態が起こらないとも限りません。
■エルサレム神殿と現代
 もしも現在ヴァティカンにあるカトリックの大聖堂が跡形もなく崩壊し、「一つの石も積み上げられたままに残らない」と預言したとすれば、カトリック教徒は信じるでしょうか?あるいは、アメリカの首都ワシントンにあるホワイトハウスも議事堂も、木っ端みじんに吹き飛んでしまうと言われたら、アメリカ人は、にわかに信じるでしょうか?今回のエルサレム神殿の崩壊預言も、イエスの弟子たちを含む当時のユダヤ人にとってみれば、これと同じように、ありうべからざる出来事だったことでしょう。しかし、イエス様の預言のように、神殿の崩壊が、人類と世界の終末と結びつけられて初めて、その預言が説得力をもって迫ったと思われます。イエス様の預言では、神殿の崩壊と世界の終末とが一つに重ね合わされています。現実には、神殿崩壊の出来事が起こった後も、終末は到来しませんでした。しかし、それは、出来事が起こった後で初めて言えることですから、イエス様の弟子たちが、イエス様の預言を聞いた時に、神殿崩壊の出来事と終末の到来とをどこまで区別できたか、二つの出来事をはたして時期的に区別していたのかは疑問です。
 現在の聖書学は、イエス様の預言とこれを聞く弟子たちの視点からではなく、マルコやマタイやルカたち<福音書記者の>視点から振り返って見ようとします。だから、神殿崩壊と終末の到来とを、すでに起こった過去の出来事と、これから起こるであろう終末の出来事としてどこまで区別されていたのかが問題になります。これは、<イエス様ご自身の>預言の視点から観ているのではありません。福音書記者からの視点とイエス様ご自身の視点とを区別するこのやり方は、必ずしも成功しているとは言えません。共観福音書の記述が、この二つの視点を判然と区別できるほど明確でないからです。このために、終末説話は、聖書批評の中でも最も難解な箇所だとされています。このことは、イエス様ご自身の視点と、これを伝えようとする共観福音書の作者の視点とが、不可分につながっているからです。だからわたしは、思い切って、イエス様ご自身の視点と、エルサレムの神殿をめぐる世界的な危機という現代的な視点とを重ね合わせたのです。ただし、現在イスラエルで起こっていることは、滅び去ったはずのイスラエルが再興され、この出来事に続くエルサレム神殿の再建のことですから、神殿の崩壊とイスラエルの絶滅とは、ちょうど逆の「終末への予測」になります。これが、エルサレムの神殿崩壊から2000年後の現在の視野になります。
 2018年1月24日現在、アメリカからイスラエルへ派遣された特使は、来年末にまでには、エルサレムに大使館を移動させるとイスラエル議会で約束しました。しかし、今のところ、アラブ諸国の反応は、当初心配されていたほどには激しくないようです。これを「あきらめ」と受け取るのか、それとも嵐の前の不気味な静けさと受けとめるのか、判断は容易でありません。エルサレム近郊の町を将来のパレスチナの首都として、これに現在の東エルサレムの一部をも含ませるという案が、サウジアラビアからパレスチナに提案されているというニュースもあります。また、現在イスラエル寄りのトランプ政権が、今回の処置の見返りとして、今度は逆に、イスラエルに大幅な譲歩を迫るかもしれないという予測もなされています。ただし、この件に関する限り、政治的な意味合いではなく、その根底に<宗教的な>譲歩がなければ、事はうまく進まないでしょう。
 かつてわたしは、サッカー場ほどの広さの神殿の丘に立って、イスラムの黄金の岩のドームを眺めながら、わずかこれだけの広さの土地とその建物が、イスラエルとパレスチナとの間の争いの根になっていて、そのことが、世界の平和を脅かすほどの重みを帯びていることを思い、その根底には、ユダヤ教とイスラム教との対立という<宗教的な>問題が横たわっていることを実感しました。宗教的な対立と宗教的な譲歩、ここにこそ、「神の平和」(エルサレム)への問題解決の糸口があることを改めて実感します。
世界宣教と「宗教」
 今回の箇所に、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(マルコ13章10節)とありますが、「キリスト教とは<伝道する>宗教です」(『使徒言行録』の注解者で『原始キリスト教』を著わしたコンツェルマンの言葉)。しかしこの言葉には、人類が営む「宗教」の光と闇の両面が伴います。「光」は、ナザレのイエス様による「罪の赦し」の「善い訪れ」(エウアンゲリオン=福音)から発するものですが、「闇」は、「宗教する人間」に不可避的に具わる罪性と、これがもたらす悲惨な現実です。人類は、「宗教」の名の下に、「自分の信じる神」の<外側にいる>異教徒たちに向けて、ありとあらゆる残忍で苛酷な仕打ちを行なってきました。現在も世界の各地で行なっています。アフリカ諸国や中近東で行なわれているキリスト教徒に対するイスラム過激派からの残酷な仕打ち、アジアで行なわれている仏教徒によるイスラム教徒への迫害、これらに誘発されて、アメリカやヨーロッパの諸国で、イスラム教徒に対するキリスト教徒からの差別と迫害が取りざたされています。
 終末の到来までに、「福音が全世界に伝えられる」ことは、現在のキリスト教徒の間では常識になっています。しかし、かつての神殿崩壊とこれに伴う終末という<宗教的な危機>と、現在予想されるエルサレム神殿の再建と、これに伴う「宗教的な危機」とを考え併せると、問われてくるのは、福音が全世界に伝えられるかどうかではなく、いったい<どんな福音が>全世界に伝えられるのか?という事のほうが、はるかに重大な問題だと思います。
 自己の信じる宗教以外の宗教を「異端」、「異教」、「邪宗」などの名の下に排除<しない>こと、キリスト教以外の諸宗教にも、あえてそれぞれの霊性の意義を認めて、他宗教への寛容と許しを目指すこと、それだけでなく、さらに一歩を進めて、他宗教の人たちを主イエスの名の下に愛していくこと、こういう福音の有り様こそが、これから全世界に伝えられる<ナザレのイエス様の福音>にふさわしいのではないでしょうか。人間の罪性という闇に包まれた「宗教する人類」(ホモ・レリギオースゥス)を真の意味で救い、これを贖ってくださったイエス様の十字架の意義をば、わたしたちは今改めて見直す必要に迫られているのです。

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