49章 姦淫について
マタイ5章27〜30節
【聖句】
マタイ5章
27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、
既に心の中でその女を犯したのである。
29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。
体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
                                                                                                                                                                       【注釈】 
【講話】
■結婚愛への罪
 今回は、マタイ5章の「姦淫」についてのイエス様の教えについてです。マタイ5章に「あなた方も聞いている通り、姦淫するなと命じられている。しかし私は言っておく。みだらな思いで<他人の妻>を見る者はだれでもすでに心の中でその女を犯したのである」とあります。「他人の妻」とあるとおり、ここでの「姦淫」とは、すでに結婚している女性の場合のことです。当時のユダヤ社会では、すでに結婚している女性が、他の男性と通じることを「姦淫」と言い、この場合、結婚している女性だけでなく、その女性と通じた男性も同罪になります。ですから未婚の女性と男性が関係を結んだ場合、道義的な責任は問われますが、姦淫には当たりません。モーゼの十戒に「姦淫するな」とあるのもこの意味です。日本でも江戸時代から明治憲法の終戦までは、このユダヤ教の「姦淫」と同じで、主として女性の不義密通が問題にされていたようです。
 今回のイエス様は、他人の妻を<情欲を抱いて見る>者は、すでに姦淫の罪を犯していると教えられています。ここでも、前回同様に、いわゆるモーゼ律法に違反する行為として外面的に現れた罪ではなく、これが内面化して霊的にとらえられているのが分かります。制度としての婚姻関係ではなく、結婚を内面的に成り立たせている霊的な有り様が問われるのです。だから、今回のイエス様の教えは、「他人の妻への情欲」を結婚制度だけではなく、結婚を霊的に成り立たせる「結婚愛」それ自体に対する赦しがたい罪だ見なしていることになります。マタイ福音書が、今回の教えに続いて離縁問題を提示して、「姦淫」を「結婚・離婚」と組み合わせているのは、この視点から見て初めて理解できます。
 もしもイエス様のこの教えを、そのまま言葉通りに受け止めて、これを実行しようとするなら、特に男性の側が「他人の妻」に接する場合、とても厳しい姿勢が要求されることになります。イエス様の教えは、モーセ十戒を霊的・内面的に理解するところから出ています。しかし、こような十戒の解釈は、すでにユダヤ教でも行なわれていて、そのため心あるユダヤ教徒は、人妻だけでなく、女性一般に対する日常の態度を厳しく自制していたようです。おそらくマタイの教会でも、このことが問題になっていたのでしょう。本気でこの戒めを実行しようとするなら、「右の目をえぐり出して捨てる」くらいの覚悟が要ると受けとめられたのだろうと思います。
 ここで大事なのは、今回のイエス様の教えが、結婚愛を守り育むことを求めて語られていることです。したがって、イエス様の御言葉の本意は、外面的な制度を遵守することで、男女の間を厳しく制限することではありません。男女間の禁欲的な倫理としてなら、「男女七歳にして席を同じくせず」という儒教の教えや、かつての日本の武家社会の倫理にも通じるところがあります。しかし、イエス様の御言葉は、そういう禁欲的な否定性を帯びた倫理規定ではありません。むしろ真の意味の「愛を育てる」創造的な意図をこめて語られているのを見逃してはならないのです。
■否定拡大解釈
 ところが、イエス様以後のキリスト教界の解釈は、イエス様の本意とは逆行する形で、禁欲的な否定性へと拡大解釈されるほうへ向かったようです。このため、御言葉の「他人の妻」から、戒めの対象が「女性一般」へ拡大されることになり、「情欲を抱いて女性を見る者」は、すでに心で姦淫を行なうに等しいと解釈されるようになりました。こうなると人妻どころか、乙女も自分の妻さえも、その対象になりかねません〔ルツ『マタイ福音書』(1)375頁〕。
 さらに「情欲」が、単なる色欲のことだけでなく、人間の罪の根源を成す「肉の欲望」と同等に見なされるにいたると、「結婚を破壊する」行為から、自己の罪性をどこまでも深く内省する厳しい禁欲の教えに結びつきます。こうなると、「右の目」とあるが、女を見るのに「左の目」は使わないのか? などということさえ問題になります。前回も指摘しましたが、イエス様のお言葉を辞義通りに解釈しようとするとおかしなことが起こります。
 中世の修道院で、「体の一部がなくても」とあるから、罪を犯さないために、本当に去勢してしまう修道僧がいました。「去勢僧」と言われる人たちがこれです。これなどはこの言葉を文字通りに実行しようとしたわけで、すごいことだとは思いますが、聖書の言葉を辞義どおりに、まるで法律のように解釈すると、行き過ぎたり、とんでもない誤解を生じたり、場合によっては、大きな過りを犯すことになります。聖書解釈では、学問的な考察だけでなく、祈りつつ聖霊に導かれて読むことがとても大事なのです。聖書解釈で常識ほど大事なものはない。これは、確かC・H・スパージョン(Charles Spurgeon. 1834-92)が言っていたことだと記憶しています。
■肯定する神の愛
 イエス様の厳しい否定の言葉は、そのままそっくり結婚愛を守り育てる神の創造の御言葉の裏返しとして解釈すべきです。否定と肯定のこの表裏関係は、「あなたの隣人を愛せよ」という肯定的な教えを「隣人に対して怒るな」「隣人と訴訟で争うな」「隣人に復讐するな」という否定の御言葉で語る一連のつながりに置いてい見るとよく分かります。
 結婚愛の積極的で肯定的な愛の力こそ、人を姦淫と罪から守る本当の力であることを知ってほしいのです。イエス様の生き方は、女性との禁欲的な生活とはおよそ正反対です。このことは、男性の弟子たちの共同体の中にあって、女性が積極的な役割を担って共同体に参加していた事実を想い出させます(ルカ8章1〜3節)。
 結婚愛のこの尊さは、北王国イスラエルの預言者ホセアが語ったヤハウェとイスラエルの民との結婚愛や、同様な視点から見た雅歌の解釈の伝統などから来ています。新約ではこの教えが、エフェソ5章21節以下の結婚愛からヨハネ黙示録19章5〜9節の「小羊の婚宴」へいたる系譜につながります。
 わたし(私市)は、イエス様が、結婚愛の深い霊性に導かれた両親のもとで育てられたと思っています。そうでなければ、イエス様の今回のような御言葉は理解できないからです。したがって、いわゆる「処女降誕」伝承も、「聖なる結婚愛」と結びつけて理解することが可能だと考えています。「処女性」と「結婚愛の聖性」は矛盾することなく両立するからです。
                   共観福音書講話へ