【注釈】
■姦淫について
 直前の「怒りと殺人」同様に、今回の姦淫も「心の中で」生じたことこそ外への行為にほかならないと戒めています。この箇所とこれに続く5章31~32節は、それぞれ別個のイエスの言葉伝承であったと思われます。姦淫へのこのような戒めはマタイ福音書だけです。しかし「つまずき」とこれに伴う「身体の切除」はマルコ9章43節/同45節/47節に並行箇所があります。ただし文脈が全く違いますから、マタイ福音書の今回の箇所はイエス様語録からだと考えられますが、ルカ福音書にこれの並行箇所がないので、確かなことは分かりません〔ルツ『マタイ福音書』(1)374頁〕。
 マタイは、姦淫への戒めを一連の内面的霊性の在り方のひとつとしてここに置き、続いて離縁/離婚問題を配置していますが、離縁のほうは、マタイ19章8節と重複するだけでなく、マルコ10章11~12節/ルカ16章18節とも並行しています。したがって、離縁のほうは、後のユダヤ伝道の箇所で扱うことにします。
■マタイ5章
[27]【姦淫するな】「姦淫」について述べているのは、マタイ福音書のみです。と言ってもここでイエスが語っていることは、すでにユダヤ教でも言われていたことです。モーセの十戒には「姦淫してはならない」(出エジプト20章14節/申命記5章18節)とあり、今回のマタイ福音書の用語は、これら旧約の七十人訳と全く同じです。ユダヤ教では、「姦淫」とは結婚(婚約を含む)している女性(「妻」と「女」は同じ原語)にのみ適用されました。だから「女」とあるのは、ここでは「他人の妻」のことです。したがって、今回の箇所は十戒の「隣人の所有を貪る」罪にも相当します。男性中心のユダヤ社会では、姦淫の罪とは、基本的に夫に対して妻が犯す罪だったのです。姦淫の罪では、ダビデ王のバト・シェバへの罪がよく知られていました(サムエル記下11~12章)。そここでは「姦淫」が「殺人」と結びついてきます。日本では、塚本虎二の『イエス伝研究』に「我が国の現行法と同じ」(1938年)とあるから、江戸時代から1945年の終戦までの明治憲法では、ユダヤ教と共通するところがあり、聖書の「姦淫」は、日本では「姦通」にあたります。ただし、ユダヤ教の考え方の背後には、夫としてのヤハウェに仕える妻としてのイスラエルの民という宗教的な意味があります。偶像礼拝は「姦淫」であるとするホセアの影響などもそのひとつです。姦通罪では、人妻と知って通じた相手の男性も同罪になります。しかし男性が、未婚の女性と「淫行」した場合は、道義的な責任は問われますが、罪にはなりませんでした。また異教徒の女性には、この姦淫の規定は適用されなかったようです。姦通罪は裁判にかけられて、通常は絞首刑になりますが、石打の場合もありました(ヨハネ8章の姦淫の女の場合)。
[28]【みだらな思いで】「みだらな思いで」他人の妻を見る者はすでに心で姦淫を犯しているというイエスの言葉は、すでに「殺人」の罪でも見たように、姦淫の罪を「内面化」させています。しかし、この様に「情欲する」ことを「姦淫」と見なして内面化するのも、イエスが初めてではなく、すでにユダヤ教のラビたちによって言われていたことです。だからイエスもマタイも、この点ではユダヤ教の伝承をいっそう明確に徹底させていると言えましょう。「みだらな思いで」とは「相手を欲望する意図で」という意味で、モーセ十戒の「隣人の妻をむさぼるな」とある「むさぼり」と同じ原語です。それなら、「むさぼる意図」を持たなければ罪にならないのか? 偶然他人の妻が目に入って、魅力を感じた場合はどうなるのか? 「見る」とあるのは「意図」か「結果」か? などの議論がありますが、こういう細かな議論にはこだわらないほうがいいでしょう。イエスの言葉は警句的で格言・諺的ですから、本来物事のある一点を鋭く突く「知恵スタイル」の表現様式です。これを法律並みに字義通りに解釈しようとするから、おかしな議論が出てくることになります。もっとも、ユダヤ教では、女性に接する場合に、ここで語られたイエスの言葉そのままの姿勢を守ろうとする厳格な人たちもいました。だから、心ある男性は、他人の妻は言うまでもなく、女性にはいっさい近づかない、女性を見たり同席したりすることさえ避ける、もちろん触れるのも避ける。こういう風習もあったようです。宗教的に厳格なラビは、自分の妻とでさえ、人前で話すのを避けたそうです。
[29]【つまづかせる】原語のギリシア語は「スカンダリゾー」で「罠にかける」こと、「障害物で相手の足を躓かせる」ことです(英語の"scandal" の語源)。「躓き」はマタイ福音書の一貫した主題です(11章6節/13章21節など/15章12節/17章27節/18章6~7節/24章10節/26章31節など)。「躓かせる」という使役態で躓きの原因となる場合と、「躓かされる」と受動態で用いられる場合もあり、「躓く」と自動詞になる場合もあります。内容的には「罪を犯す」「信仰を失う」「棄教する」ことを含みます。
【右の目】「右」は、「右の利き手」「右に座す」という言い方があり、日本語でも「ある人の右腕」「右に出る者なし」などと言うように、「より良いほう」「より重要なほう」を意味します。だから「右の目」は、「たとえ大事なほうの右目でさえも」それが躓きの原因となるのなら「えぐり出す」ことでしょう。なお、ここでの「全身」と「体の一部」との違いを死後の世界の人間の有り様と関連づけるのは見当違いな解釈です。                              
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